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第一〇話



25



郁弥は下唇を咬みながら、家路を急いでいる。翔子の話はいつまでも耳の奥に残っていた。身内とはいえ、民間人、しかも何の力も持たない高校生に過ぎない彼女が、当局の人間とそんなに密接な連絡を持てたのは何故だろう。郁弥はその濱野という男の様子を想像している。いくつも齢の離れた翔子に手をさしのべようとする男はきっと小生意気な自衛官に違いなかった。郁弥はどこかで連絡がつかなければいいと思っていたのかもしれない。エミリオは二人を乗せて涼風のように走り続けた。

リベラライザーの駆け抜けた跡は一目瞭然だった。ただその被害の程度はまちまちだったが、絶えることはとんとなかった。ガードレールに傷が残るだけのところもあったし、かと思えば

原形をとどめないほど叩き潰された車の残骸が連なっている光景もあった。抉られたスクラップの中に巨大なトレーラーやダンプを見るにいたって、二人は今更のようにその破壊力の凄じ

さを再認識させられるのだった。赤色灯の眩い光や照り返る白衣の人影があちこちで見受けられた。翔子は顔を背ける。郁弥は背中にすりつけられた額を感じながら、一刻も早く帰りたい

と願っていた。

「止めて!」

出し抜けに背後で翔子が叫んだ。指さした先に電話ボックスが並んでいる。固定電話からなら通じるかもしれないというわけだ。郁弥はちょっとがっかりしながらもギアをローへ落としてアクセルを戻していった。ビッグエンジンの割りにはエンジンブレーキが効かない。超高回転を可能にしているシステムがまだ働いている証拠だ。この速度で意識すると遥か後方にある後輪に切れ角を与えるリアステア機構は妙に違和感が大きかった。本来なら大きなトラクションを発生する高速域の方が抵抗を感じてしかるべきだったかもしれないが、そこは非常に上手く処理されていたのかもしれない。処理すると言っても軸間距離がそんなに縮まったりするわけではないし、ましてやポジションが変動するわけでもない。ウエイト・コントロール・デバイスがやはりキーなのかもしれないが、あるいは必死だった郁弥が未知のマシンに対して行ったアプローチが合っていただけかもしれない。郁弥の頭の奥に高峰の声が聞こえた。

「いいかい、一流のライダーは自らの意志でマシンの進む方向を変えて行くんだ。アライメントとか、サスペンションとかのセッティングはその手助けをするものでしかない。バイクってのはそれだけ繊細で人間に近い機械なんだよ」

でも俺はケビン・シュワンツじゃない。受話器を手にする彼女の姿を見守って巨大なダミータンクに凭れかかりながら、郁弥はそんなことを考えていた。夜はまだ長い。コックピット・パネルの上の時計は二時をようやっと回ったところだった。

「別に明けてほしいわけじゃないが 」郁弥はため息を吐いた。今日はもう何度そうして息を吐いたか分からない。ただ夜が明けさえすれば、明るい太陽が昇りさえすれば、 あるいは全てが悪夢で終わるような気もした。無意味な羨望であると分かってはいたが。

前にもこんなことを思ったことがあると郁弥は俯いた。そうだ。成瀬が死んだときだ。晶夫は郁弥の前を走っていて右折する車に突っ込まれた。交差点ではない。四輪は反対車線側のファミリーレストランに入ろうとしていた。郁弥はブレーキを握った。晶夫はアクセルを開けた。晶夫の判断が間違いだったとは郁弥は思わない。当然右折車が待つべき場面だった。晶夫は早く行ってやろうと思い、郁弥はちょっと余裕はあったが先に曲がらせようと思った。それだけだ。バイクに気付かなかった、とその若い男は言った。気付かなかったのではない。意識しなかったのだ。何故か。身の危険を感じなかったから… 。もし…、郁弥はタンクを撫でながら思った。成瀬が乗っていたのがこの車だったら、死んでいたのは奴の方だ。そして成瀬は笑いながらまだ傍らにいただろう。そして…と思い出したように郁弥は足をさすった。まったく痛みはなかった。あのときの車がエミリオだったならば、こんな怪我もせずに済んだのに違いなかった。

翔子が電話ボックスから出てきた。立て付けの固いドアは渋い音を立てる。

「駄目だわ。どこにもつながらないの。もうパンク状態みたい。これじゃ… 」

鈍い音がした。ゴツンという音だ。翔子があっと言って頭を押さえた。郁弥はがばっと立ち上がった。

石は立て続けに飛んできた。翔子にさえも配慮がなかった。

エミリオの陰にうずくまった翔子をかばおうとしながら郁弥は怒号を上げた。電話ボックスが割れた。バイクに当たって耳に障る音を立てる投石は郁弥の身体にいくつものあざをつくる。罵声が飛び交った。まごまごしていてはリンチだ。現実だった痛みが恐怖を呼ばなかったのは幸いだった。エンジンはすぐにかかった。

