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第一一話



27


画面に映ったのは大破したネイビーブルーのリベラライザーの残骸だった。ボディの裂け目の向こうに立ち上がった人間の腕が見える。それを見た中貝は呷いた。

「桜井のクリスティーヌだ… 」

郁弥は彼の顔をじっと見た。いわゆる穏健派の車には女の名がつけられている場合が多いのだと中貝は説明した。桜井は目的地へ行き着けなかった一人なのだ。郁弥は画面を食い入るように見た。クリスティーヌは警察の対策本部へ運ばれて解体されるのだ。桜井の使命はその何分の一かは果たされることになるのだろう。自分たちはここにいて安全なんだろうか。TVのアナウンスは家の外に出ないようにとしきりに繰り返していた。

「リベラライザーがここを襲うことは考えられないわけじゃない。でもとりあえずはじっとしている方がいい。高峰はマシンに乗らない君を殺しはしないだろうし、かと言って逃げれば何をするか分からない。そういう男だよ、あいつは。戦うしかないんだ。ただそれにはタイミングが重要だ。がむしゃらに戦って勝てる相手じゃない。それにターゲットになっているのは多騎君ばかりじゃないんだ。今はここにいるのがベストなんだよ」

納得したわけではなかったが郁弥は分かったというように顎を動かした。でもそうしてみると手元にエミリオがないというのは拙いんじゃないか。

がらくたになってしまった親父のマークIIにはまだガスが残っていた。それを中貝のオクサナを使ってエミリオのところまで運ぶことに話が決まった。携帯用のタンクか何かあればそれで運ぶのだったが、そんな備えはなかった。まともなものはせいぜい陽子の探してきたアルミ製の水筒ぐらいだった。郁弥はストーブのタンクでも何でも兎に角蓋のしっかりしたものにガソリンを詰めた。それでもあの巨大なタンクを思えば十分な量とはとても思えなかったが、中貝の話ではリベラライザーの燃費はそれほど悪くはないらしい。オクサナのそれはとばしてもリッター二〇キロは下らないというし、実際オクサナのガスはまだ二十六リッターも残っていた。エミリオが異常な大食らいだったのは質量コントロールの働かない初期状態でのことだったのだろうか。まったく有り難い話だが、何にしても、それからのことはやってみた先で考えるしかなかった。ポンプを手に郁弥はエミリオを隠す前にガスの調達方法をよく考えなかったことを後悔していた。

外に向かおうとドアに手をかけた郁弥は突然のベルに驚いて振り向いた。あれから何度もトライしていたが未だにつながらない電話の受話器を翔子があきらめて戻した途端、コールが鳴ったのだった。注目を集める中でぱっと手に取った彼女は笑顔を見せた。

「津々木くん… あ、待ってね、今替わるから」

時計は二時をとうに回っていた。受話器を受け取った郁弥はこんな夜中の電話を不審に思いながらも、事件と関係のない津々木の声を聞けることが嬉しいと思った。

「津々木、俺だよ。どうしたんだよ、こんな時間に」

「郁弥、…… 」

それきり口を閉ざしてしまった。確かに親友の声だった。

「津々木、おい、どうしたんだよ」

「郁弥、…俺、…ちょっと出てきてくれよ」

わけありのようだ。

「ちょっとって… 」

「新宿まででいいよ。バイクならすぐだろ」

「ちょっと待ってくれよ、今日は無理だよ、どんな夜か分かってるだろ? 」

「ああ、ニュースは見たよ」

「じゃあ今夜はさ、お前だって外へ出るのは止めた方がいいぜ」

「そういうわけにもいかないんだ」

「どうしたんだよ、いったい」

「いいから来てくれ、どうしても今日でなきゃ駄目なんだ。アルタの前で、待ってる」

「おい、ちょっと! 」

電話は一方的に切れた。

「津々木の奴… 、」郁弥は番号を何度もコールしたが、もういくらやってもつながらなかった。翔子が外からかけてきたみたいだったわ、と言う。そういえばそうだったかもしれない。ちょっと普通ではなかった。郁弥はポケットから出して弄んでいたキーを鳴らした。

