彼者誰
薪が、ぱちりと小さく爆ぜた。
まだ陽は山の向こうに隠れたまま、窓の外には薄白い朝靄が漂っている。
竈に掛けた鉄鍋から、湯気がゆるやかに立ち昇る。
木匙で鍋をかき混ぜると、香草の青い香りが鼻をくすぐった。
「……もう少しか」
テルは鍋の底へ手をかざす。
指先に淡い光が灯り、小さな火が生まれる。
火は薪へ移り、静かに熱だけを増していく。
錬金術。
人が扱えるのは、ほんの少しだけ世界を書き換える術。
薪はよく燃え、水は少しだけ集まり、折れた道具は一時繋ぎ直せる。
奇跡とは呼べない。
けれど、この世界で暮らす者にとって、それは朝の火起こしと変わらない日常だった。
「よし」
蓋を閉じると、今度は桶を覗き込む。
底が見え始めている。
桶へ手をかざすと、水面に小さな波紋が広がった。
空気中の湿り気を集めるように、水滴が一つ、また一つと落ちていく。
やがて桶の底が隠れるくらいになると、テルは満足そうに頷いた。
「ごほっ」
奥の部屋から咳が聞こえる。
テルは椀を二つ手に取り、鍋から粥をよそうと、そのまま部屋の扉を開けた。
「起きたか」
窓辺の寝台で、リリスがゆっくりと身体を起こす。
寝癖のついた銀色の髪を指で整えながら、小さく笑った。
「おはよう、テル」
「おはよう。今日はちゃんと温かいうちに食べろよ」
「それ、昨日も聞いた」
「昨日は冷めてから食べてただろ」
「猫舌なんだから仕方ないじゃない!」
「猫でももっと早く食べるぞ」
「失礼ね」
リリスは頬を膨らませる。
その様子がおかしくて、テルは思わず笑った。
「ほら」
机へ椀を置く。
湯気の立つ粥から香草の香りが広がった。
リリスは椀を覗き込む。
「……また香草」
「体にいい」
「美味しいとは言ってない」
「贅沢言うな」
「テル、料理だけは上手にならないよね」
「だけ、は余計だ」
「じゃあ、料理”も”」
「ひどいな!」
くすくすと笑いながら、リリスは匙を口へ運ぶ。
一口
二口
その途中で、小さく咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「うん」
杯の水を一口飲み、リリスは首を縦に振る。
「最近、朝が冷えるから」
「毛布、もう一枚出すか」
「そこまでじゃないよ」
「でも」
「テルは心配しすぎ!」
そう言って笑う顔は、どこか少しだけ眠たそうだった。
テルもそれ以上は何も言わず、自分の椀へ匙を入れる。
しばらくは、匙が器に触れる音だけが部屋に響いていた。
「そういえば」
リリスが顔を上げる。
「昨日もお医者様が来てたでしょう?」
「ああ」
「何か言ってた?」
テルは少しだけ考えてから答えた。
「いつも通りだよ」
「空洞病は焦って治すものじゃない、って?」
「それも言ってた」
テルは苦笑する。
「あとは……『世界樹に命を返しているんだ』って」
リリスは静かに頷いた。
「先生らしいね」
「納得できるか?」
「ううん」
少し間を置いて、リリスは窓の外へ目を向ける。
「でも、先生は昔からそう言うもの。世界樹があるから私たちは生きられる。だから命を返すのも自然なことだ、って」
テルは返事をしなかった。
世界樹のことは知っている。
誰もが知っている。
遠く、迷いの森のさらに向こう。
世界の中心で空を支えている大樹。
最近は元気がない、と旅人たちは口を揃える。
それでも。
目の前で咳をするリリスと、その話はどうしても結びつかなかった。
「……冷めるぞ」
「うん」
二人はまた匙を動かす。
窓の外では、小鳥が朝を告げるように鳴いていた。
竈の火は静かに揺れ、湯気はゆっくりと天井へ昇っていく。
いつもの朝だった。
朝食を終えると、テルは空になった椀を重ねて流しへ運び、桶の水でさっと洗い、布で拭いて棚へ戻す。
そのひとつひとつの動きを、リリスは椅子に座ったまま眺めていた。
「見られてると落ち着かないんだけど」
「見てるだけ」
「何が面白い?」
「テルって、家事してる時だけ無駄がないよね〜」
「だけ、って何だ」
「薬草を採りに行く時は迷うし」
「迷ってない」
「昨日も一昨日も違う道から帰ってきたじゃない」
「……あれは、近道」
「二日続けて?」
テルは返事に詰まり、肩をすくめた。
「近道を探してた」
「そういうことにしておく」
