火刑される寸前で前世を思い出しました 北の銀狼王様に「運命のつがい」と見初められて溺愛されています
# 火刑される寸前で前世を思い出しました 北の銀狼王様に「運命のつがい」と見初められて溺愛されています
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## 第1話 火刑_01 炎の中で、私は思い出した
冬の空は、灰色の鈍い色をしていた。
王城前の処刑広場。降り始めた雪片が、組み上げられた二本の火刑柱の上に、ちらちらと落ちている。
私──リリアーナ・フォン・アッシュフォード侯爵令嬢──の隣で、もう一本の柱に縛られていたのは、白髪の老女だった。
「エマ……」
私は、震える声で、その名を呼んだ。
エマ。生まれたときから私に仕えてくれた、母の代から続く侍女。家族にすら愛されなかった私を、ただひとり、抱きしめてくれた人。
そのエマが、今、私の隣で、火刑にされようとしている。
「侍女エマ・ホールベリー。リリアーナ・フォン・アッシュフォードの呪詛に協力した罪により、火刑に処す」
衛兵が松明を振りかざす。群衆が歓声を上げた。火が、エマの足元の薪に点された。
「やめて!」
私は叫んだ。縄が、私の手首を裂いた。
「エマは関係ないわ! 私が、私だけが──」
「お嬢様」
エマは、静かに私を振り返った。その顔には、不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。皺だらけの頬。けれど、瞳は澄んでいた。
「お嬢様、よく聞いてください」
火の舌が、エマのスカートの裾を舐め始めていた。
「あなたは、悪くありません。あなたを陥れた連中は、いずれ必ず報いを受けます」
「エマ──」
「お母様の形見のロケットを、決して──」
エマの声は、突然、悲鳴に変わった。
火が、エマの身体を呑んだ。
私は、目を背けることができなかった。
人が、生きたまま焼かれるところを、私は初めて見た。肉の焦げる匂い。エマの絶叫。皮膚が裂ける音。脂が爆ぜる音。煙の向こうで、白髪が燃え落ちていく。
「あ、ああ、ああ──」
私の喉から、音にならない悲鳴が漏れた。涙が止まらなかった。けれど、声は出なかった。
エマの最期の絶叫は、ひときわ大きく──そして突然、ぷつりと途切れた。
群衆は、まるでお祭りでも見ているかのように、歓声を上げていた。子供たちまでが、笑っていた。
(……何、これ)
(嘘でしょう)
頭の中で、何かが「ぱちん」と音を立てた。
景色が、二重に見えた。
王城前の処刑広場と──知らない街の景色。オフィスビルの蛍光灯。机の上に並ぶ二台のディスプレイ。コーヒーの入った紙コップ。同僚の「お疲れ」という声。──そして、終電を逃した夜の横断歩道。スマホの通知に気を取られた、あの一瞬。突っ込んでくる、トラックのヘッドライト。
(私、死んだ)
(あのとき、確かに、轢かれて死んだ)
(私の名前は──水瀬美月。二十六歳)
前世の記憶が、滝のように流れ込んでくる。深夜まで残業した夜。同僚と笑い合った居酒屋。──そして、退社後に轢かれて死んだ、あの瞬間。
私は、轢かれて死んだ。そして、リリアーナに転生した。
リリアーナとして生きてきた十七年間の記憶と、水瀬美月として生きた二十六年間の記憶が、頭の中で、ひとつになる。
(なんで、こんなときに思い出すの──)
エマの炎が、まだ燃え続けていた。衛兵が、私の柱の足元にも松明を近づけてくる。
(ふざけるな)
(エマを焼いた。私の唯一の味方を、無実の罪で焼き殺した)
そして、絶望と怒りの渦の底で、何かが、静かに、動き始めた。
(……冷静になれ、私)
頭の中で、自然と、状況が整理されていく。義母とセシリアとレオン王子は手を組んでいる。証言者三人は全員、義母の息のかかった者たち。──全部、嘘の上に成り立った断罪だった。
(残された手段は──私の魔力だけ)
私は、自分の手のひらを見つめた。縛られた指先。震える皮膚。その奥に、確かに流れている、温かい何か。
──ただし、それは、いつもの治癒魔力じゃなかった。
熱い。
ぐつぐつと、私の身体の奥底から、なにか巨大なものが、湧き上がってくる。
私はずっと、自分の魔力を「ささやかな治癒の力」だと思い込まされてきた。──聖女セシリアより劣る、補助的な力だと。
でも、違う。
前世の記憶が戻った瞬間、私の中の「リミッター」が、外れた。──十七年間、誰かに押さえ込まれていた、本来の魔力量が、堰を切ったように、溢れ出してくる。
(治癒は、傷ついたものに、命のエネルギーを注ぐ力)
(──じゃあ、その逆は? 奪う力は?)
