「ジル・ストライド・ヴァンダート」Ⅱ
蒼い光が、夜空を呑み込んだ。
街中を巡っていた龍脈が、まるで一本の大河になったようにジルのもとへ集まっていく。石畳が震え、街路樹がざわめく。
崩れかけていた時計塔の歯車が、長い眠りから目覚めるように、ゆっくりと回り始めた。都市そのものが、生きている。そう思えるほどの鼓動が、大地の奥から響いていた。
「……馬鹿な」
仮面の男が一歩退く。
「都市全域の龍脈を同期させたというのか……!」
ジルは何も答えない。
その皺だらけの手で、静かに機工銃を支えているだけだった。
だが、その肩が小さく上下していることに、私は気付いてしまった。
「……っ」
息が荒い。違う。苦しんでる。
あの人は、もう限界なんだ。
それでも立っている。
私の前では、一度だって苦しい顔を見せないまま。
「じいちゃん……」
震える声は届かない。
届いていても、きっと振り返らない。
あの背中は、そういう背中だから。
ドクン——ドクン——龍脈が、また脈打つ。
その瞬間、ジルの腕を覆っていた肉体機工補助に、小さな亀裂が走った。
パキッ。
乾いた音。
「……え?」
目を疑った。機工が壊れたんじゃない、違う。砕けているのは、その内側だった。亀裂から零れ落ちた蒼い光が、蛍のように夜空へ舞い上がる。
あれは——あれは、じいちゃん自身の龍脈だ。
「やめて……」
思わず光の柵へ縋りつく。
「お願いだから……」
壊れて。お願い。
一度くらい私の言うことを聞いてよ。
何でも直せるって言ってたじゃない。
だったら。
自分くらい。
涙が止まらない。
視界が滲む、その向こうで。
ジルは静かに《魔導魂魄》を見つめていた。
「長いこと……苦しかったな」
その声は、まるで昔、傷ついた龍脈獣を撫でていた時と同じだった。
「もう終わりじゃ」
蒼い光が広がる。
《魔導魂魄》の赤黒い龍脈が、音を立てて軋み始めた。
閉じ込められていた魂たちが、一斉に光へ手を伸ばす。
『あ……』
『あたたかい……』
『光だ……』
その一つ一つの声に応えるように、ジルはゆっくりと目を閉じた。
「遅うなってすまん」
その一言だった。謝る必要なんてない。誰も責めてなんかいない。
なのに——あの人は最初に謝った。
その瞬間。
私の中で何かが音を立てて崩れた。じいちゃんは最後まで——最後の最後まで。誰かを助ける側の人なんだ。自分が死ぬことより。助けられなかった人の方を気にしてしまう人なんだ。
「いやぁぁぁぁぁっ!!」
気付けば叫んでいた。拳が砕けるほど光の柵を叩く。血が飛び散って——それでも止められない。
「お願いだから帰ってきてよ!!」
「私はまだ……!」
「まだ何も返せてないんだよぉッ!!」
その叫びに。
ジルは、ほんの少しだけ肩を震わせた。
そして——誰にも聞こえないほど小さく、嬉しそうに笑った。
嬉しそうに笑ったんだ。その笑顔を見た瞬間、私は、泣くことさえ忘れてしまった。
ああ。
この人は、決めてしまったんだ。昔からそうだった。
一度「やる」と決めた仕事は、どれだけ危険でも途中で投げ出したことなんて、一度もなかった。
吹雪の夜。
崩れかけた橋を一人で直しに行ったことも。
龍脈炉が暴走した工房へ真っ先に飛び込んだことも。
街のみんなは笑って言っていた。
——ジルなら何とかしてくれる。
その言葉を、私は誇らしく思っていた。
けれど今は違う。そんな期待なんて、背負わせたくなかった。
「……帰って……きてよ」
声にならない。
喉の奥で潰れていく。
「お願いだから……」
龍脈の光が強くなる。
老人の足元から広がった蒼い光は、大通りから工房街へ。