「翔子… 」

身体を抱えあげるようにして引っ張りあげながら左足を上げ、ギアを蹴り入れアクセルを開ける。エンストなんかするな! 郁弥の鼻先を投げられたなにかが掠めるように飛ぶ。エミリオはまごうかたない怒りの吼え声を上げた。空気がびりびりと震える。暗闇の中から悲鳴が聞こえたかもしれない。後輪はドラッグスターのように激しく白煙を上げる。左手は翔子の体を支えていた。クラッチは使わずアクセルを少し戻しただけで二速に叩き込み、エミリオはテールを振りながら逃げに入る。ここは一暴れ、なんてわけにはいかなかったのだ。

涙が出るほど悔しかったが、翔子をこれ以上危険な目に遭わせることは郁弥にはできなかった。

悔しかった。

俺達に投げられたんじゃない。元凶が何であるのか、知っている者がいたのだろう。そいつは現場を見たのかもしれない。そして一目でわかるほどにはエミリオはリベラライザーだった。

 当然じゃないか。畜生! こいつはただの強い二輪じゃない。強すぎる二輪なのだ。何のためらいもなく人を殺す車なのだ。俺達の乗っているのはあの悪魔のマシンで、俺だって、俺だって殺した …有坂を殺した。高速に居合わせた誰かを殺したかもしれない…。

 だが無意識のうちに追いやっていたその事実は翔子を痛めつけられた怒りにどこかへ流れ去る。郁弥にとっては幸せなことだ。翔子のためにと言えば全てが赦された。俺達が受けた屈辱じゃない、言い聞かせながら郁弥は、それでも歯を食いしばっても溢れて来る悔し涙を堪えられなかった。

「翔子ちゃん… 」

現場を彼方に追いやり、幾分スロットルを戻す。彼女は身体を郁弥の背に預けて大きな息をしていた。心臓の鼓動は大分おさまったようだ。

あるいは聞こえていたのは彼自身のものだったかもしれなかった。郁弥はゆっくり後ろへまわしていた左手を引っ込めた。

「いったあい」

彼女は額に血を流していた。郁弥の覚えた悔しさを背中から感じ取った少女は慰めるように少しおどけた口調を見せたようだった。

「ひどいわ」

返答を彼女は求めたが、郁弥は応えられなかった。

「ね、郁弥くん。怪我した? 」

「いや、大したことないよ」

それだけ云うのがやっとだった。


次に郁弥が口を開いたのはもう大分彼の家に近くなってからだった。何度か、あるときは立て続けに、リベラライザーの雄叫びを耳にしたが、その度に郁弥は裏道に逃げ込んだ。そうやって息を殺し、目を光らせながらやり過ごしてきた。彼は背後の少女に対して何も求めようとはしていなかった。期待しなかったのではなく、ただ与えることが大きな喜びだったのだ。郁弥の受けたダメージは想像以上に深いものだった。

「ごめん」

郁弥は謝った。

「あんなところで停めるべきじゃなかった」

「何言ってんのよ、あたしが停めてって云ったんじゃない」

「いや、それにしても、もっと注意しているべきだったんだ」

「それは、… 」

確かに配慮は足らなかったかもしれない、と翔子は思った。しかしそれは自分にだって言えたことだ。あんな明るいところでこの大きな姿を晒すなんて。郁弥の背は緊張していた。これまでに彼女が覚えたそれとは違うテンションだった。もう彼女の言葉は耳に入らないだろう。翔子はなんだかたまらないもどかしさを覚えて身悶えした。

二人のリベラライザーは静かな国道を淡々と走っていた。それは郁弥が心に妙な迷いを抱えていたからかもしれない。翔子は顔を上げて前髪を巻きあげて行く風に小さな楽しさを覚えていた。もう血の匂いはしなかった。肌に心地よい空気は翔子のまだ熱い頬を優しく撫でて囁き会うように通り過ぎてゆく。なんだか幻のようだ。はためいた髪が彼女の丸い額を頻繁に叩いていた。誘われるように疲れた体の求める世界へ傾いで行きそうになった彼女の耳に小さな電子音が遠く届いた。眠い意識の中で肩がしだいに重くのしかかって来るような幻影を見たような気がする。知らず知らずに凭れていた郁弥の背に当たるこめかみの辺りが痛かった。


