第30話『兄と弟』
シベリアでの異形の重装甲機との死闘を終え、アース・クローラーは凍り付く地中深くへと潜航していた。
激戦の爪痕は深く、艦内には張り詰めた疲弊と、どこか重苦しい静寂が澱のように溜まっている。
「痛っ……! ってえな、鏡子先生! もうちょっと手加減してくれよ!」
「うるさい。私の診察に口を出す患者は、麻酔無しで傷口を縫合するっていつも言っているでしょう」
薄暗い医務室のベッドで、五條鏡子は白衣の袖を乱暴にまくり上げ、仁の青紫に腫れ上がった脇腹へ容赦なく冷却ジェルを塗りつけていた。
「響くんの真剣修行に、あの極寒の雪原での連戦……。あんたの骨がまだ一本も折れていないのは、魔神石の適応率が異常だからってだけよ。これ以上、自分の身体をタフだと勘違いしたら、次は本当に内臓が破裂するわよ」
鏡子は厳しい口調のまま、仁の胸へとそっと聴診器を当てた。
自らの偽装工作により軍の上層部には未だ知られてはいないが、彼女の耳には、仁の胸の奥から響く、あの不気味な「魔神石の心臓音」が確かに届いていた。
「……鏡子先生。あの紅い魔神機と戦っているときにさ、あいつの感覚が……頭の中に直接流れ込んできたんだ」
「感覚?」
「ああ。あいつ、コックピットの中で血を吐きながら、自分を消し去るみたいにして戦ってた。……それだけじゃねえ。あいつの記憶の奥に、別の女の子の姿が見えたんだ。冷たい檻に閉じ込められている……あいつはルミナス、って呼んでたけど、俺はあの子を知ってる気がする」
鏡子は手を止め、仁の真剣な横顔を見つめた。
「魔神石の共鳴を通して意識が同調したのね。……その、ルミナスという子から、何を感じたの」
「うまく言えねえんだけど……」
仁は自らの拳を強く握りしめ、言葉を探すように天井を睨みつけた。
「なんか、人間を相手にしてる感覚じゃなかったんだ。暗くて、とてつもなく冷たい、宇宙の底みたいな場所に……魔神石そのものが、ぽつんと人の形をして泣いてるみたいな……」
「……続けて」
「ヴァイスマンの野郎が、あの子を何かに利用しようとしてるのは間違いねえ。……今思うと、ずっと前から夢の中で同じ光景を見てきた気がする。あの子は、ただ檻の中で、怯えてたんだ」
仁の瞳に宿るのは、戦いへの恐怖ではなく、胸を締め付けられるような切実な痛みだった。
「……きっと、世界を壊したいわけじゃないんだ。ただ、人間が普通に笑って暮らしてる外の世界の光を、綺麗だなって……自分もあの中に行きたいって、ただ泣いてたんだ。先生、俺は……」
「行きなさい、剣谷仁」
鏡子は静かに、しかし少しだけ乱暴にくしゃくしゃと仁の髪を撫でた。
「私は如月博士のような科学者じゃない。国防軍の軍医よ。敵だろうと味方だろうと、そんな風に命を削られて道具として消費されている人間がいるなんて、絶対に許せない。その子の声をここまで感じ取れたあんたなら、きっと手を伸ばせる。……その迷いを、戦う覚悟に変えなさい」
仁は思わず、胸元を押さえた。
その奥で、魔神石が静かに脈打っている。
「先生…俺…」
「さ、もう言いっこなし。処置は終わったから、さっさと行きなさい。待ってるわよ、『あいつ』が」
そう言って鏡子は仁の背中を叩く。
「…おう、ありがとな。先生」
鏡子は少しだけ微笑んだあと、ひらひらと手を振って次の患者のカルテへ視線を落とす。
仁は立ち上がり、医務室の奥の扉へと歩き出した。
「……仁、そこにいるのか」
医務室の奥、分厚い遮音隔壁で区切られた集中治療用の隔離カプセルから、微かな、しかし聞き紛うはずのない人間の肉声が響いた。
無数の医療チューブに繋がれ、未だ顔色の悪い兄――剣谷響が、ゆっくりと上体を起こしていた。
「兄さん……! 動いちゃダメだ、鏡子先生が――」
「構わん。私の肉体の仕様は、私が一番よく知っている」
響は鉄仮面を外し、5年前と何一つ変わらない、しかし酷く衰弱した素顔を弟へと向けた。
「驚いたか、仁。……これが、兄の成れの果てだ」
「兄さん……」
「私は五年前に単独でヴァイスマンの不穏な動きを追って、結果、奴に捕らえられた。まさに瀕死だった私は、図らずも敵の手で機械化されて命を繋いだわけだ……だが、ヴァイスマンの元を脱走して以来、ろくなメンテナンスも受けられず、私の身体は毎日、内側から悲鳴を上げている」
「そんな身体で……なんであんな無茶な修行を、シベリアでの乱入を……!」
「両親が他界し、お前が瀕死の重傷を負ったあの日から、私の目的はお前を守ることだけだった。……だが、世界がヴァイスマンによって暗黒へ塗りつぶされようとしている今、影から見守るだけではお前を死なせる。だから私は、この壊れかけの命を賭して、お前にすべてを叩き込んだ。……仁。もう私が背中を押さずとも、お前は自分の足で戦える 」
響の言葉に、仁の目頭が熱く震えた。ずっとすれ違い、拒絶されていると思い込んでいた兄の、あまりにも不器用で、命がけの愛情。
仁はゆっくりと歩み寄り、カプセルの前に拳を突き出した。
「……勝手なことばかり言うなよ、兄さん。俺はまだ、あんたに一本も入れてねえんだ。死なせねえよ。鏡子先生の言うことを聞いて、ちゃんと身体を治せ。……ヴァイスマンの野郎は、俺たち兄弟二人で、完全に叩き潰す」
響は一瞬だけ目を見張った後、5年前のように、静かに、優しく微笑んだ。
そして、ゆっくりと自らの機械化された拳を伸ばし、仁の拳へと、カプセルのガラス越しにそっと重ね合わせた。




