第1章:1.2 深夜の軍機と紅袖添香、出発前の暗雲
子の刻を過ぎ、御花園で昼の光を誇っていた晩夏の桜は、夜の帳の中でどこか冷ややかに佇んでいた。
小雨はやんだものの、空気中に残る湿った寒さが窓の隙間からこっそりと室内へと忍び込んでくる。
流雲閣の奥の間は、外殿とは異なり、厚手の西域産羊毛絨毯が敷き詰められ、周囲には特製の竜涎暖香がいくつも焚かれていた。
立ち昇る薫煙が、昼間の喧騒をすっきりと外界へと遮断している。
闕恆遠はすでに、幾分格式張った浅金色の薄絹の長袍を脱ぎ捨て、よりゆったりとした、極上の肌触りを誇る深黄色の絹の寝衣に身を包んでいた。
まだ床には入らず、白狐の毛皮が敷き詰められた長椅子の端に腰を下ろし、手には一枚の黄ばんだ密函を握りしめている。
炭火の赤い光が彼の端正な横顔を照らし出し、普段はめったに見せない底知れぬ深みをその瞳に浮かび上がらせていた。
密函に記された、闕承修が連日のように各将領の屋敷に出入りしているという記録に目をやりながら、彼はふっと冷笑を浮かべる。
「我が皇叔殿は、随分と手広く動いているらしい」
闕恆遠は密函をそのまま傍らの炭壺へと放り込んだ。
橙色の炎が瞬く間に紙を舐め尽くし、跡形もなく灰へと変えていく。
「公子、夜も更けております。あまりお心を悩ませませぬように」
水のように優しい声が、彼の耳元でそっと囁かれた。
紫の衣を纏い、優雅で気品ある艶やかさを漂わせる沈若嵐が、温かな参茶の入った器を手に静かに歩み寄ってくる。
妹の若汐に比べると、どこか落ち着いた静けさを湛えた若嵐の秋水のような瞳には、彼を気遣う深い優しさが揺らぎのない光を宿していた。
椅子のそばまで歩み寄ると、彼女はふわりと膝をつき、闕恆遠の手に届くようそっと参茶を差し出す。
しかし闕恆遠は茶碗を受け取らず、そのまま伸びをしたように沈若嵐の白くしなやかな手をしっかりと握りしめた。
彼女の手は少し冷えており、炭火の照り返しの中でまるで透明な玉のように美しく輝いている。
「若嵐、お前は、我が皇叔殿が朕を舐め切っていると思うか?」
「それとも、この玉座があまりにも心地よさそうだから、わざわざ座りに来て朕の苦労を分かち合いたいとでも思ったのかな」
闕恆遠は彼女の掌の上を指先で軽く這わせながら、軽口を叩いた。だが、その瞳の奥は氷のように冷え切っている。
沈若嵐は掌から伝わる熱と微かな痺れを感じながら、頬を赤らめつつも、あくまで冷静に答えた。
「親王殿下は、この宸霄国の江山が、公子ご自身の力で築き上げられたものだということをお忘れのご様子です」
「あの者が目にするのは国の表立った繁栄ばかりで、公子の背後にある深謀遠慮など見えておりません」
「もし彼が本当に、公子の巡幸に乗じて何か企むようなことがあれば――」
「わたくしたちが残した隠密網が、二度と生きて帰れぬようにしてさしあげます」
「よくぞ言った」
闕恆遠はぐっと腕に力を込め、沈若嵐をその胸の中に引き寄せた。
沈若嵐が小さく驚きの声を漏らし、手にした茶碗が揺れて甘い香りが辺りに漂う。
彼女は素直に闕恆遠の広い胸に身を預け、そこに響く力強い心音を聞きながら、胸のざわめきを静めていった。
その時、屏風の向こうから軽やかな足音が聞こえてきた。
真紅の衣に身を包んだ三人の女性が足並みを揃えて歩いてくる。上官三姉妹だった。
「公子、道中のルートが確定いたしました」
先頭を歩く上官婉が、一枚の緻密な地図を手にしている。
夜更けであってもその立ち居振る舞いは気高く、紅い衣が彼女の雪のように白い肌を引き立てていた。
その後ろに続く上官璇と上官語は少しリラックスした様子で、上官璇の手には小ぶりな木製の箱が握られている。
「地図の話は後だ。婉兒、こっちに来い」
闕恆遠は彼女を手招きすると、命令口調でありながらも、どこか甘えた響きを混ぜて言った。
上官婉は寝椅子のそばまで歩み寄り、その胸に身を預けている沈若嵐にちらりと視線を向けた。
だがその瞳に嫉妬の色は微塵もなく、ただ静かに彼女の傍らに佇む。
「この地図など、朕の頭の中にとうの昔に叩き込んでおるさ」
闕恆遠はもう片方の腕を伸ばし、上官婉のしなやかな腰をふわりと引き寄せた。普段は沈着冷静な彼女をも、そのまま寝椅子の端へと座らせる。
「お前たち三人は、この旅の準備で何夜もまともに眠っていないのだろう?」