二人で笑う。
笑い声は小さな家の中を満たし、やがて静かに消えていった。
テルは戸口に立て掛けてあった籠を手に取る。
「薬草、採ってくる」
「いつもの丘?」
「ああ。昼までには戻る」
リリスは少しだけ考えるように首を傾げた。
「……私も行こうかな?」
テルは首を横に振る。
「今日はやめとけ」
「少し歩くだけ!」
「少し歩いて、少し咳して、少し無理をする」
「そんな言い方」
「間違ってないだろ」
リリスは唇を尖らせた。
「じゃあ、お土産!」
「薬草?」
「違う」
「木の実」
「違う」
「きのこ」
「なんで薬草採りに行ってきのこなの?」
「あるかもしれない」
「じゃあ、、花」
テルは一瞬だけ考え、
「咲いてたらな」
と答えた。
「約束」
「ああ」
扉を開く。
ひんやりとした空気が流れ込み、草の匂いが鼻をくすぐる。
外へ出ると、小さな村はすでに目を覚ましていた。
井戸では水を汲む音が響き、鍛冶屋からは金槌を打つ乾いた音が聞こえる。
煙突からは細い煙が立ち昇り、どの家からも朝食の匂いが漂ってきた。
「テル」
向かいの畑から声が飛ぶ。
振り向くと、大きな鍬を肩に担いだ老人が手を振っていた。
「おはようございます、グレンさん」
「また薬草か?」
「はい」
「働き者だな」
「家で寝てるほうが性に合わなくて」
老人は豪快に笑った。
「若いうちはそれでいい。ほれ」
畑の隅から赤い林檎を一つ放って寄越す。
テルは慌てて受け止めた。
「ありがとうございます」
「リリスちゃんにも食わせてやれ」
「伝えておきます」
老人は「おう」とだけ返し、また畑へ向き直る。
テルは林檎を籠へしまうと、村の外れへ続く土道を歩き始めた。
朝露に濡れた草が靴を湿らせる。
鳥のさえずり。
風に揺れる木々。
遠くでは川の流れる音が聞こえていた。
歩き慣れた道だった。
村の者は皆、この丘で薬草を摘み、この森で薪を集め、この川で魚を釣る。
大きな町も、立派な城もない。
世界の果てがどうなっているのか知る者も、ほとんどいない。
テルも、その一人だった。
彼にとって世界は、この村と、丘と、森。
そして。
「リリスなら、この花を喜ぶかな」
足元に咲く白い花を見つけ、そっと摘み取る。
小さな花弁は朝露をまとい、光を受けて静かに揺れていた。
テルはそれを籠の端へ寝かせると、薬草を探して丘を登り始めた。
丘の斜面には、朝露をまとった草がどこまでも揺れていた。
テルは籠を足元へ置き、一株ずつ薬草を摘み取っていく。
葉の色。
茎の太さ。
根の張り方。
どれも少しずつ違う。
薬になるものだけを選び、丁寧に籠へ重ねていった。
風が吹き抜ける。
草原が波を打ち、その向こうに一本の古木が立っていた。
丘の上で、何十年、何百年と風を受け続けてきた大きな木。
「今年も元気そうだな」
独り言を漏らしながら近づく。
幼い頃、リリスとどちらが高く登れるか競ったことを思い出す。
結局、一番上までは二人とも届かなかった。
幹へ手を添える。
ざらりとした樹皮を指先でなぞると、一か所だけ柔らかな場所があった。
「……ん?」
軽く押す。
乾いた樹皮が、ぽろりと崩れ落ちた。
小さな穴が口を開けている。
中は暗く、奥までは見えない。
「古い木だしな」
そう呟き、手についた木屑を払う。
「テル」
振り返ると、グレンが斧を肩に担いで歩いてきた。
「こんなところまで」
「薪になる木を見て回ってただけだ」
グレンはテルの隣へ並ぶと、古木を見上げる。
「まだ元気に立ってる」
「子どもの頃から、ずっとここにありますよね」
「ああ」
グレンは幹を軽く叩いた。
乾いた音が返る。
「長く生きる木は、中が空くこともある」
「それでも生きてるんですね」
「それでも立ち続ける」
しばらく二人で枝を見上げた。
風が吹き、葉が静かに揺れる。
「そういえば」
グレンが口を開いた。
「昨日、旅商人が村へ寄っていてな」
「旅商人?」
「永久凍土から来たそうだ」
テルは少し驚いた。
「そんな遠くから」
「酒を飲みながら、面白い話を聞かせてもらった」
「どんな話です?」
「世界樹には全知を司る黄金の果実が実っているらしい」
テルは思わず笑った。
「そんなものがあったら、誰か見つけてますよ」
「わしもそう言った」
