「炎」
炎——紅く黒く熱された揺らぎだった。
見慣れた中央公園の木々が、夜風に煽られて赤く燃え上がっている。黒煙が空を覆い、遠くでは何かが崩れる轟音が響いている。
人々の悲鳴や泣き声。金属がぶつかり合う耳障りな音。建国祭のために飾られていた色鮮やかな旗は、火の粉を浴びて黒く燻んで焼け落ちていく。
「そんな……こんなのって……」
夢——じゃない。鼻を刺す焦げた木々の匂い。
熱風が肌を叩いて——これは現実だと容赦なく打ちつけてくる。
「——ギル!!」
アドネアが私の肩を強く掴んだ。
「ぼーっとしないで!」
「で、でも……どうして……!」
「分からないの?!あの旗槍……リドウの残党よ!」
彼女は腰の剣を抜きながら振り返る。だがアドネアの剣技などたかが知れていることは彼女自身が一番よく知っているのだ。
「——街中に潜伏してた連中が、一斉に動き出したの!この前ギルドに来た時に対策は打っていたのに!冒険者をとにかく集めてって——」
——その瞬間だった。
「きゃあああぁぁ!!」
女性の悲鳴が響いた。反射的にその方角へ振り向き意識を向ける。
公園の入口に、燃え盛る街灯を押し倒しながら、一頭の龍脈獣が姿を現した。
姿は——四足。全長は三メートルを超える。
黒い外殻の隙間から、溶岩のような赤い龍脈光が脈打っていて、牙が地面を擦るたび、石畳が音を立てて砕けていく。その禍々しさは伝聞に一切の引けを取らない。禍々しい恐怖。
「龍脈……獣……!?」
「——違う!」
アドネアが声を荒げて叫んだ。
「——あれは……改造種よ!」
獣の首筋。そこには金属の輪が埋め込まれていた。
赤黒い機工回路が全身へ伸び、心臓の鼓動に合わせて不気味に明滅している。どうしてだろう。あの回路には酷く見覚えがある。
あれは——そう。あの回路は。
「肉体機工補助……?」
そんな——あんな使い方。じいちゃんなら絶対にしない。
「ギル!!」
アドネアが剣を構えるが、その鋒は震えている。龍脈獣が肉体機工補助をつけてこちらを伺っているのだ。その威力たるや想像もつかないというのが正しい。私でさえ——想像が全くつかないのだ。
「ギル……!!避難を!」
「え……」
「アンタは……!!肉体機工補助ドクターの見習いでしょう!!」
その一言で、身体が——震えが止まった。
肉体機工補助ドクター。
さっきまで、その名前すら捨てたいと思っていた。なのに。
「助けて……!」
小さな少女の声だった。獣の向こう側。燃えた遊具の陰で——脚を挟まれて動けずに倒れ込んでいる。その子を庇うように——母親が覆い被さっていて。龍脈獣がゆっくりと牙を、喉を鳴らしながら殺意と共に向ける。間に合わない。アドネアも距離がある。
「——ギル!!」
考えるより先だった。左腕の肉体機工補助が、低く唸った。ガチン、と音を立てて。内部機構が次々と噛み合う音。血龍脈が全身へ一気に流れ込む。
——熱い。焼けるような熱が胸から指先まで一気に駆け巡る。
「——十秒」
自然と口が動いた。じいちゃんに何度も叩き込まれた言葉。
「十秒だけ!」
私は地面を蹴った。
石畳が爆ぜる。夜の空気を同じく空気が切り裂いて、身体が一直線に龍脈獣へと飛ぶ。
——救うために。
たとえ、この技術が今、誰に何と言われようとも。今だけは。
私は、肉体機工補助ドクターだから。
一秒。風が消えた。
世界が、私だけを置いてゆっくりと流れ始める。
いや、違う。私が速すぎるんだ。龍脈獣の鼻先から漏れた灼熱の吐息さえ、まるで水中を漂う泡のように見えた。
少女との距離、およそ十五メートル。
もう一度勢いよく踏み込む。
石畳が砕け、靴底から火花が散った。石畳が砕けた音に反応して、龍脈獣がこちらへ首を向け、赤い瞳に視線が合った、その瞬間。
「ッ――!」
獣の身体が跳ねた。
速い。
それでも。
