第1章:1.1 流雲閣の小雨と太后の威光
宸霄国の早春の雨は、どこか仙人の住まう地のような、淡い気配を帯びている。
昨夜ようやく止んだばかりの小雨が、流雲閣の外にある青石の階段を、うっすらと濡れた墨色に染め上げていた。
石の隙間に生えたばかりの苔は、今にも滴り落ちそうなほど瑞々しく鮮やかだ。
宮廷の後山、中腹に浮かぶように建つこの閣楼は、いま静かな雲霧に包まれている。
空気の中には、湿った土の香りと、晩春の桜の甘い薫り、そして遠くから漂う焚き火の香が混ざり合い、この場所ならではの独特な匂いが満ちていた。
巳の刻を過ぎた陽光は穏やかで、雲霧を突き抜けて閣楼の琉璃瓦に降り注ぎ、柔らかくぼやけた光の輪を作り出している。
そんな、つい人が怠惰になり、世俗の煩わしささえ忘れてしまいそうなひと時だった。
大殿の中では、天子である闕恆遠が紫檀の寝椅子にゆったりと身を預けていた。
身に纏った浅金色の薄い絹の長袍は、光を受けて刺繍された金糸をあちらこちらと煌めかせ、その下に隠されたしなやかで力強い体つきを浮かび上がらせている。
細く深い眼差しをわずかに細め、どこか悪戯っぽい気怠さを漂わせる闕恆遠。
手には羊脂白玉の杯を転がしており、そこに注がれた清酒には、整った顔立ちの中にふと見せる、彼のどこか痞た表情が映り込んでいた。
頭脳明晰で、政務においては迅速かつ堂々たる威儀を見せる彼だが、こうして私的な場で見せる不真面目さや、どこか無頼な雰囲気は、宮廷中の誰もが知るところであった。
「恆遠、あなたは一体、哀家の話を聞いているのですか?」
対面に座る太后の声には、隠しきれない焦燥が混ざっていた。
手入れの行き届いたその美しい顔立ちには、ほとんど歳月の刻印を感じさせない。
しかし、その鳳眼には、隠しようのない苛立ちと、どうにもできない無力感が満ちている。
「もういくつだと思っているのですか」
「宸霄国の天子として、天下の生殺与奪を握る身でありながら」
「後宮は空っぽ、まともな妃の一人もいないとは」
「これが一体、どんな体面というのですか」
「先祖代々の御霊に、哀家はなんとお詫びすればよいのでしょう」
闕恆遠はふっと小さく笑った。
低く響くその声は、どこか艶を含んでおり、聞いた娘の耳をくすぐり、胸の奥底をざわめかせるような色気を帯びている。
「母上、そんなに焦ってどうするのです」
「この宸霄国は広いですよ」
「天下の領土だって、朕が自らの手で一寸ずつ固めてきたのです」
「もし適当な人間を適当に後宮へ放り込んだとしたら」
「それこそ先祖に対して、そしてこの国に対して無責任というものでしょう」
「後宮の主たる者は」
「朕と並んで同じ景色を眺められる者でなくてはなりません」
「だからこそ、哀家がもう選んでおきました!」
太后はドスリと卓を叩いた。
その衝撃で茶碗が音を立てて鳴り響き、静まり返った大殿に鋭い残響が尾を引く。
「縹緲国の悦清禾姫、雪霽国の伊凝雪姫」
「羽化国の千慕羽姫に、嵐風国の玥映嵐姫」
「この四人の姫たちのうち、一体誰が名門の出ではなく、国を揺るがすほどの美貌の持ち主ではないというのです」
「おまけに彼女たちはそれぞれ、四方の領土の安定を背負っている」
「お前が一度に娶りさえすれば、この国の基盤は磐石となる」
「そうすれば、哀家もようやく先帝に合わせる顔ができるというものです」
闕恆遠はふっと片眉を上げ、酒杯を置いた。
その視線は太后の肩越しにすっと流れ、少し離れた場所で控えに徹している九人の側近女官へと向けられる。
一人ひとりの顔を撫でるようなその眼差しには、淡く、けれど揺るぎない深い愛着が滲んでいた。
この九人の娘たちは、幼い頃から共に育った遊び相手であり、彼が最も信頼する「懐刀」であり、この広大な宮廷の中で唯一の温もりである。
