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ティアードロップス  作者:
序章
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4/6

九歩の先をゆく

ミズガルの港は、国の賑わいとはまた違う熱気に満ちていた。


「ムスペルへは船で向かいます」


アスクの言葉をなんとなく聞きながら、テルは港を眺めていた。


大小さまざまな船が並び、荷を積む者、網を繕う者、錬金術で帆の傷を書き換える者。

潮の香りと人々の声が入り混じっている。


テルは岸壁に立ち、水平線を見つめた。

海の向こう。

その先に、ムスペルがある。


「今日は運がいい」


船頭の老人が空を見上げる。


「風も穏やかだ」


その一言に、港の者たちはどこか安堵したように笑った。

だが、一人だけ笑わない男がいた。


「穏やかな日ほど、気を付けろや」


年老いた船乗りだった。


「静かな海は、あいつらも泳ぎやすい」


テルが首を傾げる。


「あいつら?」


老人は海を指差した。


「海の大蛇だ、最近は数も増えてる。

世界樹が弱ってから、海まで落ち着かなくなっちまった」


テルとアスクは顔を見合わせる。

世界樹の衰えは、こんな場所にまで影響している。


船はゆっくりと港を離れた。

白い帆が風を受ける。

テルは甲板の縁へ立ち、初めて見る大海を眺めていた。


果てが見えない。

村の川とはまるで違う。


「広い……」


思わず漏れた声を、アスクが笑う。


「僕も初めてです」


二人が言葉を交わした、その時だった。


――ゴォン。


船底へ重い衝撃が走る

甲板が大きく揺れた。


「来たぞ!」


船員の叫び声が響き、海面が大きく盛り上がる。

次の瞬間、巨大な頭部が海を突き破った。


青黒い鱗。

黄金色の瞳。

船の帆柱ほどもある長い首。


――海蛇


船が大きく軋んだ、海蛇の尾が船腹を打ち据え、甲板の上へ船員が転がる。


「踏ん張れ!」


船頭の怒号が飛ぶ。

テルは咄嗟に手すりを掴み、海へ投げ出されるのを堪えた。


その間にも海蛇は船の周囲を泳ぎ続ける。

一度潜れば姿は見えない。

次に現れる場所も分からない。


突然、船の左舷が持ち上がる。


「下だ!」


誰かが叫ぶ。

直後、轟音と共に海面を突き破り、海蛇が牙を剥いた。


船員たちが一斉に錬成式を展開する。

船体を「折れない」よう書き換える者。

帆柱を「倒れない」よう支える者。

荒れ始めた波を「逸らす」者。


だが海蛇は止まらない。


「修正が早すぎる!」


船員の術は、触れたそばから世界に打ち消されていく。


変化が大きなものほど、世界の修正力は強い。

テルも海蛇の首筋へ術を放つ。


「鈍る」


そう書き換えた。

一瞬だけ、ほんの一瞬だけ動きが止まる。


しかし次の瞬間には、何事もなかったように牙が迫ってきた。


「っ!」


甲板が砕け散り、テルの頬を、鋭い破片が掠め、一筋の血が流れる。


「テル!」


アスクの声が響く。

戦うことができない彼は、それでも必死に船員へ指示を伝えていた。


「右です!次は右舷から来ます!」


船員たちが一斉に身構える。


「どうして分かる!?」


「さっきから三十七秒ごとに潜って、左右の順で出てきています!来る!」


皆の視線が海へ向いた。


テルも息を止める。

海面が膨らむ、その瞬間。

テルは背中の斧を抜いた。


柄へ掌を重ね、淡い錬成式が刃へ流れ込む。

書き換えるのは、自分ではない。


斧だ。


「強く」


刃が微かに震えた。

長くは保たないだろう。

一撃だけ、一撃だけ保てばいい。


船頭が叫ぶ。


「今だ!」


海蛇が海面を割る。

テルは揺れる甲板を蹴った。

