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ティアードロップス  作者:
序章
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5/6

ムスペル

港を離れると、景色はすぐに変わった。

石畳はいつしか赤茶けた岩肌へ姿を変え、道の両脇には草一本生えていない。

熱風が吹くたび、砂が舞い上がる。


テルは額の汗を拭った。

暑い。

いや、熱い。


呼吸をするだけで喉の奥が焼けるようだ。

掌へ錬成式を浮かべ、胸元へそっと触れると、身体の熱をほんの少しだけ書き換えた。


熱を逃がす。

それだけで、息は少しだけ楽になる。

しかし数十歩も歩けば、身体は元の熱を取り戻していた。


「世界の修正力……」


この土地では、暑さから逃れるための錬金術すら長くは続かない。暑すぎる。


アスクも首元を押さえながら歩いていた。

彼も同じように熱を書き換えているが、錬金術が不得手なのもあり、顔色はあまり良くない。


「こんなに……疲れるものなんですね」


「術を維持し続けるからだ」


テルも肩で息をする。

村では火を灯し、水を集める程度だった。

ここでは、生きることそのものに錬金術が必要だった。


熱気が揺らめく地平の向こうに、人影が見えた。

最初は蜃気楼かと思った。

だが、その影は迷うことなくこちらへ歩いてくる。


やがて輪郭がはっきりした。

女性だ。テルより頭ふたつは高い。

日に焼けた肌。

引き締まった腕には、長年剣を振ってきた者だけが持つ筋肉が宿っている。

肩へ担いでいるのは、身の丈ほどもある大剣だった。

彼女は、それを木の枝でも担ぐように軽々と肩へ乗せていた。


「あんたたち、ミズガルから?」


気さくな声だ。


「はい」


女性は二人の様子をひと目見て、小さく笑う。


「その歩き方じゃ、遠くまでは行けないよ」


テルは思わず苦笑する。


「そんなに分かりますか?」


「もちろん。あんたたちは暑さを敵にしてる」


その言葉に、テルは首を傾げる。


「敵……ですか?」


女性は砂を一掴みし、指の間からさらさらと落とす。


「ムスペルじゃね、熱も、砂も、風も。

みんなここにあるものだ」


彼女は自分の胸へ掌を当てた。

淡い錬成式が浮かび、すぐに身体へ溶けて消える。

術は外ではなく、自分へ向けられていた。


「何を……書き換えたんですか」


女性は少しだけ考えてから答えた。


「私」


言っている意味は分かるが、意味が分からない。彼女は笑う。


「暑さは消せないが、それなら暑さの中で生きられる私になればいい」


テルは思わず息を呑む。

そんな発想は、一度もしたことがなかった。


「言われてみれば確かに…なんで思いつかなかったんだろう」


隣でアスクも唸っている。


女性は大剣を担ぎ直し、二人へ手を差し出す。


「私はシンラ。

この辺りを歩くなら、道くらいは案内できる」


その笑顔は力強く、それでいて押しつけがましさはなかった。

まるで、この灼熱の大地そのものが笑っているようだった。


シンラは砂を踏みしめながら歩いていく。

その歩みは大きいが、不思議と急いでいるようには見えなかった。


熱風が吹く。

テルは思わず目を細めた。

砂が舞い、視界を白く霞ませる。

その中を、シンラだけは迷うことなく進んでいた。


「目を閉じるな」


振り返りもせずに言う。


「砂は前が見えなくなるが、風は見える」

 

