第3章 最後の名前
第3章 最後の名前
銀行の帰り、ダムへ向かった。
「何か見たいものでもあるのか?」
「……そういうわけじゃないんだけど」
紗和なりに何か懐かしむものでも探しているのだろうか。
川沿いの道路を走った。
移転先の住宅地を抜けると、道はまた山へ入っていった。
その先に、湖があった。
ダムサイトを一望できる、展望所のような場所に車を停めた。
「この辺りかな」
ガードレールのはるか下には、風に波打つ湖面しか見えなかった。
ダム湖を見渡す場所には、新しく建てられた小さな祠があった。
「……ここには、ないわね」
それが、何を指しているのか分からなかった。
懐かしい田畑の風景なのか、集落の痕跡なのか。
「もう少し奥の方も、いいかな?」
紗和が上流の方を見て言った。
「いいよ、ダム湖一周してみよう」
ダムサイトが見えなくなり、湖面が狭くなった。
どこか、見覚えのある景色になった。
「この辺りに神社があったよね」
確かに集落の外れに神社があった。
「あそこは沈んで、今は近くの神社に合祀されてるよ」
「……そうなんだ」
「昔、この川でよく遊んだよ。魚を捕ったり、水晶も採れたんだ」
「水晶って言っても、石英が半分だけ透き通ったような代物だったけど」
そう言葉にした時、思い出した。
——そうだ、あの夢の小さな祠……幼い時に。
「……何か思い出した?」
話を止めた俺の顔を、彼女は見ていた。
「ああ、どうでもいいことだけど……」
「川で水晶を探していたんだ。一つ見つけたんだけど、もう一つ欲しくて。それで上流に行くうちに山で迷って……」
「そこで祠を見つけて、帰れますようにと、拾った小さな水晶を祠に供えたんだ」
「じゃあ、その神様が助けてくれたんだね」
紗和の言葉が、心に残った。
それは、『神に捧げものをして、助けてもらった』そんな美談とは、かけ離れたものに思えた。
どこか契約めいた不気味さを感じた。
「神社に寄ってみようか」
橋を渡り、対岸を走る車内で、俺はそう言っていた。
何か分からない不安が、その言葉を言わせたのかもしれない。
アスファルトに残るタイヤ痕。
ガードレールに添えられた花束。
短いトンネルをくぐる。
同僚の話を思い出す。
そんな俺に何も言わず、彼女は窓の外を見ていた。
*
その神社には、社務所もあり、集落にあった神社より大きかった。
鳥居の横から、境内に入る。
葬儀の時に見かけた顔だった。スーツ姿ではなく、作務衣を着ている。
「真一くん、まだ忌中も済んでないのに、ここに来るなんて……ちょっとそこで待ってろ」
俺の背中や足元に清めの塩をかけてくれた。
「すみません、鳥居はくぐらなかったのですが、少し聞きたいことがあって」
「どうした、湊谷さんのところは氏子だし、神棚のことか?」
「いえ、それはもう閉じてあります」
「元の集落の神社の奥にあった、祠のことで聞きたいのですが」
「ああ、あれか。わしも話には聞いたことがあるが、亡くなった神主さんなら知っていたかもな」
「あの集落の生まれじゃないから、詳しくは知らんのだよ」
「そうですか、お手数おかけしました」
そう言って去ろうとした時、思い出したように作務衣の男が呼び止めた。
「あの神社より古くからあったらしい。この辺りの産土神という話だったと思うが」
「……産土神?」
「この地で生まれた人を守護する神様よ」
紗和の声が背中から聞こえた。
「氏子名簿があるが、見るか?」
「お願いします」
少しでも、あの祠のことを知りたかった。
その理由は、自分でもはっきりしたものではなかった。
社務所で、帳面をめくった。
年代順に続いている。
先代の神主の名前を見つける。
その次、その次へと指を下ろしていく。
——伯母の名前。
——伯父の名前。
——父の名前。
その下に数名の聞き覚えのある名前。
そこから、年代が飛ぶ。
「その辺りから街の産婦人科で生まれる子が多くなってな」
——上級生の名前が数名。
——紗和の名前。
そして。
——俺の名前。
そこで、止まっていた。
帳面をなぞる指先が冷たくなった。
「多分、集落の病院がなくなったから、君が最後だな」
——最後。
その言葉だけが残った。