つんと鼻を突く匂いと騒々しい物音に翔子は目を覚ました。目覚めの挨拶としては上等なもんじゃない。彼女はいささか不機嫌に目を擦った。それからバイクが停まっていることに気が付いた。郁弥は彼女を起こさないようにややきつめの前傾姿勢を維持したまま、冷たいダミータンクの上に手をついて数百メートル前方の光景をじっと見つめていた。

暗い空高くさらに黒い煙が、遥かに見上げる高さまで立ち上っていた。見慣れない消防車が出ているな、と郁弥は思った。あれが化学消防車という奴かもしれない。バリバリと音を立てる炎の中にガス・スタンドのシンボルが沈んで行くのが見えた。

リベラライザーが原因かどうかは分からない。兎に角、ここではガスは手に入らないのだ。郁弥はがっくりと肘を落とした。翔子が目を覚ましたのはもう分かっていた。汚れたスクリーン越しに見ると、二枚の透明な板の間で光が反射しあってちらちら動く炎が煌めいて見え、彼はそれを奇麗だと思った。

「凄い火事ね」

背後で彼女がそう言った。背中に何気なく置かれた手のひらのぬくみが、多少なりとも疲れを覚えていた郁弥をそれでもドキドキさせたが、じっとしている余裕はなかった。

郁弥はゆっくり、マシンのバランスを崩さないようにして車を降りた。彼が何をしようとしているのか察知して先に降りた翔子を見るその目は無念に似たものに染まっていたが、今なお意志のエネルギーを失った目ではなかった。

「ごめん、ここからは歩かなきゃ。ガスが無いんだ。空っぽだよ」

翔子は事態を理解した。ハンドルに力を込めてじわりと巨大な車が動き始めたとき、その肩に盛り上がる筋肉を彼女は初めて頼もしいと思った。

この場合、その辺に斃れている車から拝借するのが正しかったのだろうが、異様な不快感を覚えていた二人には考え及ばなかったようだ。ガスがリザーブにかかると直にウエイト・コントロールのパワーが減衰しだし、数キロも行かないうちにどっしりとした手応えが戻ってきてしまった。そうなれば燃費は格段に悪化するのが自明だ。事実ここまで持って来るのだって騙し騙しだったのだ。彼の言った通りタンクは空っぽに近かっただろう。

それでもバイクの重さは想像を遥かに凌駕した。郁弥の身体に対して働いていたデバイスの作用が切れた為もあるだろう。その反動もあったかもしれない。不快感はそのためだった。どっと押し寄せた疲れが郁弥を取り巻いて襲いかかろうとしていた。郁弥はボディに額を押しつけて渾身の力を込め、眠気を追い払おうと努力する。

「裏道へ、入ろう。--- 」

このバイクを人前に晒してまたさっきのような目に遭うのはごめんだった。かと言ってこの武器を放棄するのはたまらなく怖かった。郁弥はエミリオを押して最初の角を曲がった。彼にもあまり馴染みの無い道だった。一本裏へ入ればこの辺りは住宅街だ。通りから離れるにつれ、郁弥はやっと夜を取り戻したような気分になる。

どのくらいそうして進んだだろうか。一〇分、いや二〇分。郁弥は大きく息を吐いて立ち止まった。折れそうになった膝をはっとして必死で支えた。こんなところでバイクの下敷きになったら目も当てられない。カッコ悪いったらないぜ。タンクの上に落とした額がゴンと音を立てた。額に溢れた汗がダミータンクの曲面を滑り落ちる。腕がすっかり上がってしまっていた。

郁弥ははあはあと息をしている。翔子の提案は救いの声だった。

「もう置いていこうよ。どっかに隠しておけばいいじゃない。あたし場所を探して来るから、そこにいてね」

大した女の子だ。息が整って来るにつれて瞼が落ちて来るような頭で郁弥はそう考えていた。

彼女だって疲れていない筈がない。彼女にとって今日の一日はまさに悪夢の一日だったことだろう。どんなにか恐ろしい思いをしただろうか。立てたスタンドの脇でぼんやりしながら、郁弥はアスファルトの匂いを嗅いでいた。

翔子が走って戻ってきた。靴音が近付いてきたので郁弥は立ち上がってそっちを見た。さあ、頑張ろうよ。向こうに小さいけど公園があるから。街灯の光をバックにシルエットになった少女に目をしばたかせて郁弥はまたグリップを握った。彼女が後ろから押してくれているのが分かった。



