第8話 跪いた愚王子
「ヴァルデンツ王国交渉団、王城に到着。あと十分で謁見の間に入ります」
オーランド執事の声が、控え室に響いた。
私は、深く息を吸って、姿見の前で自分の姿を確認した。漆黒のドレス。胸元には母の形見のロケット。左の薬指には、ガレオン様の銀の指輪。
(この姿で、彼らに会う)
(火刑台で死んだはずの、無力なリリアーナとは、もう違う)
「リリアーナ」
ガレオン様が、隣に立った。同じく漆黒の正装。銀のマントを羽織って、王の威厳を纏っている。
「私は、お前が望むまで、口を出さない。ただし――あの愚王子が、お前に二歩以内に近づいたら、私は腕を折る」
「ガレオン様、それは……」
「冗談ではないぞ」
低い声に、本気の殺気が混じっていた。
謁見の間の重い扉が、開かれた。
私とガレオン様は、玉座に並んで腰を下ろした。両側には、ヴェルナ、グリゼルダ団長、ドラゴ宰相、アッシュ――皆、私のために、ここに立ってくれている。
「ヴァルデンツ王国交渉団、ご入場!」
扉の向こうから、二人の人物が、ゆっくりと歩み入ってきた。
第二王子レオン・フォン・ロイヤルマーク。そして、聖女セシリア・フォン・アッシュフォード。
レオンは、紺色の正装に金の刺繍。少し疲れた顔をしていた。私を断罪して婚約を破棄した、あの自信に満ちた表情はない。
セシリアは、白い聖女の衣装。金髪を清楚に結い上げ、両手を胸の前で組み、聖人のような佇まい。けれど私は知っている。あの仮面の下の、嘲りの笑みを。
二人の足が、玉座のそばで止まった。
そして――レオンの動きが、止まった。
「リリ……アーナ?」
口が、ぽかんと開いた。
「お久しぶりですね、レオン王子殿下」
私は、玉座から立ち上がらずに、軽く頭だけ下げた。
「火刑台から逃げ延びたあの夜以来でしょうか」
レオンの顔が、青ざめた。
「お前――生きていたのか」
「ええ、おかげさまで。ただし、もう私はリリアーナ・フォン・アッシュフォードではありません。獣人国の王ガレオン・ヴァルガルド陛下の、婚約者でございます」
左手をすっと持ち上げた。銀の指輪が、燭台の光を浴びて、淡く輝いた。
「な、何を、馬鹿な――」
「リリアーナ姉様!」
セシリアが、突然、両手で口を押さえて叫んだ。
「ああ、生きていらっしゃったのですね! 私、ずっと、姉様のことを心配しておりました!」
両目から、滝のような涙が流れる。
(さすが、聖女の演技は完璧ね。でも、私はもう、騙されない)
「セシリア。もう、芝居は結構よ」
「え?」
「あなたが私を陥れた証拠は、すでに獣人国の諜報部が押さえています。父様も、義母様も、あなたも、レオン様も――全員、嘘をついていたことを、私は知っているの」
セシリアの涙が、ぴたりと止まった。ほんの一瞬。けれど、確かに。
「セシリア。あなたの噂話も、聞いています。私が呪詛で人間を屠った、危険な女だと、ヴァルデンツ王国だけでなく、獣人国の一部にも流させているそうね」
「な――」
初めて、セシリアの顔から、余裕が消えた。
「知って、いたの……?」
「ええ。だから、先に手を打ちました。アッシュ様の諜報部が、あなたの十年の工作の記録を、すでに獣人国の貴族全員に開示済みです。今更、蒸し返しても、誰も信じません」
セシリアの顔から、初めて、血の気が引いた。それまでの余裕が、音を立てて崩れていくのが、見えた。
「では、本題に入りましょう」
私は、彼女の言葉を遮った。
「治癒の魔石輸出契約の交渉、でしたね。獣人国からヴァルデンツ王国へお届けする魔石の条件を、ご相談に来られたとのこと。さあ、ご提案をお聞かせください」
レオンが、一歩、玉座に近づこうとした。
その瞬間、ガレオン様の喉から、低い唸りが響いた。レオンが、慌てて足を止めた。
そして――謁見の間の石床に、レオンは、両膝をついた。獣人国の貴族たちの前で、ヴァルデンツ王国の第二王子が、地に膝をつく。
「リ、リリアーナ。話がしたい。二人で。……王として、頼む。一度、玉座を降りて、私と話してくれないか」
(跪くところを、皆に見せれば、私が絆されるとでも思ったの)
その浅はかな計算が、透けて見えて、逆に、哀れだった。
「なぜ、です?」
「あれは、誤解だったんだ。セシリアの言葉を、信じすぎた。本当は、お前を愛していた。今でも、愛している。戻ってきてくれ」
(……は?)
