命の価値は
翌朝。
まだ日は低いはずなのに、砂漠はすでに熱を帯び始めていた。
集落の人々は静かに一日を始める。
誰かが井戸から水を汲み。
誰かが薪を割り。
誰かが畑へ向かう。
泉の恵みを受けられるとはいえ、水は決して豊富ではない。
一人の女性が桶へ水を汲む。
その水を畑へ運ぶ途中、子どもが喉を押さえながら近寄ってきた。
女性は桶を差し出す。
子どもは一口だけ飲み、小さく礼を言って走っていく。
女性は残った水を確かめることもなく、そのまま畑へ向かった。
テルはその様子を見つめていた。
「一口しか飲ませないんですね」
シンラは隣で頷く。
「畑も生きてるからね、人だけ生きても仕方ない」
テルは黙って畑を見る。
乾いた土へ水が注がれる。
葉を垂れていた植物が、少しだけ顔を上げた。
その姿が、どこかリリスと重なって見えた。
「テル」
シンラが静かに呼ぶ。
「助けたいって気持ちは大事だ。
でも、一つだけを助ければ、他が救えない時もある」
その時、
集落の入口から、一人の若者が駆け込んできた。
肩で息をしながら声を上げる。
「旅人が西の岩場で幻獣に見つかった!」
集落の空気が少しだけ引き締まる。
誰も騒がない。
槍を持つ者。
水袋を用意する者。
薬草をまとめる者。
それぞれが静かに支度を始める。
テルは不思議そうに辺りを見回した。
「……助けに行くんですか」
シンラは首を横へ振る。
「違う。
手を差し伸べに行く」
テルはその言葉の意味が分からず、眉をひそめる。
シンラは大剣を肩へ担ぎ、歩き始めた。
「ムスペルの幻獣は、この土地で暮らす者を滅多に襲わない。
豊かなる地へ行けば、食べるものはあるからね。狙われるのは、ほとんど旅人さ」
「彼らは知らないから」
テルは静かに耳を傾ける。
「幻獣の縄張りも、餌を探す時間も、この土地の歩き方も。何も知らない」
シンラは前を向いたまま続ける。
「だからまずは、自分で命を勝ち取ってもらう。勝ち取れたなら、私たちはその先へ手を差し伸べ、この土地で生きる術を教える」
テルは昨日の旅人を思い出す。
あの男は、自分の力で生き残った。
だからこそ、シンラは「勝ち取ったのはあんただ」と言ったのだ。
「もし……勝てなかったら」
テルが小さく尋ねる。
シンラは少しだけ目を伏せる。
「その時は、それがその人の命だった」
熱風が三人の間を吹き抜ける。
テルはその答えを受け入れられなかった。
しかし否定することもできなかった。
この土地には、この土地の必然がある。
それを思い知らされる。
三人は集落の人々と共に、西の岩場へ向かった。
西の岩場へ近づくにつれ、砂の上には激しい戦いの跡が増えていった。
砕けた岩。
深く刻まれた爪痕。
飛び散った血。
その先で、一頭の幻獣が低く唸っていた。
全身を砂色の毛に覆われた大きな獣。
その向かいには、一人の男が立っている。
黒い外套は裂け、左腕からは血が流れていた。
それでも剣を構える姿勢だけは崩れない。
テルはその姿を見た瞬間、息を呑んだ。
「……オニキス!?」
信じられなかった。
村で別れたはずの人が。
リリスの傍にいるはずの人が。
どうして、どうしてこんな場所にいる?
「テル?」
シンラが隣で小さく呟く。
テルは何も応えられず、頭の中を巡るのは一つだけだった。
看病を任せた。
「必ず戻る」
そう言って村を出た。
オニキスも静かに頷き、
「彼女のことは任せてくれ」
そう言って送り出してくれた。
だから安心して旅に出られた。
そのはずだった。
なのに。
どうして?