火が、私の柱の足元にも届き始めた。熱い。爪先が、燃え始めている。
(全部、奪え)
私は、目を閉じた。
エマを焼いた炎の熱を、私を見ながら笑っていた群衆の体温を、私を断罪したこの腐った国の熱を──全部、奪ってやる。
その瞬間、胸の奥で、何かが、弾けた。
──衝撃波が、処刑広場に、放射状に広がった。
淡い水色の光が、私の身体から、一気に広場全体に拡散していく。光が触れた者から順に、ばたり、ばたりと、その場に倒れていった。
衛兵が、剣を取り落とした。火刑の薪に松明を近づけていた執行人が、膝から崩れ落ちた。最前列で笑っていた貴族たち、子供たち、ご婦人方──全員が、糸の切れた人形のように、雪の上に伏した。
意識は、奪っていない。──体温と、運動神経だけ、奪った。
立っているのは、雪と、燃え続けるエマの炎と、そして、縛められていた縄を凍らせて千切った私だけ。
処刑台の階段の上で、レオン王子が、震えながら、私を見下ろしていた。彼も、麻痺していた。動けないまま、ただ目だけは見開いて、私を見つめている。──その隣で、セシリアも、同じように、凍りついていた。
セシリアの碧い瞳が、私を、まじまじと、捉えていた。
その目には、恐怖と──もうひとつ、何か別の感情が、混じっていた。
(驚愕)
(そして、欲望)
レオン王子が、必死に口を動かした。麻痺した喉から、絞り出すように、声が漏れた。
「殺すな……生け、捕り、に──」
その続きは、聞こえなかった。
私は、もう、彼らに背を向けていた。
──ああ、わかった。
この男は、私の魔力の本当の量を、たった今、初めて見たのだ。十七年間、ずっと「劣った治癒師」として、私を侮ってきた、この男が。
そして、欲しがり始めた。
ばかみたい、と思った。
私は、転がるように処刑台から飛び降りた。麻痺した群衆の間を、まっすぐ、歩いて抜けた。誰一人、私を止められなかった。
エマの炎を背中に背負って、王城の門を抜け、王都の北門を抜け、誰も足を踏み入れない雪原に向かって。
(エマ。必ず、仇は討つ)
(私を焼こうとした連中、全員、破滅させてやる)
雪は、強くなっていった。足の裏は焼け爛れ、白い処刑用の麻のドレスは、雪と血と煤で汚れていた。それでも私は、歩き続けた。
王都の北方には、人間が決して足を踏み入れてはならぬとされる、獣人国「ヴァルガルド」がある。
(……お母様、エマ)
吐息のように、私は心の中で呼びかけた。リリアーナの母にも、エマにも、そして水瀬美月の母にも。
(私、必ず生き延びてみせる)
倒れる瞬間、視界の端に、銀色の何かが映った。
雪の中に立つ、巨大な影。四つ足の、けれど人の二倍はあろうかという大きさの──狼。金色の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
(ああ……銀狼の魔王様だわ)
意識が途切れる直前、私は確かに聞いた。
低い、けれど不思議と優しい、男の人の声を。
「──ようやく見つけた。私の運命のつがいよ」
それが、銀狼王ガレオン・ヴァルガルドとの、最初の言葉だった。
## 第1話 火刑_02 銀狼王の腕の中で
意識を取り戻したとき、私は柔らかな寝台の上にいた。
天蓋付きの大きなベッド。落ち着いた紺色のリネン。窓の外は雪が舞っているのに、部屋の中はどこか暖かい光に満たされていた。
身体が、痛い。けれど、燃え上がる炎の熱でも、雪の刺すような寒さでもない。──ベッドの暖かさと、誰かに大切に扱われているという、不思議な感覚。
そして、私は思い出した。
(エマ……)
火に呑まれていく、白髪の老侍女の姿。皺だらけの頬。澄んだ瞳。最後の言葉。──「お嬢様、よく聞いてください」。
涙が、勝手に溢れた。
「目が覚めましたか、お嬢様」
優しい女性の声がした。振り返ると、見たこともない種族の女性が立っていた。ぴんと立った猫のような耳、長い茶色のしっぽ。──獣人。
「ここは……?」
「獣人国ヴァルガルド。王城の貴賓室にございます。三日間、お眠りでした」
──三日間。
私は身体を起こそうとして、足の裏に走った鋭い痛みに息を呑んだ。
「無理はなさらないでください。陛下が直々に治癒魔術師を呼んでくださいましたが、足の火傷はまだ癒えきっておりません」
「陛下……」
混濁した記憶の中から、ひとつの場面が浮かび上がる。雪の中の、銀色の巨大な狼。金色の瞳。低く優しい男の声──。
『──ようやく見つけた。私の運命のつがいよ』
(あれは、夢じゃなかった)
侍女は、私の表情を見て微笑んだ。
「私はミーナと申します。あなた様付きの侍女として、今日からお世話させていただきます。陛下にお目覚めをお知らせしてまいりますね」
