ミズガル
村を出てから、テルは一度も立ち止まらなかった。
朝露を踏みしめ、ひたすら街道を歩く。
歩いて。
歩いて。
歩き続ける。
背中の荷が肩へ食い込む。
額から汗が流れる。
それでも足は止めなかった。
「急ぎ足だな」
後ろから声が届く。
テルが振り返ると、荷車を引いた旅商人がゆっくりと街道を進んできた。
「すみません」
テルは少し道を譲る。
「追い越してください」
「追い越してもいいが」
旅商人は笑う。
「そんな歩き方じゃ、日が暮れる前に倒れるぞ」
テルは何も返さなかった。
「早く着きたい気持ちは分かるが」
荷車がテルの隣へ並ぶ。
「世界樹は逃げんよ」
「……はい」
返事はした。
けれど足は緩まない。
旅商人は少しだけ困ったように笑う。
「君は真面目すぎる」
「そうですか」
「一日で十日分歩こうとしている」
テルはようやく足を止めた。
息が少し乱れている。
旅商人は荷車から水筒を差し出した。
「飲むか」
「ありがとうございます」
一口飲む。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、ようやく自分が朝から何も口にしていなかったことを思い出した。
「旅は長い」
旅商人は静かに言う。
「焦る者ほど、遠くへは行けん」
テルは水筒を返す。
「……分かっています」
「本当か?」
「分かっているつもりです」
旅商人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、小さく頷き、荷車をゆっくりと前へ進める。
「同じ道だ」
振り返らずに言う。
「よければ一緒に来るか」
テルは少しだけ空を見上げた。
村はもう見えない。
戻ることもできない。
「お願いします」
その一言だけを返し、テルは荷車の横へ並んだ。
街道を歩き始めてしばらくすると、旅商人は荷車を止めた。
「ここで休もう」
そう言って空を見上げる。
太陽はまだ高い。
テルには少し早いようにも思えた。
「もうですか?」
「歩ける時ほど休むものだ」
旅商人は穏やかに笑う。
「それが旅の基本だ」
二人は街道を外れ、小さな木陰へ腰を下ろした。
旅商人は荷車から鍋を取り出し、そっと地面に置く。
「テル」
「はい」
「水を頼む」
テルは空の鍋へ手をかざした。
掌の下に、小さな錬成式が浮かび上がる。
幾何学的な輪の中を、淡い光が巡る。
テルは静かに指を動かした。
すると鍋の底へ、一滴。
また一滴。
空気中の湿り気が集まり、ゆっくりと水へと変わっていく。
やがて鍋の底が隠れるほどになると、式は静かに消えた。
「なるほど」
旅商人は鍋を覗き込み、軽く頷く。
「癖がない」
「癖、ですか」
「錬金術には、それぞれの書き方の癖が出る」
テルは首を傾げる。
「書き方の癖?」
旅商人は地面に小枝で線を引き、一文字だけを書く。
「同じ文字でも、人によって形が違うだろう?錬金術も同じだ」
そう言って、その文字に指を添える。
光が走る。
すると地面の小石が、ふわりと浮き上がった。
やがて静かに元の場所へ戻る。
「今のは?」
「『軽い』という意味に変えた」
旅商人は小枝を折り、火へくべながら続ける。
「世界は一冊の本のようなものだ。
錬金術師は、その余白に少しだけ書き換えを行う」
テルは黙ってその言葉を聞いていた。
「だから、一度に扱える範囲には限りがある。
無理に広げれば」
旅商人はこめかみを軽く叩く。
「頭が持たない」
テルは自分の掌を見つめた。
これまで火を灯し、水を集めることはできていた。
だが、その意味を深く考えたことはなかった。
「先生は」
テルがぽつりと呟く。
「小さな世界を書き換える術だと言っていました」
「間違ってはいない」
旅商人は頷く。
