「ジル・ストライド・ヴァンダート」
だって——その為の——。
その言葉の続きを、私は知らない。知らないはずなの。胸の奥で脈打つ龍脈が、誰かの記憶を掬い上げるように震えた。
『……帰りたい』
『助けて』
『まだ——生きたい』
無数の声が重なって、そのどれもが苦しいのに、不思議と私を責める声は一つもなかった。ただ——誰かに見つけてほしかっただけなんだ。
暗い場所で長い時間、ずっと——ずっと待っていたんだ。
そのことが分かった瞬間、胸の奥が張り裂けそうになった。
「……っ」
涙が止まらない。たくさんの感情が湧き上がっては泡の様に弾けていく。怖い。苦しい。でも、それ以上に。この人たちを置いていけない。
そう思ってしまった。
「じいちゃん……」
震える声で名前を呼ぶ。
ジルはゆっくりと私を見る。
その目は、いつも工房で見ていた優しい目だった。失敗して泣いた日も。初めて機工の歯車を削れた日も。私が「機工士になる」と胸を張った日も。ずっと変わらず隣にいてくれた人の目——。
「助けられる……よね……」
自分に言い聞かせるように。
私喉を震わせた精一杯に呟いた。こんな声で呼んだのは、いつ以来だろう。転んで膝を擦りむいた日以来かもしれない。あの時も、じいちゃんは「大丈夫じゃ」と笑って、私を抱き上げてくれた。
「この人たち……助けられるよね……?」
ジルは少しだけ目を細めた。
それだけだった。だけれど、その小さな仕草だけで、私は答えをもらった気がした。
「ああ」
短い返事。必要最低限の——いつもの返事。本当に集中してる時、じいちゃんは無口だって知ってるから——胸が熱くなる。
——でも。
次に続いた言葉で、胸の奥が急激に冷たくなっていくのがわかった。
「お前ならな」
……違う。
その言い方は、まるで自分はもう一緒にいられないみたいで。嫌な予感だけが、胸の中で静かに膨らんでいく。ジルは地面に固定した機工銃を握り直す。ガギン、と重い音が辺りに気持ちよく響く。都市修復機構を流れる龍脈が、その音へ応えるように低く唸った。
嫌だ。
その音を——私は嫌というほど知っている。工房で何度も聞いた。何かを——完成させる時の音。職人が、最後の一手を打つ時の音だ。
「じいちゃん……?」
老人は苦笑した。
「そんな顔するな」
「だって……じいちゃん……」
「わしはな——」
少し照れくさそうに鼻を掻いて。いつもの素振りなんてやめてよ。
「機工技師……じゃろ」
その一言が。どうしようもなく、じいちゃんらしいよ。
「壊れたもんを見つけたら——」
機工銃を肩へ担いで——
「——直さにゃ気が済まん」
老人の視線はその助けを求める「魔導魂魄」ではない。その中に閉じ込められた人たちへ向いていた。
「こんなもん放っといたら」
「夜も眠れんじゃろ」
ああ。まただ。壊れた時計を拾って帰ってきた時も。行き倒れの獣を抱えてきた時も。じいちゃんは、いつだって同じことを言って笑っていた。それが、この人だった。思わずいつもの調子に口元が——笑いそうになる。こんな時なのに。そんな、いつもの調子で言うから。でも。
その笑顔が、あまりにも優しくて。私は——涙を抑えられなくて。
「……嫌だ」
首を振る。
「嫌だょ……」
子どもみたいな声だった。
「まだ教えてもらってないこと、いっぱいあるじゃん……私、一人じゃ何もできないよ……」
涙で前が見えなくて。そんな私をジルは少し困ったように笑った。
「何言っとる」
ゆっくり歩いてきて。大きな手で、私の頭をぽん、と叩く。子どもの頃から変わらない、不器用だけど、あったかい手。
「もう、お前は一人前じゃ」
「そんなわけ……!」
「ある」
言い切った。
迷いなく。
「気付いてねぇのは、お前だけだ」
私は言葉を失う。
「わしは——」
老人は照れくさそうに笑う。
「お前に教えることなんぞ、もう残っとらん」
その言葉が。
胸に突き刺さる。
違う。
そんなことない。
もっと。
もっと一緒にいたい。
もっと褒めてほしい。
もっと叱ってよ。
もっと——。
「じいちゃん……」
「ギル」
老人は私の肩へ手を置く。
「ありがとう」
その一言だった。
今まで一度も言われたことのない言葉。
「お前が孫で」
少しだけ——じいちゃんの声が震える。
「本当に、幸せじゃった」
堰を切ったように涙が溢れた。
「やめて……そんなこと言わないで……やめてよ!」
嫌な予感が、確信へ変わる。ジルは静かに笑う。
「ほれ。泣き虫は変わらずじゃな」
子どもの頃と同じように。
涙を親指で拭ってくれた。
「笑っとれ」
炎に照らされた老人の笑顔は。
誰よりも穏やかだった。
「機工士はな——」
ゆっくりと私から手を離す。
「未来を繋ぐ仕事じゃ」
その背中が離れていく。
一歩。
また一歩。
私は伸ばした手を掴めない。
掴んでしまえば。
本当に、この人は——。
「だから」
最後まで振り返らず。
ジルは静かに言った。
「未来は、お前に任せた」
その言葉だけを残して。
じいちゃんは、もう振り返らなかった。
「待って……!」
声が掠れる。伸ばした手は、届かない。
一歩。
また一歩。
大きな背中が魔導魂魄へ向かって歩いていく。
いつも見てきた背中。
工房で年甲斐もなく、いつも重たい機工を軽々と担いでいた背中。街中の故障を直して回る背中。冒険者達の無理難題に笑いながら応える背中。
私が泣きながら追いかけてきた、大きな、大きな背中。
そのはずなのに。今だけは、どうしようもなく小さく見えて——胸が苦しくて。
「ジルじいちゃんッ!!」
叫びながら駆け出そうとする。だが、その瞬間。
ズォッ――!!