世界の修正力が、斧を書き換え返そうと軋みを上げる、が、それより速く。


テルは全身の力を込めて斧を振り下ろした。

刃は鱗へ叩きつけられ――


激しい火花と共に、弾かれた。


「なっ……!」


腕が痺れ、握った斧が軋む。

鱗は割れていない。


ただ一枚だけ、ひびが入っていた。

海蛇が初めて苦しげな咆哮を上げる。


テルは荒い息を吐きながら、そのひびを見つめ、小さく呟く。


「もう一度なら」


怯んだ海蛇へ振り下ろされた斧は、鱗へ叩きつけられた。鈍い衝撃が両腕を貫く。

刃先はわずかに滑り、鱗の表面を削り取り、

海蛇は僅かに身を仰け反らせが、それだけだった。


「離れろ!」


次の瞬間、テルの身体が横へ突き飛ばされる。

海蛇の牙が、今までテルのいた場所を噛み砕いた。


木片が宙を舞う。


「初太刀で仕留められねぇなら、深追いするな!」


大きな背中がテルの前へ立つ。

日に焼けた肌。

肩には古傷が幾筋も走り、大きな銛を片手で担いでいた。


男は片手で甲板へ触れる。

足元に錬成式が広がる。

だが、光は銛へ流れていった。

男は低く笑い、銛も低く唸る。

刃先だけが淡く輝いた。


男は海蛇へ向かって一歩踏み込む。


「“貫く”」


その一言と共に、銛を投げ放った。


轟音。


空気を裂いた銛は、テルの斧が削り取った鱗の傷口へ吸い込まれるように突き刺さる。


海蛇が絶叫した。

巨体が大きく海を叩き、波が船へ降り注ぐ。


「船を回せ!」


船頭が舵を切る。


傷を負った海蛇は深追いすることなく、大きく身を翻す。

青黒い尾だけを海面へ残し、やがて深い海へ姿を消した。


甲板の上へ静寂が戻る。

船員たちはその場へ座り込み、大きく息を吐く。


テルも荒い呼吸のまま海を見つめていた。


「……逃げた」


「追い返しただけだ」


男が歩み寄ってくる。

テルの足元へ転がった斧を拾い、柄を軽く叩いた。


「悪い錬成じゃぁねぇ、だが、惜しい」


テルは斧を受け取る。


「何がですか」


男は海を見つめたまま答えた。


「世界を書き換えることばかり考えてる」


「戦いってのはな?」


一拍置く。


「世界と戦うんじゃぁねぇ、相手と戦うんだ」


テルは黙って耳を傾ける。

男は船縁へ刺さった自分の銛を見つめる。


「大蛇の鱗は書き換えられねぇ、そんな時間はねぇからな」


「なら、書き換えるのは武器だ、明確な仕事を与えなくちゃいけねぇ」


「鱗の隙間を狙えるように、届くように、折れねぇようにな」


テルは手の中の斧を見る。

さっき自分は、ただ斧を”強く”しようとしていた。


だが男は違う。

武器の役割を書き換えている。

男はようやく笑った。


「村育ちか」


「はい」


「んなら、海の戦いを教えてやる」


そう言って、テルの持つ斧の柄を軽く叩いた。


「斧は振るもんじゃぁねぇ、“当てる”場所を探すもんだ」


その一言は、戦いだけではなく、錬金術にも通じる言葉のように聞こえた。


男は右手を差し出す。


「俺ぁこの船の用心棒だ、航海が終わるまでなら、少しくらい教えてやれる」



海は再び静けさを取り戻していた。

さっきまで暴れていた波が嘘のように穏やかになる。

船員たちは壊れた甲板を確かめ、帆の綻びを書き換え始めていた。


テルは黙って斧の刃を見つめる。

刃先には、青黒い鱗が一枚だけ引っ掛かっていた。


「どれ、見せてみろ」


用心棒が隣へ腰を下ろし、テルは鱗を差し出した。

男は指先でなぞり、小さく頷く。


「初めてにしちゃ悪かねぇ」


「でも、傷しか付けられませんでした」


「それでいい」


男は即座に答えた。


「一人で全部やろうとするな」


テルは顔を上げる。


「さっきの一撃、お前が傷を付けた。

だから俺の銛が通った。

もし逆だったら?」


テルは少し考える。