「だが、その『小さな世界』をどう捉えるかが重要だ」
そう言いながら、鍋の水へ視線を落とす。
水面がわずかに揺れる。
旅商人は指先をかざした。
今度は錬成式を描かない。
代わりに、鍋の縁を静かになぞる。
すると、水面だけが、じんわりと温かくなっていく。
「……!」
テルは思わず鍋に触れる。
確かに温かい。
火は使っていない。
「変えたのは、水でも鍋でもない。
この中の状態そのものだ。」
テルは息を呑む。
それは、これまで見たことのない錬金術だった。
旅商人は微笑む。
「錬金術は便利な道具ではない」
「世界をよく観察する者ほど、正しく扱える」
風が木々を揺らす。
テルは鍋を見つめたまま、小さく拳を握る。
世界を書き換える。
その言葉の意味が、ほんの少しだけ輪郭を持った気がした。
昼食を終えると、旅商人は鍋を軽く叩いた。
鍋の底に残った水滴が、ひとりでに集まり、一つの雫になって地面へ落ちる。
鍋は乾き、さっきまで温められていた形跡すら残らない。
テルはそれをじっと見つめていた。
「錬金術は、何かを生み出す術じゃない」
旅商人は鍋を荷車へ積みながら言う。
「書き換えた世界には、必ず元の姿がある」
「だから戻せる」
テルは頷いた。
先生も、オニキスも。
壊れた器を直した後は、必ず術を解いていた。
あれも「戻していた」のだ。
「じゃあ」
テルは歩きながら尋ねる。
「書き換えたままにはできないんですか」
旅商人は少しだけ笑った。
「できるとも」
テルは顔を上げる。
旅商人は前を向いたまま続ける。
「ただ、それは人間には重すぎる」
風が吹き抜ける。
街道脇の草が波のように揺れた。
「世界はな」
旅商人は一本の草を摘み取る。
「放っておけば、自分で元へ戻ろうとする」
草を掌へ乗せる。
指先が淡く光った。
折れていた茎が、ゆっくりと繋がっていく。
テルはその様子を黙って見つめていた。
「これで終わりじゃない」
旅商人は草を地面へ戻す。
しばらくすると。
繋がったはずの茎が、ぱたりと折れた。
「……!」
テルは目を見開く。
「戻った」
「正確には」
旅商人は静かに言う。
「世界が、正しい姿へ戻した」
テルはしゃがみ込み、その草を拾い上げる。
さっきまで繋がっていた跡は、もう残っていない。
「じゃあ、怪我も……」
「時間が経てば戻る」
「病も」
旅商人は少しだけ考えた。
「軽いものなら、戻る間に治る」
「重いものは」
そこで言葉を止める。
テルも続きを聞かなかった。
しばらく歩く。
街道の先に、小さな川が見え始めた。
幅は広くない。
けれど橋は流されてしまったのか、向こう岸へ渡る道が途切れている。
「さて」
旅商人は荷車を止めた。
「テル」
「はい」
「どう渡る?」
テルは川を見つめる。
水は深くない。
だが荷車を押して渡るには流れが速い。
しばらく考え、やがて小さく息を吸った。
掌を川へ向ける。
水の流れは速い。
だが、止める必要はない。
止めれば、世界は強く元へ戻ろうとする。
ならば。
テルは掌を川へ向けた。
空中へ浮かんだ錬成式が静かに回転する。
指先が一画だけ式を書き換える。
流れる世界を、ほんの少しだけ。
「緩やか」に書き換える。
淡い光が水面へ溶け込んだ。
激しかった流れが、目に見えて穏やかになる。
岩へ砕けていた水は静かにほどけ、川音まで柔らかく変わった。
「なるほど」
旅商人は荷車を押しながら頷く。
「無理をしていない」
獣も怯えることなく川へ足を踏み入れる。
荷車は揺れることなく、ゆっくりと対岸へ渡っていった。
テルも術を維持したまま後に続く。
向こう岸へ辿り着く頃には、肩で息をしていた。
錬成式が淡く消える。
その途端、川は何事もなかったように勢いを取り戻した。
激しい水音が谷へ響き渡る。
「戻りました」
