第5話 灰色の熊、頭を下げる
翌朝。私は、ガレオン様と共に、獣人国の治癒師団本部に向かう馬車に揺られていた。銀狼の紋章が刻まれた漆黒の車体。窓の外は、雪の積もった石畳の街並み。獣人国の首都ヴァルガルディアは、力強くも整然とした美しさを持っていた。
「治癒師団長は、グリゼルダ・フォン・ベアウォルフ。八十二歳の熊の獣人だ」
ガレオン様が、隣で説明してくれた。
「我が国で最高位の治癒術師。気難しいが、実力は折り紙付きだ。彼女がお前を認めれば、獣人国の治癒師たちは全員、お前の指示に従うようになる」
(八十二歳。気難しい。最高位の専門家)
知識で圧をかけるのはやめよう。経験に敬意を払いながら、自分のやり方の違いを見せる。それだけでいい。
目標は、治癒師団全体の効率を上げる新しい術式を伝授し、獣人国の医療体制を底上げすること。それは、これから始める復讐の準備でもある。ヴァルデンツ王国への治癒輸出を、獣人国の治癒師たちに任せられる体制を、先に作っておく必要があった。
治癒師団本部は、白い石造りの大きな建物だった。中庭に薬草園があり、白衣を着た治癒師たちが行き来している。
団長室の扉を開けた瞬間、空気が、ぴりっと張り詰めた。
机の向こうに、灰色の毛並みの、ずんぐりとした体格の老女が座っていた。熊の耳。鋭い眼光。八十二歳とは思えない迫力があった。
「陛下」
グリゼルダ団長が、ゆっくりと立ち上がった。
「そして、人間の女性ですか」
声に、棘があった。
「グリゼルダ。彼女がリリアーナだ。私のつがいで――独自の治癒術式の使い手だ」
「ええ、噂は聞いておりますとも」
グリゼルダは、ゆっくりと私の前まで歩いてきた。鋭い目で、頭の先からつま先まで、私を観察する。
「ヴェルナ・パンサーグレイヴの三年来の戦傷を、十二秒で完治させたとか。私と私の弟子三人が、三年がかりでも治せなかった傷を」
「……はい」
「興味深いお話ですね」
にやり、と獣人特有の、牙の見える笑顔。
「では、見せていただこうか。その術式を」
隣の医務室には、すでに二十人ほどの治癒師たちが集まっていた。皆、私を見る目には、警戒と懐疑が混じっていた。
「諸君」
グリゼルダが、低く声を張った。
「今日は、陛下のおつがい様、リリアーナ様より、新しい治癒術式の講義を受ける」
私は、一歩前に出た。
(まず、認識を合わせよう)
「皆様。まず、獣人国の標準的な治癒術式について、教えてください」
ベテランらしき女性治癒師が、すっと手を挙げた。
「治癒師団標準術式は、対象に魔力を流し込み、自然治癒力を増幅させる『広域共鳴型』です。安全で扱いやすいですが、深部の損傷や、神経・血管系には効果が薄い」
「ありがとうございます。まさに、その通りです」
壁にかけてあった黒板を、すっと借りた。
「従来式は、こうです。魔力を、対象全体に、均等に注ぐ」
丸を描き、その中に「魔力」と書く。
「私の改良式は、こう。まず、損傷箇所を見極める。次に、損傷の種類を分けて考える。表皮、筋肉、神経、骨。それぞれ、必要な魔力量と注入方法が違う。最後に、部位ごとに、ピンポイントで魔力を注ぐ」
図を分解して、矢印で構造を描く。
「結果、魔力消費は従来式の三分の一。治癒速度は十倍。そして、神経・血管・骨格まで、完全に修復できます」
医務室が、しんと静まった。
「――そんな、馬鹿な」
若い治癒師の一人が、呟いた。
「では、お見せします」
グリゼルダの合図で、隣の部屋から、訓練生の若い狼の獣人が運ばれてきた。包帯で覆われた左肩。出血は止まっていない。
「先週の訓練で、剣を取り落として深く切ってしまった青年です。標準術式では止血しただけで、内部組織がまだ修復しきれていない」
「拝見します」
青年の肩に、両手をかざした。
意識を、傷の三層に分けて、ゆっくり辿らせていく。表皮の裂傷、計七箇所、最深三センチ。筋繊維の断裂、二十一箇所。神経の損傷、軽度のものが三箇所。
優先順位は、神経から、筋繊維、表皮の順。
手のひらから、淡い金色の光が、青年の肩に染み込んでいく。光は、表面ではなく、傷の深部へと、層をなして消えていった。
二十秒後。
青年が、はっと息を吸った。
「――え。痛み、ない」
包帯を外すと、傷跡ひとつ、瘢痕ひとつ、なかった。
医務室が、わっと沸いた。
「な、なんだそれは!」
「魔力消費、見てくれ! 三割切ってるぞ!」
「神経まで完全に再生してる――こんなこと、王宮の最高位術師でも――!」
グリゼルダが、ゆっくりと、私の前に歩み出てきた。灰色の瞳が、私を見据える。
そして――彼女は、深く頭を下げた。
「リリアーナ様」
「グリゼルダ様……?」
「老婆に、教えてください。その術式の、すべてを」
獣人国最高位の治癒術師が、人間の少女に、頭を下げた。医務室の二十人の治癒師たちも、一斉に、頭を下げた。
(エマ)
心の中で、白髪の老侍女に語りかけた。
(あなたが教えてくれた優しさを、私は今、別の形で使ってる)
その日、私は治癒師団に、組み直した術式の基礎を教えた。獣人特有の身体能力と魔力量で、彼らは人間より遥かに早く術式を吸収していった。たった三日で、二十人の治癒師全員が、新術式の基礎を習得した。