「見てみろ、目の下にうっすらと疲れの影が見えるぞ」
「公子の安全のためです。この程度の苦労、なんともありません」
上官語が小さく呟いた。内気な性格の彼女は、二人の姉がすでに公子の側を陣取っているのを見て、自分だけは少し気後れしているようにじっと佇んでいる。
「語儿、お前もこっちに来い」
闕恆遠はその不安を察したかのように、大きく手を差し伸べた。
上官語は慌てて歩み寄り、その手をとった。求められているという実感が、彼女の胸の内に温かな火を灯す。
「公子、これは私がわざわざ薬庫から見つけてきた『醒神膏』です」
上官璇は負けじと体を寄せ、木箱の蓋を開けた。瞬時に、清涼感のある薄荷と不思議な甘い花の香りが辺りにふわりと広がる。
指先にほんの少しだけ軟膏を取り、闕恆遠のこめかみに優しく円を描くように塗りこんでいく。
「明日の朝からは出雲の大典の準備が始まります。公子、しっかり気力を養っておかなくてはなりませんよ」
闕恆遠は目を閉じ、四人の女官たちがそれぞれに宿す温もりを全身で受け止めていた。
若嵐の静謐さ、婉兒の確かな信頼、璇兒の瑞々しい機転、そして語儿の深い愛慕。
彼は心の中でしみじみと思った。この天下に、自分ほど幸せな天子がいるだろうか、と。
「公子、噂によればあの縹緲国の悦清禾姫は、かなりの気位の高さだとか」
「もし彼女が、私たち姉妹がこんなふうに公子のお世話をしているのを見たら、その場で怒り狂って婚約を破棄すると言い出すかもしれませんね」
上官璇は按摩を続けながら、おどけた調子で冗談を飛ばす。
「彼女が本当に破棄したいと言うなら、むしろ朕としては手間が省けてありがたいくらいさ」
闕恆遠はゆっくりと瞼を開け、傍らに寄り添う紅衣と紫衣の女たちへと視線を巡らせた。その瞳は驚くほど深い。
「この世に女は数多いるが、朕の目に適う者が、必ずしもあの天仙のような姫であるとは限らない」
「お前たちが朕と一緒にこの旅に出てくれること」
「朕が勝ち取るのは、単なる四国の平和だけではない。この天下の人々の心そのものだ」
彼は一度言葉を区切ると、その口調をふっと和らげた。それは夜の静けさの中でしか見せない、偽りのない真摯な響きを帯びている。
「旅が始まってからも、よく覚えておきなさい。お前たちはもはや朕の女官ではない」
『外の世界では、朕はただの「闕公子」であり』
『お前たちは朕の最愛の伴侶、そして家族なのだ』
『もし万が一の危険が迫っても、決して無理をして命を賭すな。いいな』
それを聞いた女たちの動きがふっと止まり、やがて瞳の奥がじわりと熱を帯びた。
厳格な身分制度に縛られたこの宮廷の中で、主君から「命を賭すな」と告げられた者など一人もいない。
彼がくれたその重厚な情愛は、どんな恩賞よりも尊く、彼女たちの胸を強く打ち震わせた。
「はい、公子……」
声は小さくとも、重なる返事はどこまでも揺るぎなく、生死を共にするという揺るぎない決意に満ちていた。
「よし、あまり重い話はここまでだ」
闕恆遠は沈若汐の手を軽く叩き、上官婉の紅い袖をそっと引き寄せた。
「この長い夜だ、たまには別の楽しみも必要だろう」
「璇兒、その醒神膏のおかげですっかり目が冴えてしまったぞ」
「どうだ、お前たちも付き合って、もう一度あの百花醸を一緒に飲まないか」
「公子、太后様がおっしゃっていました。夜は早くお休みにならなければと……」
上官婉はなんとか理性を働かせて諫めようとしたが、闕恆遠のふざけたような、どこか甘えるような目を向けられては、最後にはどうしようもなくため息をつくしかなかった。
「まったく……今回だけですよ」
窓の外では、細かな雨脚が再び降りしきり、琉璃瓦をリズミカルに叩く音が寂しげに響いていた。
流雲閣の室内は揺らめく灯火に包まれ、妖艶なまでの温もりと情愛が満ちていく。
この夜、そこには君臣の隔たりなど存在しない。
ただ乱世の暗雲の中、しっかりと寄り添い合う十人の男女の姿だけがあった。
そのころ。
都の反対側にそびえる親王府の一室では、鋭く濁った一対の瞳が、深く暗い闇のなかで宮城の方角をじっと見据えていた。
男の握りしめた酒杯が、ギリギリと音を立てて粉々に砕け散る。
「せいぜい旅を楽しむがいいさ、闕恆遠」
「この道行きこそが、お前が生涯で最後に景色を目にする旅になるのだからな」




