第10話『120秒』
如月エネルギー研究所に併設された国防軍臨時駐屯地内、薄暗い臨時医務室。
薬品と消毒液の匂いが鼻を突く空間に、低く、ハスキーな女性の声が響く。
「――はい、息を止めて」
白衣のポケットに片手を突っ込み、国防軍制服のシャツをだらしなく着崩した女性――五條鏡子は、細い指先で聴診器のチェストピースを仁の胸へと押し当てた。三十歳を少し過ぎたばかりの彼女の髪は、およそ軍人らしからぬ、鮮やかな金髪だ。
仁が言われた通りに息を止めると、鏡子の耳に、人間の肉体からは決して発せられるはずのない不気味な音が届いた。金属が擦れ合うような、耳の奥を圧迫する残響。
鏡子は聴診器を耳から外すと、デスクの上の灰皿に置いてあった、まだ煙の上がるタバコを指に挟み、深く吸い込んだ。
「…はい、もういいわよ。お疲れ様。向こうで着替えていらっしゃい」
深く吸い込んだ紫煙をもくもくと吐き出しながら、鏡子は右手の親指で更衣室を指さす。
仁は手で煙を払いながら、訝しげに指示に従い更衣室へ向かった。
その背中を見送りながら、鏡子はもう一度タバコを深く吸い込む。
「……ハァ。データは私の権限で改ざんして、軍のメインサーバーにダミーを流しておいたわよ。まさか心臓が魔神石なんて私も想定外よ。上層部には『青年の精神波の乱れによる、一時的な自律神経失調症』とでも通しておくわ」
鏡子は眼鏡のブリッジを中指で小さく押し上げながら、壁際に直立不動で腕を組む男をジロリと睨みつけた。
「それにしても……あのお堅くて規律の塊みたいな司が、上層部に虚偽の報告書を出すなんてね。明日あたり、槍でも降るんじゃないかしら?」
鷹宮は不快そうに眉を寄せた。
「五條中尉。……からかわないでいただきたい。私は現場の最高責任者として、最適な判断を下したまでです」
「はいはい、現場の判断ね。相変わらずかわいいこと言うじゃない」
鏡子は吸い終えたタバコを灰皿に少し乱暴な手つきでぐりぐりと押し付けると、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべ、金髪のサイドを指先で払った。
「……でも、皮肉ね。今度はあなたが軍の命令を無視して、一人の男を守ろうとしてるなんて」
鏡子は新たなタバコを咥え火をつけようとするが、少し考えたようなそぶりでその手を止めた。
「あの時、私たち何もできなかったものね……だから今度は、目の前の青年を軍から守る。変わったわね、司」
「五條先輩。……それ以上は、私情が過ぎます」
鷹宮の声は低く、震えていた。仁に察せられぬよう言葉を濁した鏡子だったが、その意図は鷹宮に重く刺さる。
更衣室から戻った仁は、シャツのボタンを留めつつ、沈黙する二人を怪訝そうに眺めた。やがて、少し困ったように頭を掻いて言葉をかけた。
「へっ、金髪の先生、データ偽造は助かるけどさ……タバコはそのくらいにしておいてくれよ。服ににおいが残ると、帰ったあと深雪にどやされるんだ。」
「あら、そう。ずいぶん厳しい彼女さんなのね」
「待て、剣谷。貴様、どこから聞いていた?」
「あ?俺は耳がいいんだよ。全部だ全部」
「……随分と落ち着いているな」
「マジンオーに乗った時、嫌でも色々流れ込んできたんだよ。全部わかったわけじゃねえ。……ただ、俺の胸が普通じゃねえってことくらいはな」
「へえ、もっと取り乱すかと思ったけど。肝が据わってるのね。」
「それに、こんな冷血少佐に言われなくても、俺はやるつもりだったぜ。今更ビビっていられねえよ」
「あらら、言われちゃってるわよ少佐殿。でも、あんまり無理をすると――」
鏡子が仁の胸の奥を指差そうとした、まさにその瞬間だった。
基地全域の防音壁を震わせる、非常警戒アラートが鳴り響いた。
医務室の蛍光灯が赤色の非常灯へと切り替わり、同時に鏡子のデスクのモニターが強制的に書き換えられる。
画面にノイズ混じりで割り込んできたのは、如月エネルギー研究所の中央指令室の映像だった。ノイズによりはっきりと顔は見えないが、女性オペレーターがひどく取り乱した声でヘッドセットへ叫んでいるのがスピーカーから漏れ出す。
『臨時駐屯地、聞こえますか!? 東京湾の埋立地エリアに、ヴァイスマンの新型が上陸してきました! これまでの狼型とはエネルギーの波形が完全に違います! まるで……マジンオーと同じ、高出力の魔神石反応です!』
「何だと……!?」