彼女たちは単なる女官ではない。
彼の人生において、決して欠かすことのできない一部なのだ。
三つ子の姉妹である上官婉、上官璇、上官語は今日、水浅葱色の軽やかな装いに身を包んでいた。
三人は瓜二つの容姿をしており、背格好や纏う空気感までそっくりだが、髪留めの結び方と、ふとした瞬間の眼差しだけが、彼女たちを見分ける唯一の手がかりだった。
上官婉は沈着冷静で、その瞳は水のように深く澄んでいる。
上官璇は機転が利いて、いつもその目には瑞々しい光が宿っていた。
上官語はほんのりと恥じらいを帯び、時折視線を落としては、長い睫毛を震わせている。
彼女たちは一本の枝に咲く蓮の花のようであり、それぞれに異なる美しさと佇まいを持っていた。
そして、その傍らには三組の双子控えている。
沈若嵐と沈若汐は、それぞれ冷艶と活発という対照的な気質を宿し、若嵐の冷ややかな美しさと若汐の情熱的な笑顔が鮮やかなコントラストを描いていた。
左沐晨と左沐曦は、朝露のように清らかな少女たちで、その瞳には一片の曇りもない。
そして最後に並ぶ裴子瑜と裴子瑄は、すらりとした長身でありながら、闕恆遠を見つめるその目には静かなる守護の誓いが込められていた。
まるで彼の一声さえあれば、いかなる火の中水の中をも厭わないと言わんばかりの強い忠義を漂わせている。
「四人も、ですか……」
闕恆遠は顎に手を当て、不真面目でありながらどこか礼儀をわきまえた口調で言った。
それは彼が太后の前でだけ見せる、甘えるような表情だった。
「母上、道程はあまりにも遠い。朕が自ら赴いたとして、半年や一年は帰ってこられませんよ」
「朝廷の政務など、一日たりとも朕なしでは回らないのです」
「万が一、朕の不在の折に何か不穏な動きでもあれば……」
「政務ならお前の兄弟たちが代行する。そんな言い訳が通用すると思っているのか」
太后はあらかじめ手を打っていたとばかりに、彼の常套句をぴしゃりと遮った。
「哀家はすでに命じておいた。今日から朝廷の重要事項は太子が監国として執り行い、他の皇子たちが補佐する」
「お前はただ安心して、その四人の姫たちを迎えに行けばよいのだ」
「来月の初めに出発しなさい」
「お供の者たちも哀家の方で選んでおいた。この九人の娘たちを連れて行きなさい。武芸に優れ、お前の世話も行き届いている。彼女たちがいれば安心だ」
その言葉を聞いた瞬間、控えていた九人の側近たちの瞳がわずかに揺らいだ。
特に最前列に立つ上官婉は、伏せた長い睫毛をかすかに震わせた。
彼女たちがこの天子に寄せる秘めた想いは、一日や二日のものではない。
その情愛は、無数の昼夜を共に過ごすうちに、胸の奥深くにしっかりと根を張っていた。
しかし身分の壁がある以上、彼女たちはその感情を心の最奥に押し込め、「女官」として、「護衛」としてこの男の傍に仕え、ただ見つめ、ただ守り抜くことしか許されていなかったのだ。
それなのに今、彼女たちが自らの手で、彼を他国の姫のもとへ送り届けるというのか。
闕恆遠はふっと立ち上がり、優雅な足取りで上官婉の目の前まで歩み寄った。
彼女よりも頭一つ分高い長身から、淡い竜涎香と微かな酒の香りが入り混じった匂いがふわりと漂い、上官婉を包み込む。
それは彼女の心拍数を跳ね上げさせ、呼吸を乱させるのに十分すぎるほど、懐かしい匂いだった。
「婉兒、お前はなんて言う?」
闕恆遠はわざと声を低く落とし、その指先が彼女の袖口をまるで何気ないふうに掠めた。
そのわずかな触れ合いに上官婉の体がわずかに強ばり、首元から頬にかけて一気に朱色が駆け巡る。
「朕と一緒に、この長い旅路に行かないか。嫌か?」
彼の声が彼女の耳元で囁くように響く。
それは彼女たちだけにしか通じない、甘い戯れを含んでいた。
