第2話 私のつがいよ
目を覚ましたとき、私は柔らかな寝台の上にいた。
天蓋付きの大きなベッド。紺色のリネン。窓の外では雪が舞っているのに、部屋の中は暖かい光に満ちている。
身体が痛い。けれど、炎の熱でも雪の刺すような寒さでもない。誰かに大切に扱われている、そういう痛みだった。
そして、思い出した。
(エマ……)
炎に呑まれていく白髪の老侍女。皺だらけの頬。澄んだ瞳。最後の言葉――「よく聞いてください」。
涙が、勝手に溢れた。
「目が覚めましたか、お嬢様」
優しい声がした。振り返ると、猫のような耳と長い尾を持つ女性が立っていた。獣人だ。
「ここは……?」
「獣人国ヴァルガルド。王城の貴賓室でございます。三日間、お眠りでした」
三日間。身体を起こそうとして、足の裏に走った痛みに息を呑んだ。
「無理はなさらないでください。陛下が直々に治癒術師を呼んでくださいましたが、火傷はまだ癒えきっておりません」
「陛下……」
混濁した記憶の中から、ひとつの場面が浮かぶ。雪の中の、銀色の巨大な狼。金色の瞳。
『――ようやく見つけた。お前は、私が待ち続けた、運命の人だ』
夢ではなかった。
「私はミーナと申します。今日から、あなた様付きの侍女として、お世話させていただきます。陛下にお目覚めをお知らせしてまいりますね」
「あの、待って――」
引き留めようとした声は、扉の閉まる音にかき消された。
しんと静まった部屋で、私はようやく、自分の手のひらを見つめる余裕を持った。手首に、清潔な布が幾重にも巻かれている。誰かが、丁寧に手当をしてくれた跡だった。
(私、生きている)
(火刑から、逃げ切った)
その実感の次に湧いたのは、安堵ではなかった。エマの最期。肉の焦げる匂い。絶叫。そして、エマが最後まで気にかけていたのは、私のことだった。
(あなただけは、守りたかったのに)
枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。リリアーナとして生きた十七年、こんなふうに泣くことを、私は自分に許してこなかった。母を失い、義母に虐げられ、婚約者にも国にも見捨てられた。ぼろぼろの人生だった。
どれだけ、そうしていただろう。涙が、少しずつ、乾いていく。枕に押し付けた頬に、冷たい空気が触れて、ようやく、呼吸が、整ってきた。
涙の奥で、もう一人の私が、静かに目を開ける。
(……一度、整理しよう)
ここは獣人国。三日間、意識がなかった。侍女がついている。火傷は治療済み。つまり私は、敵地でありながら、この国の王に「保護」されている。
(怖いのは、この状況そのものより――)
王が何を考えているのか、まだ分からないこと。獣人と人間は、長く反目してきた国同士だ。もし私が、ただの人質か、政治の道具として扱われるなら――そう思うと、背筋が冷えた。
けれど、王は私を「運命のつがい」と呼んだ。あれが本気なら、これ以上ない後ろ盾になる。私には治癒魔法がある。ヴァルデンツ王国では「ささやかな力」と侮られてきたけれど、獣人国では、きっと違う意味を持つはずだ。
(まず、王の真意を見極めよう)
袖で涙を拭った。悲しみは消えない。エマへの罪悪感も消えない。それでも、やるべきことがある。
(私を捨てた父。陥れた義母とセシリア。断罪したレオン様。エマを焼いた群衆)
(全員、この手で報いを受けさせる)
そのとき、扉がノックされた。
「――入っても?」
低い声。心臓が、勝手に跳ねた。
「は、はい」
扉が開く。立っていたのは、見たこともないほど美しい男だった。
漆黒の髪。金の瞳。狼の耳と尾。漆黒の軍服に、銀の刺繍。背は高く、けれど野獣じみた粗野さはなく、どこか王者の品格を纏っていた。
「目を覚ましてくれて、よかった」
男は寝台のそばに歩み寄り、片膝をついた。王が、私の前に跪いた。
「お前を雪原で見つけた者だ。獣人国ヴァルガルド王、ガレオン・ヴァルガルドという」
「……リリアーナ・フォン・アッシュフォード、と申します。ですが、もう侯爵令嬢ではございません」
「名は、リリアーナだな」
彼は、確かめるように口にした。その瞬間、喉の奥で低い唸りが漏れる。威嚇ではなく、歓喜の音だった。
「リリアーナ。お前から、私のつがいの香りがする」
「つがい……?」
「我ら獣人族は、運命のつがいをただ一人だけ持つ。自分の命と同じくらい、大切な相手だ。触れた瞬間に、分かる」
彼は、私の手を取った。包帯越しに伝わる、彼の指先の熱。怖い熱ではなかった。芯から温める、優しい熱だった。
肩の辺りが、ふいに、熱を持った。寝間着の襟から覗く鎖骨の下、いつもは何も浮かばない場所に、淡い銀色の紋様が、ぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
「これは……」
「紋様だ。初魔力を宿す者の証。お前にも、あったのだな」
「今、これが最初の一段だ」
「一段……?」
「紋様は、魔力を分け合うたびに、反応する。今のように、触れて魂を通わせるだけの、浅い一段なら、紋様はすぐに元通りになる。想いが深まれば、互いの魔力そのものを分け合う一段。そして――双方が、心の底から望んだときにだけ許される、魂そのものを重ねる、最後の一段。それだけは、紋様が二度と元に戻らない、生涯に、ただ一度の絆になる」
