第9話 寝室の刃
夜半、寝室の窓が、外側から音もなく開いた。
私は、背後から、誰かの腕が首に巻きつくのを感じた。
そして、耳元で、義妹の声が――囁いた。
「お久しぶりね、お姉様」
セシリアの声は、いつもの清楚な聖女の声ではなかった。低く、嘲るような、別人の声色。
首に巻きついた腕の力が、強くなる。首筋に、冷たい刃の感触が、そっと、押し当てられた。
「動かないで。動いたら、すぐに、この刃が、あなたの首を切り裂くわ。私の魔力で操った下級兵士たちが、客間の周りで陛下の警備を引きつけているわ。誰も助けに来ない」
(――やっぱり、来た。でも、こうなることは、想定内)
「セシリア。魔力で兵士を操ったの?」
「ええ」
「やっぱり、聖女の力じゃなかったのね。暗示・幻惑系の魔法。違う?」
セシリアの腕が、わずかに緊張した。
「――知っていたの?」
「途中から、推測してた。聖女の治癒魔法を、私の前で一度も使わなかったから」
「察しがいいのね、お姉様。教えてあげる。私の本当の名前は、セシリア・フォン・アッシュフォードじゃない。私は――魔族が始祖と言われる、遠い国ザイデルンの諜報員、ノーラ・セルデン。十年前から、ヴァルデンツ王国に潜入していたの」
魔族が始祖と言われる、遠い国、ザイデルン。獣人国とは敵対関係にない。けれど、ヴァルデンツ王国とは古くから対立している国家。
つまり、セシリアはヴァルデンツ王国を内側から崩す任務で送り込まれていた、ということ。
「お父様も、義母様も、知っていたの?」
「義母は、知ってる。私の、実の伯母だから。お父様は、半分知って、半分騙されてるわ」
リリアーナの父。私を切り捨てた、あの父も、結局は他国の諜報員に騙されていた愚か者だった。
胸の奥が、鈍く、痛んだ。憎んでいるはずなのに、なぜだろう。父の、あの弱々しい笑い方――幼い頃、母が生きていた頃だけ見せてくれた、あの笑い方が、ふいに、脳裏をよぎった。
(でも、それは父の選択の結果。私の責任じゃない)
そう、自分に、言い聞かせた。言い聞かせなければ、痛みは、消えてくれなかった。
「セシリア――いえ、ノーラ。あなた、なぜ私の前に現れたの?」
「お姉様を、消すためよ」
セシリアの腕に、ぐっと力が入った。
「ザイデルンの任務は、ヴァルデンツ王国を、内側から弱体化させること。そして、私に与えられた最大の任務は、もともと、お姉様を消すことだったの」
「私を、消すこと?」
ようやく、それは、結びついた。
私が稀少な治癒魔法を持っていたのに、ヴァルデンツ王国の連中が、私を火刑にしようとした。ずっと頭の隅に引っかかっていた、その矛盾。
普通に考えれば、稀少な治癒の使い手は、王家にとって最重要の資源。火刑になんて、絶対にできない。それなのに、誰一人、止めなかった。
「お姉様の治癒魔法は、ヴァルデンツ王国の中で、稀少な貴重資源。それを奪えば、ヴァルデンツ王国の医療は崩壊する。ザイデルンにとって、これは長年の悲願だった」
「だから、私を……」
「ええ。だから私は十年かけて、お姉様の評判を、貴族層の中で『呪術師』に書き換えてきた。私の幻惑魔法で、レオン王子や貴族たちの認識を、少しずつ歪めて、刷り込んできたの」
誇らしげな響きが、声に混じった。
「『リリアーナの治癒は、本物の治癒力じゃない。呪詛で奪った、まがい物の力』『本物の聖女は、セシリア・フォン・アッシュフォード』。十年で、そう信じ込ませた」
リリアーナの記憶の、断片が、繋がっていく。
私が誰かを治しても、いつからか、感謝より先に「気持ち悪い」「魔女の力じゃないのか」と疑われるようになった。子供の頃は、領民たちは私を聖女のように慕ってくれていたのに、十五歳を過ぎた頃から、貴族の集まりで視線が冷たくなり始めていた。あれが、ノーラの工作の結果だったのか。
火刑の日、群衆が「魔女め」と叫んでいたのも、すべて、ノーラの十年の積み重ねだった。
「火刑は、私の十年の任務の、完成形になるはずだった」
初めて、悔しさが滲んだ声だった。
「お姉様ひとりを焼き殺せば、ヴァルデンツ王国は、自分の意思で『治癒の柱』を消した愚か者の国になる。ザイデルンの介入は、何ひとつ表に出ないまま、ヴァルデンツ王国は崩れる予定だった」
「だったの。過去形ね」
「ええ。火刑台で、お姉様が覚醒したから。あの圧倒的な魔力量を、レオン王子も、私も、ザイデルン本国も、目の当たりにしてしまった」
火刑の日、麻痺した喉から、彼が絞り出した最後の一言を、私は思い出した。
『殺すな……生け、捕り、に――』
「そう。あれを聞いて、私の任務は、書き換わったのよ」
湿った欲望が、声に滲んだ。
「『消す』から――『生け捕って、ザイデルンの戦略資源にする』に。本国は即決だった。奴隷魔導具で繋いで、ザイデルンの戦争と医療と、すべての場面で、お姉様の魔力を搾り尽くす。それが、新しい計画」