上官婉はうつむき加減になり、長い髪が頬の横に垂れて、潤んだ瞳を隠す。
声は少しこわばっていたが、その中には揺るぎない決意が宿っていた。
「陛下にお仕えすることは、私たち奴婢の栄誉でございます。不満などあろうはずがございません」
「陛下の御傍にいられるのであれば、たとえ世界の果てまででも、喜んでお供いたします」
「聞いたでしょう、母上」
闕恆遠はくるりと身を翻し、憎らしいほどの満面の笑みを浮かべた。
それはすべてを手中に収めた男の自信そのものだった。
「この娘たちが文句を言わないと言うのだから、この役目、喜んで引き受けましょう」
「ですが、母上。花嫁を迎えるまでの道程は遠い。朕だって準備というものが必要でしょう」
「出発の支度を疎かにするわけにはいかない。朕の持っていくべき荷物も多いのですからね」
息子がようやく承諾したのを見て、太后はほっと胸を撫で下ろした。
体に気をつけること、あまりふざけないこと、一刻も早く姫たちを連れて帰ること。
そう小言をいくつか言い残すと、太后は侍女たちの支えを借りて大殿を去っていった。
鳳輦が遠ざかるにつれ、大殿の中には一人の男と九人の女官だけが取り残される。
「ふう、やっと行ったか」
闕恆遠は重荷を下ろしたかのように、寝椅子へ大の字になって倒れ込み、傍らに控えていた沈若汐を指さした。
「若汐、こっちに来て肩を揉んでくれ」
「さっきまで母上の説教を受けていたせいで、骨がすっかり固まっちまったよ」
「あの母上の威光には、本当に息が詰まる」
活発な沈若汐は「はい!」と返事をすると、軽やかな足取りで歩み寄った。
手慣れた様子で寝椅子の縁に腰掛けると、そのしなやかな指先が闕恆遠の肩のツボを的確にとらえ、心地よい力加減で揉みほぐしていく。
絶妙な痛気持よさに、闕恆遠は思わず満足げな長い溜息を漏らし、その瞳をいっそう気だるげにとろんとさせた。
「陛下、本当にあの四人の姫を迎えに行かれるのですか?」
沈若汐は肩を揉みながらぷうっと頬を膨らませた。
その口調には隠しきれない酸っぱい感情が混じり、大きな瞳には恨めしさが浮かんでいる。
「聞いた話では、縹緲国の悦清禾姫はまるで天女が舞い降りたような美しさだとか」
「あんな方を見たら、陛下は足がすくんで動けなくなってしまうのではありませんか」
「新しいお方におぼれて、私たち古い人間なんてすぐに忘れ去られてしまうのですね」
「まったく、また勝手な嫉妬をして」
闕恆遠は振り返って沈若汐の骨のないように柔らかい小さな手を握り、ふっと軽く引き寄せた。
不意を突かれた彼女のバランスが崩れ、そのまま彼の胸に倒れ込みそうになる。
その澄んだ瞳は、少女たちの心を激しく狂わせる妖しい光を宿していた。
「陛下!」
沈若汐は小さく悲鳴を上げ、首元まで真っ赤に染め上げたが、不思議と逃れようとはしなかった。
ただ彼の胸元に手を突っ張り、伝わってくる熱い体温に心臓の鼓動が一段と早鐘を打つのを感じている。
「安心しなさい。朕のこの目はね」
「綺麗な女性を見るときも、我が家で大切に育てた可愛いお前たちを見るときも、変わりはないよ」
闕恆遠は笑みを浮かべながら他の者たちへと視線を巡らせた。
その瞳の奥には、どこまでも深い愛しさが満ちている。
「今回の旅、急ぐ必要はない」
「京城から国境まで、道中には面白そうな場所がいくらでもあるそうだ」
「道中の景色も、美味いものも、旨い酒も、すべて見逃すわけにはいかないからね」
「裴子瑜、裴子瑄。お前たちは道中の美味いものと極上の酒を探す係だ」
「特に、民間にひっそりと隠れた手造りの名酒を頼むぞ」
「左沐晨、左沐曦。お前たちは最高の馬車を仕立てなさい」
「寝転がれて、腰掛けられて、おまけに入浴もできるような代物だ」