——見える。
目に埋め込まれたルミナムが龍脈の流れを映し出す。
筋肉の収縮。
骨格の捻り。
牙がどの軌道を描くかまで、一本の線となって私の視界を走った。
右へ半歩。牙が頬をかすめる。
熱い。
皮膚が裂け、血が散る。それでも——止まらない。私は少女へ滑り込み、その細い身体を抱き寄せた。
「——大丈夫!」
母親が涙で濡れた顔を上げる。
「え……?」
「っはぁ……はぁ……!走れる?」
返事より先に、燃えた鉄骨を左腕で掴む。ルミナムが甲高い駆動音を上げた。
ギギギギギ――ッ!!歪んだ鉄骨が軋み、ゆっくりと持ち上がる。この重さ——人の腕なら到底持ち上がらない。けれど、この腕は違う。
「——今!!」
母親は少女を抱きかかえ、転ぶようにその場から離れた。
——三秒。
その瞬間だった。
龍脈獣の咆哮が夜を裂く。耳ではなく、胸骨を直接叩くような低い咆哮。衝撃で胃の中のものが押し上げられる様な不快感と激痛。反射的に振り返った私は、息を呑んだ。
「……嘘」
獣の首筋に埋め込まれたルミナムが、赤黒く脈動している。
まるで——生きている心臓のように——違う。
これは、ただの補助装置じゃない。
「龍脈を……無理やり循環させてる……?」
あり得ない。こんな制御をしたら、肉体が先に壊れてしまう。じいちゃんなら絶対に組まない回路だ。それなのに。その配線。龍脈分岐。補助機工の構造。私は知っているの、嫌と言うほど。毎日——見てきたから。
——工房で。
「なんで……どうして……!」
鼓動が速くなる。
「どうして、じいちゃんの設計思想が……!」
龍脈獣が地面を蹴った。
爆発するような衝撃。一直線に私へ飛びかかってくる。
——四秒。
「ギル——!!」
アドネアの叫びが聞こえる。
けれど私は逃げなかった。いや、逃げられなかった。目の前の獣を見て、確信してしまったから。これは敵じゃない。
この獣もまた——誰かに、壊されたのだ。
——五秒。
龍脈獣の巨体が夜を裂く。牙ではない。私が見ていたのは、その首筋に埋め込まれた黒い機工輪だけだった。
「違う……」
身体が勝手に動く。右へ踏み込み、牙を紙一重でかわす。轟音。背後の遊具が粉々に砕け、木片が火の粉と共に宙を舞う。熱風が髪をさらうが、それでも私は視線を逸らさない。
「この子は……痛いんだね」
——泣いていた。
本来なら穏やかに身体を巡るはずの流れが、無理やり逆流させられている。流れているんじゃない。押し込まれている。暴走した龍脈が筋肉を引き裂き、骨を軋ませ、それでも輪は止まらない。
「こんなの……」
歯を食いしばる。
「治療じゃない……拷問だよ……!」
龍脈獣が再び吠える。その咆哮の中に、一瞬だけ苦鳴が混じった気がした。
「……っ!」
左腕のルミナムを握り締める。
じいちゃんの——声が蘇った気がした。
『ギルベルタ。肉体機工補助は壊すための技術じゃねぇ』
『——繋ぐための技術だ』
『命を、未来を、人をな』
痛いよ、じいちゃん。胸が、痛いんだ。さっきまで、この腕なんて要らないと思っていた。全部捨ててしまいたかった。なのに。この腕がなければ、この子は救えない。
——六秒。
私は大きく深く息を吸った。
「ごめん」
誰へ向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。その言葉は──
「少しだけ……我慢して」
地面を蹴る。真正面。龍脈獣へ真っ直ぐと。
「……ギル!? 何やってるの!!」
アドネアの悲鳴が聞こえる。普通なら自殺行為だ。牙の間合いへ自分から飛び込むなど、私が教わった護身術でもあり得なかった。だけど——だけれど。私の狙いは牙じゃないの。
「そこッ!!」
左腕を膂力のままに。
拳ではなく、刃でもない。掌底。首筋の機工輪へ、寸分違わず叩き込んだ。
ガァンッ!!