テルが呟く。
「戻る」
旅商人は短く答えた。
「世界には修正力がある」
その言葉に、テルは耳を傾ける。
「書き換えられた世界は、必ず本来の姿へ戻ろうとする」
旅商人は川を見つめたまま続ける。
「だから錬金術師は、世界をねじ伏せることはできない。
世界と折り合いをつけながら、小さく書き換える」
テルは川面へ視線を落とした。
確かに、自分は流れを止めようとはしなかった。
少しだけ。
世界が受け入れられる程度に書き換えただけだ。
「それが錬金術というものだ」
旅商人は静かに笑う。
「世界へ命令する術ではない」
「世界へ願い、応えてもらう術だ」
二人は再び街道を歩き始めた。
道は緩やかな丘を越え、その先で大きく開ける。
テルは思わず足を止めた。
遠く。
地平の向こうに、白い城壁が見える。
幾重にも重なる城壁。
その内側には無数の屋根が並び、陽光を受けて輝いていた。
村とは比べものにならない大きさだった。
「あれが」
テルは小さく呟く。
旅商人は頷く。
「ミズガル、人々が最も多く集う国だ」
街道には、テルたちと同じように国を目指す旅人の姿が増えていた。
荷を積んだ商隊。
錬金術師と思われる外套姿の男。
家族連れ。
兵士。
行き交う人々は皆、それぞれ違う目的地を胸に歩いている。
テルはその光景を見つめながら、小さく息を吸った。
自分の知らない世界は、もう目の前まで来ていた。
旅商人は荷車を引きながら、穏やかに言う。
「ようこそ」
「ここからが、本当の旅の始まりだ」
街道を下りきると、人の往来はさらに増えていた。
荷を積んだ商隊が行き交い、旅人たちは思い思いの速度でミズガルを目指して歩いている。
その誰もが、何かしらの錬金術を使っていた。
重い荷車の車輪へ指先を添え、回転を少しだけ滑らかに書き換える商人。
靴底を書き換え、疲労を和らげながら歩く旅人。
子どもは転んで欠けた木のおもちゃへ小さな錬成式を描き、嬉しそうに笑っていた。
テルは目を奪われる。
「みんな……」
「使っているだろう?」
旅商人は穏やかに笑う。
「ここじゃ特別な術じゃない」
「生活の一部だ」
テルは思わず自分の掌を見つめた。
村では、錬金術は必要な時だけ使うものだった。
ここでは違う。
呼吸をするように、人々は世界を少しだけ書き換えながら暮らしている。
やがて巨大な城門が見えてきた。
白い石で積み上げられた壁は、人が何十人と並んでも足りないほど高い。
門の上には、複雑な錬成式が幾重にも刻まれていた。
「結界……」
テルが思わず呟く。
「よく分かったな」
「先生が見せてくれたことがあります。
村では獣避け程度でしたけど」
「これは街そのものを守るための術だ」
旅商人は門を見上げる。
「世界の修正力に抗いながら、何十年も維持されている」
テルは目を見開いた。
「そんなことが……」
「だからこそミズガルなんだ」
旅商人はどこか誇らしげに言った。
「人は弱い、だから一人ではなく、何百、何千という錬金術師が少しずつ世界を書き換え続ける」
テルは城壁へ触れる。
石は温かかった。
まるで今も誰かが術を流し続けているようだった。
門番が二人へ歩み寄る。
「お久しぶりです。札を拝見」
「ああ」
旅商人は胸元から小さな金属札を取り出した。
門番はそれを見るなり、表情を和らげる。
「お帰りなさい、ハルヴァルさん」
テルは思わず旅商人を見る。
男は少し照れくさそうに肩をすくめた。
「そういえば、名乗っていなかったな」
テルも苦笑する。
「俺も聞いていませんでした」
「ハルヴァルだ」
男は静かに手を差し出した。
「長く、旅と商いをしている」
テルはその手をしっかりと握る。
「テルです」
「知っている」
ハルヴァルは笑う。