もし先に銛が当たっていたら、おそらくあの硬い鱗は砕けず、弾かれていただろう。


「……届かなかった?」


「そういうことだ」


男は笑う。


「戦いってのは繋ぐもんだ、一撃で決まることじゃぁねぇ」


その言葉を、何度も胸の中で繰り返した。

戦いは繋ぐ。


錬金術も、そうなのかもしれない。

世界を一人で書き換えることはできない。

誰かが開いた道を、次の誰かが繋いでいく。


男はテルの斧を手に取る。


「貸りるぜ」


刃を陽へかざす。


「悪い癖がある」


「癖?」


「お前は武器を、自分の力を伝える道具だと思ってる」


テルは黙って聞く。


「ちょっと違う」


男は刃先を軽く弾いた。

澄んだ音が響く。


「武器は世界と話すための道具だ」


そう言うと、男は掌を刃へ添えた。

淡い錬成式が浮かび、ゆっくりと斧へ流れ込む。


「見てみろ」


テルは目を凝らすが、刃は変わらない。

重さも、形も。

何も変わっていないように見えた。


「何を……書き換えたんですか?」


「刃じゃねぇ」


男は笑う。


「“斧であること”を少しだけ濃くしたのさ」


テルは意味が分からず首を傾げる。

男は甲板へ転がっていた木片を放る。


「切ってみろ」


テルは斧を構え、軽く振る。

木片は勢いに抗わず、あっさり二つに割れる。


それだけではない。

切り口は、まるで最初からそうであったかのように滑らかだった。


「……軽い」


「そうじゃぁない」


男は首を横へ振る。


「斧が、自分の役目を思い出しただけだ」


テルはその言葉に息を呑む。

世界を書き換える、武器を書き換える。

それだけではない。

役割を書き換えるのではなく、役割を思い出させる。そんな錬金術もあるのか。


男は立ち上がり、大海を見渡した。


「海はまだ長い、暇さえあれば教えてやる。

次に出てきても、今度は鱗一つで終わらせるなよ?」


テルは斧を握り直し、深く頷いた。


「はい」


その返事には、村を出た頃にはなかった確かな重みが宿り始めていた。


それから二日。


海は穏やかだった。

テルは甲板の隅で、用心棒から斧の扱いを教わっていた。


「違う」


木杭へ斧が食い込む。

男は首を横に振る。


「力を入れすぎだ、斧が仕事をする前に、お前が振り回しちまってる」


テルは斧を引き抜き、もう一度構える。


「もっと斧を信じろ」


その時だった。

船体が小さく震える。


テルは反射的に海を見る。

まだ姿はない、しかし。


アスクだけが本を閉じた。


「来ます」


用心棒は頷くだけだった。


「どっちだ」


アスクは目を閉じる。


「右…」


一拍。


「……違う」


もう一拍。


「まだ動いてる」


風が帆を鳴らす。

アスクの視線が船尾へ向く。


「後ろです!」


叫ぶのと同時。

海面を割って海蛇が現れた。


「来た!」


船員たちが動く。

テルも動いていた、我先へと用心棒の前へ出る。


斧へ錬成式を流し込む。

用心棒が笑う。


「そのまま待て」


海蛇が牙を剥く。

まだだ、まだ届かない。


「今だ!」


テルは踏み込んだ。


前回よりもより「鋭く」

斧は海蛇の顎を滑り、首元の鱗を弾く。

数枚、鱗が浮いた。


「そこだ!」


用心棒の銛が飛ぶ。

一直線、鱗の隙間へ吸い込まれる。

海蛇が身を捩る。

しかし今回は終わらない。


「潜ります!」


アスクの声が飛ぶ。


「三つ数えて左!」


船員たちが一斉に船を傾ける。


一。

二。

三。


巨大な尾が左舷を薙ぐ。

だが船は既にそこにはいなかった。


空振りした海蛇の身体が、大きく海面へ浮き上がる。


「テル!」


用心棒が叫ぶ。


「今度は傷じゃねぇ!」


テルは頷き、斧を強く握る。


書き換える。

力ではない。