テルは言葉の意味が分からず、空を見上げた。

砂は風に乗って流れている。

流れを見れば、風の向きが分かる。


シンラが選ぶ道は、向かい風ではなく、砂が流れにくい場所ばかりだった。


「……読んでるんですね」


シンラが笑う。


「そんな大したもんじゃないよ。

昨日と今日で風は違う、朝と昼でも違う。

違うなら、その違いに合わせるだけさ」


テルは胸の奥で、その言葉を反芻した。

合わせる。

世界を書き換えるのではなく、自分を世界に合わせる。

それがムスペルで、この大地で生きるということなのだろう。


しばらく歩くと、黒い岩壁が見えてきた。

岩肌には大きな亀裂が走り、その内側から熱い空気がゆっくりと噴き出している。

シンラは迷わず岩陰へ入った。


「昼はここ」


外の熱気が嘘のように和らぐ。

岩が日差しを遮り、吹き抜ける風だけが熱を運んでいった。

テルは荷を下ろし、大きく息を吐く。


「助かった……」


アスクも岩へ背を預け、小さく笑った。


「ようやく休めます」


シンラは腰を下ろすと、胸元へ手を当てる。

淡い錬成式が肌の上に浮かび、すぐに消えた。テルはその術を見逃さなかった。


「また、自分に」


「うん、長く保たないからね」


「だから、何度も…疲れませんか」


テルの問いに、シンラは少し考えた。


「疲れるよ?でも暑さを消そうとするより、自分を少し変える方が楽なんだ。

世界は大きい。私一人じゃ敵わないもの」


その言葉には、諦めはなかった。

ただ、その地に長く生きてきた者だけが知る実感があった。


テルは自分の掌を見る。

これまでの旅で、自分は何度も世界を書き換えてきた。

川を穏やかにし、波を砕き、斧を”斧らしく”書き換えた。

けれど、自身の内側へ術を向けたことは一度もない。


そんなテルの様子を見て、シンラが立ち上がる。


「やってみる?」


「え?」


「身体に術を掛ける」


テルは少し戸惑いながら頷いた。

シンラはテルの肩へ手を置く。


「難しく考えないの。

世界を大きく変える訳じゃない。

今日の自分を、今日のムスペルの一部にするだけ」


テルは目を閉じた。

掌に錬成式が浮かぶ。

それをゆっくりと、自分の胸へ。

熱を消すのではない。

熱に耐えられるよう、自分をほんの少しだけ書き換える。


次の瞬間。

まとわりついていた熱気が、ほんの少しだけ遠くなった。


「……軽い」


「そう」


シンラが笑う。


「暑さは変わってない。

変わったのは、あんた」


テルは何度も手を開いて閉じた。

世界は、そのまま。

変わったのは、自分だけだった。


その感覚は、これまで使ってきたどの錬金術とも違っていた。


岩陰を出ると、日差しは先ほどよりもさらに強くなっていた。砂の色まで白く見える。

遠くの景色は熱に揺れ、空と大地の境界すら曖昧だった。


三人は言葉少なに歩き続ける。

足を止めれば体力を奪われる。

急げば息が続かない。

ムスペルでは、歩くことにも加減が必要だった。


しばらく進むと、シンラが急に足を止めた。


「静かに」


その声は小さかった。

テルとアスクも立ち止まる。

シンラはしゃがみ込み、指先で砂をゆっくりとなぞる。


「新しい」


そう呟く。

テルも跡を覗き込んだ。

大きな足跡。

人のものではない。

砂の上へ深く刻まれ、岩場の方へ続いている。


「幻獣ですか」


テルが小声で尋ねる。

シンラは頷いた。


「群れじゃないね、一頭だけ。

まだ遠くへは行ってない」


その時だった。


風に乗って、小さな声が届く。


「……助けて」


かすれた声だった。

声の主は岩陰の向こう、一人の旅人が倒れている。

荷物は砂へ散らばり、水袋も破れていた。


助けに行こうと動くテルを、シンラの手が阻んだ。


「待ちな」


「でも!」


シンラは旅人ではなく、その周囲の砂を見ていた。テルも辺りを見渡す。


「近い」


「何がですか」


シンラは静かに大剣へ手を掛ける。


「さっきの足跡の主だよ」


風が止んだ。

砂が静かに落ちる。

その静寂だけが、かえって不気味だった。

シンラは小さく息を吸う。


「テル」


「うん」


「ムスペルじゃね」


大剣をゆっくりと抜く。


「助けたい気持ちだけじゃ、生き残れない、生き残ってはいけない」


その言葉と同時に。

旅人の背後で、砂が大きく盛り上がった。

砂が爆ぜた。


巨大な顎が旅人へ襲い掛かる。

テルは反射的に斧を抜き、駆け出した。


「待ちな!」


シンラの声が飛ぶ。

旅人は倒れたままではなかった。

砂を掴み、懸命に身体を転がす。

牙が地面へ突き刺さる。


その隙に、腰の短剣を抜いた。

震える手でがむしゃらに幻獣の鼻先を斬りつける。浅い傷だった。

それでも幻獣は一歩退く。


旅人は立ち上がる。

息は荒く、足も震えている。