「あの、待って──」
引き留めようとした私の声は、扉が閉まる音にかき消された。
しん、と部屋が静まり返る。
私は、ようやく自分の手のひらを見つめる余裕を持った。縛られていた手首には、清潔な麻の布が幾重にも巻かれていた。火傷の跡を、誰かが丁寧に手当してくれたのだ。
(私、生きている)
(火刑から、逃げ切ったんだ)
その実感の次に湧き上がったのは──しかし、安堵ではなかった。
エマの最期。肉の焦げる匂い。絶叫。脂が爆ぜる音。そして、エマが最後まで気にかけていたのは、私のことだった。
(エマ。あなただけは、絶対に守りたかったのに)
涙が、止まらない。
枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。リリアーナとして十七年間、こんなに泣いたことはなかった。──否、十七年間、泣くことを許されてこなかった。
母を失い、義母に虐げられ、エマを失い、家族も婚約者も国も失った。私の人生は、ぼろぼろだった。
(でも──)
涙の奥で、もうひとつの私──水瀬美月の冷静な思考が、静かに動き始める。
(一度、整理しよう)
ここは獣人国ヴァルガルド。三日間意識がなかった。私はベッドで保護されている。侍女付き。火傷は治療済み。──つまり私は、敵地にいながら、敵国の王に「保護」されている。
何が脅威で、何が手札か。落ち着いて並べていく。エンジニアだったときからの、ちょっとした癖。仕事に追われた夜、デバッグログを順番に追いかけていった、あの感覚に似ている。
王の真意は不明。獣人と人間の関係は険悪。私が政治カードに使われる可能性。元婚約者・義母・セシリアからの追手──ここまでが脅威。
王は私を「運命のつがい」と呼んだ。これが本当なら、最大の盾になる。獣人国は人間王国と対立関係。私の治癒魔法は希少資源。──ここからが、手札。
(まず、王の真意を見極める。信用できるなら、復讐の計画を立てる)
涙を、袖で拭った。
リリアーナとしての悲しみは消えない。エマへの罪悪感も消えない。けれど、それを乗り越えてでも、やるべきことがある。
(あの人たちに、必ず、思い知らせてやる)
(私を捨てた父。私を陥れた義母とセシリア。私を断罪したレオン様。──そして、エマを焼いた、あの群衆)
(全員、この手で破滅させてやる)
そのとき、扉がノックされた。
「──入っても?」
低い、けれど不思議と耳に残る、男の声。
私は、思わず背筋を伸ばした。涙の跡を、慌てて指先で拭う。
「は、はい」
扉が開く。そこに立っていたのは、見たこともないほど美しい男だった。
漆黒の髪。金の瞳。獣人特有の、ぴんと立った狼の耳と、艶やかな尾。漆黒の軍服のような衣装に、銀の刺繍。背は高く、肩幅は広く、けれど野獣じみた粗野さはなく、どこか王者の品格を纏っていた。
(あの、銀狼が……人型?)
「目を覚ましてくれて、よかった」
男は、ベッドのそばまで歩み寄り、片膝をついた。
王が、私の前に、跪いた。
「お前を、雪原で見つけた者だ。獣人国ヴァルガルドの王、ガレオン・ヴァルガルドという」
「……リリアーナ・フォン・アッシュフォード、と申します。ですが、もう侯爵令嬢ではございません」
「名は、リリアーナだな」
ガレオン様は、私の名前を、確かめるように口にした。その瞬間、彼の喉の奥で、低い唸りのような音が漏れた。けれど、それは威嚇ではなく──歓喜の音だった。
「リリアーナ。お前から、私のつがいの香りがする」
「つがい……?」
「我ら獣人族は、運命のつがいをただ一人だけ持つ。触れた瞬間、香りで識別するのだ」
ガレオン様は、私の手を取った。火傷の包帯越しに、彼の指先の熱が伝わる。けれど、それは怖い熱ではなかった。むしろ、芯から私を温める、優しい熱だった。
「私は、千年待った」
「……千年?」
「銀狼族は長命だ。私は二十八歳の身体だが、生きてきた時間はそれより遥かに長い。その間ずっと、運命のつがいを探し続けた。──やっと、見つけた」
金色の瞳が、まっすぐに私を捕らえた。
「リリアーナ。お前を、絶対に手放さない」
「あの、でも、私は──」
私は、思わず手を引こうとした。私は、ただの没落令嬢で、人間で、しかも処刑から逃げてきた罪人だ。獣人国の王の隣に立てる人間ではない。
けれど、ガレオン様は私の手を、優しく、けれど決して離さない強さで握り直した。
「お前を傷つけた者の話は、すべて聞いた」
低い声に、抑えきれない怒気が混じった。
「我が国の諜報員は、王都で起きたことをすべて報告している。婚約者だった愚王子、お前を陥れた義妹、お前を見捨てた父と継母──そして」