******************************



警視監は机の上に大きな図面を広げた。広いテーブルを二つ合わせてあったがそれでも載り切らなかった。昔、といっても一〇年も前ではないが、まだコンピュータによる道路管理システムがなかったころの特製図面だった。勿論現在とは道路形態も違っているが、大まかなところは修正されていた。必要なのは主要道路に限定してよかったからそれで用が足りる筈だったのだ。この自衛隊駐屯地でそれ以上を望むのは無理な相談だった。勿論自衛隊だって管理システムぐらいそれなりに整ってはいる。自衛隊にしてもそれは不可欠な情報なのだ。しかし彼が欲していたのはそれより更に細かく、且つ新しく、都下全域が一目で見渡せる情報だった。

端を持てよ。その目つきに慌てて警官の一人が手を貸した。重りが見当たらなかったので警視監は手を離さずに地図に見入った。重い年輪の刻まれた男の手だった。彼は紙の上を入り組んで走る線を睨み付けている。今このとき奴らがどこを走っているかは分からない、しかし、どこを走ったかはあらかたつかめていた。彼らは環七を滑走路代わりに速度を上げ、大体が都心方向へ切り込んだ後また環七へ戻っていた。それをそこかしこで繰り返すうちに都心部の道路上を走る車はあらかた淘汰されてしまったのだ。狂ったマシンは今縦横無尽に走り回っている。速度の上がっている今、わざわざ環七へ戻る必然はなくなってはいるが、だからこそ東京圏にいる限り彼らはまた同じ道を走るのだ。そう決めつけてよい。指図してその路線上に色を塗らせていく。

それだけで図面が網の目のように彩られたころ、警官が二人この部屋に駆け込んで来た。警視監は声を上げて歓迎した。

「おう!----- 早かったな、よく戻って来た。場所はつかめたか? 」

「はい、図面には落とされてないそうです、副総監殿のおっしゃった通りでした」

「うん、一覧は出ただろう」

「はい、ここに」

もう一人が折りたたまれた紙片を胸ポケットから取り出して渡した。警視監は待ちきれなかったとばかりにそれを開いた。

「ようし、これを一〇部コピーしてくれ。ここにいる全員でこの図面に書き写すんだ」

「分かりました」

一覧表を取り返した警官は部屋を出て行く。各方面局との連絡が絶たれてさえいなければ、危険な中彼らを行かせる必要も生じなかった筈だ。まだ帰ってこない他の警官たちの身が案じられてならなかった。

「まったく、非常用無線まで通じないなんて何のための無線なんだ」高田はぼやいた。

対策本部としてここを指定しておきながら、いなければいけない筈の人間が誰も集まっていないというのも、頭が痛い話だった。

「高田警視監、今のは? 」

「二十三区内の都道工事状況だ。木村一佐、手数を割いてもらうぞ。トラップだ。穴に掛っている覆工板を開けるんだ」

若い自衛官にそう答えた彼はテーブルに戻ってその端をとんとんと叩いた。

主要道路の工事は大掛かりになるものが殆どだ。その場合掘った穴を交通に解放し、あるいは機材を置くために、蓋として鋼板がかけられる。その厚いものが覆工板だ。警視監は障害を障害と思わないリベラライザーには落とし穴は使えると睨んでいたのだ。二〇センチ以上の厚みがある覆工板は手作業では上がらない。迅速を図るためにも自衛隊の力が必要だった。

木村は警視監の隣でちょっと考えてから口を開いた。彼は今この基地にいる最高位の自衛官だった。

「ああ、すぐ手配する。都北部ならもう手が回っている、命令が行けばすぐかかれるだろう。

しかし、 」

「心配はいらん。もう一般車両は走っとらんよ。自衛隊と警察が気をつければいいだけのことだ」

「気をつければいいだけのことか…… 」

一等陸佐はため息を吐いた。気をつけられればいいんだがと思う。しかし天秤に掛ければ迷ってはいられない。

先程の制服が戻って来た。



須藤は背後に迫る影をミラーの中に認めながらアクセルを踏み込んだ。追って来るのは疑いもなくリベラライザーの一台だった。彼らがこの街で何をしたのか須藤はよく知っている。オフィスの窓からその殺戮の様子を長い間見下ろしていたのだ。もう祭りは終わったのだと思っていた。その迂闊を彼は呪う。家族が心配だった。家族を失うぐらいなら破産したってまだましだと思った。この腕に自信もあった。彼らと同等のスピードで走っていれば遭遇の危険は低いと踏んだのだ。一五〇平均で飛ばせば家まで一〇分とかからない計算だった。混む道でもなかった。たった一〇分。勝てる筈の賭けだった。ソニック・リベラライザーがこんなにも速くなければ。