その瞬間。
幻獣が砂を蹴った。
オニキスも同時に踏み込む。
牙を躱し、剣を首元へ滑らせる。
砂へ血が散る。
幻獣は低く唸りながら一歩退き、オニキスをじっと見つめた。
互いに動かない。
長い静寂の後、幻獣は鼻を鳴らし、ゆっくりと背を向ける。
熱気の向こうへ姿を消していった。
「勝ち取ったね」
シンラが静かに呟く。
その声が聞こえた途端、オニキスの膝が崩れた。
剣を支えに立とうとするが、そのまま前へ倒れ込む。
「オニキス!」
テルは駆け寄り、その身体を抱き留めた。
熱い。息も浅い。
全身から力が抜けきっている。
薄く目を開いたオニキスが、テルの顔を見つめる。
「……追いついたか」
「そんなことより!!」
声が震える。
「どうしてここにいるんだ!?リリスは!!あなたに任せたはずだろ!?」
オニキスは答えようと口を開が、上手く声にならずに掠れた音を出しながら唇だけがわずかに動く。
「……すまない」
次の瞬間、身体から力が抜け、静かに意識を失う。
「オニキス!」
返事はない。
シンラがそっとしゃがみ込み、傷口を確かめる。
「命は繋がってる。
でも、このままじゃ危ないね」
テルは俯いたまま動けなかった。
その胸の中を埋め尽くすのは安堵ではなく、焦りだった。
シンラはオニキスを背負い、ゆっくりと集落へと向かい始め、テルはその隣を離れずに、何度もオニキスの様子を確かめる。
呼吸はある。
脈もある。
それでも意識は戻らなかった。
集落へ着く頃には、日は大きく傾いていた。
人々は何も言わず道を開ける。
シンラは集落の一番奥にある家へ入り、オニキスを静かに寝かせた。
年配の女性が傷口を確かめ、錬成式を描く。
淡い光が傷を包み、裂けた皮膚がゆっくりと閉じていく。
それでも女性は首を横へ振った。
「傷は治る。でも、この人が倒れた理由は傷だけじゃないね」
女性を見る。
「命を削りながらここまで来たんだろうねぇ、身体の中が空っぽだ。
しばらく休ませても、すぐには起きられないよ」
「何か方法はありませんか」
拳を強く握りしめる。
女性は少し考え、それからシンラへ目を向けた。
「豊かなる地だね」
シンラは静かに頷く。
「私も、そう思ってた。
今の彼には、泉の畑だけじゃ足りない。
しっかり身体を作る食べ物がいる」
テルは聞き慣れない名前を口にした。
「豊かなる地……?」
灼けた大地の向こう。
さらに北へ進んだ先を見つめるように。
「ムスペルとニヴルの間に広がる草原さ。
一年を通して草が枯れず、おおらかな幻獣が群れで暮らしてる」
「ムスペルもニヴルも、その命をいただいて生きてる」
テルは静かに耳を傾ける。
「もちろん、必要な分だけ。
ここじゃ、それ以上は狩らない。
必要以上に奪えば、次に困るのは自分たちだからね」
必要な分だけ生きる。
必要な分だけいただく。
それが、この土地の必然だ。
「明日の朝、豊かなる地へ向かうよ」
シンラが立ち上がる。
「テル、今回は戦うためじゃない。命をいただくために行く」
「その重さも、一緒に知ってもらう」
テルは眠るオニキスへ目を向けた。
穏やかな寝息だけが部屋に響いている。
テルの気持ちに応えるように、夕暮れの風が窓から静かに吹き込んだ。
翌朝。
空はどこまでも青く澄み渡っていた。
集落を吹き抜ける風は相変わらず熱い。
それでも朝だけは、わずかに歩きやすい時間だった。
テルは目を覚ますと、真っ先にオニキスの眠る家へ向かった。
部屋の中は静かだった。
オニキスは昨夜と変わらず眠り続けている。
呼吸は穏やかだったが、顔色はまだ青白い。
年配の女性が水で濡らした布を額へ乗せながら、小さく頷いた。
「少しずつ落ち着いてきてる。
しかしまだ身体が追いついていないね」
テルは眠るオニキスを見つめる。
何を思って自分を追ってきたのか。
なぜリリスを残してまで。
聞きたいことはいくらでもあった。
「行こうか」
シンラが戸口に立っていた。
肩には大剣、腰には狩りで使う短槍を提げている。
テルは静かに頷いた。
集落を出てしばらくすると、景色は少しずつ変わっていく。
赤茶けた砂は次第に色を薄め、ところどころに草が顔を覗かせ始めた。
熱風の中へ、青い匂いが混じる。
「もうすぐさ」
シンラが前を歩きながら言う。
「ここから先が豊かなる地」
最後の岩場を越えた瞬間。