ガレオン様の声が、一段低くなった。
「お前の隣で焼かれた、忠実な侍女のことも」
「──エマを」
私の喉から、掠れた声が漏れた。
「エマのこと、知っているの?」
「知っている」
ガレオン様の金の瞳に、はっきりと怒りが燃えていた。
「お前のために十七年間、命を懸けて尽くしたという侍女だな。あの女を、無実の罪で焼いた連中──全員、私が必ず八つ裂きにする」
「──ッ」
私は、息を呑んだ。
エマの名前を、知っていてくれる。エマが私のために生きてきたことを、知っていてくれる。──この国の王が。
「お前は、何も心配しなくていい。私のつがいを傷つけた者を、生かしておくつもりはない」
獣の、本能的な怒り。けれど、その怒りは、私のために、エマのために、燃えている。
──ああ。
私は、悟った。復讐は、私ひとりで果たすものではない。この人と、二人で。
「……ガレオン様」
私は、震える声で名前を呼んだ。
「お願いがあります」
「なんなりと」
「私を、この国に置いてください」
私は、彼の金色の瞳を、まっすぐに見つめ返した。涙はもう、流れていなかった。
「あの人たちに、必ず、報いを受けさせたい。──私自身の手で、けじめをつけたいのです」
「私自身の手で?」
「はい」
私は、深く息を吸った。
「人間王国の腐敗の構造は、私が一番よく知っています。父の弱点も、義母の手口も、セシリアの後ろ盾も、レオン王子の判断癖も──全部、頭の中に入っています。あの国を、内側から崩すことができるのは、私だけです」
「……ほう」
ガレオン様の口の端が、わずかに上がった。獣の、満足げな笑み。
「私の隣で、それをやるというのか」
「はい」
「人間に裏切られたお前が、それでも人間の国に手を下すと?」
「ええ」
私は、自分の手のひらに視線を落とした。火傷の包帯。エマを救えなかった、無力な手。
「私の手は、もう人を救うためだけのものではありません。──エマの仇を討つためにも、使います」
ガレオン様は、しばらく無言で私を見つめた。そして──ゆっくりと、笑った。獣の、満足げな、けれど美しい笑み。
「いい目をしている」
彼は、私の手の甲に、唇を落とした。
「ならば、私の隣で見届けるがいい。お前を傷つけた愚かな人間どもが、どのように崩れ落ちていくかを」
「ありがとう、ございます」
「ただし──」
ガレオン様は、私の手を離さないまま、ゆっくりと立ち上がった。
「お前の身体に、これ以上、傷をつけることは、私が許さない。剣を振るうのも、毒を盛るのも、汚れ仕事はすべて私とアッシュ──私の右腕の役目だ。お前の役目は、この国で、私の隣で、笑っていることだ」
「ガレオン様……」
「お前は、もう傷つかなくていい。お前は、もう一人で泣かなくていい」
私の頬を、また涙が伝った。けれど、それはもう、悲しみの涙ではなかった。
──エマ。
(あなたの「お嬢様、よく聞いてください」を、私はちゃんと聞いたわ)
(私は、もう、あの頃の弱いリリアーナじゃない)
(必ず、あなたの仇を討つ。約束する)
聖夜の雪が、まだ降り続けている。
これが、私の──水瀬美月でも、ただのリリアーナでもない、新しい私の物語の、本当の始まりだった。
## 第2話 契約_01 獣人国の運命のつがい
「足の傷は、もうほとんど治りましたね」
侍女ミーナが、私の足首に巻かれていた包帯を、慎重に解いていく。
雪原に倒れてから、五日が経っていた。獣人国の治癒術師の手当てと、私自身の中に流れる治癒魔力のおかげで、足裏の火傷の跡は、ほぼ消えていた。
「ありがとう、ミーナ」
「いいえ、お嬢様。陛下のご指示ですから」
ミーナはにこりと笑って、新しい白い靴下と、上質な革のブーツを差し出した。
この五日間で、私はミーナのことが好きになった。獣人特有の正直さ。私を「お嬢様」と呼んでくれること。──そして、私を「人間」だからといって、嫌な顔ひとつしないこと。
「ミーナ。獣人の方々は、人間を嫌っているのではないの?」
「正直に申しますと、好きではありません」
ミーナは、即答した。
「百年前の戦争で、私の祖母も、私の伯父も、人間に殺されました。獣人国の貴族のほとんどは、人間に近い縁者を失っております」
「──そう」
「ですが、お嬢様は、陛下のつがい様です。それに、お嬢様自身が、人間にひどい目に遭わされたことを、私たち侍女は知っております」
「みんな、知っているの?」
「ええ。雪原から運ばれてきたとき、お嬢様の身体は、まるで戦場帰りの兵士のようでしたから。──陛下は、王城に戻ってから三日間、ほとんど眠らずに、お嬢様の枕元におられました」