「君の村では、一番よく聞いた名前だった」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そのまま並んで城門をくぐる。
門を越えた瞬間、テルは思わず足を止めた。
視界いっぱいに、ミズガルの街並みが広がっていた。
門をくぐった瞬間、テルは思わず息を呑んだ。
白い石畳が、街の奥まで真っ直ぐ続いている。
道の両脇には露店が並び、人々の声が絶えない。
鍛冶屋では、熱した鉄へ錬成式を重ねながら槌を振るい。
仕立屋では、布のほつれだけを書き換え、織り直すことなく服を仕上げていた。
子どもたちは石畳へ小さな錬成式を描き、飛び跳ねるように遊んでいる。
テルは足を止めたまま、その光景を見つめていた。
「すごい……!」
「驚くのも無理はない」
ハルヴァルは穏やかに笑う。
「ミズガルでは、錬金術は暮らしそのものだからな」
二人はゆっくりと大通りを歩き始める。
街の中央へ近づくにつれ、人通りはさらに増えていく。
やがて視界が開けた。
広場だった。
その中央には、透き通るような泉が静かに湧いている。
驚くほど澄んだ水だった。
人々は騒ぐこともなく、その泉の周りを思い思いに歩いている。
手を合わせる老人。
本を読む少女。
水面を眺める旅人。
誰もが、それぞれの時間を過ごしていた。
「……これが」
テルは小さく呟く。
「存在の泉」
ハルヴァルは頷く。
「ああ」
「この国の中心だ」
テルは泉へ近づく。
水はどこまでも澄み切っている。
覗き込めば、自分の姿が映る。
風が吹けば揺らぎ。
止めば、また静かに映し返す。
「不思議ですね」
「何がだ」
「もっと……」
テルは言葉を探す。
「特別な場所かと思っていました」
ハルヴァルは笑った。
「特別だとも、だからこそ、誰のものでもない」
テルはもう一度泉を見る。
誰も水を汲まない。
誰も触れようとしない。
ただ、その存在を受け入れるように、静かに過ごしている。
「この泉は、人に何かを与えるんですか?」
ハルヴァルは首を横に振った。
「与えはしない、答えもくれない、ただ、昔からそこにある」
「それだけだ」
テルはその言葉を胸の中で繰り返した。
存在する。
それだけで、そこにある。
しばらく泉を眺めたあと、ハルヴァルは懐へ手を入れ、一通の封筒を取り出した。
厚手の紙で丁寧に封がされている。
「テル」
「はい」
「これを預けておく」
テルは両手で受け取る。
「紹介状だ」
「紹介状?」
「ニヴルへ行くことになったら、この名前を訪ねろ」
封には、一つだけ名前が記されていた。
――イスカ。
「私の知り合いだ」
ハルヴァルの声は穏やかだった。
「きっと力になってくれる」
テルは封筒を大切に荷物へしまう。
「どんな人なんですか」
ハルヴァルは少しだけ考え、それから静かに笑った。
「会えば分かる」
それ以上は語らなかった。
テルも、それ以上は尋ねなかった。
泉の水面が小さく揺れて、揺らいだ自分の姿は、すぐに静かな水面へと戻っていった。
泉を後にすると、ハルヴァルは大通りから一本脇道へ入った。
人通りは少しずつ減り、街の喧騒も遠ざかっていく。
やがて、一つの大きな建物が見えてきた。
白い石で造られた、静かな建物だった。
入口には錬成式が刻まれた柱が並び、壁一面には古い文字が彫られている。
「ここは?」
テルが見上げる。
「学舎だ」
ハルヴァルは答えた。
「錬金術を学ぶ者もいれば、歴史を学ぶ者もいる」
「存在の泉について調べている者もいる」
二人は中へ入る。
室内には、本が山のように積まれていた。
紙の匂い。乾いた木の匂い。
そして、微かにインクの香りが混ざっている。
あちこちで人々が机に向かい、本を開いていた。誰も大きな声は出さない。
頁をめくる音だけが静かに響いている。
