9. 夫を愛する必要がない
累計ユニークユーザーが100人を超えました。
ありがとうございます。
診察の後少ししてから、ルクレツィオが男性を一人伴ってセラフィーナの部屋を訪ねてきた。執事だと紹介された男性は、一目でジルベルトの家族だと分かる顔立ちだ。ルクレツィオは、最初こそ目が合ったが、すぐに眉を顰めて顔を逸らしてしまった。
室内に用意されているソファーセットに、セラフィーナはルクレツィオと対面で腰を下ろす。ローテーブルの上に、書類が数枚置かれた。その中には、王族の名前と思われるサインと、ルドヴィコ・カルファーニアのサインが入ったものもある。
「婚姻の契約に関する書類だ。目を通して、理解したらサインを。質問があれば遠慮なく訊いてくれ」
ルクレツィオに促され、書類に目を通していく。その中の一枚の内容に、セラフィーナは目が止まった。
「白い結婚」
「ああ、そうだ。聖女の純潔を汚して『聖なる力』を損なわせるのは御法度だからな。それは俺の誓約書でもある」
セラフィーナが思わずこぼした呟きに、ルクレツィオが応える。
『聖なる力』というのは、伝説の大聖女アレッサンドラが持っていたとされている力のことだ。『聖なる力』によって、瘴気を浄化する『聖魔法』が使えるのだと考えられている。その力は光属性魔力の持ち主の純潔性に結びつくものとされている。
セラフィーナはその『聖なる力』というのがよくわからない。自分にそんな力があるのかどうも疑わしく思う。だが、このタイミングでそれを口にするのは、少々はしたないととられかねないので、黙っておく。
「そうか……先にこの婚姻についてちゃんと説明しておくべきだな」
セラフィーナの様子を何か勘違いしたのか、ルクレツィオは説明をし始めた。
「薄々理解しているかもしれないが、この婚姻はカルファーニアから聖女を取り上げるという意味合いが大きく、両家の結びつきを図るものではない。アンドルフィ家は一時的に聖女を保護するという立ち位置だ。だから、君は当主夫人として我が家に貢献しようなど考えなくていいし、夫を愛する必要もない」
「夫を愛する必要がない……」
セラフィーナが繰り返した言葉に、ルクレツィオは一瞬だけ決まりが悪そうな顔をして、話を続ける。相変わらず顔を逸らしたまま、目が合わない。
「聖女からの恩恵を、こちらが求めることもない。カルファーニアでやらされてきた事を、こちらでやろうとはしなくていい。婚姻という形になったのは、合法で一番無難な手段だからだ。現状、貴族家の人間を強制的に連れ出すことを許す法律はない。本人の意思があれば別だが、君のように領地にずっと閉じ込められていた場合は、意思確認は難しい。それに、閉じ込められているのが当たり前の状態だと、出て行こうという発想すらできないことがあるというからな」
「確かに、そうですね」
セラフィーナは、カルファーニアにいた時の自分を思い出す。この婚姻の話を聞くまで、あそこから出ていくなんて考えたこともなかったと気がついて、目から鱗が落ちた気がしたものだ。読んだことのある大衆小説にはそんな話もあったのに、自分に置き換えて考えることもしなかった。
「一応、養子という手段もあるんだが、君に対する養子先の家の権限が大きくなる。それが他の高位貴族の反発を招きやすい。白い結婚だと、君に対する我が家の権限は最小限だという言い訳にもなる。まあ、君が女性だからとれた手段ではあるな。男性だともっと難しかっただろう」
「なるほど……」
セラフィーナは契約書類を見つめ考え込む。
聖女の恩恵も、当主夫人としての働きも求めないというのは、アンドルフィ家がセラフィーナを迎えたメリットが全く無いように思える。カルファーニア伯爵家は、聖女を失うとはいえ、それなりに支度金を支払われたらしい。王族が関与していて、カルファーニアから聖女を取り上げるのが目的とはいえ、貴族としてアンドルフィ家が得るものが無いのは問題ないのだろうか。
何より、セラフィーナはこの家で役に立てることはないのだろうか。すでにこんなに良くしてもらっているのに。
「何か気になることがあるなら言ってくれ」
黙り込んでいるセラフィーナに、ルクレツィオが声をかける。
「……一つ、お聞きしてよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「この婚姻で、アンドルフィにはどのような利があるのでしょうか」