「──え」
私は、思わず息を呑んだ。
「陛下、が?」
「はい。お嬢様の手を握って、ずっと──」
ミーナの言葉は、扉のノックに遮られた。
「リリアーナ。入っても?」
低い声。
私の心臓が、勝手に跳ねた。
(なんで、跳ねるの。まだ五日しか経ってないのに)
「は、はい」
扉が開く。ガレオン様が、漆黒の軍服姿で立っていた。今日は、肩に銀のマントを羽織っている。普段以上に、王の威厳を纏う姿。
「足の傷は、どうだ」
「ほとんど治りました。歩けます」
ガレオン様は、ベッドのそばに腰を下ろし、私の足首に手を伸ばした。包帯のなかった、すべすべになった足首。彼の大きな手のひらが、そっと触れる。
(──え)
「うん。よく治った」
「あの、ガレオン様、その──」
「リリアーナ」
ガレオン様が、私の目を見た。
「明日、貴族たちにお前を紹介する」
「貴族……?」
「獣人国ヴァルガルドの主要貴族二十七家。お前を、私の正式な婚約者として、披露する」
「ッ──」
私は、思わず背筋を伸ばした。
「ご、ガレオン様。私はまだ、この国のことも何も知りません。それに、人間の私が、急にそのような場に出ることは──」
「リリアーナ」
ガレオン様は、優しく、けれど断固とした声で、私の言葉を遮った。
「お前は、私のつがいだ。人間か獣人かは、関係ない」
「でも、貴族の方々は──」
「反発する者もいるだろう。だが、それを抑え込むのが、王たる私の役目だ」
金色の瞳が、まっすぐに私を見つめた。
「お前は、ただ私の隣で、笑っていればいい。──ただし、お前が望むなら、お前自身の力を、彼らに見せつけることもできる」
「私の、力?」
「治癒魔法だ」
ガレオン様は、立ち上がりながら言った。
「人間の治癒魔術師は、獣人にとっても貴重な存在だ。獣人国にも治癒術師はいるが、戦傷を完全に癒せる者は数えるほどしかいない。お前が治癒魔法の使い手であることを示せば──貴族たちも、簡単には反発できなくなる」
頭の中で、ちょっとずつ、組み立てが進んだ。
獣人貴族たちにとって、治癒の使い手は希少資源。私が「価値のある人材」だと示せれば、人間というだけで切り捨てるのは、彼らの利益にならなくなる。──需要と供給。私が手の内に持っているカードのうち、いまの場面で一番効くのはこれ。
問題は、私の治癒魔法の出力が、獣人国の既存の治癒術師より上である必要があること。リリアーナとしての魔力ポテンシャルは高い。けれど、訓練を受けていないから出力が安定しない。
(だったら、訓練不足は、頭で補えばいい)
治癒魔法を、もっと効率的に組み直す。流す手順を整理して、出力を安定させる。──エンジニアだったときに、後輩の書いた冗長なコードを整理してあげた、あの感覚に近い。
「ガレオン様。明日、貴族の方々の前で、治癒魔法を披露させてください。獣人国の方々が見たことのない形で、お見せします」
ガレオン様は、しばらく無言で私を見つめた。そして──低く笑った。
「面白い目をするようになった」
彼は、私の頬に、指先で軽く触れた。
「いいだろう、リリアーナ。明日、お前の力を見せてもらおう」
──翌日。
王城の大広間。
私は、ミーナの手で身支度を整えられ、銀色のドレスを纏っていた。リリアーナの銀髪と薄紫の瞳に合わせた、シンプルだけれど気品のあるデザイン。胸元には、エマが守ってくれた、母の形見のロケット。
(エマ、見守っていてね)
大広間の重い扉が、開かれた。
二十七家の獣人貴族たちが、両側に整列していた。狼、虎、熊、獅子、豹──様々な獣の特徴を持つ、屈強な男たちと、美しい女たち。その視線の全てが、私に集中する。冷たい視線。値踏みする視線。あからさまな侮蔑。
私は、背筋を伸ばして、ガレオン様の隣を歩いた。震える指先を、ドレスの裾に隠して。
「諸君」
ガレオン様の低い声が、大広間に響いた。
「彼女は、リリアーナ・フォン・アッシュフォード。私の運命のつがいである」
ざわり、と空気が震えた。
「人間だ……」
「あの忌まわしい王国の女が……」
「陛下のおつがい様、だと……?」
ひそひそと、しかし隠そうともしない囁き。
私は、一歩も引かずに、貴族たちを見渡した。
そのとき。
「お待ちください、陛下」
涼やかな女性の声が、大広間に響いた。
整列の一番前から、一人の女性が進み出てきた。
豪奢な金色の長い髪。豹の耳としっぽ。鮮やかな緑のドレス。──美しい。獣人特有の野性味と、貴族の優雅さを兼ね備えた、絵画のような女性。
「私は、ヴェルナ・フォン・パンサーグレイヴ。北の名門パンサーグレイヴ家の長女にございます」
