8 赤軍連絡員の分析
満州国、浜江省哈爾浜、埠頭区
松花江岸のヨットクラブの二階の一室で、奥田道夫はアレクセイに会っていた。
「ミッチ一人か。ゴローはどうした」
「家族揃って九台温泉で遊んでいる」
京図線の下九台駅は新京と吉林の中間で、小南山の山麓にある温泉地にはホテル・旅館・宴会場のほかに大休憩所やバンガローもあった。展望所からの吉林、長白山の眺めは素晴らしく、小南河では釣りもできる。冬はスキーやスケートだが、夏はすずらんの花を見ながらのハイキングだ。
「あはは、それはいいな。なぜ一緒に行かなかった」
「俺は湯崗子温泉で楽しんだ」
「なるほど。一家の任務が優先か、偉いぞ」
「状況分析を頼みたい。できるか」
アレクセイは満面の笑顔になった。奥田は思わず身を引く。
「もちろん。心配するな、実績もある」
「実績?」
「ゲネラル柳田に頼まれて情報分析を二件やった」
「ほう、関東軍情報部からか」
「うん、あれだな。敵方から見た分析が欲しいのだ。それで、こういうものを作った」
渡された立派な革表紙の冊子を開く。中は。
「え、価格表。メニューなのか」
「そうだ。予算作成のために単価が知りたいと言われた」
「へえ、見積書か」
「つまり、仕事は続くということだ」
「そりゃいい。おめでとう」
「うふふ」
奥田はじっくりと見る。大きくは三つあって、フルコースは情報収集と分析業務を一括して請け負うもの。アラカルトは情報収集と分析業務をそれぞれ個別におこなうものだ。
「なるほど、単価の違いは対象国・地域の違いか」
「情報員の報酬は国と地域で差があるからな」
「分析業務の単価はほぼ同じ」
「ここでやれるからだ」
つまり、一人一日あたりの日給なのだと、奥田は理解した。
「英語でシンクタンクというのを知っているか」
「頭脳集団は研究所、研究調査機関だ。政治経済の実態を分析し、政策提言を行う」
「うん、そこの報酬を参考にした」
「米国ならカーネギーやハーバード、英国ならケンブリッジや王立研究所か」
「ほかにも米英には調査分析を請け負う民間会社がある」
「日本は各財閥が持っているかな」
「うん。で、分析業務の単価は満鉄調査部員の二倍とした」
「え、満鉄調査部」
奥田が驚くと、アレクセイは不思議そうに言う。
「知らないのか、満鉄調査部は米英の情報機関も認めるところの、アジア随一のシンクタンクなのだ」
「そう、なんだ」
アレクセイは肩をすくめる。奥田は右手で顔をつるりとぬぐう。アレクセイは目をむいた。
「何だ。その仕草は」
「え。いや、あ。ただの照れ隠しだ」
「照れ隠し。わからん」
「いいじゃないか。後で教えるよ」
「ふーん」
奥田は頭を捻る。
「満鉄給与の二倍とは日本国内の四倍になるぞ。高過ぎないかな」
「うん。分析業務の利潤で情報収集部門の経費も賄うんだ」
「あれ。仕事が出てから雇うわけじゃないんだ」
「日雇い工夫と違って、いつどこにでもいる訳ではない。日頃から面倒を見ておく必要がある」
奥田は感心して何度も頷く。
「そういうふうに経営するのか」
「ミッチたちは政府や軍から給与も経費も出る」
「ああ。軍務だから、費用を実感したことはない」
たとえば、今回の任務だとどうなると、奥田は考える。情報収集ではなく分析でもない。しかし、軍事行李や外交行李はただの運送とも違う。
「行李や工作は一番後ろにあるぞ」
見ると、思ったほど高くない。こんなものなのかと肩を落す。
「行李はうちの常勤を使うし、工作員は使い捨てだ。仕事も単発だし、そもそも、外注するものでもない」
「たしかに」
得心した奥田は風呂敷包みを出して拡げる。雑多な紙幣が輪ゴムで束ねてあった。満州円はもちろん、中国円は聯銀の角券に儲備券、台湾銀行券や朝鮮銀行券、重慶政府の法幣もあった。アレクセイは日本銀行券を見てにっこりとする。
「それで、頼みたいのは何だ」
「まず、日本の評判を知りたい。どう思われているか。日満の新聞はあてにならない」
「米英中ソでいいのか」
「うん。知りたいのは世論だ、各国政府の声明ではなく」
「程度の差はあるが各国とも悪い」
アレクセイは日本の悪評をずらずらと並べ始めた。
「ひどいな」
奥田は毒気にあたったような気分だ。そこまで日本の評判が悪いとは思っていなかった。
「大東亜新秩序と大東亜共栄圏は、アジア侵略宣言だ。他に解釈があるか」
「うぅ」
「近衛首相の辞職で一旦は静まったが、再任で再燃した」
「近衛公も評判は悪いのだな」
「戦争狂の暴君だ。スターリンやヒトラー以上のな」
米英中ソの政府と対立しているのは理解していたが、各国の国民からも非難されているとは。これでは進出などできない。挽回策はあるのか。
「それは外交だ。ミッチは外交をしたいのか」
はっとした。そう、奥田一家は外交したいわけではない。
