第1話 火刑、エマの最期
冬の空は、灰色に沈んでいた。
王城前の処刑広場に、雪が降り始めている。組み上げられた二本の柱。その一本に、私は縛られていた。もう一本には、白髪の老女――エマが。
「エマ……」
震える声で、その名を呼んだ。
エマ・ホールベリー。母の代から仕えてくれた侍女。家族の誰にも顧みられなかった私を、ただひとり抱きしめてくれた人。
「侍女エマ・ホールベリー。リリアーナ・フォン・アッシュフォードの呪詛に協力した罪により、火刑に処す」
衛兵が松明を掲げた。群衆が沸いた。
「やめて!」
叫んだ拍子に、縄が手首に食い込んだ。
「エマは関係ない! 私が、私だけが――」
「お嬢様」
エマが、静かに私を振り返った。皺だらけの頬に、不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいる。
「よく、聞いてください」
火の舌が、彼女のスカートの裾を舐め始めた。
「あなたは、悪くありません。あなたを陥れた者たちは、いずれ必ず報いを受けます」
「エマ――」
「お母様の形見のロケットを、決して――」
言葉は、悲鳴に変わった。
炎が、エマの身体を呑んだ。
私は、目を背けられなかった。人が生きたまま焼かれる音を、初めて聞いた。肉の焦げる匂い。皮膚の裂ける音。白髪が燃え落ちていく。
群衆は、祭りでも見ているように沸いていた。子供たちまでが、笑っていた。
(――何、これ)
頭の奥で、何かが弾けた。
景色が、二重に映る。処刑広場と――知らない街並み。蛍光灯。二台のディスプレイ。紙コップのコーヒー。終電を逃した夜、横断歩道に突っ込んでくるトラックのヘッドライト。
(私、死んだ)
(水瀬美月。二十六歳。あの夜、確かに死んだ)
前世の記憶が、堰を切ったように流れ込んでくる。リリアーナとして生きた十七年と、水瀬美月として生きた二十六年が、ひとつに重なった。
(こんなときに――)
炎は、まだ燃えている。衛兵が、私の柱の足元にも松明を近づけてきた。
(ふざけるな)
(エマを、無実の罪で焼いた)
絶望と怒りの底で、何かが静かに目を覚ました。
義母とセシリアとレオン王子。証言者は全員、義母の息がかかった者たち。この断罪は、最初から嘘の上に組み立てられていた。
私は、自分の手のひらを見つめた。縛られた指先の奥に、確かに何か熱いものが流れている。
いつもの治癒魔力とは、違った。
私はずっと、自分の力を「ささやかな治癒」だと思い込まされてきた。聖女セシリアより劣る、補助的な力だと。
――違う。
前世の記憶が戻った瞬間、十七年間押さえ込まれていた本来の魔力量が、堰を切って溢れ出してくる。
治癒は、命に熱を注ぐ力。誰かの傷に、自分の内側にある熱を分け与える。減った実感を持つほど、注いだことなど一度もなかった。だから、無限だと錯覚していた。
なら、その逆は。奪う力は。
火が、私の足元にも届いた。爪先が焼ける。焼けた皮膚の匂いに、エマを呑んだ炎の匂いが重なって、喉の奥から吐き気がせり上がった。
(憎い)
松明を掲げた衛兵。嗤っていた貴族たち。祭りのように沸いていた群衆。この広場にいる全員が、憎かった。
(この熱を、全部、奪ってやる)
これまで人に分け与えるだけだった力の向きを、初めて、逆に向ける。そう決めた瞬間、胸の奥で、何かの蓋が引き剥がされる感覚があった。
私は目を閉じた。エマを焼いた炎の熱を、笑っていた群衆の体温を、この国そのものの熱を――奪う。
淡い水色の光が、処刑広場に放射状に広がった。光の粒に触れた者の顔から、みるみる血の気が引いていく。悲鳴は、途中で凍りついたように途切れた。誰も、指一本動かせない。糸が切れたように崩れ落ちるのではなく、そのままの姿勢で凍りついたように強張り、雪の上に、次々と倒れ伏していく。衛兵、執行人、貴族、子供たち――誰もが、目だけを見開いたまま、動けなくなっていた。
