第6章 偽りの祠
第6章 偽りの祠
帳面の表紙を開いた。
ページをめくるが、指先が強張り、角が折れた。
——三好夫妻だ。
——田原……覚えがない。
——吉村……覚えがない。
年代が飛ぶ。
——本田……6歳上、顔が思い出せない。
——森本……あの先輩だ。
——城崎……紗和だ。
——そして俺だ。
「この人たちの住所とか分かりますか」
「そりゃ、無理だな。最近は個人情報の管理がうるさくてな。記載も名前だけになってる」
「神社庁なら分かるだろうが、親族の者でなければ無理だろうな」
「……そうですよね」
「連絡先が分かるのはこの森本さんと……あとは君の家だけだ」
「森本さんとは、会う予定です」
「……そうか、気をつけるよう言ってやってくれ」
「それと、さっきの御由緒書きの龍神の話、この神社に祀られているんですか?」
「ああ、あれはダムの周回道路の展望所に祠が建ってるよ」
この前、紗和と行った場所に確かにあった。
あの真新しい小さな祠のことだ。
社務所を出ると、外は暗くなりはじめていた。
「先輩なら、俺らより年上だから、知ってるかもしれない」
「……そうね」
紗和は静かだった。
手がかりもないこの状況が彼女を不安にさせているのだろう。
俺はそう思った。
*
車に戻り、夜のダム湖を囲む周回道路を走った。
「紗和、もう一か所寄っていいか?」
「……あの、祠ね」
車を停めた。
暗闇の中、ヘッドライトに照らされたその祠が、昼間とはまったく違う、ひどく寒々しいものに見えた。
「……ここに移されたのか」
「ここには何もないわ」
「紗和、君は何を……」
そう言いかけた時、ヘッドライトの前を何かが横切り、大きな影が動いた。
影の主を探したが、何もいない。
遠くから、甲高い音がした。
まるで……獣の鳴き声のように聞こえた。
「もう、行きましょう」
「どうしたんだ」
「……早く」
車をバックさせた。
音はしなかったが、何か小さな衝撃があった。
気のせいだと思い、車を走らせた。
「紗和、どうしたんだ」
「……何でもない」
彼女は、それ以上何も言わなかった。
*
ダムを離れてからずっと、車内は重苦しい沈黙に支配されていた。
バックした時のあの小さな衝撃が、車のシート越しの感覚として残っている。
何かを轢いた感触ではない。柔らかい何かが、車体を外側から『叩いた』ような……。
駅のロータリーに車を停めると、紗和は静かにドアを開けた。
「……送ってくれて、ありがとう」
彼女の横顔を、街灯の冷淡な白が照らし出していた。
その姿はやはり、葬儀の席で見た時と同じように、周囲の景色から切り離されているように見えた。
「紗和、本当に携帯はないのか?」
俺は、思わず強い口調で問いかけていた。
この状況だ。
三好夫妻のことも、森本先輩のことも、そして名簿のことも。
何かあればすぐに連絡が取れる状態でなければ、不安で押しつぶされそうだった。
「……ええ。故障中なの」
視線を落とし、彼女は短く答えた。
この状況で連絡手段を確保しようとしないのはあまりに不自然だ。
隣県に住んでいると言いながら、彼女の背後にあるはずの『生活』がまったく見えてこない。
「どこが壊れてるんだ。修理に出したのか? それとも買い換えるなら……」
「大丈夫よ。そんなことより、真一」
彼女は俺の言葉を遮り、初めてまっすぐに俺の目を見た。
その瞳は、暗い車内でも異様なほど澄んでいた。
「わたしの番号、言っておくわね」
彼女は、淀みなく数字を口にした。
俺は慌ててスマートフォンを取り出し、数字を打ち込んだ。
「……これにかければ、つながるのか?」
「いいえ。……今はまだ、つながらない」
紗和は小さく首を振った。
そして、ドアを閉める直前、吸い込まれるような微笑を浮かべて言った。
「でも、かける前に会えるから」
言葉の意味を問い返す間もなかった。
バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まった。彼女は一度も振り返ることなく、駅の闇の中へと消えていった。
一人残された車内で、俺は入力したばかりの番号を眺めた。
指が震えていた。
彼女が去った後の助手席には、今まで座っていた温もりも匂いも残っていなかった。