「そんなことを気にするのか」
ルクレツィオが意外そうな顔でセラフィーナを見た。ようやく目が合ったが、すぐにまた逸らされた。
「ご説明いただいた内容では、アンドルフィ家が得る利益がよくわからなかったので」
「……例え白い結婚で聖女の力の恩恵を求めることができなくても、聖女を迎えるだけで相当な利益を得るようなものだぞ」
ルクレツィオは、少し間を置いてから答えた。
「そうなのですか?」
「ああ。名誉も信用も跳ね上がるからな。箔がつくと言えばわかるか?」
「箔」
セラフィーナは首を傾げるが、ルクレツィオは構わず言葉を続ける。
「君が何もしなくても、うちやフィッツァロッティの事業で取引を有利に進められたりできるようになる。聖女と結びつきのある家を蔑ろにできる者はそうそういない。そういうものだと思っておけばいい」
「……わかりました」
腑に落ちないような気もするが、そういうものだというなら一旦飲み込んでおくことにする。
「他に何かあるか?」
「そうですね……」
少し逡巡してから、セラフィーナは口を開いた。
「何もしなくていいというのも、少し、困ります」
「そうか? やらなくていい事ばかり伝えはしたが、やりたい事があればやってもいいぞ」
ルクレツィオの言葉に、セラフィーナはふと気がついた。
やりたい事というのも、考えたことがない。やれと押し付けられた事に追われて、目の前の状況をただ受け入れるばかりだった。
「何か無いのか?」
「……よく分かりません」
「そうか」
ルクレツィオは暫し目を伏せてから、再び口を開く。
「まあ、君はしばらくは体調を回復させるのが最優先だ。時間はたくさんあるから、ゆっくり考えるといい」
「……はい」
セラフィーナがサインを済ませた書類をアロルドに渡して、ルクレツィオは立ち上がった。
「邸の案内と他の使用人たちの紹介は明日にしよう。今日はもう休むといい」
「はい、ありがとうございます」
ルクレツィオたちが出て行った後、テレーザがとても嬉しそうな顔でセラフィーナに振り向いた。
「さて……改めて、よろしくお願いいたしますね。奥様」
セラフィーナはちょっと目を瞬かせてから、微笑んで答えた。
「はい、よろしくお願いします。テレーザ」
その日の夕食もパン粥だったが、毎回ベースとなるスープの味が違う。セラフィーナは毎回同じでも構わないのだが、テレーザが気を使ってくれているようだった。
今回はたっぷりのみじん切り玉ねぎをとろとろになるまで煮込んだ、ミルクスープがベースだ。じっくりと引き出された玉ねぎの甘みに粉チーズのコクが効いていて、粗めに刻まれたクレソンが風味と食感のアクセントになっている。相変わらず姿が見えないが、ちゃんと肉の味もする。
デザートはとても鮮やかな赤色のゼリーだ。セラフィーナはそれが何を使ったゼリーなのか見当がつかなかった。
「これは……?」
「『ネロッカ』の果汁のゼリーです」
そばに控えていたテレーザが答える。ネロッカは、魔力回復効果のある果物だ。医者に言われたものを早速用意してくれたらしい。
魔力回復効果のある食物は高価で、貴族にしか出回らない。ネロッカは果汁の美しい赤色が人気で、特に値が張る。カルファーニアでも栽培していて、豊作だったはずだ。
口に含むと独特の香りが鼻を抜ける。王都までの道中で食べさせてもらった、イチゴの香りに少し似ている、とセラフィーナは思った。味はかすかな苦味があり、クセになりそうな味わい深さがある。
ゼリーを全て食べ終える前に、じわりと魔力が回復していくのが感じられた。これまで魔力が自然回復するのをじっと待っているだけだったので、効果が現れる速さに驚く。同時に、魔力が回復するだけでも身体が少し楽になったことに気がついた。魔力を大量消費したらフラフラになるので、逆に回復したら楽になるのは、考えてみたら当たり前だ。
「お味はいかがですか?」
ゼリーを食べる手を途中で止めたセラフィーナに、テレーザが声をかけた。好みの味ではないのかと気にしたようだ。
「とっても美味しいです」
セラフィーナはそう答えると、残りのゼリーを平らげた。
ちょっと展開がゆっくり過ぎて、もう少し早めたいところです……
がんばります……