「畜生… 」

こうなってしまった以上セーフティマージンも何もない。死に物狂いで逃げるだけだ。最初からマージンなんて考える余裕はなかったのだ。須藤は甘かった。

フェラーリF四〇は爆音を撒き散らして加速を続ける。しかしぴったりと付いて来るリベラライザーのライトは一向にミラーから動かなかった。車間距離すら取らない。あのマシンには必要ないのだ。須藤はぞくぞくと背筋を走る恐怖に自分が発狂するのではないかと思った。アクセルを踏むことによってますます悪い状況に自分を追い込んで行っているのではないだろうか。かつてこれほどまでにスピードが恐ろしいと思ったことはなかった。

緩いコーナーだった。激しいGにステアリングが抵抗を増す。それすらはっきりと認識できなかった。後ろのリベラライザーがすっとミラーから消えた。

引き離したのではない。奴が車線を変えたのだ。このスピードであんなことができるなんて、なんという運動性。あれは本物の化け物だ。須藤の全身の毛穴から汗が吹き出した。いよいよアタックをかけて来るのか---

ヘッドライトが消えた右側を窺おうとして須藤の視線は前方にくぎ付けになった。白い道路上でそこだけが暗闇だった。地面にポッカリと開いた穴。

訳も分からずステアをきった。だがF四〇はそうそう進路を変えはしなかった。距離は一〇〇メートルもなかっただろう。後輪が悲鳴を上げた。フロントが逃げる。しかしほとんどそのままの姿勢で、フェラーリは覆工板のどけられた穴の中に突っ込んだ。


ひとたまりもなかった。

須藤には悲鳴を上げる一瞬すら残されていなかったのだ。

ソニック・リベラライザーは走り抜けた。

彼らが本領を発揮する一時間も前に街に放されたのには意味があった。センシングしながら街中を走り回るマシンのコンピュータは高峰の車を中継して全車にそれらを危険箇所としてリストアップする。認知されていればそれはトラップにはなり得なかった。



その事故の様子は可能な限り早く指令本部へ届けられた。高田は今にも地図を引き裂かんばかりに悔しがった。覆工板作戦は中止するのか。どちらにしても次の手が決まらないことには動きようがない。思い付く手段は講じた。あとは、…… 。

「高田警視監、それなら新しい穴を開けようじゃないか」

木村一佐は踵を返してまっすぐ実直そうな高田の目を見つめた。

「新しい… 」

「道路を爆破するんだよ。道路を」

「…… 」

「無茶な作戦だが豆鉄砲が効かないというんなら爆弾しかない。すぐ準備しよう。工兵の仕事は朝霞の本業だ」

そこまでの判断を自分が下してよいのか、高田は迷った。だが今この瞬間、誰かがまた殺されている。立ったまま図面の広げられた机に両手をついてじっと考えていた高田は要請という形をとることを思い付いた。

「…よかろう。だがそれでは時間がかかりすぎるぞ。今、重い荷物を背負ってどれだけ動けるか知れたもんじゃない。それに彼らが互いに連絡を取りあっているのは確かなんだ。一度作った穴には二度とかからないと思った方がいい。なら… 」

「…戦車を配備しよう。片っ端から叩き潰してやるんだ」

「…ようし」

高田は呟いた。彼もどこかが切れてしまったようだ。だが戦車部隊の到着には彼の想像以上に時間がかかることになる。大きな誤算になるかもしれなかった。



26


郁弥は水を浴びるように飲んだ。喉が渇いていることに気付かずにいられたなんて、なんて幸せだったんだろうと思う。やっと落ち着きを取り戻した郁弥は頭の先から滴る水をTシャツの裾で拭いながら赤い滑り台の脇のベンチに腰を下ろした。腕が重かった。少し離れたところに灯りが立って、それに小さな虫が集っている。そっと落とす郁弥の影の中に彼女がいた。息を感じることのできる距離だった。郁弥だけでなく、彼女にとってもそうだったかもしれない。

