「前へ」Ⅱ
アドネアは手帳を閉じると、小さく息を吐いた。
「じゃあ、明日の朝。旧時計塔広場で」
「遅刻するなよ、ギル。」
ロッシがいつもの調子で笑う。そのまま口角を意地悪く釣り上げてこちらを見た
「機工士は朝が弱そうだからな」
「失礼ね」
思わず頬を膨らませると、ロッシは肩を揺らして笑った。
「そういう顔ができるなら大丈夫だな」
その一言に、私は少し照れくさくなって視線を逸らした。
アドネアも穏やかに微笑む。
「今回は第三龍脈中継塔の修復が最優先。でも、それで終わるとは思わない」
その言葉に、工房の空気が少しだけ張り詰めた。
「街道各地で龍脈異常が確認されてる。西部だけじゃない。北方からも報告が届き始めてるの」
ロッシが腕を組む。
「嫌な予感しかしねぇな。一つ直したら、また次。そんな仕事になりそうだ」
私は静かに機工袋へ目を落とす。
まだ新米の機工士。
だけど、この街には私しかいない。
祖父が守ってきた龍脈を、これからは私が守らなければならない。
アドネアは工房の窓から街を見つめた。
「だから……覚悟はしておいて。明日の依頼は、もしかしたら数日じゃ終わらない。街へ戻れたと思ったら、また次の現場へ向かうことになるかもしれない。」
ロッシが苦笑する。
「ま、冒険者なんてそんなもんだ。帰ってきたと思えば、また荷物まとめて出発。家のベッドより野営の寝袋の方が馴染んじまう」
「そんなの嫌だな……」
私が小さく漏らすと、ロッシは笑った。
「最初はみんなそう言うんだ——でもな」
帽子を被り直しながら、少しだけ真面目な声になる。
「帰る場所がある奴は強い。『帰ろう』って思える街があるから、どこまででも行けるんだ」
私は工房を見渡した。
作業台。
壁一面の工具。
祖父が何十年も使い続けた万力。
窓辺で揺れる風鈴。
ここが、私の帰る場所。
だからこそ、今は離れられる。
私は小さく頷いた。
「ちゃんと帰ってくる」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
アドネアもロッシも何も言わなかった。
ただ、その言葉だけで十分だった。
三人は工房をあとにする。
明日の朝、旧時計塔広場で落ち合うために。
それぞれが準備すべきものを胸に抱えながら。
その時はまだ誰も知らなかった。
第三龍脈中継塔から始まる調査が、街の外へ、王国の果てへと続く長い旅の始まりになることを。
そして、次に三人がゆっくりとこの工房で顔を合わせられる日は、もうずっと先のことになるのだと。
▼△
工房の戸締まりを終えようとした、その時だった。
「ギルちゃん!」
外から元気な声が聞こえる。
扉を開けると、見慣れた顔が何人も立っていた。
鍛冶屋の親方。
市場のおばさん。
橋の修復に携わる石工たち。
それに、昨日花束を持ってきてくれた子どもたちまでいる。
「みんな……?」
市場のおばさんが腕を組みながら笑った。
「アドネアちゃんから聞いたよ。あんた、明日から街を出るんだって?」
私は少し申し訳なさそうに頷く。
「……うん」
「本当は街の修復も全部終わらせてから行きたかったんだけど……」
言葉の続きを飲み込む。壊れた橋も、井戸もけ——街灯も。
工房へ持ち込まれた修理待ちの機工具も。まだ、やることはいくらでもある。そんな私の頭を、鍛冶屋の親方が豪快にぽん、と叩いた。
「馬鹿言うな」
「痛っ」
「お前が一人で街を直す気か?」
思わず黙り込む。
親方は周囲を見回した。
「おい、お前ら」
石工たちが笑いながら拳を上げる。
「橋なら俺たちが直す!」
「瓦礫運びは任せろ!」
市場のおばさんも胸を張る。
「炊き出しは毎日やってるよ」
「職人さんたちがお腹空かせたら仕事にならないからね」
井戸職人が笑う。
「揚水機くらいなら、ジルさんに何度も教わった」
「時間はかかるが、俺たちだけでも何とかしてみせる」
子どもたちまで元気よく手を挙げた。
「ぼくたちもお手伝いする!」
「お花のお水あげる!」
「掃除もできるよ!」
思わず笑みがこぼれる。
ロッシが腕を組みながら、小さく頷いた。
「ジルさんはな。機械だけじゃなく、人も育ててたんだよ」
その言葉に、私は街の人たちを見渡した。
そうだった。じいちゃんは、全部一人で直していたわけじゃない。石工には石工の仕事を。鍛冶屋には鍛冶屋の仕事を。職人たちに技術を教え、街のみんなで支え合えるようにしてきた。
だから今、この街は立ち上がれている。市場のおばさんが私の両肩を軽く叩く。
「だから安心して行ってきな。あんたにしかできない仕事があるんだろ?」
アドネアも静かに頷いた。
「街は私たちが守る」
「だからギルは、街の外でしか直せないものを直してきて」
私はずっと勘違いしていた。街を守るということは。全部、自分で抱えることだと思っていた。
でも——違う。守るというのは、信じて託すことでもある。私は深く頭を下げた。
「……お願いします」
その一言に、街の人たちは笑顔で頷く。
「任せとけ!」
「帰ってきたら驚くくらい綺麗な街にしといてやる!」
「工房も毎日掃除しとくから安心しな!」
笑い声が広がる。
その光景を見て、私はようやく肩の力を抜くことができた。
帰る場所は、祖父が守ってくれた工房だけじゃない。
この街そのものが、私の帰る場所になっていた。




