「ギルベルタ・ストライド」Ⅱ
どれくらい泣いていたのだろう。
自分の嗚咽だけが、やけに遠く聞こえていた。腕の中のぬくもりは、少しずつ失われていく。冷たくなっていく指を、私は必死に握り返した。
何度願っても。何度呼んでも。返事は返ってこない。工房へ帰れば、いつものように椅子へ腰掛けて。レナさんが淹れた紅茶を飲みながら。
『ギル、お代わり』
そう言ってくれる気がしていた。
その当たり前が、もう二度と戻らないなんて。
信じられなかった。
「……じいちゃん」
ぽたり、と涙が老人の作業着へ落ちる。
油の匂い——それから……鉄の匂いがした。
毎日嗅いできた、安心する匂い。
「——————」
どうして。どうしてこんなに小さくなっちゃったの。
「……起きてよ」
声が震える。
「終わったよ……みんな、助かった」
「——だから……もう仕事は終わりじゃん。」
作業着をその傷だらけの手で強く無造作に握りしめた。
油の匂い——鼻の奥やけに今日はスッキリと抜けていくその香りに、やり場のない気持ちが更に大きくなった。また、胸が締めつけられて、苦しい。
「ねぇ……」
私は子どものように祖父の胸へ耳元を押し当てた。
「もう頑張らなくていいから。今度は私が働くから。じいちゃんは——工房で昼寝してていいよ」
返事はない。
その沈黙だけが、ただひたすらに残酷だった。
ふと——視界の端で何かが光った。
地面に転がっていたのは、ジルが何十年も使い続けてきた機工具袋だった。私はおぼつかない手で、それを抱き寄せる。
留め具を外して——。
中には、使い込まれた工具が整然と並んでいた。一本一本、磨かれている。刃こぼれしたナイフ。柄が擦り切れたハンマー。油で黒く染まったレンチ。どれも、この人と一緒に歳を重ねてきた道具だった。その一番奥に、小さな歯車が一つだけ入っていた。
「……」
息が止まる。——歪んだ歯車だった。
削り跡だらけで。
噛み合いもしない。
私が六歳の時、初めて作った歯車だった。
『失敗作だから捨てる』
泣きながら言った私へ。
じいちゃんは笑って言った。
『いつか誰かを直す部品になるまで、大事に取っとく仕事じゃ』
何年もずっと。
こんなものを、宝物みたいに。
「……ばか」
涙が零れる。
「そんなの……」
もっと早く言ってよ。
もっと褒めてよ。
もっと叱ってよ。
まだ私は。
じいちゃんに認めてもらいたくて。
追いつきたくて。
ずっと背中を追いかけてたのに。
私は歯車を胸へ抱き締める。その時だった。
小さな音がした。
歯車が、回った——いや——。
私の胸の奥で、止まっていた何かが、回り始めた。泣いて終わるな——そう言われた気がしたんだ。
顔を上げるともう——夜が明け始めていた。壊れた石畳を、修復された橋を、そして祖父の穏やかな横顔を優しく照らしている。
私は涙を拭った。
きっと——それでも。
じいちゃんが繋いだ未来を——今度は、私が繋ぐ番だから。
朝日が、ゆっくりと街を照らし始めていた。焼け焦げた石畳も、崩れた噴水も——ひび割れた工房の煙突も。すべてが淡い橙色に染まっていく。
まるで街そのものが、長い悪夢から目を覚まそうとしているようだった。
私は静かに立ち上がる。
涙は、もう——止まっていた。
いや。止まったんじゃない。
泣き続けることができなくなっていた。
心の奥が空っぽだった。
悲しいのに。苦しいのに。
その感情さえ、どこか遠くへ置き去りにされたようだった。
腕の中の歯車を、そっと握り締める。
まだ少しだけ温かい。
それが、余計につらかった。
「……ギル」
後ろから、震える声が聞こえた。
振り返ると、アドネアが立っていた。
いつも気丈な彼女も、目を真っ赤にしている。
何か言おうとして。
何度も口を開いて。
結局、何も言えずに俯いた。
私は小さく笑った。
笑えたわけじゃない。
そうしないと、また泣いてしまいそうだったから。
「……じいちゃんね」
ゆっくりと口を開く。
「昔から、仕事が終わると必ず言うことがあったんだ……」
アドネアが顔を上げる。
「うん……」
私は祖父の穏やかな横顔を見つめながら、小さく呟いた。
「『ほれ、次の仕事じゃ。』って」
どんなに疲れていても。
どんな大仕事を終えても。
休む前に、必ず笑ってそう言っていた。
私は、その意味をずっと勘違いしていた。
終わらない——生きている限り。
街はまた壊れる。
誰かがまた泣く。
だから機工士は歩き続ける。
それが、この人の生き方だった。
柄は擦り切れて——何度も削り直された跡がある機工士のレンチ。
テーブルの上から拾い上げるとずしり、と重かった。道具の重さじゃない。何十年という時間の重さだった。
カチリ。