翔子は無防備なまま、地面に腰を下ろしてベンチに頭を預けている。そのほつれた髪を郁弥は指でそっと戻した。

「地面が冷たくってすっごく気持ちいいのよう」

翔子はそう言った。なんだかとっても幸せそうだった。

「地球がとっても優しいの」

「ふーん」

まるで芸術家みたいなことを言う、と思いながら郁弥は彼女に並んで腰を下ろした。

気持ちよかったが、それは単に地球が冷たいからというだけではないと思った。郁弥は空を見上げた。電灯の光がかさのように目に入って空を遮っていた。

「明かりが無ければ、きっともっと星が見えるのにね」

「うん」

力なくうなづいた郁弥だった。でも郁弥にはきっと星が見えたのだろう。二人は長い間空を見上げていた。


彼らは幸せだったかもしれない。それは他に誰もいない、望むものもない、そこが疲れと小さな安寧の見せた幻影の世界だったからだ。ほんの近くに、二人を心から憂えている人達がいたことすら、彼らには意識する必要もないほど遠く離れたできごとだったにちがいない。郁弥はずっと夢を見ていた。そのぼんやりとした瞳の奥で。

その夢が破られたきっかけが何だったのか郁弥には思い当たらなかった。電燈に飛び込んだ小さな虫の音かもしれなかったし、風に揺れて軋んだ木々の囁きかもしれなかった。ただほん

の小さなことだったような気がした。

ウオオオオン ---………………

甲高い、気違いじみた音量の排気音だった。郁弥はびくりと体を震わせる。まだ寝ぼけたような意識の向こうを巨大なマシンの姿が駆け抜けて行った。

しだいに小さくなるエンジン音に引き摺られるように、郁弥は幻影から引き戻された。

まだか…、彼は小さくそう言って首を前へ傾けた。首筋が引っ張られて少し気持ちが良かった。ベンチに仰向けに載せた頭の上で目を開けると、うっとおしいような電灯の光が真っ暗な空を遮っていた。まだ夜は終わらない。

郁弥は両腕を振り上げ無理矢理伸びをして、その手のひらを冷たい地面に押しつけた。立ち上がった彼はもう一度、あらためて身体を伸ばした。肩が重かった。首を回しながら見下ろすと、翔子は郁弥を見ていた。眠っているとばかり思っていた。

「もう行くの? 」

郁弥はうなづいた。バイクは公園に並ぶ家と茂みの間の陰に隠してあった。郁弥は彼女に手を差し延べ、翔子は埃をはたいてからだを起こす。ジャケットには夜目にも痛めつけられた様が窺えた。郁弥は彼女の額の傷に手をやって心配そうに覗き込んだ。とうに血は止まっていたがいかにも痛々しかった。

濡らしたハンカチであらためて傷のまわりを拭いながら郁弥はじっとおとなしくしている彼女に話しかけた。

「濱野さんに連絡が取れたら、なんとかなるのかな。この状況は」

郁弥が敬遠したがっているのを何となく感じ取っていた翔子は、彼がその自衛官の名をあげたことにちょっと驚きを感じた。彼女が咄嗟に答えられずまごついてしまったのは、しかしそればかりが原因とは言い難かった。

「そう… こう、起こってしまった以上、自衛隊も見守ってばかりいられないわ。きっと…。力があるんだもの。それに、私たちは渦中にいるんだから、何よりも何がどうなっているのか知らなきゃいけないわ。濱野さんはきっと教えてくれるし、助けてくれるわ。私たちを」

「そうかな… 」

「そうよ。濱野さんは郁弥君にあいつが近付いたときから、心配してくれてたわ。郁弥君のこと」

「あいつが近付いたときから…? 」

「だってあたしが知らせたんだもの。うちの学校に、変な話があるって」

翔子はちょっと黙った。郁弥には全部話しておかなければならないのかもしれなかった。

「有坂君がね、前に一度、あれに乗ってきたことがあったのよ。学校に。何もしなかったけどね。でもそれはあいつのところにあったのを勝手に持ち出してきただけのことだったようだわ。だからもしかしたら、別物だったかもしれない。今日みたいに暴れることのできないようなね。それがどこかで目撃されて当局の耳に入ったの。それが探していた証拠物件になるかもしれない、って躍起になってたみたいだわ。でも結局跡は追いきれなかった。あたしの報告したのが一番有力な情報だったみたいね、それに関しては。お陰であたしは彼が学校にいる間中注意してなけりゃならなかったわ。犯人を捕まえるのに協力できるのはやじゃなかったけどね。それで、有坂君が郁弥君に話してるのを聞いたの」

「ふーん」郁弥は気のない返事をしたが聞いていないわけではなかった。十分に思考力が戻っていなかったわけでもない。

「どうしてしっぽを捕まえられないんだろうってあたしはいい加減頭にも来たわ。何でだったのか全然分からない。郁弥君たちがどんどん危ない深みに入っていってしまうっていうのに」