それでも、逃げない。


もう一度、短剣を構えた。

幻獣はしばらく旅人を見つめる。

やがて鼻を鳴らし、ゆっくりと身を翻した。

砂煙だけを残し、熱気の向こうへ消えていく。

呆気に取られていたテルは急いで駆け寄り、旅人の肩を支えた。


「大丈夫ですか」


旅人は何度も息を吸い、それから苦く笑った。


「ああ……生き残った」


その言葉に、シンラも静かに大剣を納める。

テルは思わず振り返った。


「どうして……

どうしてあのまま見ていたんですか」


シンラは怒るでもなく答える。


「助けられないから」


テルは言葉を失う。


「ムスペルの幻獣は、自分に必要な分だけ食べる。

だから、餌に選ばれたなら、自分の命は自分で勝ち取るしかない」


「それが自然。

それが必然」


旅人はゆっくりと立ち上がり、テルへ頭を下げる。


「ありがとう」


続いてシンラを見る。


「……見守ってくれて」


シンラは肩をすくめた。


「勝ち取ったのはあんただ」


旅人は小さく笑い、再び歩き始める。

その背中を見送りながら、テルは黙っていた。


シンラのやり方は、自分とは違う。

けれど、あの旅人は自分の力で生き残った。

もし最初から助けていたら、その事実だけは残らなかったのかもしれない。


三人は再び歩き出す。

熱風は相変わらず容赦がない。

それでもテルの足取りは、少しだけ変わっていた。


世界を変えるだけが、生きることではない。

世界の中で、生き抜くこともまた一つの答えなのだと、ムスペルは静かに教えていた。


やがて夕刻。

灼けた空の向こうに、一筋の緑が見えた。

砂漠にはあまりにも不釣り合いな色だった。


近づくにつれ、それは一本の大樹だと分かる。

葉は青く茂り、その根元から絶え間なく水が湧いていた。


泉だった。


周囲だけが別の季節のように涼しい。

砂は湿り、小さな草花が風に揺れている。

テルは思わず息を呑んだ。


「これが……」


シンラはゆっくりと頷く。


「必然の泉」


澄みきった水面には、夕焼けの空と三人の姿が静かに映っていた。

誰も言葉を発さない。

ただ、水だけが絶えることなく湧き続けている。


その静けさは、存在の泉とも違っていた。

ここには優しさではなく、確かな力強さがあった。

世界そのものが、


「生きるなら、生き抜け」


まるでそう語りかけているようだった。


テルは泉のほとりへ腰を下ろした。

水面には揺れる木々と、夕暮れの空が静かに映っている。

砂漠の真ん中とは思えないほど穏やかな場所だった。


「どうして必然の泉って呼ばれてるんですか?」


テルが尋ねる。

シンラは泉の水をひと掬いし、掌から静かに零した。


「さぁ?昔から言われてることさ。

ただこの泉は、生きたい者だけを映す」


テルは水面を覗き込む。

ぼんやりと滲んだ自分の顔が映るだけだった。


「何も変わらないですね」


「そう思う?」


シンラは笑う。


「それなら、今のあんたはまだ見えてないだけさ」


テルは首を傾げた。

シンラは泉の畔へ腰を下ろす。


「必然っていうのはね。

諦めることじゃない、選ぶことでもない」


少しだけ言葉を探す。


「なんて言うんだろうね、起きたことを、自分の一部にすることさ」


テルは静かに耳を傾ける。


「暑い。

それは変えられない。

腹が減る、喉が渇く、傷を負う。

誰かが死ぬ」


シンラは水面を見つめたまま続ける。


「避けられないものは、必ずある。でもその後、どう生きるかは自分で決められる」


テルはふと、リリスのことを思い出した。

空洞病。

治せないと言われた病。

世界樹へ向かう旅も、その病が始まりだった。


「じゃあ」


テルは、ゆっくり口を開く。


「治せない病も、必然なんですか」


シンラはすぐには答えなかった。

しばらく泉の流れる音だけが響く。


「……そうだね」


静かな声だった。


「この世界では」


テルは唇を噛む。

その言葉を受け入れることはできなかった。

リリスが病になることも。

苦しむことも。

その果てに死ぬことも。

そんなものが必然だとは思えない。


シンラはそんなテルを見て、小さく息を吐く。


「でもね。

必然だからって、立ち止まれとは誰も言ってない」


「私は受け入れる」


「テルは抗う」


「どちらも、生き方だよ」


テルは目を見開いた。

シンラは笑って立ち上がる。


「だから旅をしてるんだろ?」


テルはゆっくりと泉へ目を向けた。

水面は静かだった。

何も教えてはくれない。

それでも、そこにある。


存在の泉とも違う。


この泉は、答えを与える場所ではなく。

答えを問い返してくる場所なのだと、テルは初めて思った。


泉を離れ、シンラの後を歩く。

大樹の根が伸びる先には、小さな集落があった。村と同じくらいの規模だろうか。


