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LP 関特演 異聞  作者: 異不丸
第1章 昭和一六年六月
7/7

5 軍人一家の野心


満州国、遼寧省鞍山、湯崗子温泉


 連京線の鞍山駅は急行停車駅で特急あじあも停車する。二つ南が湯崗子駅で唐代から知られる温泉地だ。日露戦争中の一時期は大山大将の満州軍総司令部も置かれた。湯崗子温泉で最も古い旅館は張作霖が建てた中国式三階建ての瀧泉別墅である。日本式旅館の対翠閣は格式が高く皇帝溥儀も愛された。館内には専用の龍宮温泉、龍池と鳳池がある。ひと廻り小さく廉価な玉泉館は泥湯を好むロシア人のためにロシア館を増設した。泥湯の泥は何千年も前の火山灰である。

 対翠閣に入った奥田道夫は旅装を解き、父母に挨拶をした。それから、しばらくは甥っ子や姪っ子の遊び相手になってやる。が、相手は小さい子だけでも十人を超える。姉や女中が昼寝をさせに来たのを幸いに、そろそろと退散することにした。浴衣に着替えて内湯に向かう。先客が二人いた。長兄の卓巳と長姉の夫の江田健児だ。

「卓巳兄さん、ごきげんよう。健児義兄さん、こんにちは」

「おう。道夫、元気そうだ」

「道夫君、活躍したね」

「そうなのか」

「えへへ」

「お義兄さん、道夫君は戦術諜報という新しい情報活動を開拓したのです」

「お、お」

 卓巳は健児にお義兄さんと呼ばれるのが苦手のようだ。健児にとって妻の兄は義兄となるが、卓巳にとっては三つも年上。大佐も四年先任で、来年には少将に昇進らしい。実は、長子と言っても誕生日は長女と同じ、卓巳兄さんと一姫姉さんは双子の兄妹だった。


 江田陸軍大佐は戦術諜報というものを説明する。

「戦闘中に敵の司令部の所在と司令官の動静がわかるのです」

「いや、戦闘前にわかるでしょう」

 海軍大佐の奥田にはいまいち重要性が理解できない。

「敵の司令官は旗艦に座して、旗艦は艦隊の中にいる」

「はあ」

「目視偵察と敵信傍受を照合するのは奇抜です。しかし、解析の速度が間に合いますか。送信して受信して解読して時系列に整理して海図に描いて、それでようやく戦術判断に使えるようになります」

 健児は道夫を見る。もちろん、陸戦と海戦の違いはわかる。海戦に必要な戦術情報まで考えたことはないが、ここで引っ込むわけにはいかない。

「問題は解析と表示、つまり情報の整理と指揮官への提示のあり方だと考えます」

 卓巳は目を丸くした。

「ほう。いきなり話が飛躍した気がするが、ま、いい。言ってみろ」

「えへへ。速度を間に合わせるには人手を省くしかないと思うんだ」

「機械式か、人を介さぬ。いいぞ」

「受信と整理の手間を省くには工夫がいる。まず送信した信号がすでに意味を持つんだ」

 健児が湯船の中で薄目になって呟く。

「テキカンミユと打つのではなく、敵発見の釦を押すとか」

「そんな感じです」

 ふんふんと頷いて、卓巳も薄目になる。

「そして、それがいきなり海図盤の上に表示されるのか」

「はい」

「すると、送りっ放しと受けっ放しが基本となるな」

「そこです。そうしないと間に合わない」



 道夫は送信・受信という単純作業に人の判断が介在するのが煩わしく勿体無いのだと説明する。送るべきか、受けるべきかと判定するだけで時間を費やし、そこに錯誤があれば探知した情報は届かない。送信を見送った情報が実は最重要であった場合はどうなるか。

「戦術情報を探知する偵察員の視界は狭い」

「たしかに。それだけ近接しないと得られないからな」

「ですから、重要かどうか、送るべきかどうかは判定できる立場ではないし、判断すべきではない」

「一理、いや合理的だ。しかし、偵察員も偵察機も複数放つのが常道だろう。送受信が集中するぞ」

「それです。情報回線と命令回線を分離できないならば、情報回線は流しっ放しにするしかない」

「情報回線がラヂオで、命令回線は電話か」

「まさしく」

 ざばぁっと、道夫は湯船の中で立ち上がる。

「戦術情報を判定するのは指揮所の参謀であり指揮官です。偵察員も通信員も介入すべきではない」

「疑問があれば命令回線で問い質せばいい」

「はい」

「わかったから漬かれ。見苦しい」

「えへへ」

 湯船に潜った道夫にはかまわず、卓巳と健児は顔を見合わせる。

「つまり、あれですか」

「あれですね。英国が本土防空に使ったという」

 二人はぶくぶくと息を吹く湯の中の道夫を見ながら話し合う。

「工兵科で終わらせなくてよかったですね」

「うん。諜報や情報部員は怪しい限りと思っていたが、おかげさまです」

「なに。しかし、指揮所のあり方まで変えろと言ってますが」

「そこは演習を何回かやれば解決できます」

「なるほど、うちも防空演習でも企画しましょう」





中華民国、南京市中山北路、支那派遣軍総司令部


 支那派遣軍総司令官の畑俊六大将は、朝から総軍参謀長会同に出席していた。指揮官会同ではないから、挨拶だけで退席しようと畑は思ったが、そうもいかない。二年勤めた板垣征四郎総参謀長が来月早々に大将昇進と同時に朝鮮軍司令官に転出する。後任の総参謀長は後宮淳中将だが、前任地の広州にいて参加できない。