「この旅で、自分たちが窮屈な思いをするわけにはいかないからな」
「かしこまりました、陛下」
双子の姉妹は顔を見合わせると、呆れたような、それでいて愛おしさに満ちた笑みを微かに浮かべた。
彼女たちはこの天子の性格を骨の髄まで知っている。
娶りに行くなどと言いながら、本人はこの旅を大がかりな遠足のように楽しみ、宸霄国のあちこちの風情を満喫する気なのだ。
「陛下、わたしたち三姉妹の役目は?」
上官璇がひょいと顔を近づけて尋ねてくる。三つ子の中でも一番の知恵袋である彼女の瞳は、期待にキラキラと輝いていた。
「お前たちには……」
闕恆遠の眼差しがわずかに揺らぎ、口調がふっと真剣みを帯びる。その不真面目な気配は瞬く間に消え失せ、代わりに底知れぬ凄みがその表情に宿った。
「道中の密偵との連絡役を任せる」
「忘れるな。朕の叔父や兄弟たちの中に、ただの無害な人間など一人もいない」
「朕がこうして京を離れれば、この都も、あるいは道中も、さぞ賑やかになることだろう」
「特にあの闕承修は、常に朕の玉座を狙って目を光らせている」
「この巡幸は娶るためとはいえ、朕がただ色に溺れただけのうつけ者だとは思わせたくない」
「朕の江山(領土)が、そう簡単に手出しできるものではないと、奴らに思い知らせてやる」
闕恆遠がそう口にした瞬間、それまで散漫だった眼差しが鋭く収束した。その怠惰な仮面の下に隠されていた帝王としての威圧感に、その場にいた娘たちは揃って息を呑む。
彼女たちは知っている。主人が決して、表面的な享楽に耽るだけの男ではないことを。
その不真面目な態度の裏側には、常に緻密な布石が敷かれていることを。
「承知いたしました」
上官婉はしなやかな背筋をまっすぐに伸ばした。閣内の影の中で、彼女が纏う紅衣がひときわ冷ややかに、そして鮮やかに映える。
彼女はわずかに首を垂れ、その声は柔らかくも、鋼のように毅然としていた。
「わたくしたち三姉妹で命を下し、各地に潜む隠密たちをいつでも動けるようにいたします」
「公子が京の一歩外へ踏み出せば」
「方千里内のあらゆる草木の動きまで、すべてこの流雲閣に集約させ」
「公子のお手元へ確実にお届けいたします」
「よし」
闕恆遠は満足げに頷いた。その刹那、先ほどの凄みはどこへやら、彼はまた掴みどころのない、どこか無頼な天子へと戻った。
気だるげに大きく背伸びをし、沈若汐が肩を揉む力加減を楽しみながら、心地よさそうに声を漏らす。
「やはり婉兒は、朕の心をよく理解しているな」
「今回の旅、表向きは四人の華やかな姫を迎えに行くものだが、内実は……」
「朕は、どの鼠がこの隙をついて、朕の目の前で火遊びをしようとしているのか、その目で見てみたいのさ」
彼はそう言いながら、沈若汐のなめらかな手背を悪戯っぽく軽く叩く。それを見た沈若汐が、愛らしい嬌声を上げた。
「公子、婉お姉様ばかり褒めて」
沈若汐は唇を尖らせた。紫色の袖がさらりと滑り落ち、蓮の根のように白く柔らかな手首が露わになる。
彼女の手の力が少し強まる。それはささやかな嫉妬であり、甘えを含んだ抗議だった。
「若汐だって、公子のお好きな百花醸を用意するために、昨夜は夜通し眠らずに頑張ったのですよ」
「教えてください、公子。もしあのアレな四人の姫たちが宮中に入ったら、公子の頭から若汐の造った酒なんて消えてしまうのでは?」
闕恆遠は愉快そうに声を上げて笑うと、勢いよく身を起こし、その手で沈若汐の腰帯を掴んで、そのまま我が胸へと引き寄せた。
沈若汐が小さく声を上げる。重心を崩した彼女は、拒むことすら忘れたかのように、金色の厚い寝袍の上へと倒れ込んだ。
二人の距離は極めて近い。闕恆遠の瞳には、紫の衣を纏った彼女が震わせる長い睫毛と、その奥に宿る羞恥、そして彼への尽きせぬ愛慕が、あますところなく映り込んでいた。