豹の獣人。そして、その瞳には──私への、明確な敵意が燃えていた。
「お聞きしてもよろしいでしょうか、陛下。あちらの人間の女性が、本当に陛下の『運命のつがい』であるとして──彼女は、獣人国の妃となるに相応しい力を、お持ちなのでしょうか?」
「ヴェルナ」
ガレオン様の声に、警告の響きが混じった。
けれど、私は──ガレオン様の腕に、そっと手を添えた。
(ありがとう、ヴェルナさん。──ちょうどいいタイミングで、絡んでくれた)
「ガレオン様。私から、お答えします」
私は、一歩、前に出た。二十七家の獣人貴族の、視線の真ん中で。
「ヴェルナ様。お尋ねありがとうございます。人間の女である私が、本当に獣人国の妃に相応しいのか、皆様もお気になりますよね」
「あら、自覚はあるのね」
「ええ。では、見せていただきましょうか」
ヴェルナは、自分の腕を、優雅に持ち上げた。その左の手首には、深い古傷があった。鋭い刃で切られたような、長い傷跡。
「これは三年前の戦傷です。獣人国の治癒術師が三人がかりでも、完全には治せませんでした。神経まで損傷しているため、いまでも夜に痛みます」
ヴェルナの碧い瞳が、私を捉えた。
「これを、あなたが癒してくださるなら──私は、あなたを陛下のつがいとして、認めましょう」
大広間が、しん、と静まった。
ガレオン様が、低く息を吐いた。
「ヴェルナ。それは三人がかりでも──」
「ガレオン様、大丈夫です」
私は、彼の腕を軽く握った。
頭の中で、術式を組み直す手順を、もう一度確認した。
獣人国の標準的な治癒は、対象に魔力を流し込み、自然治癒力を増幅させる「広域型」。安全だけれど、深い損傷や神経・血管系には届きづらい。
──だから、流し方を変える。
損傷部位を、まず把握する。表皮、筋肉、神経、骨。それぞれ必要な魔力量と注ぎ方が違う。最後に、損傷部位ごとにピンポイントで、必要な分だけ。
無駄を削れば、出力は足りる。手順を整理するだけのこと。
私は、ヴェルナに歩み寄った。
「失礼します」
ヴェルナの手首に、私の両手をかざした。目を閉じて、意識を集中する。
(治癒魔力、起動)
意識を、傷の内側へと、ゆっくり辿らせていく。──表皮の瘢痕。三年前の組織。神経終末の不連続部位、十数箇所。
順次、修復していく。注入するのは、必要最低限の魔力だけ。
私の手のひらから、温かい光が、ヴェルナの古傷へと流れ込んだ。光は、傷跡の表面を覆うのではなく──傷跡の「内側」へ、染み込むように消えていく。
ヴェルナが、息を呑む音がした。
「な、何──」
「動かないでください」
私は、淡々と告げた。
光が、消えた。
私は、ヴェルナの手首から、両手を離した。
「終わりました」
「……は?」
ヴェルナは、ぽかんと自分の手首を見つめた。
そこには、もう傷跡がなかった。完全に、滑らかな白い肌。皺ひとつ、瘢痕ひとつ、ない。
「動かしてみてください。痛みも、しびれも、ないはずです」
ヴェルナは、震える指で、自分の手首を撫でた。曲げた。伸ばした。──そして、ゆっくりと顔を上げた。碧い瞳が、見開かれていた。
「治って、いる……」
「ええ」
「神経が、まで……完全に……」
大広間が、ざわめき始めた。
「あれは、何だ」
「治癒魔法の最高位術式でも、あんな処理は……」
「人間の女が……?」
私は、ガレオン様を振り返った。
ガレオン様は、片手で口元を覆って──低く、楽しげに、笑っていた。
「リリアーナ」
彼は、私の手を取り、貴族たちに向き直った。
「諸君。我が国の運命のつがいは、人間の中でも稀有な治癒の使い手だ。──何か、まだ疑問がある者は?」
シンと静まり返った大広間で、誰も声を上げなかった。
ヴェルナだけが、自分の手首を見つめたまま、放心したように立ち尽くしていた。
(ヴェルナさん。あなたを完全に治したのは、見せしめのためだけじゃない)
(あなたみたいな、強気で正面から来る人は、嫌いじゃない。──むしろ、味方にしたい)
私は、ヴェルナに、穏やかに微笑んだ。
「ヴェルナ様。もしよろしければ、後ほど、お茶でもいかがですか」
ヴェルナは、はっと顔を上げた。そして──少し、頬を赤らめながら、視線を逸らした。
「……考えておきますわ」
私の隣で、ガレオン様が、堪えきれないように、もう一度笑った。
「面白い」
低く、満足げに。
「お前は、本当に、面白い」
聖夜の雪は、もう降り止んでいた。獣人国の冬の朝は、晴れていた。
## 第3話 契約_02 お茶会と銀狼の独占欲
「お茶会の準備、整いました」
侍女ミーナが、私のドレスを最後に整えた。お披露目の翌日、私は淡い水色のドレスを纏い、王城南庭のガラス張りの温室で、ヴェルナを待っていた。