グレンは肩を揺らして笑う。
「すると旅商人も笑ってな」
少し間を置いて、
「『だから御伽噺なんだ』と言っておった」
二人は顔を見合わせ、つられて笑った。
風が丘を吹き抜ける。
「そろそろ戻ります」
「あまり遅くなるな」
「ええ」
テルは頷き、村への道を歩き始めた。
グレンはその背中を見送り、それからもう一度だけ古木を見上げた。
葉は風に揺れ、何事もないように音を立てていた。
村へ戻る頃には、朝靄もすっかり晴れていた。
土道を歩いていると、あちこちから声が飛んでくる。
「テル!」
小さな子どもが駆け寄ってきた。
後ろには、年の近い子どもたちが三人ほど続いている。
「おはよう」
「薬草採り?」
「ああ」
「また先生のところ?」
「その前に家」
子どもたちは籠の中を覗き込み、揃って顔をしかめた。
「苦そう」
「薬だからな」
「甘い薬はないの?」
「あるなら俺が教えてほしいよ!」
子どもたちは声を上げて笑う。
その中の一人が、ふとテルの籠の端に目を留めた。
「あっ」
「ん?」
「花」
テルも視線を落とす。
丘で摘んだ白い花が、薬草に埋もれないよう端へ寝かせてあった。
「誰かにあげるの?」
「まぁ」
「リリスお姉ちゃん?」
「……まぁ」
子どもたちは顔を見合わせると、にやりと笑った。
「やっぱり!」
「言っただろ!」
「テル、照れてる!」
「照れてない」
「赤い!」
「朝から歩いてきただけだ」
言い返すほど笑われる。
テルは困ったように頭を掻きながら歩き出した。
「ほら、遊ぶなら川の向こうで遊べ」
「はーい!」
元気な返事だけを残して、子どもたちは駆けていく。
その後ろ姿を見送りながら、テルは思わず笑った。
村は今日も変わらない。
畑では土を耕し、鍛冶場では槌の音が響き、子どもたちは走り回っている。
小さな村だった。
それでもテルは、この景色が好きだった。
家へ戻ると、扉は半分だけ開いていた。
「リリス?」
声を掛けながら中へ入る。
窓際では、リリスが椅子に腰掛けていた。
膝の上には布。
針と糸を動かし、何かを縫っている。
「ただいま」
「おかえり」
リリスは顔を上げ、ふっと笑う。
「早かったね」
「思ったより採れた」
テルは籠を机へ置き、中から白い花を取り出した。
「はい」
「……覚えてたんだ」
「約束したから」
リリスは少し驚いたように花を受け取る。
細い指でそっと茎を持ち、しばらく眺めてから笑った。
「きれい」
「名前は知らない」
「知らないのに摘んできたの?」
「きれいだったから…」
リリスは花へ顔を近づける。
微かに香る甘い匂いに目を細めた。
「ありがとう」
その一言だけで、テルは十分だった。
薬草を乾かすため外へ出る。
軒先へ縄を張り、一束ずつ吊るしていく。
陽を浴びた薬草は、風に揺れるたび青い香りを漂わせた。
「テル」
振り返る。
家の中からリリスがこちらを見ていた。
「お昼、ご飯作るね」
「休んでろ」
「座ってるだけじゃ退屈よ」
「俺が作る」
「また香草?」
「文句言うなら食べるな」
「食べる」
二人は目を合わせて笑った。
風がまた一つ、薬草を揺らした。
昼を過ぎる頃、戸を叩く音がした。
「失礼するよ」
ゆっくりと戸を開けて入ってきたのは、白い髭を胸まで伸ばした老人だった。
肩には使い込まれた革鞄。
杖をつくこともなく、しっかりとした足取りで部屋へ入る。
「先生」
テルは立ち上がり、椅子を引いた。
「いつもありがとうございます」
「礼を言われるほどのことはしとらんよ」
老人は穏やかに笑い、リリスの前へ腰を下ろした。
「具合はどうだい」
「少し咳が増えたくらいです」
「眠れているか」
「はい」
「食事は」
「テルが作りすぎるので困ってます」
「おい」
思わず口を挟むテルを見て、老人は声を立てて笑った。
「食べられるうちは、それでいい」
リリスの手首へそっと指を添える。
脈を測り、瞳を覗き、呼吸へ耳を澄ませる。
部屋には静かな時間だけが流れた。
やがて老人は小さく息を吐き、道具を鞄へ戻した。
「先生」
テルが口を開く。
「どうでした」
老人はすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
風に揺れる薬草が、軒先で静かに揺れていた。
「リリス」