テルは思わず足を止めた。
目の前には、一面の草原が広がっていた。
風に揺れる草。
小さな花々。
遠くには、ゆるやかな丘が続いている。
砂漠のすぐ隣とは思えない景色だった。
「あれが……」
テルの視線の先で、いくつもの大きな影が草を食んでいた。
丸みを帯びた身体。
大きく枝分かれした角。
穏やかな瞳。
群れは互いに身を寄せ合いながら、ゆっくりと草を食べている。
一頭が顔を上げる。
テルたちを見る。
けれど逃げることも、威嚇することもなく、再び草へ顔を戻した。
「おおらかな幻獣さ」
シンラが穏やかに微笑む。
「この子たちがいるから、ムスペルもニヴルも生きていける」
テルはしばらくその光景を見つめていた。
命を奪う相手。そう聞いていた。
けれど目の前にいるのは、静かに草を食べるだけの優しい生き物だった。
「……狩るんですよね」
小さく呟く。
シンラは静かに頷く。
「うん。だからよく見ておきな。
これから命をいただく相手を」
風が草原を渡る。
群れは変わらず穏やかだった。
その穏やかさが、不思議とテルの胸を静かに締めつけていた。
シンラは群れをじっと見つめていた。
風向きを読む。
群れの動きを読む。
やがて一頭だけ、群れから少し離れた個体を見つける。
「……あの子だね」
小さく呟く。
テルも息を潜める。
群れは静かだった。
何も知らず草を食み、時折互いに身体を寄せ合っている。シンラは短槍を構えた。
「一撃で終わらせる」
それだけ言うと、一歩踏み出す。
槍は真っ直ぐ空を裂き。
次の瞬間には、おおらかな幻獣の首元へ深く突き立っていた。
一度だけ身体を震わせ、幻獣は静かに草の上へ横たわる。
群れは驚いて距離を取る。
それでも逃げ惑うことはない。
仲間の亡骸を一瞥すると、ゆっくりと草原の奥へ歩いていった。
風だけが残る。
シンラは亡骸の傍へ膝をついた。
両手を胸の前で重ね、静かに目を閉じる。
「ありがとう」
その一言だけだった。
テルもアスクも何も言わない。
しばらくしてシンラは立ち上がる。
「運ぼう」
三人で幻獣を担ぎ、集落への帰路についた。
その重みは、テルの肩へ静かに食い込んでいた。
帰り道。
テルは何度も幻獣の顔を見た。
穏やかなままだった。
眠っているようにも見える。
その姿が、不意にリリスと重なる。
空洞病。
世界樹へ命を返している病。
人は命をいただいて生きている。
世界樹もまた、人から命を受け取っている。
ならば。
空洞病もまた、この世界の食物連鎖なのだろうか。
誰かが生きるために。
誰かの命が巡る。
それが、必然なのだろうか?
テルは歩みを止めた。
風が草を揺らす。
シンラもアスクも振り返らずに、テルが考える時間を、静かに待っていた。
もし空洞病が世界の必然なら。
リリスが苦しむことも。
命を失うことも。
受け入れなければならないのか?
命が巡ることは、きっと間違っていない。
この幻獣も、草も、自分たちも。
世界は巡っている。
でも、リリスは、まだ生きたいと言った。
笑いたいと言った。
明日も一緒にご飯を食べたいと言った。
その願いまで世界樹に返すべき
とは、テルには到底思えなかった。
「……俺は」
小さく呟く。
「それでも救います」
風が頬を撫でる。
誰へ向けた言葉でもなく、
それは自分自身へ改めて交わした約束だった。
集落へ戻る頃には、夕日が大地を赤く染めていた。
幻獣の肉は丁寧に捌かれ、人々へ分けられていく。
その夜。
テルは再びオニキスの眠る家を訪れた。
部屋は静かだった。
けれど、寝台の上で、一人の男がゆっくりと目を開いていた。
「……目が覚めたんだね」
テルの声に、その男はゆっくりと視線を向ける。
「テル」
かすれた声だった。
その一言だけで、部屋の空気が静かに張り詰めた。
テルは寝台の傍へ歩み寄った。
「身体は」
オニキスは小さく首を振る。
「もう動ける」
その声はまだ弱々しかった。
それでも、その瞳だけはしっかりとテルを見据えている。
テルは安堵する間もなく口を開いた。
「どうして来たんだ、リリスは、どうしたんだ?」
その名を聞いた瞬間、オニキスは静かに目を伏せた。
部屋に沈黙が落ちる。
テルの胸が大きく脈打つ。
「何があったの?」
オニキスはゆっくりと息を吸う。
「お前が村を出てから、空洞病は急に進んだ」
