第10章 沈まないもの
第10章 沈まないもの
夢のあの場所にいる。
波打った空に月が滲む、音のない世界。
階段の中ほどで見えていた影。
逆光の中にいた顔が、一段降りるたび、少しずつ月明かりに浮かび上がる。
彼女は、頂にある祠の横から、数段降りてくる。
何も言わず、手を差し伸べ、その指が俺の頬に触れる。
「……返して」
そう一言だけ言って、顔を伏せ、背を向ける。
足元が崩れ、身体が宙に浮く。
ゆっくり、下に落ちる。
いや、落ちるというより沈む感じがする。
そのまま、暗い深淵へ落とされる。
*
「真一、目を覚まして!」
重い瞼を開くと、そこには紗和の顔があった。
あの怪異の力で押し付けられ、息ができず気絶していたようだ。
「……あの、化け物は」
「今は、おとなしくしてるけど、長くは持たない」
紗和の視線の先を見ると、棒立ちになった化け物が、空を見上げたまま動かなかった。
ただ、目だけがこちらを追っていた。
「君はいったい……」
そう言いかけた言葉を、紗和が遮った。
「真一、あのお札は」
「……車の中に」
紗和は車のドアを開けグローブボックスの中のお札を取り出した。
その札を怪異の背中に貼り付けると、そいつはその場に崩れ落ちた。
次の瞬間、アスファルトの黒い闇の隙間に吸い込まれるように消えた。
「行きましょう、次が来るわ」
*
車に乗り込み、アクセルを踏んだ。
先ほどとは違い、車は軽くスピードを上げていった。
「あれは、いったい何なんだ」
「車内にいた時に襲われなかったのは、『角大師のお札』のおかげね」
「……紗和、なんだな」
「……そうよ」
また会えたこと。そして、生きていてくれたこと。
今はそれだけでよかった。
「真一、集落に向かって」
「……わかった」
汗が滲む手でハンドルを握った。
紗和にいろいろ聞きたかったが、喉の渇きが邪魔をした。
対向車も来ない暗い道で、場違いに明るく光る自動販売機を見つけ、車を停めた。
「……少し待っていてくれ」
渇きと緊張の混じった掠れた声で言った。
*
自動販売機の前に立ち、ポケットの小銭を出し、投入口に投げ入れた。
無機質な金属音の後、重たいペットボトルが取り出し口に落ち、夜の静寂を切り裂いた。
その時、自動販売機の背後から、聞き慣れない声がした。
「君は、真一くんかな?」
「ここで、待ってたんだ」
「私たちを探していたんでしょ?」
「心配してくれてたの?」
「私たちは無事よ」
「君に会いたかったよ」
男の声と、女の声。それが交互に、時に重なり合い、絶え間なく紡がれた。
——どこだ。壁との隙間に人が入れるはずがない。
見上げると、煌々と光る自動販売機の上。
影の奥で、四つの目だけが濡れたように光っていた。
「……三好……だよ」
「……三好……よ」
「うっ……うわっ!」
「真一、戻って」
車に飛び込み、ドアをロックした。
窓に、黄色く細い指が張りついた。
その指は、前側に3本、後ろ側にかぎ型の指が1本。
爪だけが、異様に長かった。
ギリギリと窓を掻きむしっていた。
車を急発進させた。
「……残念だよ」
「……残念ね」
——あれが、三好夫妻の成れの果てなのか。
*
移転先の町に近づいた。
「……そっちじゃない」
「集落じゃなかったのか? ダムの方か? 何があるんだ」
「……戻さないと」
紗和が何を言っているのか分からなかった。
しかし、今はそれしかないと思った。
その言葉だけが、妙に冷たく耳に残った。




