6 外務大臣の焦燥
大日本帝国、東京市麹町区永田町、外務省
松岡洋右外務大臣は大臣室で長考していた。先週の日曜日、二二日の独ソ開戦ですべてが崩壊した。それまでエイブルだと近衛首相の信頼を得ていたが、もはや内閣を追い出されるかもしれない。今までの白黒が一手で引っくり返ってしまった。まるでリバーシゲームだ。日独伊三国同盟も日ソ中立条約も日米交渉も、すべてが裏目に出てしまう。それを阻止ずるには、すべてをなかった事にするしかない。
「それだけではだめですね」
前に座る斉藤良衛が素っ気なく言った。
「だめか」
「はい。水曜日の決議『南方施策促進』だけが残ってしまう」
相手が一枚上手でしたと、他人事のように言う斉藤は外務省顧問だ。松岡が指名した。付き合いは長い。明治四三年に入省した斉藤外交官補の初任地の上司が明治三七年入省の二等書記官の松岡だ。昭和二年、満鉄で副総裁に昇任した際に理事として誘うと、外務省を退官して来てくれた。爾来、信頼できる友人だ。部下ではない。今朝も二人っきりで話し合っている。
「南部仏印進駐は動かないか」
「大臣、今回に限っては、じっくりと考えましょう」
あのことかと、松岡は思いあたる。独ソ開戦を知ったその日、参内して対ソ開戦を上奏した。日独伊ソ四国協商が潰えたとなれば、米国との戦争を回避し、支那事変を解決するには、それしかないと判定したのだ。
「上奏はまずかったか」
「単独上奏は拙速でした」
「首相は理解してくれん」
「それはわかってもらう手間を省いているからです」
自分に言ってくれていれば、松平宮内相や木戸内大臣には根回しができたと、斉藤は言う。そうだろう、それは間違いない。だが、松岡は待てなかったのだ。
「見得は最後に切るものです。しかるに、大臣は大見得から入ってしまう、すべてのものごとにおいてです」
図星を指されて、松岡は黙る。だが、斉藤は容赦しない。
「国際連盟脱退も、三国同盟締結も、大臣は大向こうの受けをねらった。帝国の外交施策としては愚策と知りながら」
「あれは訓令であったし、閣議決定であった」
「大衆の人気を考えなかったと言い切れますか」
「う」
視線を逸らしながら松岡は思う。人気は力の一つなのだ。大衆に支持された人間を民主主義では無視できない。陸軍も海軍も、そうやって勢力を伸張して来たではないか。
「しかし、お上には通じませんぞ」
「あ」
話が単独上奏に戻ったことは理解できた。
「ご不興だろうな」
「存じません」
「しかし」
「秀逸の誇示など、一番に厭われるとご存知ではないか」
「すまん」
松岡は顔を伏せて考える。つまりは申し開きに俺は参内したというのか。いや、失敗は挽回するものだ。何が失策だ。日独伊ソ四国協商は俺だけの考えではなく、もともとはドイツが誘ったのだ。三国同盟は英米に対抗するためだ。実際に、三国同盟成立後に米国は日米交渉に応じた。
「挽回したい」
「はい。もちろん、可能です」
「え、そうか」
「あの後、宮内相に呼ばれました」
宮内大臣の松平恆雄は外務省出身で、松岡の二期上の煙たい先輩である。松平容保の六男で東京帝大法学部卒業となれば、実家が破産して米国に渡り、日雇いで大学を出た松岡にとっては対照の人だ。しかし、会津出身の斉藤にとっては主筋で、大学の先輩でもある。松岡は山口県出身、つまり会津と長州である。
「思うほどに南進策、米英との対決に賛同する者は多くない」
「しかし、陸軍も海軍も対米英武力発動でまとまっているが」
「それです。じっくり考えましょう」
斉藤に勧められてお茶をとり、葉巻をふかす。
「陸軍は反海軍でまとまるのです。北進も南進も、海軍と対決するための方便に過ぎない。本音は事変解決と軍備充実という者が大多数です」
海軍も同様なのだと、斉藤は言う。政府内の主導権、予算獲得、内閣の支持を得るために、時に主戦論、時に慎重論と変化し、相手を上回ろうとしている。そうか、ならばと思案が浮かんできたが、口には出さない。じっくり考えるのだ。
「だいたい折角揃えた軍艦群を自ら潰してどうします。海軍が陸軍と対等に議論できるのは、米英と互角の大艦隊を保持しているからなのです」
そのとおりだと松岡は頷く。外国と外交するには軍事力の後ろ盾が必要だ。特に米国と対等の交渉を行うには互角の海軍力を保持するしかなかった。だが、軍事力は行使すれば減耗する。待てよ、帝国では陸軍と海軍が外交をしているのか。
「そのとおりです。陸海軍は国際競争しているのです。互いに相手を出し抜こうと」