歯車が噛み合う音。
違う——これは、私の中で止まっていた時間が、もう一度動き出す音だった。私は祖父の亡骸の前へ膝をつく。深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
弟子として、孫として。一人の機工士として。
初めて心から、その言葉を口にした。
風が吹く。
工房の煙突から、かすかに鐘のような音が鳴った。
カラン、と。
まるで。
『聞こえとるぞ——』
そう返事をしてくれたような気がした。
私は目元を拭う。
そしてゆっくりと立ち上がり——もう、背中を追いかけることはできない。だから、これからは——私が誰かの背中にならなければならない。
その時だった。
背後で、静かな拍手が響いた。
パチ……。
パチ……。
パチ……。
嫌というほど聞き覚えのある音だった。
「……実に、美しい」
仮面の男。
傷だらけの身体で、それでも倒れることなく立っている。
仮面の奥から聞こえる声は、先ほどまでとは違っていた。
冷たさではない。歓喜だった。
「やはり……君だった」
細剣をゆっくりと持ち上げる。
「彼が命を懸けて残した理由が、ようやく証明された」
私は静かに、ジルの機工具を握り直す。
さっきまで震えていた手は、不思議なほど落ち着いていた。
もう守られるだけの弟子じゃない。
じいちゃん。ちゃんと見てて。
あなたが繋いでくれた未来を。
私は、もう逃げない。
静かに息を吸って。
まだ涙は止まっていないし、喉も焼けるように熱い。
それでも、不思議と手だけは震えていなかった。
足元に転がる機工銃へ視線を落とす。
ジルが何十年も使い続けた相棒。
無数の傷が刻まれた銃身には、研磨しても消えなかった打痕がいくつも残っている。
街を守った傷。誰かを助けた傷。失敗して、やり直した傷。その全部が、この人の生きてきた時間だった。私はゆっくりと膝をつき、その機工銃へ手を伸ばす。
ずしり、と腕へ重みが伝わる。
「……重いな……」
思わず零れた。
こんなに重かったんだ。
昔、持たせてもらった時は、一歩も歩けなかった。
それをじいちゃんは笑って——
『その重さは銃の重さじゃない。守る覚悟の重さじゃ』
そう言っていた。
あの時は意味なんて分からなかった。
でも今なら分かる。
この重さは、人の命だ。
託された未来だ。
私は機工銃を胸へ抱き寄せて、まださっきまでの余韻を、熱を帯びた銃身を抱きしめた。
ほんの少しだけ。
じいちゃんの体温が残っている、そんな気がした。
「……借りるね。」
自然と口から零れた。
返事はない。
それでも。
怒られなかった。
そのことが、どうしようもなく寂しかった。
私はゆっくり立ち上がる。
真正面には仮面の男。その足元には、崩れ落ちた《魔導魂魄》の残骸。
夜明けの光を浴びて、黒い龍脈は灰となり風へ散っていく。
「見事だった——」
仮面の男は静かに拍手を止めた。
「まさか都市修復機構を、自らの生命を代価に完成させるとは」
その声には嘲笑も怒りもなかった。
ただ純粋な感嘆だけがあった。
「惜しい……」
男は小さく息を吐く。
「実に惜しい。彼ほどの機工士は、二度と現れないだろう」
私は何も答えなかった。
怒りで言葉が出なかったわけじゃない。
もう、この男へ言葉を向ける必要はないと思ったからだ。
代わりに。
私はジルの機工銃をゆっくりと肩へ担ぐ。
重い。だけど、不思議と潰されそうにはならなかった。
肩へ馴染まない感触が、逆に心を引き締めたんだ。
「……じいちゃん」
小さく呟く。
「まだ全然、似合わないね」
少しだけ笑う。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま。
「でも」
機工銃を握る手へ力を込める。
「いつか、この重さが似合う機工士になる」
風が吹いた。
工房の方角から。
油と鉄の匂いを運ぶ、懐かしい風。その風に背中を押されるように、一歩前へ踏み出す。
「だから」
私は仮面の男を真っ直ぐ見据えた。
もう、その瞳は揺れていない。
「あなたの壊したものは——」
龍脈が、私の足元で蒼く脈打つ。
「全部、私が直す」
その宣言は、復讐ではなかった。
機工士として生きると決めた、一人の少女の誓いだった。
「私の目的はひとまずのところ達成された……ここにはこの都市の英雄へ黙祷を捧げにきただけだ。また——近いうちに会おう、機工士の巫女よ——」
仮面の男はそのまま自身の姿を塵へと変えて明け方の空に散っていった。
呼応するかの様に。都市中を流れる龍脈が、まるで応えるように一斉に輝きを増して、ジルが繋いだ未来は、確かに今、ギルベルタへ受け継がれた。