喉の奥が、ざらり、と乾いた。
「殺すより、惨いことを、考えたわね」
「ええ、自覚はあるわ。でも、お姉様も、死ぬよりはマシでしょう?」
「同じよ」
即答した。
「自分の魔力を、自分の意思以外で、誰かのために搾り取られる人生。それは、私には、火刑と同じ」
「あら、強気ね」
「だから、レオン王子は、昨日『戻ってきてくれ』なんて、白々しいことを言ったのね」
ようやく、つながった。
火刑から、まだ半月しか経っていないのに、私を呼び戻そうとしたレオンの本音は、「やり直したい」じゃなかった。「奴隷魔導具に繋ぐ前提で、自分の領内に連れ戻したい」だった。
「だから、今夜、あなたが直接来た」
「ええ。獣人国が私を完全に押さえ込む前に、私の手で、お姉様を生かしたまま捕らえて、ザイデルンまで運ぶ。それが、今夜の任務」
「無理よ」
「えっ?」
「私の寝室は、最初から罠よ」
その瞬間。
寝室の天井から、四方の壁から、無数の影が、音もなく現れた。獣人の戦士たち。漆黒の軍服。アッシュ率いる、白虎部隊の精鋭。ガレオン様直属の、王族護衛部隊。
「ノーラ・セルデン。投降しろ」
アッシュの低い声が、寝室に響いた。
「ッ――!」
セシリアが、私を盾にしようとした。
けれど、その瞬間。
私の手のひらから、淡い水色の光が、彼女に向かって伸びた。熱を奪う術を、彼女の両腕の動脈の血流に向ける。体温だけを、微小に下げる。
「な、何これ――腕の感覚が――」
「動けば、もっと冷やすわよ」
私は、彼女の腕の中から、ゆっくりと身体を引き抜いた。そして、一歩、彼女の前に立った。
「ノーラ。残念だけど、私は処刑台で死にそびれた女よ。そう簡単には、死なない」
こめかみの奥に、鈍い痛みが走った。奪う力を使うたび、決まって来る痛み。長くは持たない。
寝室の扉が、勢いよく開いた。
「リリアーナ!」
ガレオン様が、駆け込んできた。獣人化していない人型。けれど、その背後から、銀の毛並みの巨大な狼の幻影のようなオーラが、立ち上っていた。
「無事か」
「はい。ガレオン様、ノーラを捕縛してください。……早く」
わずかに、声が掠れた。ガレオン様が、一瞬、眉をひそめたのが、見えた。
金の瞳が、ノーラを射抜いた。
「貴様か。リリアーナを陥れたのは」
「――陛下。私は、ザイデルン王国の諜報員。私を傷つければ、ザイデルンは――」
「黙れ」
一言で、断ち切った。
「貴様は、すでにヴァルデンツ王国の聖女として偽装し、獣人国の運命のつがいを拉致しようとした。これは、ザイデルンの諜報任務の範囲を遥かに超える、私的な敵対行為だ」
ガレオン様は、ノーラの首を、片手で掴み上げた。
「アッシュ。連れていけ。三日後、公開裁判だ」
「了解、陛下」
アッシュ率いる戦士たちが、ノーラを連行していった。
寝室に、私とガレオン様だけが残った。
「リリアーナ」
彼が、私を抱き寄せた。私の身体を、確かめるように、隅々まで指でなぞる。
「怪我は」
「ありません」
「殺されかけた」
「でも、生きてます」
「リリアーナ」
声が、震えていた。
「お前を、独りにしない、と言ったのに」
「ガレオン様。私が、罠を仕掛けたんです。あなたを巻き込みたくなかった」
「馬鹿者」
私の唇を、強く奪った。それは、初めての、激しい口づけだった。獣の本能を抑えきれない、占有欲の塊のような、深い口づけ。
「もう二度と、私から離れるな」
「はい」
「もう二度と、独りで戦うな」
「はい」
「――もう、抑えられない」
私を、ベッドに優しく押し倒した。
「ガ、ガレオン様!」
「安心しろ。今夜は、抱きしめて寝るだけだ」
彼は、私の隣に、ゆっくりと身を横たえた。
「お前の隣でなければ、もう、眠れない」
頬を、彼の手が撫でた。
「……はい」
私は、彼の腕の中で、目を閉じた。
◆
――寝室の異変を、ガレオンは、扉を開ける前から、感じ取っていた。
彼女の香りに、恐怖が混じっている。それを嗅いだ瞬間、頭の中が、真っ白になった。
三百年生きて、これほどの怒りは、初めてだった。剣も、獣化も、何もかもをかなぐり捨てて、ただ扉を突き破りたい衝動に、指先が震えた。
――だが、待った。
彼女が、罠を張っていることに、気づいたからだ。信じて、待った。信じることが、こんなに、体力を削るとは、知らなかった。
扉を開けて、彼女が無事だと確認した瞬間、全身から力が抜けそうになった。獣人族の王として、決して見せてはならない顔を、あのとき、ガレオンは、隠せなかった。
唇を奪ったのは、衝動だった。彼女を取り戻せたことへの、歓喜と、安堵と、そして――もう二度と、こんな思いはしたくない、という、身勝手な独占欲。
(もう、隣から離すものか)
腕の中で眠る彼女の寝息を聞きながら、ガレオンは、夜が明けるまで、一睡もせず、その温もりを、確かめ続けていた。