市場——そして住宅街へ。まるで毛細血管のように張り巡らされた龍脈路を駆け巡り、この街すべてを包み込んでいく。
すると。街中で倒れていた機工たちが、次々と息を吹き返した。
止まっていた時計が——折れた街灯が静かに起き上がる。
崩れた水路から澄んだ水が流れ始め、誰もいないはずの工房では、風鈴が小さく鳴った。
カラン——。
その音を聞いた瞬間、私は思い出した。
まだ幼かった頃。
工房の窓辺で居眠りをしてしまった私へ、じいちゃんが毛布を掛けながら言った言葉。
『街が元気なら、人も元気じゃ。じゃから、まず街を直す』
あの頃は意味なんて分からなかった。
でも今なら分かる。
じいちゃんはずっと。
機械を直していたんじゃない。
人が笑って暮らせる場所を、直し続けていたんだ。
その背中を見て育ったから。
私は——機工士になりたいと思ったんだ。涙で滲む視界の向こうに、ジルがゆっくりと《魔導魂魄》へ向かって右手を伸ばす。その掌は、大きく、傷だらけだった。油に染み込んだ皺。火傷の跡。刃物で切った古い傷。どれも、この人が誰かのために働いてきた証だった。
「怖かったじゃろ」
静かな声。
「苦しかったじゃろ」
《魔導魂魄》の巨大な身体が、小さく震える。
無数の魂の叫びが、少しずつ静まっていく。ジルは、まるで泣いている子どもへ話しかけるように続けた。
「もう頑張らんでええ」
「ここからは、わしの仕事じゃ」
その一言と同時に。
老人は《魔導魂魄》の外殻へ、そっと掌を当てた。
刹那。
ゴォォォォォッ――!!
蒼い龍脈が奔流となって溢れ出す。赤黒い回路が、一筋、また一筋と蒼へ染まり始めた。それは破壊ではなく修復だった。壊れた龍脈を、歪められた魂を、引き裂かれた命の流れを。
一つひとつあるべき姿へ戻していく。それは誰よりも優しく、誰よりも残酷な機工士にしかできない、最後の修理だった。
蒼い光が、《魔導魂魄》の全身を駆け巡る。
まるで血液が流れ直すように。
赤黒く濁っていた龍脈が、一筋、また一筋と澄んだ蒼へ還っていく。
ギギギギギ……
異形の身体が震えた。
苦しみに身をよじるように。
それでも、その震えは先ほどまでの暴走とは違っていた。
何かを壊そうとする震えではない。
長い悪夢から目を覚まそうともがくような、小さな、小さな震えだった。
「ぁ……」
私は息を呑んだ。
聞こえる。まだ聞こえる。
あの人たちの声が。
『あったかい……』
『もう……痛くない……』
『帰れるの……?』
一人。
また一人と。
泣き叫んでいた声が、穏やかなものへ変わっていく。
そのたびに、《魔導魂魄》を覆っていた黒い龍脈が、灰となって風へ溶けていった。
「そうじゃ……」
ジルが静かに頷く。
「安心せぇ」
老人の掌から流れる光は、さらに強くなる。
「ちゃんと帰してやる」
その声は、機工士というより。
子守歌を歌う祖父のようだった。
私は思わず笑ってしまう。
涙でぐしゃぐしゃのまま——こんな時なのに。じいちゃんは最後まで、誰かを安心させる声をしていた。
だけど。
「……!」
次の瞬間だった。
ジルの肩が、大きく揺れた。
ボタリと、石畳へ赤い雫が落ちる。
「じいちゃん!」
口元から流れた血だった。
老人は袖で乱暴に拭う。
「——騒ぐな」
そう言って笑う。
でも、その笑顔は苦しそうで、蒼い光が強くなるほど——老人の髪から色が抜けていく。深かった皺はさらに刻まれ。大きかった背中が、少しずつ、小さく見えていく。
まるで。
自分の命そのものを龍脈へ流しているように。
「やめて……」
私は光の壁へ身体をぶつけた。
ドンッ!