獣人国は北国だが、温室の中は魔法石による調温で常春の暖かさだ。色とりどりの花が咲き、噴水の水音が静かに庭を満たしている。
(……来てくれるかな)
招待状を出したのは昨日。返事は「考えておきますわ」だった。でも、ヴェルナは来る。──ああいう、まっすぐで誇り高いタイプは、自分の言葉に責任を持つ。
「リリアーナ・フォン・アッシュフォード様」
執事の声と共に、温室の扉が開いた。
入ってきたのは、昨日と同じ豪奢な金髪を結い上げ、深い緑のドレスを纏ったヴェルナ。ただし、表情は──昨日とは違っていた。警戒は、まだある。けれど、敵意の代わりに、戸惑いと、ほんの少しの好奇心が混じっていた。
「いらしてくださって、嬉しいわ」
「招待を、受けてしまいましたから」
ヴェルナは、ぎこちなく対面の椅子に腰を下ろした。ミーナがお茶を注ぎ、焼き菓子を並べていく。しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
ヴェルナは、ティーカップに視線を落としたまま、口を開かない。私も、急がなかった。
(沈黙は、無理に埋めなくていい)
やがて、ヴェルナが、ぽつりと言った。
「……手首」
「はい?」
「夜、痛まなかったわ」
ヴェルナは、自分の左の手首に、そっと触れた。
「三年間、毎晩疼いて、眠れなかった。お酒に頼ってた。──昨日の夜、初めて、痛みなしで眠れた」
「……よかった」
「ありがとう」
ヴェルナの声が、わずかに震えた。
「正直に言うわ。あなたを、試した。あの戦傷を治せたら認めるなんて、無理難題を吹っかけたつもりだった。それを──完全に治してしまうから」
ヴェルナは、顔を上げた。碧い瞳が、まっすぐ私を見据える。
「リリアーナ様。私、陛下のことが、ずっと好きだったの」
「……」
(やっぱり、そうか)
「五歳の頃から、毎年、王城の宴で陛下にお会いしていた。いつかこの方の妃になりたいって、ずっと思ってた。でも、陛下は誰のお誘いも受けなかった。『運命のつがいを待つ』って、それだけ繰り返すばかり」
ヴェルナの声には、悲しみと諦めが混じっていた。
「だから、あなたが現れたとき、許せなかった。突然現れて、陛下のすべてを奪っていく、人間の女が」
私は、何も言わずに、彼女の話を聞いた。
(これは、論理じゃ片付かない感情だ)
(ただ、聞こう)
ヴェルナは、深く息を吐いた。
「でも、あなたを完全に治してくれたとき、わかった。──あなたが、本物の『運命のつがい』なんだって。あんな治癒魔法、どんな国の最高位術師でも見たことがない」
「ヴェルナ様。私は、神様の作ったものじゃありません」
「えっ?」
「あれは、私が、自分で考えて、作った術式です。神様のおかげじゃなくて、私自身が、努力して身につけた技術です」
「……前世……?」
「ああ、それは説明が長くなるから、また今度ね」
私は、笑った。
「ヴェルナ様。ひとつ、お願いがあります。──ガレオン様を支えてください。私は、獣人国の文化も政治も何も知らない。私だけでは、ガレオン様の隣に立つには足りないの」
「あなたが、私を、必要としてるって、こと?」
「ええ。ヴェルナ様は、獣人国の貴族社会のことを、誰よりよく知っている。それに──正面から喧嘩を吹っかけてくる人、私、嫌いじゃないんです。陰でこそこそされるより、ずっと信頼できる」
ヴェルナは、しばらく、ぽかんと私を見つめた。
そして──ふっ、と笑った。
「……変な女ね、あなた」
「よく言われます」
「いいわ。引き受けてあげる。あなたを、陛下のつがいとして、認めてあげる。──そして、陛下を狙う他の獣人女どもから、あなたを守ってあげる。お礼の代わりよ」
「ありがとう、ヴェルナ」
「呼び方、それでいいの?」
「だめ?」
「──『ヴェルナ』でいいわ」
私の最初の、獣人国の友人が、できた瞬間だった。
──夕方。
王城に戻った私を、執事のオーランド(猫の獣人、生真面目)が廊下で迎えた。
「リリアーナ様。陛下が、執務室でお呼びです。──人間王国から、緊急の使者が参ったのです」
──え。
私の心臓が、跳ねた。
執務室の重い扉を開けると、ガレオン様は机の前で、眉間に皺を寄せて一通の書状を睨んでいた。
「リリアーナ。──人間王国から、お前の引き渡し要求が来た」
「……」
「火刑から逃亡した重罪人を、引き渡せ、と。引き渡さなければ、人間王国は獣人国に対して『敵対的措置』を取る、とな」
ガレオン様の金の瞳が、ぎらりと光った。
「断る。今すぐ、外交断絶の宣言を出す」
「お待ちください、ガレオン様」