「はい」
「少し休んでおいで」
「……分かりました」
リリスは頷き、ゆっくりと奥の部屋へ入っていく。
戸が閉まる音を聞いてから、テルは老人へ向き直った。
「先生」
「落ち着きなさい」
老人は静かな声で言った。
「焦って答えを聞いても、答えは変わらん」
テルは口を閉じる。
老人はしばらく黙っていたが、やがて言葉を選ぶように話し始めた。
「進んでいる」
その一言だけで十分だった。
テルは視線を落とす。
「……薬は」
「今までと同じものを」
「錬金術は」
老人は首を横に振った。
「症状を和らげることはできる」
「でも治せない」
「そうだ」
部屋の中が静まり返る。
聞こえるのは、軒先で揺れる薬草の擦れる音だけだった。
「先生」
「なんだ」
「空洞病って、何なんですか」
老人は答えを急がなかった。
窓の向こう、村のさらに先を見つめるように目を細める。
「世界樹を知っているね」
「もちろんです」
「あの大樹があって、この世界は今も立っている」
テルは頷いた。
「世界は巡っている」
老人は静かに続ける。
「芽吹き、育ち、朽ち、また次へ命を渡す」
「人も同じだ」
「空洞病は、その巡りの中で生まれる病だと昔から言われている」
テルは黙って聞いていた。
「世界樹へ命を捧げているんだよ」
老人の声は穏やかだった。
「我々がこの地で生きていけるのは、世界樹が世界を支えているからだ」
「だから、人もまた命を返す」
「それが自然の理だと、昔の人は考えた」
テルは拳を握る。
「納得、できません」
「そうだろう」
老人は否定しなかった。
「わしも若い頃は同じことを言った」
テルは顔を上げる。
「しかし答えは見つからんかった」
老人は静かに笑う。
「医者というのはな、治せる病だけ診ているわけじゃない。
治せない病とも、一緒に生きる仕事なんだ」
その言葉に、テルは何も返せなかった。
老人はゆっくりと立ち上がり、革鞄を肩へ掛けた。
戸口へ向かいかけたところで、テルが口を開く。
「先生」
「なんだい?」
テルは少しだけ迷うように息をつく。
「もし、本当に治す方法があるとしたら」
老人はテルを見た。
それから、どこか納得したように頷く。
「……グレンから聞いたのかな?」
「昨日の旅商人の話です。知識さえあれば」
「ああ」
老人は小さく笑った。
「もう村中に広まっとる」
テルは俯く。
「あれ、本当にただの御伽噺なんでしょうか」
少しの沈黙。
やがて老人は穏やかな声で言った。
「わしなら、迷わず探しに行く」
テルは顔を上げる。
「……先生」
「だが、わしはここを離れられん」
それだけ言って、老人は戸へ手を掛けた。
「テル」
「はい」
「考えるのは悪いことじゃない」
老人は振り返らない。
「だが、答えを急ぐな」
戸が静かに閉まる。
残された部屋で、テルはしばらく動かなかった。
しばらくの間、テルは閉じた戸を見つめていた。
やがて小さく息を吐くと、軒先へ出る。
縄に吊るした薬草は風を受け、ゆっくりと揺れていた。
「テル」
振り返ると、戸口からリリスが顔を覗かせていた。
「先生、帰った?」
「ああ」
「……また難しい顔してる」
「してたか?」
「してる」
テルは思わず頬に触れる。
そんな様子がおかしかったのか、リリスは小さく笑った。
「先生に怒られた?」
「怒られてない」
「じゃあ、薬が苦かった?」
「飲んだのはお前だろ」
「そうだった」
二人で笑う。
風が吹き、吊るした薬草がかさりと音を立てた。
リリスはその音に耳を澄ませるように目を細める。
「この音、好き」
「薬草の?」
「うん」
「風が吹くたびに、ちゃんと生きてる音がする」
テルは薬草を見上げた。
揺れているだけだと思っていた。
そう言われると、不思議と違って見える。
「昔からそういうこと言うよな」
「変?」
「いいや」
テルは首を横に振る。
「俺には思いつかない」
リリスは少し照れたように笑い、軒先へ一歩出る。
その瞬間だった。
ふらり、と身体が揺れる。
「リリス!」
テルはすぐに腕を支えた。
「ごめん」
「中、入ろう」
「平気」
「平気じゃない!」
少しだけ強い口調になってしまう。
リリスは困ったように笑って、
「……うん」
とだけ答えた。
部屋へ戻り、椅子へ座らせる。