意識までは、奪っていない。奪ったのは、体温と――身体を動かす力だけ。指先も、瞼さえも、痙攣するように震わせることしかできない。恐怖に見開かれたその目だけが、ぎょろぎょろと私を追っていた。
けれど、頭の芯が、ずきりと痛んだ。
(――おかしい)
治癒だって、本当は無限じゃない。ただ私は、自分の中の熱をほんの少し分け与えるだけで、誰かの傷を癒せてしまっていた。底をつく前に、いつも足りていた。それだけだ。
奪うのは、その逆。相手から奪った分と同じだけの何かが、私自身の内側からも、確実に、削り取られていく感覚があった。
(これは、無限には使えない。私にも、底がある)
立っているのは、雪と、燃え続けるエマの炎と、縄を凍らせて千切った私だけだった。
処刑台の上で、レオン王子が震えながら私を見下ろしていた。彼も麻痺している。目だけを見開いて。隣のセシリアの碧い瞳が、まじまじと私を捉えていた。恐怖と――もうひとつ、暗い欲望が混じった目で。
「殺すな……生け捕り、に――」
続きは聞こえなかった。私は、もう背を向けていた。
(この男は、私の魔力の本当の量を、今初めて見た)
(十七年、劣った治癒師と侮ってきたくせに、今度は欲しがるのか)
ばかみたい、と思った。
麻痺した群衆の間を、まっすぐ歩いて抜けた。誰も、私を止められない。エマの炎を背負って、王城の門を抜け、王都の北門を抜けた。
(必ず、仇は討つ)
(あなたを焼いた連中、全員、破滅させてやる)
雪は強くなっていく。焼け爛れた足の裏。血と煤に汚れた白い麻のドレス。そして、奪う力を使った代償で、指先から、感覚が失われ始めていた。それでも、歩き続けた。
王都の北方には、人間が足を踏み入れてはならぬとされる獣人国――ヴァルガルドがある。
(お母様。エマ)
心の中で、二人の母に呼びかけた。リリアーナの母にも、水瀬美月の母にも。
(私、必ず生き延びる)
意識が途切れる寸前、雪の中に、巨大な銀色の影が立ち上がるのが見えた。人の二倍はある四つ足の狼。金色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
(ああ――銀狼の獣人……?)
低く、けれど不思議と優しい声を、私は確かに聞いた。
「――ようやく見つけた。お前は、私が待ち続けた、運命の人だ」
それが、銀狼王ガレオン・ヴァルガルドとの、最初の言葉だった。
◆
――ガレオンは、その日、雪原の狩りに出ていた。
三百年。それが、彼の待った時間だった。
銀狼族にとって、運命の相手との出会いは、当たり前のものだ。ある程度の年数を生きれば、誰もが必ず、どこかで巡り会う。魂の片割れは、初めからこの世のどこかに存在していて、いずれ出会うようになっている――そう信じて疑う者は、誰もいなかった。
けれど、ガレオンだけは、違った。
銀狼族の王として生まれ、戦場で幾千の敵を屠り、幾百の宴で幾百の令嬢に望まれても、彼の胸の奥は、いつも凪いだままだった。誰もが当然のように手にするものを、彼だけが持たない。いつしか周囲は、口さがなく囁くようになった。王としての重責が、孤独の理由なのだろう、と。
――本当は、いないのではないか。
そう思い始めた矢先だった。
胸の奥で、何かが、微かに疼いた。匂いでも、音でもない。もっと奥――魂そのものが、遠くの何かに引き寄せられていくような感覚だった。
心臓が、跳ねた。三百年、一度も跳ねたことのない場所が。
駆けた。獣体のまま、雪を蹴立てて、南へ、南へ。魂が引かれる方角へ。人間の国境を越えることすら、厭わなかった。
そして、見つけた。白い麻のドレスを血と煤で汚し、裸足のまま雪原に倒れている、小さな女。
抱き上げた瞬間、確信した。
――彼女だ。
三百年、探し続けたものが、ようやく、腕の中にある。
失うわけにはいかない。もう二度と、独りにはさせない。
雪の中で意識を失っていく彼女に、ガレオンは、獣の声で、ただ一言だけ、誓った。




