第4話 手首の中の十数箇所
ガレオン様が、低く息を吐いた。
「ヴェルナ。それは三人がかりでも――」
「ガレオン様、大丈夫です」
私は、彼の腕を軽く握った。
頭の中で、術式を組み直す手順を、もう一度確認する。
獣人国の標準的な治癒は、対象に魔力を流し込み、自然治癒力を増幅させる「広域共鳴型」。安全だけれど、深い損傷や神経・血管系には届きにくい。
――だから、流し方を変える。
損傷部位を、まず把握する。表皮、筋肉、神経、骨。それぞれ必要な魔力量と注ぎ方が違う。最後に、部位ごとにピンポイントで、必要な分だけ。
無駄を削れば、出力は足りる。手順を整理するだけのことだ。
ヴェルナに歩み寄った。
「失礼します」
手首に、両手をかざす。目を閉じて、意識を集中した。
意識を、傷の内側へと、ゆっくり辿らせていく。表皮の瘢痕。三年前の組織。神経終末の不連続部位、十数箇所。
順に、修復していく。注ぎ込むのは、必要最低限の魔力だけ。
手のひらから、温かい光が、古傷へと流れ込んだ。光は、傷跡の表面を覆うのではなく――内側へ、染み込むように消えていく。
ヴェルナが、息を呑む音がした。
「な、何――」
「動かないでください」
淡々と告げた。
光が、消えた。
「終わりました」
「……は?」
ヴェルナは、ぽかんと自分の手首を見つめた。もう、傷跡はなかった。滑らかな白い肌。皺ひとつ、瘢痕ひとつない。
「動かしてみてください。痛みも、しびれも、ないはずです」
震える指で、手首を撫でる。曲げる。伸ばす。ゆっくりと顔を上げた碧い瞳が、見開かれていた。
「治って、いる……」
「ええ」
大広間が、ざわめき始めた。
「あれは、何だ」
「治癒魔法の最高位術式でも、あんな処理は……」
「人間の女が……?」
私は、ガレオン様を振り返った。
彼は、片手で口元を覆って、低く楽しげに笑っていた。
「リリアーナ」
私の手を取り、貴族たちに向き直る。
「諸君。我が国の運命のつがいは、人間の中でも稀有な治癒の使い手だ。――何か、まだ疑問がある者は?」
しんと静まり返った大広間で、誰も声を上げなかった。ヴェルナだけが、自分の手首を見つめたまま、放心したように立ち尽くしていた。
(あなたを完全に治したのは、見せしめのためだけじゃない)
(強気で正面から来る人は、嫌いじゃない。むしろ、味方にしたい)
私は、ヴェルナに穏やかに微笑んだ。
「ヴェルナ様。もしよろしければ、後ほど、お茶でもいかがですか」
ヴェルナは、はっと顔を上げた。少し頬を赤らめて、視線を逸らす。
「……考えておきますわ」
隣で、ガレオン様が、堪えきれないように、もう一度笑った。
「面白い。お前は本当に、面白い」
――
翌日。淡い水色のドレスを纏い、王城南庭のガラス張りの温室で、私はヴェルナを待っていた。
獣人国は北国だが、温室の中は魔法石による調温で常春の暖かさだ。噴水の水音が、静かに庭を満たしている。
(……来てくれるかな)
「リリアーナ・フォン・アッシュフォード様」
執事の声とともに、扉が開いた。入ってきたのは、深い緑のドレスを纏ったヴェルナ。表情は、昨日とは違っていた。警戒はまだある。けれど敵意の代わりに、戸惑いと、ほんの少しの好奇心が混じっている。
「いらしてくださって、嬉しいわ」
「招待を、受けてしまいましたから」
ぎこちなく、対面の椅子に腰を下ろす。ミーナがお茶を注ぎ、しばらく沈黙が流れた。
(無理に埋めなくていい)
やがて、ヴェルナが、ぽつりと言った。
「……手首」
「はい?」
「夜、痛まなかったわ。三年間、毎晩疼いて、眠れなかった。昨日の夜、初めて、痛みなしで眠れた」
「……よかった」
「ありがとう」
声が、わずかに震えた。
「正直に言うわ。あなたを、試した。あの戦傷を治せたら認めるなんて、無理難題を吹っかけたつもりだった。それを――完全に治してしまうから」
碧い瞳が、まっすぐ私を見据える。
「リリアーナ様。私、陛下のことが、ずっと好きだったの」
「……」
(やっぱり、そうか)
「五歳の頃から、毎年、王城の宴で陛下にお会いしていた。いつかこの方の妃になりたいって、ずっと思ってた。でも陛下は誰の誘いも受けなかった。『運命のつがいを待つ』と、それだけ繰り返すばかり」
声には、悲しみと諦めが混じっていた。
「だから、あなたが現れたとき、許せなかった。突然現れて、陛下のすべてを奪っていく、人間の女が」
私は、何も言わずに聞いた。
(これは、論理では片付かない感情だ)
(ただ、聞こう)
ヴェルナは、深く息を吐いた。
「でも、あなたが完全に治してくれたとき、わかった。あなたが本物の『運命のつがい』なんだって。あんな治癒魔法、どんな国の最高位術師でも見たことがない」
「ヴェルナ様。あれは、神様の贈り物じゃありません。私が、自分で考えて作った術式です」
「……」
「ひとつ、お願いがあります。ガレオン様を支えてください。私は、獣人国の文化も政治も何も知らない。私だけでは、ガレオン様の隣に立つには足りないの」
「あなたが、私を、必要としてるって、こと?」
「ええ。ヴェルナ様は、貴族社会のことを誰よりよく知っている。それに――正面から喧嘩を吹っかけてくる人、私、嫌いじゃないんです。陰でこそこそされるより、ずっと信頼できる」
ヴェルナは、しばらくぽかんと私を見つめた。それから、ふっと笑った。
「……変な女ね、あなた」
「よく言われます」
「いいわ。引き受けてあげる。あなたを、陛下のつがいとして、認めてあげる。そして――陛下を狙う他の獣人女どもから、あなたを守ってあげる。お礼の代わりよ」
「ありがとう、ヴェルナ」
私の、獣人国での最初の友人が、できた瞬間だった。