石を積み上げた家々が十数軒。

どの家も低く造られ、熱風を避けるように地面へ寄り添っている。


煙が一本、空へ細く伸びていた。

子どもたちの笑い声が聞こえる。

テルは思わず目を細めた。

砂漠の真ん中にも、人の暮らしがあった。


「シンラ!」


井戸の傍で水を汲んでいた女性が手を振る。


「おかえり!」


「ただいま」


シンラも手を挙げて応えた。

その様子は、どこにでもある帰郷の風景だった。


テルは少し安心する。

集落の人々は、テルたちを見ても騒がなかった。

軽く会釈をし、それぞれの仕事へ戻っていく。誰も余計な言葉を掛けない。

けれど、よそ者を拒む空気もなかった。


一人の少年が、大きな壺を抱えて歩いていた。

途中で石につまずき、転ぶ。

壺が転がり、水が少しだけ砂へ染み込んだ。


テルは思わず駆け寄ろうとした。

だが少年はすぐ自分で起き上がり、擦りむいた膝を見つめ、小さな錬成式を描く。

傷口がゆっくりと閉じていく。

それから壺を抱え直し、こぼれた水を見つめて苦笑した。


「失敗したなぁ」


近くで見ていた母親が歩み寄る。

怒ることもなく、少年の頭へぽんと手を乗せた。


「次は転ばないようにね」


「うん」


それだけだった。

テルは静かにその親子を見送る。


「助けないんですね」


シンラは頷く。


「立てるなら、自分で立つ。

立てなくなったら、みんなで立たせる。

その違いだけさ」


テルは言葉を返せなかった。

集落を歩く老人は、自分の薪を自分で運ぶ。

若者は黙って横へ並び、重い方だけを持つ。

誰も取り上げたりはしない。


少しだけ軽くする。

その距離が、この集落では当たり前だった。アスクは辺りを見回し、小さく笑う。


「誰も無理をしていませんね」


「そう」


シンラも笑う。


「無理は長く続かない。

だから必要な分だけ頑張る。

必要な分だけ食べ、必要な分だけ生きる」


熱風が集落を吹き抜ける。

誰一人、それを嫌がる者はいなかった。

ここでは風も。暑さも。命も。

すべてが暮らしの一部になっていた。


シンラは集落の奥へ歩いていく。


「今日はここで休みな」


テルとアスクは頷き、その後を追った。

集落の中央には、大きな火が焚かれていた。

不思議なことに、誰もその熱を嫌がる様子はない。


鍋を囲み、食事の支度をする者。

壊れた道具を直す者。

錬成式を描き、水瓶のひびを塞ぐ者。

それぞれが静かに手を動かしていた。


「お客さんかい?」


年配の女性が穏やかに笑う。


「ミズガルから来ました」


テルが頭を下げると、女性は鍋の蓋を開けた。

香ばしい湯気が立ちのぼる。


「旅人なら遠慮はいらないよ、座ってお食べ」


三人は火を囲む。

木の器へ注がれた汁は素朴な味だった。

砂漠で育つ木の実と、乾燥させた肉を煮込んだものらしい。


テルは思わず笑みを浮かべる。


「美味しい」


その一言だけで、周りから小さな笑いが起きた。


「そうかい」


「それなら十分だ」


誰も自慢はしない。

けれど、どこか誇らしそうだった。


食事が終わる頃、一人の老人がゆっくりと腰を下ろした。

白い髭を胸まで伸ばした、小柄な老人だった。


「シンラ。帰ってきたか」


「うん」


シンラは軽く手を挙げる。


「この二人は世界樹を目指してる」


老人はテルたちを見つめる。

その目は静かで、どこか泉の水面によく似ていた。


「世界樹か…ずいぶん遠いところを見る若者だ」


テルは姿勢を正す。


「世界樹へ行けば、治せない病も治せるかもしれないと聞きました」


老人は少しだけ目を閉じる。


「御伽噺だね」


「はい。それでも行きます」


その答えを聞くと、老人は小さく笑った。


「そうか。

なら止めん。止めても行くだろう?」


テルも思わず笑う。


「はい」


「そういう顔をしておる」


老人は火へ薪を一本くべた。

火の粉が夜空へ舞い上がる。


「ここへ来る旅人は多い。

必然の泉を見て、引き返す者もいる。

先へ進む者もいる。

どちらも間違いじゃない」


「自分で決めた道なら、それでいい」


テルは炎を見つめた。


ミズガルでは、人は知るために学んでいた。

ムスペルでは、人は生きるために選んでいる。

同じ旅でも、見える世界はまるで違っていた。


夜風が静かに吹き抜ける。

砂漠の熱は少しだけ和らぎ、満天の星が頭上に広がっていた。


テルは空を見上げる。

この空のどこかで、リリスも同じ星を見ているのだろうか。

そんなことを思いながら、静かに目を閉じた。

それぞれの泉には特別な効果があるわけではありません。もう神様はいないので。しかし残された神性が人間を導いています。神社とかを想像してもらえればいいかと。

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