第9章 沈んだもの
第9章 沈んだもの
あの場から、離れたい。
そんな気持ちから、俺の足は自宅に向いていた。
——紗和に連絡しないと。
画面に、彼女の番号を出した。
通話ボタンを押そうとした時。
大通りに面した暗い路地から、男の声がした。
「……湊谷くん、湊谷くん」
聞き覚えのある声だった。
足を止めた。
——この声、森本先輩の声だ。
「……森本さん?」
——そんなわけない。
路地の奥に視線をやった。
そこから近づく影が、次第に大きくなった。
「……さっきは悪かったな」
「……つながらないんだ」
「……大丈夫、気にするなよ」
——知っている。全部、俺が聞いた言葉だ。
「何、言ってるんですか……森本さん」
影が立ち止まった。街灯の光が届かない境界で、そいつはまた声を漏らした。
「……懐かしいな。今度、飲みに行こうぜ」
「……どうした、湊谷くん、顔色悪いぞ。飲み過ぎか?」
——やめてくれ、その声で。
俺は、その場から逃げ出した。
無我夢中で走り、タクシーを拾った。
タクシーの中で震えが止まらなかった。
——あの声、あの言葉。全部覚えがある。しかし、あれは違う。
——あれが、森本先輩の言っていた、『あいつ』なのか。
*
自宅の前で、タクシーを降りた。
俺の車の横に、女性の姿が見えた。
やっぱり来ていたんだ……。
「紗和、森本先輩が……」
車の近くまで来て、気がついた。
彼女は、腕に包帯を巻いて、うつむいて立っていた。
「……どうしたんだ、その腕」
紗和は答えなかった。
ただ、包帯を押さえる指だけが、小刻みに震えていた。
もう彼女のところまで迫っているのか。
「とりあえず、逃げよう!」
助手席に回り、ドアを開けた。
その時に気がついたが、車の下からドアにかけ、擦りつけられたような、不自然な泥が付いていた。
彼女が助手席に座ると、車が沈んだ気がした。
走り出す車の中、紗和は一言も話さなかった。
順番が来たことを悟っているのか、怖い目に遭ったのか。
うつむく彼女に、話しかけられずにいた。
向かう場所などなかった。
安全な場所を考えたが、思いつくはずもなく、駅の方に向かった。
——人が多い方がいいのか……いや、その中に『あいつ』がいるかもしれない。
ふと、車内に漂う匂いに気がついた。
それは湿った土の匂いだった。ドアに付いていた泥のせいかと思った。
しかし、息を吸うたびに濃くなっていった。
たまらず窓を開けた。
それと同時に、車の不調を感じた。
アクセルを踏んでも、スピードが上がらない。
それどころか、車は意志を持ったように歩道側へと流れ、ハンドルを取られた。
「……こんな時に」
人けの途切れた道端に、無理やり車を停めた。
車を降りて、周囲を見た。
パンクなどしていない。助手席側に回ると、彼女が自分から降りてきた。
「大丈夫か、紗和……」
うつむいたまま、何も言わない。
彼女の身体が近づく。
また、一歩、近づく。身体が触れる。
そのまま、俺の胸に顔を埋めた。
「……何があったんだ、話してくれ」
彼女の背中に手を回そうとした時、彼女の身体が、俺を車のドアへと押し付けた。
冷たい。まるで、生気のない冷たさ。
押し返そうとしたが、なおも押してくる。
「紗和……!?」
彼女は答えず、ゆっくりと顔を上げた。街灯の光が、その顔を照らした。
顔立ちは紗和だった。だが、表情がなかった。目だけが、爛々と光り、虚空を見つめていた。
信じられない力だった。背後の金属が、ミシミシと音を立てて悲鳴を上げた。
『……グリュ、グリュグッ、リュ』
どこからか、不気味な音が聞こえた。
水が詰まったような、濁ったような音。
ミシッ、ミシミシッ!
俺の背中で、車のドアがへこんでいく。
骨が軋み、肺が押しつぶされ、息ができない。
彼女の腕に巻かれた包帯が、するするとほどけて足元に落ちた。
街灯の光の下に現れたものを見て、俺は悲鳴を上げることもできなかった。
白く細い腕など、そこにはなかった。黒く濡れた獣毛。
出てきたのは、蹄の割れた、牛の脚だった。
「……やめ……ろ」
意識が飛びかけたその時、視界の端から、鮮やかな緑色が飛び込んできた。
「離れなさい!」
女の声が響いた。
次の瞬間、榊の枝が大きく振り抜かれた。