 時局は急激に変転している。今月の初めに日蘭会商が決裂した。一週間前にはドイツ軍のソ連侵攻が始まる。同日、日米交渉において松岡外相の修正案が全面的に否認された。連日の大本営政府連絡会議では南部仏印進駐と対ソ国策要綱が決定される。もはや、南方武力進出の流れは止めようがないように見えた。三月の総司令官親補にあたっての決心は叶わないのか。

「総司令官、ご決心の時ですぞ。総司令官」

 総参謀長の声に、畑は我に帰る。面々が注目していた。

「しかし、関特演が発動されれば四個師団は抽出されるが」

「最大の場合はそうです。が、まだ猶予はあります」

「対ソ武力発動は独ソ戦の状況を見極めてからとなっています」

「最長で九月まで。要するに、関特演の眼目は内地動員なのです」

 冷静な声は第一一軍参謀長の木下少将だ。騎兵科でドイツに駐在していた。そうか。

「支那事変解決が第一義である!」

 畑の一声に会議室がどよめく。

「おおっ」





満州国、遼寧省鞍山、湯崗子温泉


 対翠閣の大座敷には椅子とテーブルが持ち込まれてあった。奥田家の家長、予備役陸軍中将の奥田勲雄の誕生日の宴が始まる。九人の息子と娘にその妻と夫、子、それに女中や書生を加えて七十名が集まった。大座敷だけですむ筈もなく、早い話、二階は貸切である。盆と正月はこれどころではない。勲雄にも弟妹はいるし、妻の門屋家や親戚の兄弟姉妹にその子供など、一度に集まれば三百人にもなるか。それらが悉く軍人であった。

 長子の卓巳が乾杯の音頭をとり、家長の勲雄が礼を言う。

「やあ、ありがとう。今年も皆揃った。なによりである」

 中学前の子供たちが女中に連れられて退席する。この後、銘々が近況を披露して乾杯を応酬する。奥田家では隠し事無用が家訓であった。小さくは子供の粗相、大きくは軍機まで披露する。

「・・という訳で、南洋ではバナナについた大赤蟻に注意です」

「つまり、バナナを食おうとして自分のバナナを喰われたのだな」

「あっはっは、乾杯」

 道夫の番になった。新京で盗み聞いた関東軍参謀の話をする。

「・・という訳で、暴走参謀の方々には困ったものです」

 部屋の空気は一変する。


 卓巳は対面する健児と目配せをすると、立ち上がって父母の席に向かう。

「父上、そろそろだと思います」

「なに、今がか」

「はい」

 卓巳は健児を手招く。二人は勲雄の前の椅子に座った。全員が注目する。

「一昨日、大本営政府連絡懇談会で対ソ国策要綱が採決されました」

「聞いておる。独ソ開戦への対応と南方進出を盛り込んだものだ」

「はい。問題は南北併進としたところです」

「北進と南進とを分けていないのです」

 勲雄は盃を置いた。

「田中にしてやられたか。杉山の阿呆が」

 皆、黙って待つ。しばらくして、勲雄は盃を手にした。卓巳が酌をする。

「米英には勝てないか」

「英軍には勝てます。ビルマ侵出まで一年もかかりません。蒋介石包囲は完成します。それを持久できるかは」

 健児が陸戦の概要を説明すると、卓巳が引き取る。

「海軍は、小笠原沖または比島沖での迎撃戦として米海軍に二会戦までは勝てます」

 次男の真守が立った。陸軍中佐で教育総監部にいる。

「インドまで侵攻すれば英国は講和に応じます。しかし、連合艦隊の半分以上がインド洋まで進出する必要があります」

 兄弟は次々と立ち、南方進出の未来を案じる。順番が来て道夫は立った。だが、父は結論を言ってしまう。

「わかった、持久できない。南進すると負けだ」



 勲雄のとなりのそのが口を開く。

「日本が負けるとどうなりますか」

「わ」

 部屋中がざわめく。母親のそのの実家は門屋男爵家で、広島藩主浅野家の代々の家老職であった。家格は奥田家よりはるかに高く、すなわち、お姫様の母に父は逆らえない。道夫はわくわくしながら、次の言葉を待つ。

「おっしゃいなさい、勲雄」

 ついに母は父を呼び捨てにする。

「はい。それは」

 屹然と長女の一姫が立った。

「母上、負けた日本には陸軍も海軍もなくなります」

「なんと、それでは奥田家の往く末が」

 そのは呆然とする。

「いつです」

 睨み付けられた一姫は眦を決して答える。

「再来年の冬。道夫は陸大に行けません」

「そのような。いけません」

「はい」

 言われた勲雄は思わず起立し、返事をした。

「道夫は陸軍大学に行かせます。奥田家は参謀総長と軍令部長を出し、陛下の帷幕の長に立ちます」

「よろしい」

 そのはにこりと笑って、道夫を見る。え。



「道夫さん、まだでしたね。言ってごらんなさい」

「はい」

 悠然と待つ母のとなりで、父は早くせいと手を振る。道夫は明瞭に発声する。

「日本が、南方に、進出できないように、します」






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