鈍い音だけが返ってくる。
「やめてよ……!」
何度も。
何度も。
また拳を叩きつける。
「もう十分だから!」
「街なんてどうでもいい!機工なんていらない!だから帰ってきてよ!」
叫んだ瞬間。
自分でも何を言ったのか分からなかった。
機工士になりたいと言い続けてきた私が。
その夢さえ投げ捨てるほど。
ただ——じいちゃんを失いたくなかった。ジルは、小さく肩を震わせて笑っている。
「馬鹿もん」
振り返らないまま言う。
「そんなこと言う子に育てた覚えはないぞ」
その一言で私は何も言えなくなった。
違う。そうじゃないの。私は機工が嫌いなんじゃない。
ただ。
じいちゃんがいない世界なんて、嫌だった。
それだけだった。
ジルは静かに目を閉じる。
「……見とれ」
老人の声が、夜に溶ける。
「機工士が、人を還す仕事を」
その瞬間。
《魔導魂魄》の胸の奥から、一筋の蒼い光が空へ昇った。
続いて、もう一つ。
また一つ。
少女の姿をした光。老人の姿をした光。兵士の姿。母親の姿。子どもの姿。
無数の魂が、柔らかな光となって夜空へ舞い上がっていく。
その誰もが。
もう苦しそうな顔はしていなかった。
穏やかに——安らかに。微笑みながら、ジルへ向かって、深く頭を下げていた。
その光景を見た瞬間、私はようやく理解した。
じいちゃんは、壊れた機械を直していたんじゃない。
最後まで。
最後の最後まで。
壊されてしまった”人の人生”を、繋ぎ直していたのだ。
夜空へ昇っていく光は、まるで流星の雨だった。
一つ。
また一つ。
苦しみから解き放たれた魂が、蒼い龍脈へ溶けるように還っていく。
その光景はあまりにも美しくて。
あまりにも悲しかった。
私は、泣くことしかできなかった。
「……じいちゃん」
呼んでも。
返事はない。
老人はただ、《魔導魂魄》へ手を当て続けている。
その背中は、もう光の中へ溶け始めていた。
肩から——腕から。
蒼い粒子が静かに舞い上がっていく。
「……っ!」
違う。
違う違う違う。
そんな終わり方、認めない。
私は光の柵へ両手を叩きつける。
掌が更に裂けた。
血が流れて——こんなに手を傷つけてごめんなさい。
それでも——止められないよ。
「開いて……!」
お願いだから。
「お願い……!」
私も機工士なんだよ。
一緒に直したい。
一緒に帰りたい。
一緒に工房へ帰って——また朝になったら——。
「ギル。」
不意に——優しい声が聞こえた。
私は顔を上げるがジルは振り返っていなかった。
それでも分かる、私へ話しかけているって事は。
「工房の一番奥」
「……?」
「机の下に、古い木箱がある」
涙で視界が滲む。
「それ……今言うことなの……?」
思わず笑ってしまった。
泣きながら。
こんな時なのに——じいちゃんは本当に——最後まで、じいちゃんだった。
「中に……」
老人は少し照れくさそうに続ける。
「お前が初めて削った歯車……入れてある」
「……え?」
「あれ、捨てる言うたじゃろ」
「……うん」
「——嘘じゃ」
一瞬だけ。
静かな笑い声が響いた。
「ちゃんと磨いて、とっといた」
胸が締め付けられる。
覚えていたんだ。
あの日——歪んだ歯車しか作れなくて、泣きながら捨てようとした私を。
『失敗は捨てるもんじゃない。』
『次を作るための部品じゃ。』
そう言って笑っていたことを。
「全部……」
老人が呟く。
「全部、とっとる」
「初めて作ったレストアレンチも——初めて失敗した設計図も。工房を焦がした時の煤だらけの手袋も。」
思わず息が止まる。
「じいちゃん……」
「全部」
少しだけ。
声が震えた。
「わしの宝物じゃ」
堪えていた涙が、一気に溢れた。
もう駄目だった。
子どもみたいに泣き崩れる。
「……帰ろうよ」
嗚咽で言葉にならない。
「帰って……また工房で……私、朝ご飯作るから……。じいちゃんはレナさんと……お喋りしてていいから……だから…」
その願いは。
あまりにも小さくて。
