7 バルバロッサ作戦
満州国、国都新京、吉野町
居酒屋『阿多福』の一階帳場の奥座敷で奥田道夫は山口四郎と五郎の説明を聞いていた。飯台には東亜地図や図表が置かれてある。昨晩も謀議があって、その記録だ。主計科らしい几帳面な字で細かく記入してあった。
「参謀本部は対ソ武力発動の準備を開始した。関東軍の兵員と兵器の充足を満たし、攻勢に足る兵団を集中する。つまり動員だ。関特演と呼称している」
「歩兵師団二十五個を基幹に総兵力五十万ですか」
「年初のソ連兵力の見積もりがこれだ。狙撃師団三十個と機甲旅団十六個を基幹とする兵力七十万」
「全然足りませんね。攻撃側は三倍は要ると」
「うん、侵攻は東正面だけで、北と西は持久らしい」
「なるほど、半分に減ります。しかし、まだ三十五万」
「それでだ。作戦発動は極東ソ連軍の総合戦力半減を待つ算段らしい」
「えーっ」
たしかに三十五万が半減すれば十七万五千で、五十万の三分の一といってもよい。しかし、それはただの算術だ。
四郎は白酒をぐっと呷った。
「まったく残念だよ」
奥田もビールのコップを空ける。五郎が酌をしながら言う。
「関東軍はまもなく十六個師団となる。来月末には二十、八月下旬には二十五個だ」
「ご一行はどう言ってた」
「揉めに揉めてたけど、結局は待つようだよ。今の十三個師団ではひとたまりもない」
「反撃してくるかな」
「弱きに祟るだよ。中立条約からたった二ケ月、許せないでしょう」
「そうだね。犬は叩いて躾ける。ノモンハン再来か」
「いらっしゃいませ。毎度、ご贔屓に」
「うむ、来たぞ。二階のあの部屋を」
「へーい。どうぞ」
ホールで大声がして、どかどかと軍靴が響く。関東軍参謀ご一行がご来着だ。四郎は煙草を消して、帳面と鉛筆を手に取る。五郎はラヂオの回路を切り替えて、音量調整をつまんだ。
『諸君、お疲れ様。これから出勤の方はご苦労様だ。曹長、これまでのまとめを読んでくれ』
『はっ。動員計画が判明しております。それから・・』
どうやら、ご一行は議事録をつけているようだ。奥田は驚いて、二人を見る。
「独ソ開戦以来、総司令部は三直に入ってる。いつも全員が揃うわけではない」
「すごいですね」
「力は入っているが、動きがない」
「父さん、まだ早いんだよ」
「兵が拙速を尊ばなくてどうする」
「もう」
『疑義がなければ始める。まずは俺から。ドイツ軍の侵攻作戦の目的と目標が判明した』
『おう』
『ソ連侵攻に反対の勢力がいる。意外なところにだ』
『なに』
『一つある。関特演の進捗を待つだけではつまらん。動くべきだ。今、始めないと間に合わないことがある』
『他にはないか。では』
『ええと、順番にいきましょう』
『よし。言ってくれ。それから、食ってくれ飲んでくれ』
四郎は不機嫌になった。
「二番目からいけ。なんで北進に反対の輩がいるのだ。怪しからん」
「父さん、北進論と対ソ開戦は違うのだと思う」
「なに、そうなのか」
五郎に代わって、奥田が引き取った。
「ま、端的に言って北進論は脅しです。満洲に兵力を集中してソ連との交渉を有利にしようと」
「今はわが方が不利ではないか。脅しにならん」
「それでも、兵力増強をソ連は注視しなければならない」
「なら、ソ連の兵力は西に向かわん。ドイツに有利は日本に不利だ」
「え。あれ」
『昨年一二月、総統指令第二一号、作戦名はバルバロッサ。第一帝国の赤髭のあれだな』
『ほぉっ』
『今年四月の最終案、作戦目標は「レニングラードの奪取とウクライナの占領」だ』
『ええーっ』
『A-Aラインではないと』
『モスクワは占領しないのか』
四郎が欧州地図を出す。北のレニングラードと南のウクライナの西端に定規をあててみるが、ぎりぎりモスクワは入らない。三人は頭を捻った。
『あれだ。ドイツ軍は帝国の戦争を学習したのだ』
『支那事変のことか』
『そうだ。杭州湾上陸が一一月五日、二二日に上海占領』
『一二月一三日に南京陥落。だが、蒋介石は首都を重慶に移転』
『そうか、モスクワを落としてもソ連は降伏しないと』
『ソ連野戦軍の殲滅を優先するのか』
二階が静かになった。上海戦に思いを馳せているのだろう。奥田も考える。陸軍が上陸したのは八月二三日だが、上海郊外に敷かれた堅固な陣地で苦戦した。その塹壕線はドイツ軍事顧問団の指導で築かれたものでゼークトラインと呼ばれた。日本陸軍は四半世紀遅れて世界大戦を体験したのだ。
『北方軍集団がラトビアを抜いてエストニアに入った。順調だ。レニングラード攻撃は八月には始まる』