金属同士が激突する甲高い音が大きく弾けて。輪が軋み、異音を上げた。龍脈獣の身体が大きく仰け反った。成功だ。
「やっぱり……!」
配線が見えた。
暴走回路。
強制循環弁。
龍脈圧縮器。
全部、無茶苦茶だ。
「こんな接続じゃ……保つ訳ない!」
指先が勝手に——動く。工房で何千回と繰り返した癖。ネジの位置。固定具。龍脈弁。全部、身体が覚えている。
「ギル!! 戦ってる場合じゃ——」
「——違う!!」
思わず叫んだ。
「——私は戦ってない!!」
龍脈獣が苦しげに暴れる。それでも。私は首筋へしがみついた。
「この子を……助ける!!」
——七秒。
その瞬間。首輪の中心部が、不気味な赤黒い光を放った。
「……っ!」
嫌な予感が走る。これは——暴走じゃない。
自壊。機工輪そのものが、龍脈獣ごと爆散するための最終機構。
「そんな……!」
誰だ。ここまで残酷なものを作ったのは。
助からないように。
証拠すら残さないように。
まるで最初から、この命を使い捨てるつもりで——。
ギリッ、と奥歯が鳴る。
「……こんなのって……!」
左腕のルミナムが高く駆動音を響かせた。
残り、三秒。
助けるには、もう時間がない。
脈打つ機工輪が、耳障りな高音を響かせる。
——キィィィィィン。
悲鳴を——上げている。
「止まって……!」
左腕のルミナムを首輪へ押し当てる。
掌から伝わる振動だけで分かった。制御回路は、もう限界だ。龍脈を循環させるどころか、無理やり圧縮し続けているんだ。逃げ場を失った力は、この獣の命ごと弾けるつもりだ。
「こんなの……治療じゃ……機工じゃない……よね」
汗が頬を伝う。
「処刑だ……!」
指先を滑らせて、配線を追う。
補助弁。
龍脈制御盤。
緊急停止機構。
違う。違う!
組まれた装置全てが——殺すために組まれている。なら——。
「作った人なら……」
頭の中で、ジルの声が響く。
『壊れた機工を診る時はな、ギルベルタ……』
——癖。
配線は必ず最短距離を通る。
整備しやすい位置に非常停止を置く。
龍脈弁は補助弁と合わせて二重にする。
制御盤の近くには必ず拡張性を持たせること。
それが、じいちゃんの設計思想だった。
「……あった!」
赤黒い回路の奥。
外装に紛れるように、一つだけ銀色の固定具が埋め込まれている。
普通なら飾りにしか見えない。けれど違う。そこだけ、龍脈の流れが僅かに歪んでいた。
「ここ……だ!」
左腕の指先を強引に差し込む。ギギギギ……!と金属が悲鳴を上げる。熱い。皮膚が焼ける匂いがした。それでも力を緩めない。緩めるわけにいかないんだ。
「お願い……!」
バキンッ!!
固定具が砕けた。
同時に、暴走していた回路が一斉に火花を散らす。
呼応する様に龍脈獣が絶叫した。その身体を覆っていた赤黒い光が、一気に噴き出して飛散する。
「ぐっ……!」
衝撃で身体ごと吹き飛ばされる。
石畳を転がり、何度も地面へ叩きつけられた。
「ギル——!!」
アドネアの声。
視界が霞む。
けれど、龍脈獣は——動かなかった。
荒い息を吐きながら、その場に膝を折るように前脚をつく。首輪は真っ二つに割れ、赤黒い光は完全に消えていた。残ったのは、本来の淡い蒼色の龍脈だけ。苦しげだった呼吸も、少しずつ穏やかになっていく。これが本来の龍脈獣の姿なの——?
「……はぁ……はぁ……戻った?」
私は息を呑んだ。
龍脈獣はゆっくりとこちらを見た。赤く濁っていた瞳は、夜空のような深い蒼へと変わっている。敵意はなかった。ただ静かに。まるで礼を言うように、小さく頭を下げたのだ。あの危機管理条項のトップに位置する獣、龍脈獣が、だ。私は微笑んだ。
「もう……大丈夫……だよ」
「もう誰も——君を傷つけない」
ゆっくりと龍脈獣と額を合わせる。
左腕のルミナムが優しい音を鳴らした。
カチリ。
カチリ。
まるで治療を始める時のように。龍脈が。初めて穏やかに流れ始めた。
「……よかった」
全身から——力が抜ける。
その瞬間だった。
——パチ、パチ、パチ。
静かな拍手が、公園の奥から聞こえた。
「実に——見事だ」
燃え上がる炎の向こう。
一人の男が、ゆっくりと姿を現す。
黒い外套。
銀の仮面。
そして、その腰にはブラントとよく似た機械仕掛けの細剣。
「やはり君は、壊すのではなく救うことを選んだ」
男は微笑む。
「兄上の言った通りだ。——君は、本当に”機工の巫女”なのかもしれない」