テルは息を呑む。
「眠る時間が増え、食事も摂れなくなった。そして」
一拍置く。
「目を覚まさなくなった」
テルの視界が揺れる。
「植物状態だ」
頭の中が真っ白になる。
村を出る時の笑顔。
「行ってらっしゃい」
そう言って手を振ってくれたリリス。
その姿だけが何度も浮かんでは消えた。
オニキスが続ける。
「残された時間はあまりにも少ない。
だから俺はお前を追った」
「一人では、間に合わないと思った」
テルは俯いたまま拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
それでも痛みは感じなかった。
「俺が」
オニキスはテルを静止しながら静かに首を横へ振った。
「そうじゃない。
しかし時間はもう残っていない」
その言葉がテルの胸へ深く落ちる。
テルはゆっくりと立ち上がった。
迷いはなかった。
「明日の朝、ここを発つ」
オニキスは静かに頷く。
「俺も行く」
テルは止めようとしたが、その目を見て言葉を飲み込む。
オニキスは決めていた。
命を削ってでも、この旅を最後まで歩くことを。
戸口の外では、話を聞いていたシンラが腕を組んで立っていた。
テルが外へ出ると、シンラは空を見上げたまま口を開く。
「テル。昨日、あんたは言ったね。
『それでも救う』と」
テルは静かに頷く。
「あれは、必然じゃない。必然を越えようとする願いだ」
熱い風が二人の間を吹き抜ける。
シンラは大剣を肩へ担いだ。
「少し興味が湧いた。お前のその先を見てみたい」
シンラはいつものように穏やかに笑っていた。
「私も一緒に行くよ」
その言葉に、テルは深く頭を下げた。
翌朝。
空は雲一つなく晴れ渡っていた。
集落の人々は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
畑へ向かう者。
水を運ぶ者。
火を起こす者。
誰も大げさな別れの言葉は口にしない。
それでも、テルたちが旅立つことは皆が知っていた。
シンラは大剣を背負い、集落をゆっくりと見渡す。
年配の女性が歩み寄り、小さな袋を手渡した。
「干した実と薬草だよ、道中で使いな」
「ありがとう」
シンラは笑って受け取る。
老人も杖をつきながら近づいてくる。
「次にここへ来る頃には、また違う景色になっているだろう」
「景色は変わっても」
シンラが穏やかに答える。
「私は私さ」
老人は満足そうに頷いた。
そのやり取りを見ながら、テルはオニキスへ目を向ける。
昨夜より顔色は良くなっていた。
それでも身体は万全とは言えない。
「無理はしないでくれ」
テルが言う。
その言葉にオニキスは苦く笑った。
「無理をしなければ、お前には追いつけなかった」
テルは何も返せず、小さく笑うしかなかった。
アスクは荷物を抱え直し、集落へ一礼する。
「お世話になりました」
それだけ告げる。
集落の人々も静かに手を挙げて応えた。
四人は集落を後にする。
振り返ると、泉を囲む大樹が朝日に照らされていた。
水は今日も絶えることなく湧き続けている。
シンラは立ち止まり、その景色を静かに見つめた。
「また帰ってくるよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
それだけ言うと、再び歩き出す。
砂漠を抜ける道は昨日よりも短く感じた。
やがて赤い砂は途切れ、足元に柔らかな草が増えていく。
乾いた風の中へ、草花の香りが混じり始めた。
遠くでは、おおらかな幻獣たちが群れをなし、穏やかに草を食んでいる。
そのさらに向こう。
草原をゆっくりと進む一団が見えた。
槍や弓を背負い、荷車を引きながら進む十数人ほどの集団。
先頭の男がテルたちに気づき、片手を上げた。
シンラも軽く手を挙げて応える。
「ニヴルの狩人たちだ、ちょうど狩りの日だったみたいだね」
集団もこちらへ歩み寄ってくる。
朝の風が草を揺らした。
向かうはニヴル。運命の泉が待つ、氷牢の世界へ。
幻獣は通常の獣とは違い、単為生殖です。しかし、細胞に分裂の限界があるように、単為生殖を繰り返す度、サイズが小さくなっています。海蛇はまだデカイですが、おおらかな幻獣は牛とそう大差ありません。
一部ネームドのような幻獣はそもそも単為生殖をしないこともあります。