「中貝さん、俺、新宿まで行って来る」

「多騎君… 」

「友達が俺を呼んでる。行かなきゃ」

「今はよせ、何が待っているか分からないんだぞ」

「津々木は親友だ。奴がどうしてもと言うなら、俺はそれに応えたいんだ」

中貝は半ばあきれたようにじっと郁弥を見つめた。しかし郁弥は動じなかった。

「-- そうだね。もしかしたら罠かも知れない。でもそうだとしたら、行かなきゃ津々木の立場はもっと悪くなる。お願いだ、中貝さん、オクサナを出してくれ。エミリオを動かさなきゃならないんだ」

思いもかけない展開に翔子は対峙して睨みあう二人を大きな目で交互に見ていた。

郁弥の父はソファに腰を下ろしたまま目を閉じて一つ深い呼吸をした。

郁弥は真剣だった。誰にも止められなかった。翔子にも、郁弥の両親にもだ。中貝はあきらめた。確かに言い分は立派だった。後は価値観の問題だ。

「分かったよ。だが連絡は絶やすなよ、無線の使い方は知ってるな? 」

「無線? 感度ありましたら応答願います、どうぞってあれかい? 」

「いや、同時通話ができるからその必要はない、電話と同じだよ。… 知らなかったのか? 」

あっと翔子が声をあげた。ソファの傍らに置かれた木の椅子の背に掛けてあった黒いジャケットの内ポケット、ノート大の冊子を取り出してくる。

「ごめんなさい、忘れてたの。あいつが郁弥くんに読ませろって」

それはエミリオの装備取り扱い説明書だった。翔子は内心読まなくてすめばいいと思っていたが、忘れていたというのも本当だった。

取り上げた中貝はパラパラとめくって一通り目を通すと所々ページの端を折り込み、ここだけ読んでおけと郁弥に手渡した。

「あとの部分は俺が走りながら新宿へ行くまでに教えてやる」

「え!? じゃあ… 」

「お前がいないんじゃどうせ俺がここにいても大した意味はないんだからな、つき合うことにするよ。そこだけはオクサナと装備が違う。よく頭に叩き込めよ、俺が荷物をオクサナに積んで来る間にだ」

中貝はガムテープを持って出て行った。ちらっと見ると郁弥の母は電話の音にも気付かずソファに倒れて眠り込んでいた。余程疲れていたのだろう。いくら親しくても人前でこんな姿を見せるひとではなかった。

「親父、」

郁弥の父はずっと黙って彼の倅を見守っていた。止めたものかどうか、彼はもう迷ってはいなかった。親友のために危険を冒して出かけて行こうという息子は誇りである筈だったのだ。

彼は昔の自分を思い出していたかもしれなかった。

「無事で行ってこい」

郁弥はうなづいた。

じきに外で響く排気音が耳に飛び込んできた。郁弥は腰を上げる。津々木のことを考えれば行かないことの方が苦しかった。時間が惜しかったのだ。

「翔子ちゃん、母さんを頼む。なに、どうせ大した用事じゃないよ。津々木をぶん殴ったらすぐ帰って来るからさ」

そう言って軽く笑うと郁弥は足早に出て行った。

排気音が遠ざかって行く。残された彼らに狭い部屋の空気はどっしりと重かった。




28


郁弥が出ていった後、翔子は殆ど時をおかずに受話器に手をやっていた。何べんやっても不通のままだったが、彼女にできたことはそれだけだったからだ。

---。本当にできることはこれだけなんだろうか。翔子はふと手を止めた。

状況は変わっているではないか。今や彼女は単なる自衛隊捜査局への情報提供者の一人ではないのだ。郁弥と一緒に街中の惨劇をピンからキリまでこの目で見たのは勿論、ここで起こったできごとを全て見聞きしたばかりでなくリベラライザーを実際に体験までした。あの中貝という男の話も全て聞いた。そして郁弥の身に何があったのかを誰よりもよく知っているのは自分なのではないか。今度は郁弥のために自分が何かするのだ。

彼女はそれができる立場にいる筈だった。ただどうアプローチしたらいいのか。翔子は必死に考えた。

「ね、オジさん、この近くに交番ありますか? 」

「駅まで行けばあるよ」郁弥の父親は半ば上の空で、眠っている妻を見守っていたが、そう答えてから翔子の方を振り向いた。

「どうしようというんだい? 」

「捜査本部へ連れて行ってもらおうと思います。自衛隊じゃなくてもいい、警察でも。あの壊れたオートバイは警察で調べるって言ってたし、きっと郁弥くんを助けられると思います。警察は郁