杯へ水を注いで渡すと、リリスは両手で包むように持った。
「ありがとう」
テルは返事をせず、窓を開ける。
外から涼しい風が流れ込んできた。
部屋の空気が少しだけ軽くなる。
「ねえ、テル」
「ん?」
「先生、何か言ってた?」
テルは窓の外を見たまま答える。
「いつも通りだ」
「そっか」
リリスはそれ以上聞かなかった。
聞けば、テルが困ることを知っていたから。
だから代わりに、話題を変える。
「今日ね」
「うん」
「夢を見たの」
「どんな?」
「雨」
テルは振り返る。
「雨?」
「うん」
リリスは窓の外の空を見上げた。
「空から、ずっと雨が降ってた」
「変な夢だな」
「でもね」
リリスは少し笑う。
「冷たくなかった」
テルは黙って聞いていた。
「温かい雨だった」
リリスの言葉を遮るように、戸を叩く音がした。
「テル、いるか?」
聞き慣れた声だ。
「開いてる」
返事をすると、戸が静かに開く。
背の高い青年が、紙袋を抱えて立っていた。
黒い外套を羽織り、少し癖のある黒髪を風に揺らしている。
「頼まれてた薬だ」
紙袋を軽く持ち上げる。
「オニキス」
テルは受け取りながら苦笑した。
「また悪いな」
「気にするな」
オニキスは部屋へ入り、自然な足取りでリリスの前まで歩く。
「具合は」
「少しだけ咳が増えたくらい」
「そうか」
それだけ言って、小さく頷く。
余計な励ましもしない。
慰めの言葉も口にしない。
ただ、いつもより少し長くリリスの顔を見つめていた。
「何?」
リリスが首を傾げる。
「……いや」
オニキスはゆっくりと目を逸らす。
「少し痩せた」
「先生と同じこと言う」
「俺も先生だからな」
「オニキスは先生じゃないでしょう」
「薬を作ってるくらいだぞ?」
「半分先生」
リリスが笑う。
オニキスも、小さく笑い返した。
テルは紙袋の中を覗く。
「ずいぶん多いな」
「試してみたい調合があった」
「効くのか?」
「分からない」
オニキスはあっさりと言う。
「効くかもしれない」
テルは何も言わず、袋を抱えた。
その一言だけで十分だった。
効くかもしれない。
その言葉だけを信じて、何度も薬を受け取ってきた。
「ありがとう」
「礼はいい」
オニキスは窓辺へ目を向ける。
机の上には、白い花が一輪。
風に揺れていた。
「……花か」
「テルが摘んできてくれたの」
「そうか」
その花を見つめるオニキスの横顔は、どこか懐かしむようにも見えた。
ほんの一瞬だけ。
もう誰もいない遠い誰かを思い出したような、そんな表情だった。
けれど、それはすぐに消えた。
「また来る」
そう言って踵を返す。
戸口まで歩いたところで、ふと立ち止まる。
「リリス」
「ん?」
「ちゃんと食べろよ」
それだけ残し、オニキスは静かに家を後にした。
閉じた戸を見つめながら、リリスは小さく笑う。
「みんな同じこと言う」
テルもつられて笑った。
「心配なんだよ」
風が窓から吹き込み、白い花が小さく揺れた。
オニキスが帰ると、家の中はまた静かになった。
テルは紙袋を開き、小瓶を一つずつ机へ並べる。
どれも見慣れた薬ばかりだった。
色の違う液体。乾燥させた葉。細かく砕かれた木の皮。
その中に、一つだけ見覚えのない小瓶が混じっていた。
「これ」
リリスが手に取る。
「初めて見る」
「俺もだ」
瓶には何も書かれていない。
透き通った淡い青色の液体が、光を受けて静かに揺れていた。
「飲んでいいのかな?」
「駄目だ」
テルは苦笑しながら瓶を取り上げる。
「あとで聞きに行くよ」
「わざわざ?」
「オニキスの薬だぞ?」
「そうだけど」
「説明もなく飲ませる方が怖い」
リリスは少しだけ口を尖らせる。
「信用してない?」
「信用してる」
テルは瓶を棚へ戻した。
「だから確認する」
その返事に、リリスは納得したように頷く。
夕方が近づき、窓から差し込む光が少しずつ色を変えていく。
部屋の中も橙色に染まり始めていた。
「行ってくる」
テルは外套を羽織る。
「すぐ戻るから」
「うん」
リリスは机の上の白い花へ水を替えながら、小さく手を振った。家を出ると、村は夕食の支度で慌ただしくなっていた。
竈から立ち昇る煙。
笑い声。
食器の触れ合う音。
昼間とはまた違う賑わいが、村全体を包んでいる。