初めて聞く話だった。けれど、今、繋がれたこの手から伝わる熱と、肩に浮かんだ淡い光が、確かに、彼の言葉を裏付けていた。
「私は、三百年待った」
「……三百年?」
「銀狼族は長命だ。この身体は二十八だが、生きてきた時間はそれよりずっと長い。その間ずっと、運命のつがいを探し続けた。――やっと、見つけた」
狼の耳が、ぴんと、こちらに向いた。逃がさない、というように。
「お前を、私は生涯守る」
「あの、でも、私は――」
思わず手を引こうとした。ただの没落令嬢で、人間で、しかも処刑から逃げてきた罪人だ。獣人国の王の隣に立てる人間ではない。
けれど彼は、私の手を、優しく、けれど決して離さない強さで握り直した。
「お前を傷つけた者の話は、すべて聞いた」
声に、抑えきれない怒気が混じった。
「我が国の諜報員は、王都で起きたことをすべて報告している。婚約者だった愚王子、お前を陥れた義妹、お前を見捨てた父と継母。――そして」
彼の声が、一段低くなる。
「お前の隣で焼かれた、忠実な侍女のことも」
「――エマを」
喉から、掠れた声が漏れた。
「エマのこと、知っているの?」
「知っている。お前のために十七年、命を懸けて尽くした侍女だったな。あの女を、無実の罪で焼いた連中――全員、私が必ず八つ裂きにする」
私は、息を呑んだ。
エマの名前を知っている。エマが私のために生きてきたことを、知っている。この国の王が。
「お前は、何も心配しなくていい。私のつがいを傷つけた者を、生かしておくつもりはない」
獣の、本能的な怒り。けれどその怒りは、私のために、エマのために燃えている。
――ああ。
ひとりで背負うつもりだった復讐に、味方がいる。
私は、独りじゃない。
「……ガレオン様」
震える声で、名前を呼んだ。
「お願いがあります。私を、この国に置いてください」
金の瞳を、まっすぐ見つめ返した。涙は、もう流れていなかった。
「あの人たちに、必ず、報いを受けさせたい。私自身の手で、けじめをつけたいのです」
「私自身の手で、と?」
「はい。ヴァルデンツ王国の腐敗の構造は、私が一番よく知っています。父の弱点も、義母の手口も、セシリアの後ろ盾も――全部、頭の中に入っています。あの国を内側から崩せるのは、私だけです」
「……ほう」
彼の口の端が、わずかに上がった。満足げな笑み。
「私の隣で、それをやるというのか」
「はい」
自分の手のひらに視線を落とした。包帯の巻かれた、エマを救えなかった手。
「私の手は、もう人を救うためだけのものではありません。エマの仇を討つためにも、使います」
彼はしばらく無言で私を見つめた。それから、ゆっくりと笑った。
「お前のことを、信じている」
手の甲に、唇が落ちる。
「ならば、私の隣で見届けるがいい。お前を傷つけた者たちが、どう崩れ落ちていくかを」
「ありがとう、ございます」
「ただし」
彼は、私の手を離さないまま、立ち上がった。
「お前の身体に、これ以上傷をつけることは、私が許さない。汚れ仕事は、すべて私とアッシュ――私の右腕の役目だ。お前の役目は、この国で、私の隣で、笑っていることだ」
「ガレオン様……」
「お前は、もう傷つかなくていい。もう一人で泣かなくていい」
頬を、また涙が伝った。悲しみの涙では、もうなかった。
――エマ。
(あなたの「よく聞いてください」を、私はちゃんと聞いたわ)
(私は、もうあの頃の弱いリリアーナじゃない)
(必ず、仇を討つ。約束する)
聖夜の雪は、まだ降り続いている。
これが、水瀬美月でも、ただのリリアーナでもない、新しい私の物語の、本当の始まりだった。
◆
――部屋を出たあと、ガレオンは、廊下の壁に、しばらく背を預けていた。
膝が、笑いそうだった。三百年生きて、こんな感覚は、初めてだった。
彼女は、復讐を誓った。人間に裏切られ、焼かれかけ、それでも折れなかった。折れるどころか、この状況すら、道具に変えようとしている。
――強い。
だが、それだけではない。手のひらの火傷を見せながら「もう人を救うためだけの手ではない」と告げたとき、彼女の声は、微かに震えていた。強さの裏に、まだ血の出ている傷があることを、ガレオンは、見逃さなかった。
(守りたい)
(だが、守りすぎては、彼女を、また誰かの庇護下に押し込めるだけだ)
三百年の孤独の中で、彼はずっと、力で全てを解決してきた。敵は屠り、障害は排除し、それで王としての責務を果たしてきたつもりだった。
けれど、リリアーナの隣に立つには、それだけでは足りないと、初めて悟った。
彼女の戦い方は、剣ではなく、頭で。ガレオンにできるのは、その戦場を、誰にも邪魔させないよう、外側から固めることだけだ。
「――いいだろう」
誰もいない廊下で、彼は、ひとり呟いた。
「お前が、その頭で世界を変えるというなら、私は、その盾になろう。三百年、飽きさせない女だ」
低く、笑いが漏れた。それは、久しく忘れていた、心の底からの笑いだった。