火刑から逃げた相手に「誤解だった」。偽りの証言を鵜呑みにして即時火刑にした男の言葉に、もう信頼できる材料はひとつもない。
レオン王子の目は、私の顔を見ていなかった。私の指先と、胸元と、そして左手の銀の指輪を、品定めするように見ていた。
火刑台で、私が広場の全員を一瞬で麻痺させたあの夜。麻痺した喉から、彼が絞り出した最後の一言を、私はちゃんと覚えている。
『殺すな……生け、捕り、に――』
――ああ、なるほど。
この男は、私を「愛している」なんて、本気で言っているわけじゃない。あの夜、覚醒した私の魔力量を見て、欲しがっただけ。ただの「資源」として。
「戻ってきてくれ」の本当の意味は、「私の領内に連れ戻して、二度と逃げ出せないようにしたい」。それだけだ。
私は、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。ガレオン様が、私の腰に手を添えた。大丈夫、と告げる仕草で。
「レオン様。ご提案、感謝いたします。ですが、お断りいたします」
「なぜだ! 私は、ヴァルデンツ王国の第二王子だ! お前の身分を、すべて元に戻してやる!」
「私の身分は」
左の薬指の指輪に、視線を落とした。
「もう、戻したくありません」
レオンの顔が、屈辱で歪んだ。
「リリアーナ! お前、人間を捨てて、獣の女になるというのか!」
「ええ。喜んで」
「リリアーナ姉様! 姉様は、騙されていらっしゃるのです! 獣人の王の魔力で、心を操られて――」
「セシリア。次に嘘をついたら――私はあなたを、許さない」
謁見の間の空気が、ぴしりと凍った。セシリアの両肩が、わずかに震えた。
――ああ、わかる。
この女は、自分の正体が暴かれることを、何よりも恐れている。涙の即停止。「魔力操作」という弁解。自分側がやっている工作を、こちらに投影している。
「先日発布した、治癒の魔石輸出契約について、追加の交渉に入りましょう。第一条件、現行の供給量では、貴族の死者数を抑えきれていない。供給量を倍に増やす代わりに、ヴァルデンツ王国は、月額金貨二万枚を上乗せで支払うこと。第二条件、契約期間を五年に延長すること。第三条件、契約期間中、ヴァルデンツ王国は獣人国に対して一切の敵対行為を取らないこと」
レオンの顔色が、紙のように白くなった。
「金貨二万枚……だと? 国庫が、もたない!」
(ヴァルデンツ王国の税収の内訳は、頭に入っている。貴族税、通商税、鉱山税――そして、辺境貴族への軍事支援金)
「ヴァルデンツ王国の年間予算のうち、辺境貴族への軍事支援に回している分を、半年だけ止めれば、まかなえる額のはずです。死んでいく領民と、まだ起きてもいない戦のための備え――どちらを優先するかは、レオン様が、決めることです」
レオンが、言葉に詰まった。図星だった顔だ。
「では、貴族の半分が病死していくのを、見守られればいい」
私は、肩をすくめた。
「もう一度伺います。条件をお呑みになるか、お断りになるか」
「……明日、改めて、回答する。今日は、長旅で疲れた。一晩、考えさせてくれ」
「承知いたしました。客間をご用意してあります。明日の昼まで、ごゆっくり」
二人が、深く礼をして、謁見の間を出ていった。
扉が閉まった瞬間。
「アッシュ。セシリアが、何かを企んでいる。今夜、彼女を監視してください」
「了解。――さすが、リリアーナ嬢」
「ガレオン様。明日の昼、私はセシリアの正体を暴きます。その瞬間まで、あなたは何も口にしないで」
「お前の指示通りに動こう」
――夜。王城の私の寝室。
私は、ベッドの上で、左手の指輪を見つめていた。
(セシリアは、何を企んでいる)
(あの女は、絶対に大人しく国に帰らない)
(おそらく――今夜、何かが起きる)
予感は、的中した。