弥くんたちのことを知らないかもしれないんだもの」

「それは危険だ、そんな真似はさせられないね」

男は感謝のこもった目で少女を見た。

「危険は承知の上です」翔子はややあらたまった表情で言い放った。

「危険だってことは十分に知ってます、そして今郁弥君が危険だってことも」

その口調に多騎はドキリとした。彼女の本気が伝わってきたからだ。彼に郁弥を止められなかったように、この娘も止められないのだ。しかし、… 。

「オジさん、今度はあたしが郁弥君を助けたい、あたしには今できることがあります。 」

「だが君が行ったからって事態が納まるわけじゃない。そりゃ一助にはなるかもしれないが、それだけのために、君の命をかける値打ちはない」

「あたしはあると思います。」翔子は少しも迷わなかった。多騎は負けた。命の意味をそこまで考えるなら、そしてそこまで分かっているのなら、多騎は自分のためにも協力しなければならなかった。

「あたしの命の使いみちはあたしが決めるわ。あたしのために」

わかった、と多騎は言った。嬉しかった。

「でもそうなると警察署まで行った方がいい。派出所じゃ多分無駄足だよ。この近くでも事故があったけど、まだとても手が回らないんだからね」

「近くにあるんですか」翔子はほっとしたが、どこかでますます胸の鼓動が高まって来るのを感じていた。

「急いで歩いても三〇分はみた方がいいが… 」

「自転車ありますか? 車よりかえって安全だわ」

「それはあれに襲われなかった場合の話だろう? 」

「車なんてちっとも安全じゃないんですよ。車じゃどうしたって逃げられません。この辺りなら裏道はまだ静かそうだったし」

翔子の言うことは正しかった。

「よし、行こう。しかし君一人は行かせられないよ、勿論、」

話が早かった。さすが郁弥の父親だと翔子は思った。切り捨てて考える思いきりの良さはこの父親譲りなのだ。実際郁弥はもっとウエットな部分もたくさん持っていたのだったが、彼女には信じられないような物凄いスピードで大きなマシンを操る彼の姿がそれだけ印象強かったのだ。

外は妙に静かだった。あまり動かない空気に翔子はぞっとするような怖気を感じるほどだったが、耳を澄ますとまだ方々から激しい物音が聞こえて来る。気温が下がった分だけしのぎやすくなってはいた。ガススタンドの火災は辺りへ広がりつつあるようだったが、風がなければその足は遅いしまだ遠い。

きな臭い匂いの漂う中散々回り道をした挙げ句に二人がようやっと辿り着いた警察署はいかにも騒然としていた。郁弥の父親が一緒でなかったら、その場に全くもって不似合いだった小さな彼女は踏み潰されていたかもしれない。不快な思いをせずに済んだことを翔子は感謝した。郁弥の父は激しい剣幕で応対を求め、本当に彼女があっという間に話は上層部へ通っていたのだ。大したお手並みだった。こんなときにやろうと思ってできることではない。出払っていたパトカーが一台すぐに呼び戻された。翔子を本部へ運ぶためだ。話をつけた多騎は妻を護り郁弥を待つために家に戻る。

「じゃ、上手くやっておくれよ。すんだらすぐに戻っておいで。郁弥の分も礼を言うよ。まったく君は大した娘だ」

そう言って彼はパトカーの後席の窓越しに手を振った。笑顔が妙に印象的だった。あの人は家でどんな父親なんだろう、そう考えると何か楽しくなった。

走り始めた車の窓から見上げると中天を越えた月が黒い雲のたなびく合間に見え隠れしていた。あの雲は本当はすごいスピードで流れているんだろうな、翔子はぼんやりそう思う。前を向くと無線機から激しい雑音に混じってときどきやかましく聞こえる声が彼女を悪夢に引き戻そうとしているようだった。

