第8話『命令』
雨上がりの生暖かい湿気をはらんだ朝の光が、古びた剣谷道場の縁側に差し込んでいた。
パチパチと爆ぜる小気味よい音が、台所から響いてくる。長年使い込まれた鉄フライパンの上で、塩鮭の切り身が脂を弾かせながらじっくりと焼き上げられていく音だ。出汁の香りが白煙とともに漂い、大ぶりの豆腐が沈んだ味噌汁が、今まさに火を止められたところだった。
「はい、お待たせ。早く座って、冷めないうちに食べちゃって」
割烹着姿の深雪が、やや乱暴に御膳へ茶碗を並べた。その表情には、昨夜の騒動に対する不満がありありと刻まれている。
畳の上に並んで座った二人の男は、なんとも言えない沈黙を保ったまま、目の前の配膳を見つめていた。
「……いただきます」
仁は静かにつぶやき、箸を取った。だが、その指先がかすかに震えている。
昨夜から続く重い倦怠感が、まだ全身にまとわりついていた。胸の奥の鼓動は落ち着いているものの、いまだに体の芯がじわりと熱い。
その対面に座る男――鷹宮司は、すでにいつもの国防軍の軍服を完璧に着こなし、正座していた。
鷹宮は無言で箸を取り、実に見事な所作で焼き鮭の身をほぐし、口へと運ぶ。
仁は震える手で味噌汁の椀を持ち上げ、一口すすってから、対面の堅物に視線を向けた。
「……夕べは、まぁ、その……ありがとな、少佐」
仁は視線を宙に浮かしながら、小さな声で感謝を告げた。あの「共鳴の檻」の中で、自分を現実へと繋ぎ止めたのは、間違いなくこの男の声だったからだ。
だが、鷹宮は鮭を咀嚼し、静かに箸を置くと、氷のような視線を仁へ返した。
「勘違いするな、剣谷仁」
その声には、昨夜一瞬だけ見せた揺らぎなど、微塵も残っていなかった。
「私は部下を無駄死にさせないため、現場責任者として必要な手を打っただけだ。君が使い物にならなければ、私は迷わずあの場で君ごと爆破していた」
「へっ……言ってくれるじゃねえか」
仁は苦笑し、今度は鮭の身と白米を乱暴に口に放り込んだ。
その時、トントン、と畳を強く踏み鳴らす音がした。振り返ると、両手を腰に当てた深雪が、般若のような顔で鷹宮を睨みつけていた。
「ちょっと、鷹宮さん! 文句があるならうちのご飯、食べなくて結構ですからね! 出されたものは残さず綺麗に食べる、それが剣谷道場のルールです!」
鷹宮が、彼女の剣幕に一瞬だけ視線を泳がせた。
「……いや、味に文句を言ったつもりはない。非常に美味だ。……残さずいただく」
「よろしい!」
ふん、と鼻を鳴らして台所へ戻っていく深雪の背中を見送りながら、仁は小さく吹き出した。
その時、鷹宮の胸元から、電子的な警告音が規則的に鳴り響いた。 鷹宮の表情が、一瞬で軍人のそれへと引き締まる。彼は懐から国防軍の極秘通信端末を取り出すと、非通知の暗号回線であることを確認し、静かに席を立った。
「すまない。席を外す」
薄暗い廊下へと出ていく鷹宮の背中を、仁は黙って見送った。箸を持った手の震えは、まだ止まっていなかった。
廊下の突き当たり、朝日が届かない薄暗い角で、鷹宮は端末のホログラムディスプレイを展開した。
ノイズ混じりの画面に浮かび上がったのは、国防軍の上層部に属し、国連の技術査問委員会をも兼ねる老将の厳格な顔だった。
『――夕べの戦闘データを見たぞ、鷹宮少佐』
老将の声は、労いとは程遠い、重苦しい警戒に満ちていた。ディスプレイの端には、マジンオーが放った「ツイン・ブラスター」が湾岸地帯を熱線で薙いだ、凄まじい熱量分布図が映し出されている。
『あらゆる既存の現用兵器体系を、過去の遺物にする破壊力だ。これほどの質量エネルギーを内包する機体が、我が軍の管理外にあるなど、悪夢以外の何物でもない』
「マジンオーの力は、ヴァイスマンの第二波を退けるために不可欠でした。パイロットである剣谷仁の適応率も――」
『そこが問題なのだ、少佐』
老将が鷹宮の言葉を遮った。
『あの漆黒の機体は、パイロットである剣谷仁によってその能力を発揮するようだ。つまり彼がその気になれば、いつでも街一つを灰にできるということだ。』
「……。」
『……上層部の決定を伝える。ただちにその青年を拘束し、軍の『特別医療施設』へ移送しろ』
鷹宮の眉が、わずかに吊り上がった。
「特別医療施設……。お言葉ですが、あそこは医療施設とは名ばかりの実験施設では――」
『言葉が悪いな。精密検査だ。青年の脳波パターン、遺伝子構造、そして神経系の同調メカニズムを徹底的に洗い出す。兵器の安全装置を作るためには必要な措置だ』
「強制移送は、承服しかねます」
鷹宮の声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。端末の向こうの老将の顔が、不快そうに歪む。
「如月博士の報告書にもある通り、オリジナル魔神石は精神的ストレスに呼応します。今、彼を無理に連行すれば、マジンオーがどう動くか保証できません 」
『少佐、忘れるな。君の任務はあの青年の『監視』であり、保護ではない。軍人なら規律に従え。明朝、移送班をそちらに向かわせる。それまで対象を自由にさせるなよ。……以上だ』
一方的に通信が切断され、ホログラムの光が虚空に霧散した。
薄暗い廊下で、鷹宮は端末を握りしめたまま、静かに息を吐き出した。その指先は、白くなるほど強張っていた。
「…ならば、こちらにもやりようはある」
鷹宮はもう一度深く息を吐いてから端末の画面を叩き、軍の暗号回線ではない、独自の極秘ホットラインを立ち上げた。発信先は、半壊した如月研究所の地下深く――。




