第四話 光の聖女と、鉄血の皇帝の誓い
レナの回復には、ひと月かかった。
アリアが毎日手を当て続け、光を注ぎ続けた。じわじわと、しかし確実に、レナの体は取り戻されていった。最初の一週間は、目を開けているのがやっとだった。二週間目には会話ができるようになった。三週間目には、支えがあれば立てるようになった。そして四週間目、レナは自分の足で歩いた。
その間、アリアは気づいていた。毎日、決まった時間に廊下で皇帝の気配がすることを。覗きに来ているわけではない。ただ廊下を通り過ぎるだけ。でも、その頻度は明らかに不自然だった。執務室から謁見の間へ向かうルートでもなければ、食事室への近道でもない、あの廊下を。
「陛下が心配してくださっているんですよ」
セリアが耳打ちした。
「アリア様のことを、毎日様子を聞きに来られます。お疲れではないか、食事はとれているか、と。あと……レナ様が痛がっておられないかも、毎回聞かれます」
アリアは少し驚いて、それからくすりと笑った。敵国から来た病人のことまで心配している。それが自然にできる人なのだ、この皇帝は。
ある夕方、レナが少し眠れるようになった日に、アリアは庭に出た。帝城の中庭は整えられた石畳と、季節の花々が美しかった。白と薄紫のハナミズキが咲き、芳しい香りを漂わせている。夕日に染まる白大理石の柱が、橙色に輝いている。
アリアはベンチに腰を下ろし、目を閉じた。空気を吸うと、花の香りと夕暮れの涼しさが肺に広がった。こんなふうに、ただ座っているだけで心が安まる場所が、ここにはある。
「疲れたか」
背後から声がした。皇帝だった。いつの間に来たのだろう。侍従もなく、一人で立っている。
「いえ。ちょっと空気を吸いに」
「……レナという女は、回復しているか」
「はい。あとひと月もすれば、普通に生活できるようになると思います。力の制御も、少しずつ教えています」
「そうか」
アドリアンはアリアの隣のベンチに、少し間を置いてから腰を下ろした。二人並んで、同じ夕日を見た。
「お前は、惜しみなく力を使う。自分の身を削っていないか」
「私の光は、削れません。もとが違うので」
「どういう意味だ」
アリアは考えながら答えた。
「レナの力は、自分の生命力を変換して癒しに変える力です。だから使えば使うほど消耗する。でも私の光は……もっと外から取り込む感じで。太陽の光とか、星の光とか。自分の力をそのまま使うわけじゃないんです。だから長く使っても、枯渇しない」
「だから三年間、枯渇しなかったのか」
「はい。地味だけど、長持ちするのが私の力の特徴で」
沈黙があった。夕日がゆっくりと沈んでいく。空が橙色から、薄紫へと変わっていく。風が花の香りを運んできた。
「……私の母も、同じだった」
アドリアンがぼそりと言った。
「お前の話を聞いて、やっとわかった。母は力を使い果たしたのではなく、間違った方法で使い続けたんだ。外から取り込む方法を知らずに、自分の命を削り続けた」
「……」
「正しく教えてくれる者が、そばにいれば。母は死なずに済んだかもしれない」
アリアは何も言えなかった。ただ、静かに皇帝の横顔を見た。夕日の光の中で、その表情は珍しく、柔らかかった。鉄血などではない。ただ、大切な人を失った悲しみを抱えた、一人の息子の顔だった。
「お前がここに来て、よかったと思っている」
その言葉は、抑制されているのに、確かな重みを持っていた。アリアの心が、じんと温かくなった。
「私も……来てよかったと思っています。毎日」
「アリア」
「はい」
「……ここに留まれ。永遠に」
唐突な言葉だった。アリアは目を瞬かせた。
「それは……どういう意味ですか」
「字義通りの意味だ。私の傍にいろ。光魔法師としてではなく」
「では、なんとして?」
アドリアンはアリアの方を向いた。いつもの冷たい銀灰色の目が、珍しく真剣で、そして少しだけ、不安そうだった。
「皇后として」
世界が止まった気がした。アリアは数秒、完全に固まった。
「……ぇ」
「聞こえなかったか。皇后にと言った」
「き、聞こえました。でも……」
「嫌か」
「嫌じゃないです!」
思わず大きな声が出た。アドリアンの目がわずかに丸くなった。アリアは顔が熱くなるのを感じながら、続けた。
「嫌じゃないです。ただ……驚いて。私でいいのですか。追放された元聖女候補で、派手な力もなくて」
「派手な力は不要だ。じわじわと、長く続く力が必要だ。そしてお前は、じわじわと私の凍った心も溶かした。気づいたら、お前の笑う声を廊下で聞くだけで、仕事に集中できなくなっていた」
アリアは目頭が熱くなるのを感じた。まさか皇帝からそんな言葉が聞けるとは思っていなかった。
「陛下……」
「アドリアンと呼べ。二人のときは」
「……アドリアン様」
「様も不要だ」
「アドリア……ン」
名前を呼んだ瞬間、アドリアンの口元が、ゆっくりと弧を描いた。初めて見る、本物の微笑みだった。厳しいだけだと思っていた顔が、こんなにも変わる。アリアは少しぼうっとした。
「……それでいい」
空が薄紫から、深い青へと変わっていった。最初の星が輝き始める。
アドリアンの手が、そっとアリアの手に重なった。大きな、温かい手だった。