「あの者たちが分別をわきまえぬなら、冷宮にでも放り出しておくさ」
闕恆遠は彼女の耳元へと顔を寄せ、艶めかしい声で囁いた。
「それに、若汐の酒は朕にとっての宝物だ。誰にも奪わせはしない」
「教えてくれ。この酒と、若汐の心と、どちらがより甘い?」
大胆すぎる言葉に、沈若汐の美しい顔はリンゴのように真っ赤に染まり、しどろもどろになって言葉も出ない。
彼女は恥ずかしさのあまり、その顔を彼の肩へとすり寄せるように埋めた。
閣内に控える他の娘たちもその様子を見て、小さく口元を押さえてクスリと笑う者もいれば、胸の内にわずかな嫉妬の炎をくすぶらせる者もあった。
それでも、その誰もが甘受している。
これこそが、自分たちの選んだ主なのだから。
聡明さは時に畏怖を抱かせるほどでありながら、同時にその命すら捧げたくなるほどの優しい温もりを彼は持っている。
その時、窓辺にじっと控えていた緑衣の裴子瑜が、ふと体を翻した。
すらりとした長身は、これほどの美人が揃う一団の中でも、ひと際落ち着いた気品と凛々しい英気を放っている。
じゃれ合う主従を静かに見つめながら、彼女は冷静な口調で切り出した。
「公子、馬車や道中の物資の手配は着々と進んでおります」
「ただ一つ、子瑜として申し上げねばならないことが」
「四国の姫君たちはそれぞれに気性が激しく、一筋縄ではいく相手ではありません」
「特に縹緲国の悦清禾などは」
「配下の『清輝騎』がすこぶる荒々しく強靭で、彼女自身も今回の縁談に対して非常に不満を抱いていると聞きます」
「公子がご無事で彼女たちを連れ帰りたいとお思いなら」
「その軽妙な口先だけに頼るのは、いささか危険かと存じますが」
闕恆遠は沈若汐から体を離すと、再び寝椅子にもたれかかり、白玉の杯を指先でトントンと軽く叩いた。
その瞳には、面白そうな獲物を見つけたかのような、鋭い光が宿る。
「悦清禾か。噂には聞いておるよ」
「女でありながら兵を率いて国境を守るとは、なかなかに面白いじゃないか」
「朕はそういう、棘のある薔薇が嫌いじゃない。棘を摘み取ってしまうのは惜しいがね」
「もしも彼女を、自らの意志で朕のために咲かせてみせることができたなら、それこそが真の男の腕の見せ所というものだ」
彼は首を傾げ、杯に残された酒を喉へと一気に流し込んだ。
そして、雲霧の彼方に沈みゆく宮殿の群れへと視線を投げかける。
「準備を進めなさい」
「母上が娶れとおっしゃるなら、盛大に娶ってやろうではないか」
「だが、この芝居をどう演じるか。その脚本を書くのは、この朕だ」
夜のとばりが次第に下りていき、流雲閣の外では細やかな雨音が静かに連綿と響き渡っていた。
一見すると荒唐無稽に見えるこの巡幸こそが、宸霄国の権力構図と複雑な思惑が交錯する、新たな戦いの幕開けであった。
九人の娘たちはそれぞれの胸に秘めた想いを抱えている。
刀剣の手入れをする者、旅の乾糧を急ぎ整える者、そして夜更けの静けさの中で銅鏡に向かい、紅い口紅を引く者。
誰もがこの長い旅路の中で、あの男の視線を少しでも多く手に入れようと思いを巡らせていた。
流雲閣の上座にて。
闕恆遠は各国から送られてきた姫君たちの肖像画の束を眺め、その中の一枚を躊躇うことなく炭壺へと放り込んだ。
瞬く間に燃え盛る紅蓮の炎が、画中の美人の顔立ちを飲み込んでいく。
その火光に照らされた彼の冷たい笑みは、底知れぬ深さと不気味なほどの凄みを湛えていた。
「絵の皮を剥ぐのは容易いが、心の底を暴くのは難しい」
「この天下の姫君たちがどれほどのものか、その目で確かめてやろうではないか」
その低い呟きとともに、雲元元年の娶り婿の伝説は、この夜、確固たる幕を開けたのだった。