オニキスの家は、村の外れにある小さな家だった。
庭には乾燥中の薬草が並び、軒下には見たこともない草や実が吊るされている。
薬の匂いが、風に乗って流れてきた。
テルは戸を叩く。
「オニキス」
「開いてる」
中から返事が聞こえる。
戸を開けると、部屋いっぱいに本が積まれていた。
壁際にも、机の上にも薬瓶や道具の間にまで本が置かれ、足の踏み場を探すほどだった。
「相変わらずだな!」
「片付けても増える」
机に向かったまま、オニキスは短く答える。
紙の上へ何かを書き込みながら、手だけを振った。
「そこ、椅子ある」
「ある、じゃない」
テルは積み重なった本をどかし、ようやく椅子を引き出した。
「本に埋もれて死ぬぞ」
「その時は頼む」
「断る」
テルが呆れたように笑うと、オニキスも小さく笑った。
それだけで、部屋の空気が少し柔らかくなる。
机の上には、開いたままの古い本があった。
テルは何気なく視線を向ける。
そこには、人の身体を模した図と、複雑な錬金術式がびっしりと描かれていた。
「また難しい本読んでるな」
「面白い」
「オニキスは凄いな」
「読むか?」
「今日は遠慮しとく」
テルは肩をすくめる。
オニキスは本を閉じると、ようやく椅子から立ち上がった。
「それで、どうした?」
テルは持ってきた青い小瓶を机へ置いた。
オニキスは一目見て、ああ、と頷いた。
「説明するの忘れてた」
そう言って瓶を手に取ると、夕日に透かして中身を眺めた。
「まだ試作なんだ」
「じゃあ持ってくるな」
「渡しておけば忘れないと思って」
「忘れてるじゃないか!」
オニキスは珍しく声を出して笑った。
テルもつられて笑う。
オニキスが小瓶を棚へ戻そうとした、その時だった。
外から慌ただしい足音が近づいてくる。
戸が激しく叩かれた。
「テル!」
子どもの声だった。
「早く来て!」
テルは立ち上がる。
「どうした!」
「リリスお姉ちゃんが苦しそうで……!」
最後まで聞かず、テルは外へ飛び出した。
オニキスも薬鞄を掴み、その背中を追う。
夕暮れの村を二人は駆け抜ける。
開いたままの戸をくぐると、家の中は静まり返っていた。
「リリス!」
寝台の傍らで、リリスが浅い呼吸を繰り返している。
肩が小刻みに震え、胸を押さえる手にも力が入っていた。
テルは駆け寄る。
「リリス!」
返事はない。
苦しそうに息を吸う音だけが聞こえる。
「テル」
後から来たオニキスの声は落ち着いていた。
「窓を開けろ」
テルはすぐに窓を開け放つ。
冷たい風が部屋へ流れ込む。
その間にオニキスはリリスの傍へ膝をついた。
「リリス」
呼び掛けても反応は薄い。
額へ手を当て、脈を測る。
瞼を開き、瞳の様子を確かめる。
呼吸へ耳を近づけ、小さく息を吐いた。
「テル」
「どうなんだ」
「先生を」
その一言だった。
テルは戸口へ飛び出そうとして
「待て!」
オニキスが呼び止める。
「お前が行くと遅い!」
「何だと!」
「村中がお前を止める。それに、そばにいてやれ」
テルは言い返せなかった。
焦ったまま走れば、事情を聞かれ、足を止められる。それは目に見えていた。
「誰か!」
オニキスは戸口から外へ向かって叫ぶ。
「先生を呼んできてくれ!」
畑仕事を終えた村人が振り返る。
「リリスが苦しい!」
その一言で十分だった。
「任せろ!」
男がすぐに駆け出す。
もう一人も、その後を追った。
オニキスは再び寝台の横へ戻る。
薬鞄を開き、小瓶を並べる。
手は迷わない。
それでも。
薬を選ぶ指先だけが、ほんの少し震えていた。
「オニキス……」
テルが声を絞る。
「助かるよな?」
オニキスは答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、小瓶の蓋を開け、静かに薬を調合し始めた。
ほどなくして、戸の向こうから慌ただしい足音が響いた。
「先生!」
息を切らせた老人が部屋へ駆け込む。
革鞄を床へ置く間も惜しむように、すぐリリスの傍へ膝をついた。
「オニキス!」
「呼吸が浅いです」
「薬は?」
「まだ飲ませていません」
老人は頷き、リリスの手を取る。
脈を測り、胸へ耳を当てる。
部屋には誰も口を開かなかった。
やがて老人は目を閉じ、小さく息を吐く。
「先生」