それから彼女は車がいつの間にか幹線道路を走っていることに気が付いてドキリとした。目の当たりにした惨事の結末を思い出したのだ。さっきまで裏道を走っていた筈だった。

「どうして表通りに出たの!? 」

翔子は身を乗り出してハンドルを握る警官に抗議した。

「大丈夫だよ。この辺は走れるから」

「そうじゃなくってっ! 」彼女の苛々は一気に天を突いた。彼らは何にも分かっちゃいないのだ。説明しようとしても埒があかなかった。

「どうしてもここを走るってんなら、三〇〇キロで走ってよ! そうしたら大丈夫だわ、前から来さえしなければね」

「そんな無茶な、」

「無茶はあんたよ!! 」翔子は助手席に座った警部補を怒鳴り付けた。こんなことで本部へ行って何ができるというのか、彼女の不安は高まる一方だったのだ。

「黙って! 」

運転席の警官の緊張した一声だった。車内に途切れ途切れ無線から流れる声だけが響いた。

事故がまたあったらしい。事故じゃない、事件だ。

若い警官は少し上擦った声でさっき過ぎたばかりのところだと言った。

翔子の耳に爆音が轟いた。同乗する二人にも聞こえた筈だ。

風が渦を巻き、翔子は悲鳴をあげた。

物凄い衝撃がパトカーを襲った。たった一トン半しかない車体はあっけなく宙に浮き、縁石に引っかかってひっくり返る。

明確な攻撃の意志があったわけではなかった。二二〇キロで走り抜けて行ったリベラライザーは少し掠ったにすぎない。

翔子を乗せた車は路面に激しく叩き付けられてルーフを押し潰す。火花が飛ぶ。鋼のボディが飴のようにひしゃげた。



ガード手前の青梅街道上に中貝を待たせて郁弥はゆっくり車を進めて行った。新宿というのは死んでもなお賑やかな街だった。きりなく立ちはだかる障害を押しのけて、エミリオは新宿駅東口の方へ入って行く。心臓の音が高まって郁弥の肋骨は大きく震えている。

路肩へ寄せることはできなかった。残骸が山になっていたからだ。その中には制服の姿も見えた。どのみち郁弥のバイクが邪魔になるようなことはないのだ。通りを彩るネオンの灯は音を立てて明滅しながらも華やかに点っているが、どんよりと動く風に乗って流れて来るのは、崩れ掛った部屋の奥で息を潜めた息づかいがはち切れそうな空気だった。視線も殺気もない。あるのは渦巻く恐怖と狂気だけのような気がした。見上げたアルタの所々ブラックアウトした電光画面にはビデオクリップが流れていたが音がなかった。ビルが燃え、街の一角を焼き尽くした感があっても尚くすぶっていた。地下街への入り口では崩れ落ちた石塊が階段を埋めていた。おぞましい臭いが鼻を突いたが郁弥は俯いたりはしなかった。

郁弥は落ち着いた仕草でゆっくりと車から降りた。自ら緊張をセーブしようという動きだった。顎を上げた顔が不規則に明滅する明かりの下で浮き彫りになる。郁弥は通りの反対側に際立って静まり返る、ビル前の暗く奥まったスペースの方をじっと見ていた。

空気が動かない。

むっとするような暑さのためとも冷や汗ともつかない汗が、大きな粒となって郁弥の額を流れ落ちて行く。

息が詰まりそうだった。

もし郁弥の耳が兎のそれの何分の一も敏感だったならば、この東京の中心で彼は周りを取り囲む阿鼻叫喚を聞き付けたことだろう。

郁弥の目は一点をじっととらえて動かなかった。

肌がざわめくような気がした。

---------------------------ッ!

出し抜けだった。爆発音を伴った鋭い光が郁弥の眼底を打った。反射的に郁弥は目を覆う。

そしてゆっくりと顔を上げた。エンジン音はアイドリングにまで落ち着いていた。妙な具合に配列されたヘッドライトが郁弥を正面から照らしている。アイドリングが下がった。

「多騎… 」

津々木の声だった。

「よく来てくれた。俺は嬉しくて、情けなくて、とても悲しいぜ…」

「津々木、」

「俺はお前を殺さなけりゃならない」

何かを捨ててきた男の言葉だった。

他には誰もいなかった。

郁弥は唇を咬んだ。中貝の不安は的中した。リベラライザーに毒された連中に、中貝の知らぬ顔は幾人でもなかった筈だった。そこに津々木はいなかった筈だった。本当にここまで高峰の手が伸びていようとは、郁弥にはどうしても考えられなかったのだ。津々木は親友だった。なにものにも変え難い親友だった。そう思っていた。彼もそう思っていた筈だった。裏切られた思いに身を焦がれるように感じながら郁弥は黙ってエミリオに跨がった。