重さでもない。


「断つ」


その意味だけを、刃へと重ねる。

世界の修正力が軋む。


そう長くは保たない、一撃だけ。

テルは海蛇の首筋へ斧を振り下ろした。


鱗が奏でる金属音ではなく、肉を裂く鈍い音が響き、傷口が大きく開く。

海蛇は忌々しげに咆哮を上げると、大きく身体を翻した。


深追いはしない。

海蛇はただ一直線に、深い海へ逃げていく。


船員の一人が口を開いた。


「……追い返した」


用心棒は銛を肩へ担ぎ直し、小さく笑う。


「ああ」


テルとアスクを見る。


「俺たちで繋いで、追い返した」


テルは荒い息を吐きながら、斧を見つめる。

初めてだった。

一人では届かなかった場所へ、三人でなら、届くのだと知ったのは。


海蛇が姿を現すことは、それから二度となかった。

穏やかな波が船を揺らし、白い帆は風をいっぱいに受けて進んでいく。


テルは毎朝、甲板へ立った。


斧を振るう。

何度も。

何度も。


用心棒は滅多に褒めなかった。


「違う」

「もう一度」

「肩じゃぁない、足腰からだ」


それでもテルは振り続けた。

時には斧へ錬成式を重ね、

“鋭く”を、“断つ”を、“斧であること”を。


少しずつ書き換えながら、その違いを身体で覚えていく。


一方で、アスクは船員たちの隣にいることが増えた。

海図を眺め、潮の流れを書き写し、海蛇が現れた場所を紙へ記していく。


「全部覚えてるんじゃなかったのか?」


テルが尋ねると、アスクは少し笑った。


「覚えてますよ?」


そう言って紙を畳む。


「でも、忘れないことと、残すことは違いますから」


やがて数日が過ぎた。

ある朝、船員の一人が帆柱の上から声を上げる。


「陸だ!」


皆が一斉に船首へ集まる。

水平線の先、赤茶けた大地がゆらゆらと陽炎を揺らしていた。

山は黒く。

空気は遠くからでも揺らいで見える。


ムスペルだった。


船がゆっくりと港へ近づく。

岸へ降り立った瞬間、テルの肺へ熱気が流れ込んだ。


「……熱い」


ミズガルとはまるで違う。

風さえ熱を帯びている。

アスクも額を押さえ、小さく笑った。


「これは……本当に厳しいですね」


用心棒が荷を肩へ担ぎながら近づいてくる。


「ここから先は、お前たちの旅だ」


テルは深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


用心棒は照れくさそうに鼻を鳴らす。


「礼なんざぁいいんだよ」


そう言いながら、テルの斧を指差す。


「忘れるな、武器は世界と話す道具だ」


テルは静かに頷く。


「はい」


用心棒は今度はアスクを見る。


「お前も」


「はい?」


「全部覚えるのもいい、だが」


 一拍置いて笑う。


「景色くらいは楽しめ!」


アスクは思わず吹き出した。


「努力します!」


「そればっかりだな!」


船員たちから笑いが起きる。

船は荷を降ろし終えると、再び帆を張り始めた。

船頭が手を振る。


「また縁があったら乗れ!」


テルとアスクも大きく手を振り返す。

やがて船はゆっくりと港を離れていく。

二人はその姿が小さくなるまで見送った。


潮の香りは、少しずつ乾いた砂の匂いへ変わっていった。

テルは熱い風を胸いっぱいに吸い込んだ。

そして必然の泉へ向けて、一歩踏み出した。

世界の修正力は大きく書き換えようとするとより大きく働きますが、小さなものは書き換えたままになることが多いです。

それは、世界からの譲歩であり適応。そして、錬金術が紛れもなく奇跡であることの証明です。

壊れた甲板はさすがにデカいので錬金術でキープした後、資材のある港で直します。便利ですね。


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