「何でだろうね。…それはつまり、…ぼくらより、犯人を捕まえることを優先したからなんじゃないかな。でも何で僕があの車を受け取ったときに手を打たなかったんだろう」

それは翔子の報告によって郁弥がマークから外されたからなのだったが、そんなことは少なからずショックを受けていた彼女の思い当たるところではなかった。

「俺はかまわないさ。こうして生きてるし、あれがあったからこそ、翔子ちゃんも助けられた。俺には今、護る力があるんだよ」

慰めたつもりだった。隠し事のできない、妙に割り切った自分の性格がちょっと恨めしかった。

「さあ、行こう」

促した郁弥は、ふっといつか来た変な手紙のことを思い出した。

「挑発にのるなかれ、君は地獄を見るだろう。こんなだったかな」

「知らないわ」

翔子は目をぱちくりさせていた。

「そうか」

じゃあ誰なんだろう、やっぱり成瀬がよこした手紙だったのかな。郁弥は小首を傾げたが、すぐに翔子の背を叩くようにして歩き始めた。分かりっこないことだった。

「足は大丈夫なの? 」

思い出したように翔子が訊いた。

「そんなん忘れてたよ」郁弥は笑う。思い出してくれたことは嬉しいと思ったが、逆にどうして今までそう訊いてくれなかったのかとも思った。バイクを操るのに体力がいるなんて、普通の女の子には思い付かないだろう、それに自分自身それどころではなかった。そりゃ贅沢というもんだ、そう考えてちょっと自嘲気味にまた笑った。足は全然痛まなかった。


家並みは静まり返っていた。本当なら当たり前の静けさだった。そこを出たときのままに壊れた家の塀囲いを乗り越えるようにして中へ入った郁弥の目は、潰れたガレージの脇に止められている一台のバイクにくぎ付けになった。あっと言ったきり動けなかったほどだ。それは紛れもない、リベラライザーだった。エミリオより幾分、一まわりまではいかないが小さく、凹凸の激しいボディは深紅に塗られている。テールの辺りのラインに沿って ”OKSANA” のロゴが入っているのが印象強かった。地面にめり込んだロッドで結ばれる二本のスタンドのいかつさが超重量車であることを主張して止まない。

郁弥の右腕を翔子の両手がぎゅっとつかんだ。二人は不安げな視線を合わせる。陽子のことが心配だった。

迷ったが気持ちが急いた。玄関のドアに鍵は掛っていなかった。思いもかけないほどドアが軋んで二人はどきっと胸を鳴らす。その音を聞き付けて誰かが出てきた。

郁弥の母だった。

二人はほっと胸を撫で下ろした。

まるで全てが解決したかのように喜ぶ彼女の後ろには親父もいた。昨日まで当たり前だったことが妙に感激だった。郁弥も父も泣いたりはしなかったが。


応接間に見知らぬ男がいた。そいつが問題だった。

郁弥の身体を電流が走る。リベラライザー、オクサナのライダーだ。

立ち上がって二人を迎えた彼はかなりの長身で痩せぎすな感じがしたが、切羽詰まったように真剣な目は郁弥の心臓を激しく収縮させたほど燃える何かに溢れていた。長めにカットした髪はフロントに緩いウエーブがかかり、堀の深い顔だちを洒落者っぽく演出する。モデルのような男だと郁弥は思った。まだ三〇には満たないだろう。

様子を窺いながら郁弥は無遠慮に腰を下ろした。軟らかいソファは音を立てない。歓迎したものかどうかと彼が見ている客人は落ち着いて腰を下ろした。膝をちょっと気にしたようだがシャーリングの入ったダークグリーンの革ツナギにその心配はいらない。

中貝と名乗ったその男は、二人が無事に帰ってきて本当に良かったと言った。どうやらその気持ちは嘘ではないようだと郁弥は思った。翔子の方を見ると同意の視線が帰ってきた。

「無事ってわけじゃないけどね」

郁弥は腕を組みながら憮然としてそう言った。挑発的な態度だったが中貝は別に気分を害したふうもなかった。

「うん、そうだろうな」

彼はちょっと口を噤んで郁弥と翔子をまじまじと見た。

「でもあいつらを相手にしてそれだけ元気で帰ってこれたんだから、無傷というに等しいよ」

「…あんたはいったい誰なんだ? 」単刀直入に訊いた。回り道はごめんだった。

中貝は間を置いた。大きくため息を吐くと、その眼差しからきつい毒気が失せたように見えた。

「俺の立場は君のそれに近い」

「俺の?… 」

「そう」

何のことだか。郁弥は苛つきを覚えたが話をちゃんと聞く気になっていたので黙っていた。

中貝はぽつりぽつりという調子で話し出した。

「俺はあるアパレルメーカーで働くデザイナーの卵なんだ。大きな目標をもって一歩一歩進もうとしている。他に何もなかったから生活も苦しくはなかった。その俺のところに旧友から電話があったのはもう去年の夏のことだ。そいつは高校時代のバイク仲間で、…もう分かったかい? そいつは俺にあるマシンを引き合わせた。見ただろ、おもての化け物を」