『なにしろ北だからな。早いに限る』
『中央軍集団は白ロシアのミンスク前面だ。まもなく攻撃開始だろう』
『装甲集団を二つも持つ。一番強力だ』
『南方軍集団は遅れがちだ。まだキエフに達していない』
『プリピャチ湿地は通れんからな』
五郎が会話に出てきた地名を地図で指差し、四郎が鉛筆で囲む。
「順調なのか、道夫君」
「はい。奇襲効果がありますからね。来月からが本番です」
「中央軍はミンスク、スモレンスク、モスクワと進撃する。この間にソ連軍主力を殲滅できると思う」
「ふん。占領が目的でなくてもモスクワに向かうのか」
「そりゃ、スターリンは面子にかけて防衛するよ」
「すなわち、最大戦力が集中されます」
『ミンスクは三日もあれば落ちるだろう』
『次のスモレンスクまで十日というところか』
『よい敵ござんなれ、だ』
『あっはっは』
『お待たせアル。辣子蟹アル』
『おおっ』
二階は食うことに専念し始めた。四郎も鉛筆と帳面を置いてコップを取る。五郎が酌をする。
「この感じだと八月中にモスクワ前面の戦いになるね」
「ふん。南が危ういと思う。一番広い」
「そうですね。湿地抜けで奇襲効果はないし」
「なぜ、ルーマニアから進発しなかった。同盟国だろう」
「たしかに」
「そう言えばフィンランドも同盟国じゃなかった」
「あ」
「それで、独ソ両軍の戦力は?」
「ドイツ軍は三軍集団合わせて三百万人、ソ連軍は二百万」
「凄いな」
「うん。すでにソ軍の戦死者と捕虜は二十万を超えるらしい」
「東に七十万、西に二百万か。シベリアや中央アジアにも三十万はいただろう」
「なるほど。その三十万を西に回しても不足するか。だから、東の七十万は半減すると」
「そう。田中作戦部長の作戦案は合理的だね」
「なに。あと二ヶ月も待つのか」
「参謀の仕事は作戦開始までが過半です」
「そうだよ、段取り八分」
「ふん」
『次だ。海軍が対ソ開戦に強硬に反対している』
『なんだと。海軍が』
お、始まったと、四郎がコップを置く。
『南方作戦に支障が出るそうだ』
『馬鹿な。ウラジオに大艦隊でもいるのか』
『大本営の見積もりは、重巡洋艦二隻、駆逐艦八隻、潜水艦が十二隻』
『それだけか。舞鶴と大湊のフネに、重巡四隻もつければ十分だろう』
『戦艦も空母も要らん。なにが支障が出るだ』
『無視だ、無視』
『ウラジオなぞ、十日で占領だ』
『その前に、三十糎でフネは沈めてやる。海軍の出番はない』
『おい』
『おっと、特二十四糎だった』
四郎が五郎を見る。
「帝国陸軍には軍艦を沈め得る大砲があるのか」
五郎は目を瞬くだけで返事できない。道夫が代わる。
「あります。旅順で使った二十八珊砲を改良したものです。固定砲床の要塞砲ですが、可搬できる野戦用もあります」
四郎は目をむく。
「届くのか」
「射程は、たしか十数キロあります」
「ふむ、対岸からは無理だな」
道夫は驚いた。ウラジオの湾口の幅を覚えているのか。
「さらに大口径もあります。射程は二十キロ」
「届きそうだ」
今度は、五郎が目を見開いた。
「え。工兵科だったよね」
「長姉の旦那さんが砲兵大佐で、来月から長崎要塞の司令なんだ」
「すごい」
「さすがは奥田一家だ」
『外相が即時開戦を主張したが、首相は退けた』
『電光石火で中立条約を締結した松岡大臣が開戦派なのか』
『しかも強烈にだ。今すぐ侵攻しないと帝国は滅ぶと』
『えー』
『いいじゃないか。外務省と陸軍が組めば海軍は敵うまい』
『首相は決をとらなかった。独ソ戦の進展を見る必要があると』
『なぜ、参本は踏み込まない』
『田中部長は関特演の承認だけで満足したようだ』
『いや、それはおかしい』
ぐっとコップを飲み干した四郎が道夫を正面から見つめる。
「ちょっといいか」
「はい」
酌をしようとして、平手で止められた五郎が二人を見つめる。
「軍人に政治はご法度の筈だが、ご一行は詳しい。なぜだ」
「ご尤もです。しかし、大本営政府連絡会議を段取りするのは政府内閣ではなく、陸海軍の軍務局なのです」
「は」
「陸海軍の軍務局長が会議を主催し、参謀本部と軍令部の戦争指導班が議事録を担当します。共に連絡会議の正規構成員なのです」
「そんな抜け道があったのか」
四郎は嘆息した。
突然、大声がする。
「旦那さまぁ、奥様と安安嬢ちゃまがお帰りです」
「お、おうっ」
三人は慌てて出る。阿多福のホールが賑やかになった。
「お前さん」
「母さん」
「ゴロー。オクダー」
「安安」
「姶呀ー」