あまりにも当たり前で。
だからこそ、叶わないことが、誰よりも苦しかった。
ジルは静かに目を閉じると、小さく笑った。
「……すまんな」
その一言だけだった。
謝る必要なんてないのに。
その「すまんな」が。
祖父としての。
家族としての。
最後の言葉なのだと。
私は、嫌というほど理解してしまった。
次の瞬間。
ドクン――と。
都市中の龍脈が、一つの鼓動を刻んだ。
ジルの身体から溢れ出た蒼い光が、一気に《魔導魂魄》を包み込む。
黒い龍脈が砕け散る。
悲鳴が歓声へ変わる。
夜空へ昇る無数の魂が、最後に一斉に振り返った。
その視線の先にいたのは——英雄でも。
救世主でもない。
油にまみれた作業着を着た、一人の老機工士だった。
そして——
ジルの傷みきった作業帽が、ふわりと宙へ舞った。
蒼い光が、静かに街を満たしていく。
《魔導魂魄》を覆っていた赤黒い龍脈が、少しずつ剥がれ落ちるように消えていく。そのたびに、一つ。また一つ。閉じ込められていた魂が、柔らかな光となって夜空へ昇っていった。
『ありがとう』
『帰れる……』
『やっと……終われる』
誰も叫んでも——泣いてもいなかった。みんな、穏やかな顔だった。その光景を見ているだけで、胸がいっぱいになる。これが、じいちゃんのやりたかったことなんだ。壊された命を、元へ戻すこと。救えなかった人を、一人でも多く送り返すこと。機工士は、機械や肉体機工補助だけを直す仕事じゃない。その意味を、私はようやく理解した。
けれど。
「……じいちゃん?」
違和感があった。
返事がない。
さっきまで聞こえていた機工銃の駆動音も、いつの間にか止んでいる。
嫌な予感が、背筋を這い上がる。
ジルは《魔導魂魄》へ手を添えたまま、微動だにしていなかった。
「じいちゃん……?」
私は震える声で、もう一度呼ぶ。
返事はない。
老人の肩から、力が抜けていく。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
支えていた腕が下がっていく。
それでも最後まで、その掌だけは《魔導魂魄》から離れなかった。
まるで。
最後の最後まで、『修理』の途中で手を止めたくないと言うように。
「……終わったぞ」
かすれた声だった。
聞き慣れた。
優しい声。
「みんな……帰れた」
その一言に。
夜空へ昇っていた光が、一斉に瞬いた。
まるで返事をするように。
私は泣きながら頷く。
「うん……帰れたよ……」
老人は満足そうに、小さく笑った。
「そうか……」
その笑顔は。
私が物心ついた頃から、一度も変わらなかった笑顔だった。
「なら……良かった」
その瞬間。
ガシャン——。
静かな音が響く。
ジルの手から、機工銃が零れ落ちた。街中の誰よりも大切に扱ってきた、あの機工銃を。指先から離れて鈍い音と共に地面を打った。
「……っ!」
私は——ジルが機工を手放すなんて。そんな所、一度も見たことがなかった。老人の身体が、ゆっくりと——前へ傾く。
「じいちゃんッ!!」
その瞬間だった。
私を閉じ込めていた光の柵が、音もなく消えた。
私は何も考えず走った。転んで。立ち上がって。
また転んで。
涙で前なんて見えなかった。足も上手くほつれて動かない。
それでも。その背中だけを追い続けた。
「——じいちゃん!!!」
抱き留めた身体は、驚くほど軽かった。さっきまで、あんなにも大きく見えていた背中が。
今は私の腕の中へ、すっぽり収まってしまう。
「帰ろう……」
震える声で言う。
「工房へ帰ろう………レナさん……待ってるよ…。それに、まだ朝ご飯も食べてないじゃん……」
「起きてよ……」
返事はない。けれど——ジルの口元には、ほんの少しだけ笑みが残っていた。その顔を見た瞬間、私はようやく分かった。この人は最後まで誰かを救えたことを、心から喜んでいたのだと。
だから私は。
その温もりが消えていく腕の中で。
声が枯れるまで泣き続けたの——。