テルの声は震えていた。
「リリスは」
老人はテルを見た。
その表情だけで、テルは何かを悟ってしまう。
「……空洞病が進んでいる」
「そんな!」
「ここまで急に進む例は多くない、…だが、ないわけではない」
テルは拳を強く握る。
「薬は?」
「使う」
「錬金術は!」
「使う」
老人は迷わず答えた。
「できることは、すべてやるとも」
その言葉に嘘はなかった。
だからこそ、テルは苦しかった。
できることをすべてやって、この結果なのだ。
老人は薬を飲ませ、静かに様子を見守る。
しばらくすると、リリスの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
苦しそうだった肩の動きも、ゆっくりと静まっていく。
「……眠った」
老人が小さく呟く。
テルは寝台の傍へ座り込み、その手を握った。
温もりはある。
その温もりに、少しだけ胸を撫で下ろす。
老人は立ち上がり、オニキスへ目を向けた。
「少し外で話そう」
オニキスは無言で頷く。
二人は静かに部屋を出た。
戸が閉まる。
テルはしばらく動かなかったが、やがて立ち上がり、そっと戸口へ近づいた。
声を聞こうとしたわけではない。
ただ、足が止まらなかった。
外では、老人の低い声が風に乗って聞こえてくる。
「……長くはない」
その一言だけが、テルの耳に届いた。
あとは風がさらってしまった。
テルは戸へ手を添えたまま、静かに目を閉じる。
部屋の中では、リリスが穏やかな寝息を立てていた。
その音だけが、今は何よりも遠く感じられた。
その日の夜は静かだった。
窓の外では、虫の鳴き声だけが途切れることなく続いている。
寝台の傍らに椅子を寄せ、テルは黙って座っていた。
リリスの寝息は穏やかだ。
苦しそうだった呼吸も、薬が効いたのか落ち着いている。
それでも、テルは目を離せなかった。
「……起きてる」
かすかな声がした。
テルははっと顔を上げる。
リリスが薄く目を開けていた。
「寝てろ」
「寝てたよ」
「今は」
「起きちゃった」
少し掠れた声だったが、昼間よりはずっと落ち着いている。
テルは杯に水を注ぎ、ゆっくりと差し出した。
リリスは一口だけ飲むと、小さく息をついた。
「ありがとう」
テルは黙って杯を受け取る。
部屋には、しばらく沈黙が流れた。
「ねえ、テル」
「なんだ」
「先生、何て言ってた?」
テルの手が止まる。
少しだけ考え、静かに答えた。
「無理するなって」
「それだけ?」
「ああ」
リリスはテルの顔を見つめる。
その目は、どこか困ったように笑っていた。
「嘘」
テルは何も言えなかった。
「昔から」
リリスはゆっくりと言葉を続ける。
「テルは嘘をつくの、下手だから」
夜風が窓を揺らす。
「ごめん」
テルがようやく絞り出したのは、その一言だった。
リリスは首を横に振る。
「謝らなくていいよ」
「でも」
「私ね」
リリスは窓の外へ目を向ける。
「少しだけ分かるの。」
「何が」
「前より、身体が軽くなってる」
テルは息を呑む。
「変な言い方だけど」
リリスは自分の胸へ手を当てる。
「中が、空っぽになっていくみたい」
その言葉に、テルは何も返せなかった。
空洞病
その名前が、頭の中で静かに響く。
「怖くないのか?」
テルは俯いたまま尋ねた。
リリスは少しだけ考え、それから笑った。
「怖いよ」
その笑顔は、とても素直だった。
「だから」
テルは顔を上げる。
「今は隣にいて」
短い言葉だった。
テルは何も言わず、椅子を少しだけ寝台へ寄せる。
リリスは安心したように目を閉じた。
「ありがとう」
その声を最後に、部屋はまた静けさに包まれる。
テルは眠らなかった。
窓の向こうには、雲ひとつない夜空が広がっていた。その先のどこかに、本当に世界樹があるのだろうか。
昼間は笑い話だったはずの御伽噺が、今夜だけは胸の奥で静かに息づいていた。
翌朝。
まだ陽も高くならないうちから、テルは村の外れへ向かっていた。
昨夜、一睡もできなかった。
眠れなかったのではない。
眠る理由が見つからなかった。
荷物は少ない。
水、干し肉、薬草、火打石。
そして、オニキスから受け取った薬。
「やっぱり来たか」
丘の手前で、グレンが腕を組んで立っていた。
まるで待っていたかのようだった。