あきれたように斉藤が言った。拙い質問だったなと、松岡は頭を掻く。
「今、田中作戦部長とはどうです」
「ん。わしが対ソ即時開戦を主張した途端、顔も合わせん」
「海軍の石川大佐とはどうです」
「軍務局第二課長の石川信吾か。同じだ。避けられているな」
「二人は通じています。彼奴らが南進論、対米英強硬派の中心です」
「そう言われると思い当たる。外務大臣に就いた時は、連日、交代で来ていたような。そうか」
斉藤が笑い声を上げる。
「うまいです。そのように愚鈍を装ってください」
「お見通しか。さすがは斉藤君だ。それで、陸海軍の穏健派はそんなにいるのか」
斉藤は真面目な顔になって頷く。
「軍人ですから口は好戦的です。堅実派としましょう。多いです。陸軍の八割、海軍の九割が対米英武力発動に慎重です」
「そんなにいるのか!」
「はい。ですから、大臣の挽回は可能です。強硬に、即時対ソ開戦と南進中止を主張していただきたい」
松岡は口を結んで神妙に首肯する。
「あれは出していいか」
あれとは、満鉄調査部が行った各国戦力の調査結果である。
「止めたほうがいい。陸海軍は反発する」
「しかし、帝国の持久力や自活力は軍の主務ではあるまいに」
「まさに。なに、大丈夫です。達するところには達している」
「そうか。ならば」
「はい。なかったことにする算段です」
「日独伊三国同盟の離脱、日ソ中立条約の破棄、日米交渉の中断か」
「堂々と退場しましょう」
満州国、国都新京、吉野町
奥田道夫は日本橋通りに入ると含み綿を吐いてハンカチに包む。相変わらず人通りは多いが、みな急いているように見えた。首を傾げながら阿多福の前に立つ。人影に気づいたのか、すぐに石腹がもみ手で出てきた。エナメルの靴、舶来の時計、上等の夏背広と見上げ、顔を見てがっくりする。上客と思ったか。
「お帰りなさい、奥田さま」
「うん、ただいま」
「なんだか、太られましたね」
「そうかなあ」
店はけっこう混んでいた。兵舎の兵隊のために日曜日は昼前から開けるという。真っ直ぐ帳場に向かう奥田は、石腹に袖を引かれてテーブルに座る。ちょうど軍服の一団が下りてきたところだ。腕章をつけている。憲兵だ。一人が奥田を見た。咄嗟に帽子を脱いで薄くなった頭を見せる。それから頬を膨らませて顔を上げた。
「ごくろうさまです」
ふんと、憲兵伍長はそっぽを向く。隊長らしい少尉が勘定を終わって戻ってきた。
「徹夜明けだ。ここで解散とする。みな、ご苦労であった」
「ありがたくあります」
ぞろぞろと一同が出て行く。最後の憲兵少尉が石腹に言う。
「うまかった。安かった。口上のとおりだ。また来るぞ」
「はい。ありがとうございます」
石腹は店の外まで見送りに出た。しばらくしてにこにこと戻ってくる。
「次の予約がとれました」
「たいしたものだ」
帳場の奥の小座敷には四郎と五郎がいた。
「お帰り」
「早いな、道夫君」
「朝一番の急行に乗りました」
「あがって」
コップと前菜を置いて、石腹は出て行く。
「憲兵分隊が徹夜の出動とは穏やかではないですね」
「あれだ。寛城子で労働者が集まったという」
新京駅の北は工場地帯で寛城子には満人や蒙古人が多く住む。独ソ開戦後は国境省の鉱山や工場で罷業や逃亡が激増していた。昨夜はそれまでにない人数が集まったようで、警察の後詰で出動したらしい。
「特に軍関係の現場で多いそうだ」
「なるほど。そうでしょうね」
奥田は思う。関特演で大規模動員をすれば、兵舎や陣地も構築するから就労忌避は大問題だ。なかなか前途多難だ。
「それで家族会議はどうだったの、久々に顔を合わせて」
「それだ。実は頼みがある」
「わかった、いいよ」
五郎は快諾した。奥田は結論から話す。
「日本が南方に進出できないようにする」
ぷしゅーっと息を吐いた後、五郎は黙る。あれこれと考えているようだ。ふと、四郎を見ると目を輝かせていた。息も荒くなっている。言いたいことがあるらしい。奥田が頷くと、話し出す。
「面白い。実に破天荒だが、奥田閣下が一族を挙げて起つとなれば勝算があるのだな」
「はあ」
「と、軍人なら誰もが思う。それだけで叛乱は成ったも同然」
「違います」
「え」
「父さん、赤誠、忠節の奥田中将が叛乱される訳がない」
「そうなのか」
「そうです」
奥田が断言すると、四郎は意気消沈する。実にわかりやすい。
「軍人勅諭は絶対です。軍務の範囲で行うのです」
「うん、理解はするが、残念だなぁ」