翌週、正式に婚約が発表された。カルスタ帝国皇帝と、光魔法師アリア・ルーセルの婚約。
知らせはあっという間に大陸中に広まった。もちろん、ラインハルト王国にも。
発表の翌日、アリアは皇后としての礼服の採寸を受けた。金糸で刺繍された白いドレスになるのだという。試着室の鏡の前で、アリアは一人立ち、自分の顔を見た。三ヶ月前と比べて、顔色がよくなっていると思った。目に、力が宿っている気がした。
扉が開いて、アドリアンが入ってきた。礼服姿の裁縫師たちが一斉に頭を下げ、そそくさと退室した。
「なぜここに……」
「様子を見に来た」
アドリアンはアリアの前に立ち、その顔をじっと見た。
「……よく似合う」
「まだ完成していませんよ」
「関係ない。お前が着ているから似合う」
直球な言葉だった。アリアは頬が熱くなるのを感じた。
「陛下は……たまに、えらく率直なことをおっしゃいますね」
「いつも率直だ」
「普段は寡黙なのに」
「お前にだけだ」
その一言で、アリアは完全に言葉を失った。アドリアンはそんなアリアを見て、かすかに口元を緩めた。どうやら、驚かせるのを楽しんでいる節があるらしい。
エドワードがどんな顔をしたか、アリアは知らない。知らせてくれた使者の言葉によれば、「長い沈黙の後、静かに部屋に引き取られた」とのことだった。でも、今はもう関係なかった。
回復したレナが旅立つ朝、アリアは城門まで見送った。レナはまだ少しやつれているが、目に力が戻っていた。
「……ありがとう、アリア。助けてもらって。それだけじゃなく、力の使い方も教えてもらって」
「元気でね。あなたの力は本物だから、大切に使って。外から光を取り込む方法、忘れないで」
「うん。絶対」
レナは少し涙をこらえながら、それでも笑った。
「幸せになって。皇帝陛下と」
「なる予定」
アリアはにっこりと笑い返した。
馬車が走り去った後、背後から大きな手がアリアの肩に乗った。
「見送りは終わったか」
「はい」
「ならば戻れ。今日は大陸各国への婚約の使者を送る日だ。お前も同席しろ」
「わかりました」
アリアは並んで歩き出した。日が高くなってきた空の下、白い帝城が輝いている。
廊下を歩きながら、アリアはふと聞いた。
「陛下。婚約を発表してから、大陸の各国からずいぶん使節が来ていますね」
「そうだな」
「私のことを確かめに来ているんですよね?どんな女かと」
「……問題があるか」
「いいえ。ただ、皆さん、私が思っていたより普通の反応で驚いています」
「普通とは」
「てっきり、敵国の元聖女候補などと、反発される方が多いかと思っていたんですが。割と皆さん、温かい目で見てくださっていて」
アドリアンは少し間を置いた。
「……私が根回しした」
「え?」
「お前がここで何をしているか、どういう人間かを、事前に各国に伝えさせた。レナの件も含めて。お前が敵を助けられる人間だと知れれば、反発は少ない」
アリアは止まりそうになった足を、なんとか動かし続けた。
「……いつから、そんなことを」
「婚約を決めた日からだ」
それはつまり、プロポーズする前から、アリアのことを守る準備をしていたということだ。
アリアは前を向いたまま、こっそりと目をしばたかせた。泣きそうになるのを、なんとかこらえた。
「……ありがとうございます」
「礼は不要だ。当然のことをしただけだ」
でも、当然ではない。そんなことをしてくれた人は、今まで一人もいなかった。エドワードとの婚約中は、常にアリアの側が気を配り、気を遣い、それでも「偽物」と言われた。
この人は違う。気づかないふりをして、でも確実に、隣で支えてくれている。
「陛下」
「なんだ」
「……好きです」
言葉が口から出た後で、アリアはハッとした。廊下の中央で、思わず告白してしまった。
アドリアンが止まった。アリアも止まった。
しばらくの沈黙。
「……」
「す、すみません、急に。でも本当にそう思っているので」
「アリア」
「はい」
「私もだ」
短く、でも確かな言葉だった。アドリアンは視線を前に向けたまま、また歩き始めた。追いかけながら、アリアはしっかりと顔が赤くなっているのを感じた。先ほどのアドリアンの耳も、確かに赤かった。
追放されたあの朝、アリアには行き先がなかった。でも今は、ここがある。ここに、帰る場所がある。
光を取り込んで、溢れさせて、人の心をじわじわと温める。そんな力を「偽物」と言った人がいた。でも今、隣を歩く人は「必要だ」と言った。「お前がいてよかった」と言った。
「アリア」
「なんですか?」
「……今日も、顔色がいい」
不器用な褒め言葉だったが、アリアには十分だった。むしろ、この人らしくて、完璧だと思えた。
「ありがとうございます。陛下のそばにいるから、毎日幸せなので」
アドリアンは何も言わなかった。でも、その耳がまた赤くなっていた。アリアはこっそりと微笑んだ。
捨てられた聖女は、最強皇帝に溺愛される。
王国を追われたあの日が、実は最高の始まりだったと、後にアリアは何度でも思うことになる。
じわじわと、確かに、光は広がっていく。それがアリアの力であり、アリアの生き方だった。
(おわり)