「違う。ただ、政府のやり方に疑問があっただけだ。あ、俺個人の思いだ」
「わかった。英国世論は国連脱退後も同情的だった。昔の誼で日本を一番理解している。仏印から撤退して中国内の英国権益を保護すれば、世論は好転する」
「そういうものか」
「北支の開発、天津に港を造って山西まで鉄道を敷いたのは英国だぞ」
「むむ」
「日本が挽回したければ、警察いや警備に徹すればいい」
「占領地内の各国の利権と権益を保障するのか」
「それを奪おうとするから嫌われる。評判は地に落ちる」
ぐうの音も出ない。奥田が見かける範囲に限っても、アレクセイの言うことは間違っていない。しかし。
「なんか政治の話をしてないか、俺たちは」
「世論とは政治だ。さらに言えば、世論という民衆の夢や幻想を作るのが政治なのだ」
「ふむ」
「嫌なら止めてもいいんだぞ」
「いや、続けてくれ。今しかないんだ、機会は」
アレクセイは頷いて、日本の悪評を続ける。
大日本帝国、東京市麹町区永田町、外務省
大臣室には松岡と斉藤のほかに、外務次官の大橋忠一もいた。大正七年入省の大橋は、斉藤より八年、松岡より一四年も後輩となる。前次官の谷正之が大正二年入省だから、かなりの抜擢である。
「大臣が更迭されるのですか」
松岡が鷹揚に頷いた後、斉藤が説明する。
「おそらくこうだ。閣内で南進に反対するものは外相だけ、となれば一旦内閣総辞職をする。それから外相以外を再任して、新しい外相で組閣する。これで更迭が可能となる」
「外務省は次の大臣を出しません」
「もちろんそうだが、首相は海軍に頼むだろう」
大橋は首肯するしかない。前の大臣の有田八郎は外務省出身だが、その前の野村吉三郎は海軍大将だ。首相が兼任してもいい。つまり近衛第三次内閣は成立する。外務省の危機だ。
「南進すれば米英との戦争になる。帝国の破滅だ」
これも首肯するしかない。陸海軍は勇ましいことを言うが、冷静に企画院の資料を読み解けばわかる。帝国に持久戦争はできない。二、三年目からはジリ貧になる。支那事変がそうだ。最初の年に講和できなかったからこうなっている。
「対ソ開戦で南進できる余地をなくすのですね」
「早い話がそうだ。しかし、慎重に運ばないと北でも南でも戦争となる」
「西でも事変は続いているから、四方で戦争。四面楚歌だ。あはは」
大橋は激情を顔に出すまいと努める。やはり、瀬戸際の武威外交なのだ。南進とはタイ・仏印との関係強化を意味していたのだが、それをシンガポール攻略の企図とか言って陸海軍をその気にさせたのは松岡である。南方武力進出は正しく松岡の蒔いた種なのだ。硬化した英蘭の反応を鎮めると言って陸海軍を抑え、政府内を主導してきた。松岡大臣になってから外務省の発言権は増している。
実績は大きい。日独伊三国同盟を締結し、北部仏印進駐を成功させ、日ソ中立条約を締結した。昨年の年初から無条約だった米国との間でも外交交渉が始まった。武力発動を背景とした外交も、演出した瀬戸際を解決する主導権も、松岡大臣はうまくやってきた。陸海軍とも首相とも、米英独ソとも対等に渡り合って、有言実行の外務省を実現したのだ。ついていくしかない。
「わかりました。策をお聞かせください。省内も在外公館もまとめます」
大橋がこたえると、二人は満面の笑顔になる。
「頼む。まずは日米交渉の中断だが、野村大使を召還する」
「不在の間はグルー大使との会談を密にする。週二回だ」
なるほどと、大橋は思った。日米交渉は民間主導という異例で始まった。さらに、英語が得意でない野村大使は暴走しがちである。先日、大臣の修正案が拒否されたが、野村大使が日米了解案を偽っていた疑いもある。すなわち、軍人十八番の独断専行である。
「日ソ中立条約の破棄は特に何もしない」
「関東軍の侵攻直前に宣戦布告するだけだ」
奇襲を成立させるつもりだな。大臣は陸軍に恩を売るのか。
「三国同盟の離脱だが、声明だけとはいかん」
「はい」
「ドイツには帝国の状況と方針を詳しく伝えようと思う」
「無論、受け入れてくれるとは思わないが」
大島大使にできるかなと、大橋は不安になる。なにしろ駐独ドイツ大使だ。しかし、総統に直に会えるのは大島大使だけだ。
大橋は大きく首肯した。
「その三つがあれば南方作戦は潰れます。米独の戦争に巻き込まれることもない」
「うむ」
「それで野村大使の召還はどうやって。交渉妥結への内閣の期待は大きい」
「直接の事由は、外交暗号が米英に解読されたとする」
「あっ。電報による訓令が不可能になるのか」
そうか、大臣は東京で自ら交渉をされるつもりなのだ。それがいい。ハル国務長官よりグルー大使の方が親日的であり、英語は大臣の第二の母語だ。
「しばらくの間、外務省は海軍と不仲になる。強硬に反対している北進を主張するのだし、野村大将の召還も不快であろう」
「だから陸軍と組む。今夕、東条陸相に会う」




