第3話 二十七家の視線
「足の傷は、もうほとんど治りましたね」
侍女ミーナが、私の足首の包帯を、慎重に解いていく。
雪原に倒れてから、五日が経っていた。獣人国の治癒術師の手当てと、私自身の治癒魔力のおかげで、足裏の火傷はほぼ消えていた。
「ありがとう、ミーナ」
「いいえ、お嬢様。陛下のご指示ですから」
ミーナはにこりと笑って、新しい靴下と革のブーツを差し出した。この五日間で、私はミーナのことが好きになっていた。獣人特有の正直さ。私を「お嬢様」と呼んでくれること。そして、人間だからと嫌な顔ひとつしないこと。
「ミーナ。獣人の方々は、人間を嫌っているのではないの?」
「正直に申しますと、好きではありません」
即答だった。
「百年前の戦争で、私の祖母も、伯父も、人間に殺されました。獣人国の貴族のほとんどは、人間に近しい者を失っております」
「――そう」
「ですが、お嬢様は陛下のつがい様です。それに、お嬢様自身が人間にひどい目に遭わされたことを、私たち侍女は知っております。雪原から運ばれてきたとき、お嬢様の身体は、戦場帰りの兵士のようでしたから」
「みんな、知っているの?」
「ええ。陛下は、王城に戻ってから三日間、ほとんど眠らずに、枕元におられました」
「――え」
思わず息を呑んだ。
ミーナの言葉は、扉のノックに遮られた。
「リリアーナ。入っても?」
低い声。喉の奥が、きゅっと、狭くなった。
(なんで、こんな反応するの。まだ五日しか経っていないのに)
「は、はい」
ガレオン様が、漆黒の軍服姿で立っていた。今日は肩に銀のマントを羽織っている。普段以上に、王の威厳を纏う姿だった。
「足の傷は、どうだ」
「ほとんど治りました。歩けます」
彼は寝台のそばに腰を下ろし、私の足首に手を伸ばした。すべすべになった足首に、大きな手のひらが、そっと触れる。
「うん。よく治った」
「あの、ガレオン様、その――」
「リリアーナ」
彼が、私の目を見た。
「明日、貴族たちにお前を紹介する」
「貴族……?」
「獣人国ヴァルガルドの主要貴族二十七家。お前を、私の正式な婚約者として披露する」
「ッ――」
思わず背筋を伸ばした。
「ご、ガレオン様。私はまだ、この国のことも何も知りません。人間の私が、急にそのような場に出ることは――」
「リリアーナ」
彼は優しく、けれど断固とした声で私の言葉を遮った。
「お前は、私のつがいだ。人間か獣人かは、関係ない」
「でも、貴族の方々は――」
「反発する者もいるだろう。だが、それを抑え込むのが、王たる私の役目だ」
彼の声に、揺るぎない響きが混じった。
「お前は、ただ私の隣で笑っていればいい。――ただし、お前が望むなら、自分の力を、彼らに見せつけることもできる」
「私の、力?」
「治癒魔法だ」
彼は立ち上がりながら言った。
「お前には、莫大な魔力がある」
彼は、静かに続けた。
「その気配は、この城にいるだけで、獣人たちにも伝わっている。存在しているだけで、少しずつ場の空気を変えていく力だ。――だが、それだけでは足りない場面もある。望むなら、直接、その力を見せることもできる」
「人間の治癒術師は、獣人にとっても貴重な存在だ。獣人国にも治癒術師はいるが、戦傷を完全に癒せる者は数えるほどしかいない。お前が治癒の使い手であることを示せば――貴族たちも、簡単には反発できなくなる」
頭の中で、少しずつ、道筋が見えてきた。
獣人貴族にとって、治癒の使い手は希少な存在だ。私に力があると分かれば、人間というだけで切り捨てることは、彼らにとっても損になる。明日の場で、一番効くのは、それだ。
問題は、私の治癒魔法の出力が、既存の治癒術師を上回る必要があること。魔力量はあっても、訓練を受けていない分、まだ出力が安定していない。
(――だったら)
前世では、複雑な仕組みを整理して、無駄を削ぎ落とす作業ばかりしていた。あの頃の癖が、今も身体の奥に残っている。物事を、感覚ではなく、手順として捉える癖。
治癒の力の流れを、頭の中で、順を追って組み立て直していく。どこで熱を集め、どこで淀ませず、どこで相手に注ぎ込むか。無駄な工程を、ひとつずつ削ぎ落としていく。
(これなら、いける)
「ガレオン様。明日、貴族の方々の前で、治癒魔法を披露させてください。獣人国の方々が見たことのない形で、お見せします」
彼は、目を細めて、私を見た。それから、口の端を、わずかに、上げた。
「お前のことを、信じている」
指先が、私の頬に軽く触れる。
「いいだろう。明日は、私の隣で、思う存分、その力を見せてくれ」
――翌日。
王城の大広間。私はミーナの手で身支度を整えられ、銀色のドレスを纏っていた。銀髪と薄紫の瞳に合わせた、シンプルだけれど気品のあるデザイン。胸元には、エマが守ってくれた、母の形見のロケット。
(エマ、見守っていてね)
重い扉が開かれた。
二十七家の獣人貴族が、両側に整列していた。狼、虎、熊、獅子、豹――様々な獣の特徴を持つ、屈強な男たちと美しい女たち。その視線のすべてが、私に集中する。冷たく、値踏みするような目。
私は背筋を伸ばして、ガレオン様の隣を歩いた。震える指先を、ドレスの裾に隠して。
「諸君」
低い声が、大広間に響いた。
「彼女は、リリアーナ・フォン・アッシュフォード。私の運命のつがいである」
ざわり、と空気が震えた。
「人間だ……」
「あの忌まわしい王国の女が……」
隠そうともしない囁きが広がる。私は、一歩も引かずに、貴族たちを見渡した。
そのとき。
「お待ちください、陛下」
涼やかな声が、大広間に響いた。整列の最前列から、一人の女性が進み出てきた。
豪奢な金色の長い髪。豹の耳と尾。鮮やかな緑のドレス。獣人特有の野性味と、貴族の優雅さを兼ね備えた、絵画のような女性だった。
「私は、ヴェルナ・フォン・パンサーグレイヴ。北の名門パンサーグレイヴ家の長女にございます」
その瞳には、明確な敵意が燃えていた。
「お聞きしてもよろしいでしょうか、陛下。あちらの人間の女性が、本当に陛下の『運命のつがい』であるとして――彼女は、獣人国の妃となるに相応しい力を、お持ちなのでしょうか?」
「ヴェルナ」
ガレオン様の声に、警告の響きが混じった。
けれど私は、彼の腕に、そっと手を添えた。
(ちょうどいいタイミングで、絡んでくれた)
「ガレオン様。私からお答えします」
一歩、前に出た。二十七家の視線の真ん中で。
「ヴェルナ様。人間の女である私が、本当に獣人国の妃に相応しいのか。皆様もお気になりますよね」
「あら、自覚はあるのね」
「ええ。では、見せていただきましょうか」
ヴェルナは、自分の腕を優雅に持ち上げた。左の手首に、深い古傷があった。
「これは三年前の戦傷です。獣人国の治癒術師が三人がかりでも、完全には治せませんでした。神経まで損傷しているため、今でも夜に痛みます」
碧い瞳が、私を捉える。
「これを、あなたが癒してくださるなら――私は、あなたを陛下のつがいとして、認めましょう」
大広間が、しんと静まった。