鷹宮の目が鋭く光る。仁は、医務室の重いスチール扉へと走り出そうとした。
「おい、少佐! ぐずぐずしてんな、出撃だ!!」
「待て、剣谷!」
背後から伸びた鷹宮の腕が、仁の肩を強引につかんで引き戻した。扉の手前で、仁の身体が大きくよろめく。
「るせえ、放せ少佐! 敵が来てんだぞ!」
「落ち着け!」
鷹宮は仁の胸ぐらを掴み、その鋭い眼光を至近距離でぶつけた。
「忘れたか! 我々は軍の命令を拒否し、君の検査データまで偽造したんだ。正規ゲートからマジンオーを出せば、本部に即座に捕捉される! 」
「じゃあ、指をくわえて街が壊されるのを見てろって言うのかよ!?」
二人の睨み合いの間に、デスクのモニターからオペレーターの声が再度滑り込んできた。
『鷹宮少佐、こちらで軍の防衛管制システムを一時的にダウンさせることは可能です! 駐屯地最下層の旧規格メンテナンス・ハッチから出れば、120秒間だけ本部のレーダーから完全に遮蔽できます。その隙にマジンオーを外へ!』
鷹宮は掴んでいた仁の胸ぐらをパッと放すと、鏡子を振り返った。
「五條中尉、隠蔽の最終処理を」
「任せなさい。監視ログの方は私が医療システムの障害として処理する」
鏡子は、すでに猛烈な速度でキーボードを叩き始めていた。
鷹宮は仁の背中を乱暴に押し、通路へと走り出す。
「行くぞ、剣谷! 猶予は二分だ。軍のレーダーに戦闘データを捕捉されるわけにはいかない。敵を見つけ次第、短時間で確実に撃破し、即座に現場から離脱しろ。長期戦になれば、カモフラージュが剥がれて全員終わりだ。いいな!」
「チッ……分かったよ、やればいいんだろ、やれば!」
仁は不満げに毒づきながらも、鷹宮の指示に従い、薄暗い地下通路の奥に眠る巨神の元へと全速力で駆け抜けた。
ーー港湾地帯の埋立地は、垂れ込めた灰色の雲のせいで、昼間だというのに世界が反転したように暗かった。
打ち寄せる波が濁った泥を巻き上げ、塩気を含んだ強風が吹き荒れる中、隠密ハッチから緊急展開した漆黒の巨神――マジンオーは、アスファルトの大地を揺らしながら、霧の奥へと身を潜めるように歩を進める。
「管制室! 時間がないんだ、早く敵の正確な位置を教えてくれ!」
コックピットの中で、仁が前方の霧を睨みつけながら焦りを滲ませて叫ぶ。
スピーカーから、先ほどの女性オペレーターの緊迫した声が返ってきた。
『前方、距離1200! 濃い海霧の向こうから、こちらの想定を超える速度で直線接近してきます! 迎撃体制を!』
海霧を真っ二つに切り裂いて、『そいつ』は姿を現した。
仁の、そして国防軍の指揮車でモニターを注視していた鷹宮の息が同時に止まる。
そこにいたのは、これまでの怪獣のような獣型兵器ではない。マジンオーと同じ、美しくも引き締まった四肢を持つ人型の魔神機だった。
漆黒のマジンオーとは対極ともいえる、禍々しくも美しい鮮烈な『クリムゾン・レッド』。その胸の奥には、エメラルドグリーンの魔神石の光が、怪しく明滅している。
敵機の光が網膜に焼き付いた瞬間、仁の脳裏に、強烈なフラッシュバックのごとくビジョンが奔った。
――白い光。
青緑の光の繭。
悲しげな目でこちらを見つめる少女――
「う、ああっ……! 今のは、なんだ……何を見たんだ、俺は……!?」
仁が急激な頭痛に頭を押さえて呻いた瞬間、紅い魔神機が、質量を完全に無視したかのような速度の踏み込みで、一瞬にして間合いを詰めてきた。
敵機が放ったのは、極めて鋭い打撃だった。マジンオーは辛うじて両腕を交差させて防御したが、金属同士が激突する凄まじい衝撃が走り、数十メートルも後方へと地面を削りながら押し込まれる。
その直後、紅い敵機は滑らかなステップで、マジンオーの完全な死角へと回り込んでいた。
(この動き……嘘だろ……!?)
敵機が繰り出す、無駄を削ぎ落とした拳と蹴りの連撃。それは、仁が幼い頃から身体に叩き込まれてきた、「剣谷流古武術」の足捌きと体捌きそのものだった。
これまで接近戦では敵を圧倒してきたマジンオーの巨体が、敵の鮮やかな一本背負いによって、地面へと激しく叩きつけられた。地面が大きく陥没し、凄まじい土煙が舞い上がる。
「残り時間、一分を切りました!急いで!」
オペレーターの悲鳴がコックピット内に響く。
「クソがぁっ……! なんで、なんでお前が剣谷の技を知ってやがる!!」
仁は、神経結合の昂ぶりと怒りに任せ、泥を跳ね上げながらマジンオーを立ち上がらせた。