「みんな錬金術師ですか?」
テルが小声で尋ねる。
「そうだが、そうではない」
ハルヴァルは歩きながら答えた。
「ここでは、錬金術よりも『世界』を学ぶ者の方が多い」
「世界を?」
「錬金術だけでは、世界は書き換えられない」
ハルヴァルは本棚へ手を添える。
「世界を知らずに書き換えれば、必ずどこかが歪む」
テルは静かに頷いた。
村では術だけを覚えてきた。
だが、ここでは術の前に世界を学ぶ。
その順番が違っていた。
廊下の奥には、一枚の大きな地図が飾られている。
ミズガル。
ムスペル。
ニヴル。
そして、そのさらに外側。
地図はそこで終わっていた。
いや。正確には、その先は白紙だった。
「描かれていない…」
テルが呟く。
ハルヴァルは小さく笑う。
「誰も知らないからだ」
「迷いの森より先は、御伽噺だからな」
テルは地図へ近づく。
白紙の部分は、不思議なほど目を引いた。
何も描かれていない。
だからこそ、何かがあるように思えてしまう。
「……世界は」
テルがぽつりと漏らす。
「まだ終わってないんですね」
ハルヴァルはその言葉を聞き、静かに目を細めた。
「そう思えるうちは」
「旅人は歩き続けられるだろう」
その声は、どこか嬉しそうでもあった。
テルはもう一度、白紙の地図を見つめる。
その先には、世界樹がある。
そう信じて。
ハルヴァルは学舎の廊下を奥へ進んでいく。
本棚が途切れた先には、小さな中庭があった。
木陰には長椅子が置かれ、その周りにも本が積み上げられている。
その中心で、一人の青年が本を読んでいた。
柔らかな茶色の髪。
年はテルとそう変わらない。
陽の光を受けながら頁をめくる姿は、どこにでもいる学生のようだった。
「アスク」
ハルヴァルが声を掛ける。
青年は本から顔を上げると、ぱっと表情を明るくした。
「あっ、ハルヴァルさん!」
立ち上がり、軽く頭を下げる。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
ハルヴァルは穏やかに笑った。
「少し、頼みがある」
「はい」
青年はすぐに頷く。
「こちらはテル、村から世界樹を目指して旅をしている」
アスクはテルを見る。
そして、一度だけ首を傾げた。
「初めまして」
「テルです」
「テルさん」
アスクは嬉しそうに笑う。
「さっき、北門から入りましたよね?」
テルは瞬きをした。
「……さっき?」
「違う、少し前だったかな」
アスクは少し考える。
「夕方でした、外套は茶色。
荷物は右肩が少し下がっていて、左手には白い花を持っていました」
テルは目を丸くする。
「……一度会ってましたか?」
「いいえ」
アスクは首を横に振る。
「門番さんが話していたのを聞いただけです」
あまりにも自然に言うものだから、テルは返事に困った。
ハルヴァルが苦笑する。
「相変わらずだな)
「一度聞いたことは忘れませんから」
アスクは悪びれる様子もなく笑った。
「便利なんですよ」
「便利……なのか」
テルが呟くと、アスクは少しだけ肩をすくめた。
「覚えるのは得意なんです。
忘れるのは、苦手ですけど」
「それで、世界樹へ行くんですよね」
「はい」
「いいですね」
屈託なく笑う。
「僕も、一度見てみたいです」
テルは思わず笑ってしまった。
「じゃあ、一緒に行きますか」
冗談半分で言った。
アスクも笑う。
「行きたいです!」
「でも」
そう言って、自分の掌を見つめる。
「僕、錬金術だけは本当に下手なんですよ」
困ったように笑うその姿に、テルもつられて笑ってしまった。
ハルヴァルが、二人のやり取りを静かに見つめながら、小さく目を細めた。
中庭に、柔らかな風が吹き抜ける。
積まれた本の頁が、ぱらりと一枚だけめくれた。