「先生から聞いた」
テルは苦笑する。
「敵いませんね」
「小さな村だからな」
グレンはテルの背負った荷を見て、小さく頷いた。
「迷いは決まったか」
「はい」
「リリスのためか」
「それしかありません」
グレンは何も言わず、腰に差していた短い斧を外した。
「持っていけ」
テルは目を丸くする。
「でも」
「護身くらいにはなる」
柄には長年使い込まれた跡が残っていた。
「返せ」
グレンは笑う。
「帰ってきた時にな」
テルは静かに受け取り、深く頭を下げた
「…必ず」
蹄の音が近づいてきた。
荷車を引いた一頭の獣が、ゆっくりと丘の道を登ってくる。
手綱を握るのは、見慣れない男だった。
厚手の外套には砂が付き、長い旅をしてきたことが一目で分かる。
「あなたが」
テルが口を開く。
「旅商人ですか」
男は荷車を止めると、小さく笑った。
「ああ」
「君がテルか」
テルは少し驚く。
「俺を?」
「昨日、村で何度も名前を聞いた」
旅商人は肩をすくめる。
「薬草採りが上手い青年と、幼なじみを大事にしている青年の話をな」
テルは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「グレンさんから、あなたの話は聞きました」
「世界樹の御伽噺か?」
「ええ」
旅商人はテルの背にある荷物へ目を向ける。
その量を見れば、何をしようとしているのかは十分に分かった。
「行くのか」
「行きます」
迷いのない返事だった。
旅商人はしばらくテルを見つめ、それから荷車の奥へ手を伸ばす。
「これを持っていけ」
取り出したのは、何度も折り畳まれた古い羊皮紙だった。
「正しい地図ではない。
旅人から旅人へ渡ってきただけのものだ。
それでも」
テルは両手で受け取る。
「何もないよりは、ずっといい」
旅商人は満足そうに頷いた。
「世界樹を見た者を、私は知らない」
「だから御伽噺なんですね」
「そうだ」
男は笑う。
「だから、帰ってきたら教えてくれ」
「世界樹が、本当にあったのか」
テルは羊皮紙を大切に荷物へしまった。
「約束します」
風が吹く。
丘の草が静かに揺れた。
旅商人はその風を受けながら、小さく呟く。
「御伽噺というのはな」
テルが顔を上げる。
「信じた者だけが、続きを知ることができる」
その言葉は、旅立つ青年への餞別のようだった。
村の門を出ると、朝の風が外套を揺らした。
背負った荷は決して軽くない。
それでも足取りは、不思議なほど迷いがなかった。
「テル」
静かな声に振り返る。
オニキスが立っていた。
肩にはいつもの薬鞄。
手には、一冊の小さな革張りの手帳を持っている。
「これを」
テルは手帳を受け取る。
「何だ?」
「薬の記録」
オニキスは短く答えた。
「旅先で薬草を見つけたら書き足してくれ」
ページをめくる。
薬草の特徴。
調合の手順。
簡潔な文字が几帳面に並んでいた。
「まだ途中なんだ」
オニキスは少しだけ照れたように笑う。
「完成したら返してくれ」
「……分かった」
テルは大切そうに荷へしまう。
しばらく沈黙が流れた。
風だけが、二人の間を通り抜ける。
「リリスのことは…」
オニキスがぽつりと口を開く。
「俺が診る」
その一言だった。
テルは静かに頷く。
「ああ」
「頼む」
それ以上の言葉は要らなかった。
二人とも、それだけで十分だった。
少し離れた場所では、グレンが腕を組んで立っている。
旅商人は荷車の紐を結び直しながら、こちらをちらりと見た。
誰も引き止めない。
誰も無責任に励まさない。
テルが自分で決めた旅だと、皆が知っていた。
テルは村を振り返る。
小さな家々。
立ち昇る朝の煙。
この暖かな村の中で、リリスは眠っている。
「行ってくる」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
それでも風は、確かにその言葉を村の方へ運んでいった。
テルは前を向く。
御伽噺の果てへ
世界樹を目指して
静かに、その1歩を踏み出した。
本編のための序章をある程度書いているのですが、そこそこ長くなりそうです。
シリーズ物にしようかとも思ったのですが、この序章も含めてティアードロップスなので。
お付き合い下さい。