彼がここに来たのはどこまでも信じたいと願った友の呼びかけに無条件で応えるためだった。

郁弥は思った。それなら俺は最後まで全力を投入することによって、親友の影に礼を尽くそうと。成瀬とともに、津々木もまた死んだのだ。郁弥にとって津々木と過ごした楽しい日々は成瀬のいない日常を救った現実だった。たとえ幻影であったとしてもだ。そうすることによって郁弥の誠意は初めて報われたのだった。

エミリオは吼えた。腹立たしげな怒りの叫びだった。津々木がマシンを進めた。ネオンがちらちらと揺れるほの白い光の中に出て来たそれは映り込むようなメタリックレッドのバイクで、エッジを縁取って赤い光の線が煌めいていた。マリリオンというリベラライザーだった。

郁弥は横目にその巨体を見ながらギアを踏み込んだ。半クラッチなんかいらない。先にスタートしたのはエミリオの方だった。ビルの谷間に全開で加速する二台のビッグモンスターの吼え声が雷のように響きわたった。



窓がようやっと割れた。警棒で尖った破片を薙ぎ払って、やっとのことで翔子は外に出ることができた。一刻も早くこの惨状から逃れたかったのだが、仰向けになって歪んだドアがどうしても開かなかったのだ。たとえスタン・ハンセンでもそれを開けることはできなかっただろう。エンジンを積んだフロント側を接地してぐしゃりと潰れてしまった車の中で、持ち上がった後席側にいた彼女だけが辛うじて難を逃れたのだった。ボタボタと音を立てて流れ落ちる真っ赤な血の臭いに翔子は今にも気を失いそうだった。もし誰かに手を引っ張ってもらわなかったら、無理な姿勢から抜け出るのもままならずに失神していたかもしれない。

「ありがとう… 」

苦しい息をしながら翔子は手を引いてくれた人影に顔を上げた。

それは妙な一瞬だった。

途端に時間の止まったような感動を味わった彼女が見たのは、はっと息を呑むような美しい少年の面影だった。

少年は汗に汚れた翔子の額から頬をそっとハンカチで拭おうとしている。翔子は肩を揺らしながら石畳に座り込んでいた。片膝をついた少年の顔に自然に目が行ってしまうようだった。

咄嗟に心臓の高まりを覚えてしまったのは、彼が一目で分かるほどはっきりした西洋の顔だちをしていたからだと思う。夜に煌めく金色の長い髪が彫りの深い、それでいて甘いマスクを際立たせていた。マリンブルーの瞳が翔子に語りかけたのは何だったろうか。彼女には理解できなかった。

少年は口を開かなかった。手を引かれて翔子は立ち上がる。

彼女は知らない。

今目の前に立つ金髪の少年が、この夜の東京をもっとも席巻した走る鬼神だということを。

 鬼のリッキ … 彼はリベラライザーのトップモデル、マッハスコルピオのライダーだった。

ぐるぐる目が回るようだった。翔子はまだショックから立ち直ってはいないのだ。身体中に痛みがあったが、左肩に刺すような衝撃があった。

病院へ行くかい? とリッキが訊いた。そんな時間はなかった。耐えられないわけじゃない。死ぬような怪我という気もしなかった。それに翔子にはやらねばならないことがあるのだ。

「朝霞へ、…行きたいの」

「なんだって? 」

「自衛隊の朝霞基地よ」

リッキは小さく唸った。彼がバイクを停めたのは精巧なバックモニターがとらえた人通りの絶えた路上で脱出しようと苦しんでいる少女のシルエットに見覚えがあったような気がしたからだったが、まさか本当に当人とは思いもよらなかったのだ。桜沢翔子は臆病な多騎を引っ張り出すのに格好だと高峰の言っていた女だった。よく見れば何の気なしにひっかけてそこにひっくり返っているのはパトカーだった。こいつはとんだことだ、とリッキは思った。

自衛隊へ何をしに行くんだろう。ことによると面白い話が聞けるかもしれなかった。今ならごまかせる。彼はヘッドギアを取ると無理やり翔子に押しつけた。安全のためではなく、彼女から視界を奪うためだった。

深めにかぶらせるとそのまま翔子の身体を抱えてリッキはバイクに跨がった。タンクの上に横に座るかたちになった翔子を囲むように腕をハンドルへ伸ばしたリッキに対して、彼女が不審を抱かなかったのは果たして責められることではなかっただろう。

マッハスコルピオは静かに走り始めた。


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