ハルヴァルはその音を聞きながら、ゆっくりと踵を返す。
「さて」
テルとアスクが顔を上げる。
「私の役目はここまでだ」
テルは少し驚いたように目を瞬かせた。
「ここまで……ですか」
「ああ」
ハルヴァルは穏やかに頷く。
「私は旅商人だ。
旅人を目的地まで運ぶことはあっても、その先まで歩くことはしない」
それが当たり前であるように笑う。
テルは少しだけ寂しさを覚えた。
村を出てから数日。
決して長い時間ではなかった。
それでも、この旅で最初に世界を教えてくれた人だった。
「ありがとうございました」
テルは深く頭を下げる。
ハルヴァルは軽く手を振る。
「礼を言うのは早い。
またどこかで会うさ」
旅人らしい言葉だった。
世界は広く、どこかで道は交わる。
そんな響きがあった。
ハルヴァルは懐から、小さな革袋を取り出す。
「餞別だ」
テルが受け取ると、中には数枚の硬貨と、小さな透明の結晶が入っていた。
「これは?」
「記録晶」
ハルヴァルは結晶を指差す。
「景色や音を、一瞬だけ記録できる。
長くは保たないが、旅では役に立つこともある」
テルは光にかざす。
結晶の奥で、小さな光が静かに揺れていた。
「ありがとうございます」
「使いどころは考えろ」
ハルヴァルは笑う。
「記録することも、書き換えることと同じくらい大切だからな」
その一言に、アスクが静かに反応した。
何も言わない。
けれど、その言葉だけは心へ刻むように頷いていた。
ハルヴァルは二人を見比べる。
「テル」
「はい」
「答えを急ぐな。
世界は、人よりずっとゆっくり形を変える」
続いてアスクを見る。
「アスク」
「はい」
「本ばかり読まず、少しは歩け」
アスクは困ったように笑った。
「努力します」
「毎回そう言うな」
三人は小さく笑う。
その笑い声が途切れると、ハルヴァルは外套を翻した。
「では」
「良い旅を」
それだけ言い残し、学舎を後にする。
その背中を、テルは見えなくなるまで見送っていた。
やがてアスクが隣へ並ぶ。
「……行っちゃいましたね」
「ああ」
「寂しいですか?」
テルは少し考え、それから笑った。
「少しだけ」
アスクも同じように笑う。
「ハルヴァルさん、いつもそうなんです。
気づいたら来ていて、気づいたらまた旅に出てる」
中庭には、二人だけが残った。
風が静かに吹く。
やがて学舎は、いつもの静けさを取り戻した。
アスクはその背中を見送り、小さく息を吐く。
「本当に行っちゃいましたね」
「ああ」
テルも頷いた。
旅に出てから初めて会った人だった。
別れは思っていたよりも、ずっと静かだった。
アスクは抱えていた本を机へ置く。
その表紙には、細かな文字でこう記されていた。
『存在論 第三版』
テルは思わず題名を読んでしまう。
「難しそうですね」
「難しいですよ?」
アスクは笑った。
「十回読んでも分かりません、でも」
本をそっと撫でる。
「十一回目には、新しいことが見えるんです」
テルは少し感心したように頷く。
「読むのが好きなんですね」
「好き、というより」
アスクは少し考える。
「覚えてしまうんです」
「読めば」
「聞けば」
「見れば」
「全部」
その言い方は、自慢ではなかった。
ただ事実を話しているだけだった。
「便利そうです」
テルが言うと、アスクは困ったように笑う。
「そう思われます」
「でも」
少しだけ視線を落とす。
「忘れられないんです」
「嬉しかったことも」
「悲しかったことも」
「一度みてしまえば、そのまま残ります」
テルは返す言葉が見つからなかった。
アスクはすぐに笑顔へ戻る。
「だから、何冊も本を読むんです。
人が何を考えてきたのか、何を残そうとしたのか。
それを知っていると、自分の記憶とも少しだけ付き合いやすくなるので」