私の足元を蒼い龍脈が駆け抜けた。
「え……?」
石畳からせり上がった龍脈路が、まるで意思を持つように私の前へ幾重もの光の柵を築く。
「な、なんで……!」
叩いた。
殴って——揺さぶってるのに。
びくともしない。無意識に肉体機工補助を起動してこじ開けようとしている。なのに。なのに——
「壊れてよッ!」
拳を何度も光の柵へ打ちつける。
掌が切れて血が滲む。
それでも光の壁は、優しく私を押し返すだけだった。
いつもなら何でも直してしまうじゃない。
どうして今日に限って——私の願いは聞いてくれないの。私はこんな未来なんて望んでない。
「じいちゃん!!」
ジルは足を止めない。ただ片手を軽く上げた。
いつものように。
『ちょっと待っとれ』
そう言う時と同じ仕草だった。
「待たないよ……!」
涙で視界が滲む。
「ねぇ……!もう待たない!もう一人で行かないでよ!」
初めてだった。
こんなふうに祖父へわがままをぶつけたのは。
まだ私が工房の暮らしに慣れていない頃。熱を出して仕事へ行くじいちゃんを困らせた日以来かもしれない。
「お願いだから……!」
喉が裂けそうになる。
「私も行くから……!」
「一緒に直そうよ!」
「機工士は、一人じゃないって……!」
その言葉に。
ジルが、ほんの少しだけ立ち止まった。
肩が、小さく震える。笑ったのだと、後ろからでも分かった。
「……そうじゃな」
静かな声。
「よく覚えとる」
それだけだった。
また歩き出す。
私は必死に光の柵を叩き続ける。
壊れてよ。なんでこんな事するの。
私は望んでない。こんな結末望んでない。
「違う!」
「違うよ!」
「覚えてるなら!どうして一人で行くの?!」
返事はなかった。
代わりに。
ジルはゆっくりと機工銃を持ち上げる。
その銃身を、魔導魂魄ではなく。都市の中心へ向けて引き金を引いた。
ガギン。
内部で幾つもの歯車が噛み合う。聞いたことのない駆動音だった。
「じいちゃん……?」
嫌な予感が、確信へ変わる。
工房の地下。誰も見た事のない設計図——肉体機工補助の原本。——都市修復機構。その最後の一頁だけ、破り取られていた理由。
今なら分かる。わかったんだ。喉が震える。
「その機工……」
ジルは苦笑した。
「最後まで、隠し通せんかったか」
老人はゆっくりと目を閉じる。
「都市修復機構、最終調整——肉体機工補助終型——起動》」
魔導魂魄を晒した原因の、その仮面の男の顔色が急激に変わった。
「やめろ!」
初めてだった。
あの男が叫んだのは。
「それを起動すれば!お前自身の生命が燃え尽きるぞ!!誰があの原本を継ぐのだ!!」
ジルは肩を竦める。
「何を言っとるんじゃ……そこに自慢の一番弟子がおるじゃろう」
老人は静かに笑う。
その笑顔は、不思議なくらい穏やかだった。
「魔導技術、龍脈技術、機工技術——その中でも龍脈ってのはな……」
足元の蒼い光が、一層強く輝き始める。
「流れるもんなんだ。止めたら腐っちまう。次へ流してやって、初めて意味がある。循環するんだ。生命と同じだ」
ゆっくりと振り返る。
その瞳は、真っ直ぐ私だけを見ていた。
「ギル」
「……っ!」
「お前も流すんだ。人の想いも。技も。未来も。全部抱えて」
私は首を振ることしかできなかった。嫌だと言えば、この人は困ったように笑って帰ってきてくれるだろうか。そんな子どもじみた期待を、最後まで捨てきれなかった。
「繋いでいけ」
その言葉と同時に。
都市中の龍脈が、一斉に咆哮を上げる様に異音を上げた。
夜空を貫く蒼い光柱が、ジルの身体を包み込む。
私は叫ぶ。
叫び続けた。なのに。
「じいちゃん――ッ!!」
それでも。
その声は。
轟く龍脈の奔流に、静かに呑み込まれていった。