郁弥はうなづいた。

「あれは俺の世界観を変えた。それはあれが世界最強のマシンだからだ。君にもよく分かるだろう。俺はあれに取り憑かれたのかもしれない。作品の製作もそっちのけでコースを走り込んだ。殆ど毎日だった。いつの間にか周りには同じような仲間がいっぱいになっていた。そしてそのうちに、マシンの本当の力を試して見たいなんて冗談が冗談でなくなっている風情に俺は気がついたんだ。それがどういうわけか自然にすら感じられる空気にね。妙な感じだった。気がついてみると、それまで当然のように思っていたことが次々に裏返しになって行くんだ。そこで目が覚めた。俺には同じ仲間のように見える組織のからくりが、見え始めたんだ。あの高峰に知り合いを引き入れる用意を整えてもらえるのは、マシンを兵器として見ている連中に限られていた。何故か。それはバランスを取るためだ。拡大しつつあったチームは大きく二つに区分されていたんだよ。一方が狩人、もう一方が獲物というようにね。--- 俺達は狩られるためにマシンを与えられた」

郁弥は猛烈な寒けを覚えた。耳鳴りがするようだった。押さえた目頭は石のように無機的に手のひらを熱く感じた。

「集められた中にはいろいろな奴がいた。狩る側に参画する奴、最初からターゲットとして引き入れられる奴、ただ高峰は簡単に狩られてしまうような獲物の参加は許さなかった。その辺がバランスというやつだったんだ」

「いったい何のためなんだ、何でそんなことを、…? 」

「楽しむためさ」中貝は言い放った。

「全てはあの男の楽しみから始まっている。もしかしたら別に目的はあるのかもしれない。でも根本はそこにあるんだ」

翔子が悔しげに呷いた。嗚咽のようでもあった。

「有坂は死んだか? 」

中貝は唐突に言った。

「分からない」

郁弥はそう答えた。

「…そうか。… 彼はもしかしたらマシンを捨てられるかもしれなかった」

複雑な面持ちだった。郁弥には考えたくないことだった。でも意地があった。責任もあった。憎悪もあったが、悲しみも恐怖もあった。

「何があったのかまでは知らないが、彼は高峰に大きな負債を負っていたようだ。彼が望んだリベラライザーを手に入れるためには、課せられたリスクをこなさなければならなかった。」

「リスクってのは…? 」

「君を自分のターゲットとして引き入れることだよ」

「俺…… 」

郁弥は絶句した。思い当たる節はあった。ありすぎるほどだった。

「何人か高峰に引き合わせたがあいつはうんと言わなかった。物足りないというのでね。そしてやっとお眼鏡にかなったのが君だったんだよ。有坂は君を恐れていた。もう少し時間があれば、諦めさせることだってできたかもしれなかったのに… 」

「それで、中貝さんは何故やめないんです? 」

突然の郁弥の切り返しに中貝は一瞬あっけにとられたようだった。

「バイクを持ち出す機会を窺っているうちに今になってしまったんだよ。警察なり何なりの組織に護ってもらわねば秘密を知った我々の命はないよ。現物がなければこんな話誰も信じやしない。あったって疑われて当たり前かもしれない」

成程、言われてみればその通りだ。二の足を踏んでも当然かもしれない。郁弥はうなづいた。

「でもことがこう起これば信じないわけにはいくまいさ。仲間が警察に出向いている筈だ。途中で殺されていなければね。…そうだね。ちゃんと話そう。今日、いやもう昨日のことだ。俺達は突然呼び出され、全員が揃ったところでそれぞれのリベラライザーを託されて街に解放された。ただし最初の一時間は能力を潰されてだ。適当に散らばったところで暴れさせるつもりだったのさ。そうでなきゃ意味がないもんな。高峰が俺達の動きを知らなかった筈はない。事実俺達はしっかりマークされていた。俺は、昔の友達を殺してここに来たんだよ」

「…………。」

「俺は有坂を助けてやりたかった。そして君もだ。多騎君。だからここへ来た。いつか警告しただろう。…あれは俺なんだよ」

郁弥はうなだれるようにして俯いた。ため息の出るのが自然だった。


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