中庭へ風が吹く。
アスクは小さく呟く。
「テルさん」
「はい」
「世界樹へ行けば、存在って、何か分かると思いますか」
テルは少し驚く。
「存在?」
「はい」
アスクは泉のある方角へ目を向ける。
「存在の泉は、何も教えてくれません。
ずっと、そこにあるだけです。
「だから僕は」
一拍置く。
「その先を見てみたいんです」
テルはしばらく黙っていた。
世界樹へ向かう理由。
リリスを救うため。
それしか考えていなかった。
けれど目の前の青年は、世界そのものを知りたくて旅に出ようとしている。
「一緒に来ますか?」
今度は冗談ではなかった。
テルの声が、静かに響く。
アスクは驚いたように目を丸くする。
「……いいんですか?」
「ああ。俺は世界のことを知らない。
だけど」
テルは少し笑う。
「アスクは知ってる」
「その代わり」
「俺は歩くことなら得意だ」
アスクは、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと笑う。
春の日差しのような、穏やかな笑顔だった。
「よろしくお願いします」
その声は、どこまでも素直だった。
テルも笑って頷く。
「よろしく」
それから数日。情報収集のため、
テルとアスクは、学舎へ通う日々を送った。
朝から本を開き。昼は存在の泉を訪れ。
夕方には街へ出て、旅人や商人の話を聞く。
世界樹について書かれた本は、驚くほど少なかった。
いや。
正確には、書いてあることが違いすぎる。
「全部違いますね」
テルが本を閉じる。
机の上には十冊近い書物が積まれていた。
アスクは一冊ずつ指を滑らせながら頷く。
「違います」
「この本では世界樹は一本」
「こっちは三本」
「これは世界そのものが樹だって書いてあります」
テルは思わず苦笑した。
「どれが本当なんだ」
「全部かもしれません…」
アスクは平然と言う。
「全部、違うかもしれませんけど」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その日の夕方。
学舎の一番奥にある書庫で、一冊だけ古びた本を見つける。
題名は擦り切れて読めない、頁を開くたび、乾いた紙が音を立てた。
アスクが慎重に読み進める。
「……ありました」
テルも身を乗り出す。
短い一節だった。
『世界樹は、虹の橋を越えた先にあり』
それだけ。
続きは滲み、読めなくなっていた。
「虹の橋」
テルはその言葉を繰り返す。
アスクは周囲の本棚を見回す。
「他にも探してみます」
その日だけで二十冊以上の本を調べた。
けれど、「虹の橋」という言葉が書かれていたのは、その一冊だけだった。
翌日。
二人は旅人たちが集まる酒場へ向かった。
老人は言う。
「虹の橋なんて見たことはない。」
商人は笑う。
「見えたら帰ってこられないさ」
若い旅人は肩をすくめた。
「子どもの頃の寝物語かなんかだろ」
知っている人はそれなりにいた。
けれど、誰も信じてはいない。
酒場を出た帰り道
テルは夕焼けに染まる空を見上げた。
「やっぱり、御伽噺なんですね」
アスクは少しだけ考えたあと、静かに首を横へ振る。
「違うと思います」
「え?」
「本当だから、御伽話として残ったんです」
テルは黙って続きを待つ。
「本当に何もなければ、人は語り継ぎません。嘘だけなら、とっくに忘れられているはずです」
アスクは夕焼けの空を見つめる。
「何かがあった。
だから、御伽噺になった」
テルはその言葉を胸の中で繰り返した
存在しないから、御伽噺なのではない
あったからこそ、人は語り継いだ
その考え方は、テルにはなかったものだった。
その夜。
二人は旅支度を整える
次の目的地は、ムスペル
必然の泉が眠る、灼熱の大地へ。