私は、彼の腕に、そっと手を置いた。
「断絶は、最後の手段にしたい。今は、まだ早いわ。──これは、絶好の機会です」
頭の中で、人間王国の今の状況を、ざっと並べてみる。
人間王国は、私を取り戻したがっている。理由はおそらく、私の治癒魔法。あの国では、稀少な治癒の使い手は、私一人。私が獣人国にいると、人間王国の貴族の医療は、確実に滞る。
──つまり、人間王国は、獣人国に頭を下げざるを得ない側に、もう立っている。だったら、断絶ではなく、こちらに有利な交渉カードに使うほうが、よほど得。
「ガレオン様。人間王国に、こう返答してください」
私は、ガレオン様の机の書状を、指でとんとん叩いた。
「『リリアーナ・フォン・アッシュフォードの引き渡しは拒否する。ただし、彼女の治癒魔法を、貴国に有償で輸出する用意がある』──と」
「治癒魔法を、輸出する……?」
「定期的な治療派遣サービス。月額契約。私は獣人国にいながら、人間王国の貴族の治療を、限定的に請け負う。料金は、獣人国の財政に組み込みます」
ガレオン様は、しばらく無言で私を見つめた。
「お前は──人間王国を、経済的に従属させようとしているのか?」
「はい」
私は、にっこり笑った。
「彼らは、私を駒として使ってきました。今度は、私が、彼らを駒として使う番です」
ガレオン様の口の端が、ゆっくりと上がった。獣の、満足げな笑み。そして、その瞳には──恋する男の、抑えきれない熱が混じっていた。
「リリアーナ。お前は、本当に、私のつがいだな」
「えっ?」
「冷静で、容赦なく、それでいて、誇り高い。──運命なんて、こんな出来すぎた話があってたまるか」
彼の唇が、私の手の甲に、軽く落ちた。
「明日から、お前を妃として正式に教育する。獣人国の歴史、政治、貴族の血縁、軍事──すべて、お前に教える」
「はい」
「そして、夜には──」
ガレオン様は、私の指先に唇を寄せたまま、目線だけ上げた。
「私と、お前のことについて、話そう」
私の頬が、勝手に熱くなった。
──夜。
私の寝室の扉が、ノックされた。
「リリアーナ。──入っても?」
「はい……」
ガレオン様は、寝室まで続く長い廊下の途中で、立ち止まった。寝間着姿の私を見つめて、ふっと笑う。
「明日から、忙しくなる」
「はい」
「だから、今夜だけは──」
ガレオン様は、私の前に膝をつき、私の額に、優しく口づけを落とした。
「眠るときに、私のことを、思い出してくれ」
「……ガレオン様」
「おやすみ、私のリリアーナ」
彼が去った後、私は、ベッドに座り込んだまま、しばらく動けなかった。
(……ずるい)
(ずるいよ、ガレオン様)
額に残った、ほのかな熱。聖夜の雪は、もう降っていない。けれど、私の胸の中では──新しい雪が、優しく降り始めていた。
## 第4話 契約_03 関数化される魔法、贈られる指輪
翌朝。私は、ガレオン様と共に、獣人国の治癒師団本部に向かう馬車に揺られていた。馬車は銀狼の紋章が刻まれた漆黒の車体。窓の外は、雪が積もった石畳の街並み。獣人国の首都ヴァルガルディアは、力強くも整然とした美しさを持っていた。
「治癒師団長は、グリゼルダ・フォン・ベアウォルフ。八十二歳の熊の獣人だ」
ガレオン様が、隣で説明してくれた。
「我が国で最高位の治癒術師。気難しいが、実力は折り紙付きだ。彼女がお前を認めれば、獣人国の治癒師たちは全員、お前の指示に従うようになる」
(八十二歳。気難しい。最高位の専門家)
──攻略のしかたを、頭の中で組み立てる。知識マウントは取らない。経験には敬意を払いつつ、自分の独自性を見せる。
目標は、治癒師団全体の効率を上げる「組み直した術式」を伝授し、獣人国の医療体制を底上げすること。──これは、復讐の準備でもある。人間王国への治癒輸出を、獣人国の治癒師たちに任せられる体制を作っておく必要がある。
治癒師団本部は、白い石造りの大きな建物だった。中庭には薬草園があり、白衣を着た治癒師たちが行き来していた。
団長室の扉を開けた瞬間、空気が、ぴりっと張り詰めた。
机の向こうに、灰色の毛並みの、ずんぐりとした体格の老女が座っていた。熊の耳。鋭い眼光。──八十二歳とは思えないほどの、迫力。
「陛下」
グリゼルダ団長が、ゆっくりと立ち上がった。
「そして、人間の女性ですか」
声に、棘があった。
「グリゼルダ。彼女がリリアーナだ。私のつがいで──そして、独自の治癒術式の使い手だ」
「ええ、噂は聞いておりますとも」
グリゼルダは、ゆっくりと私の前まで歩いてきた。鋭い目で、頭の先からつま先まで、私を観察する。
「ヴェルナ・パンサーグレイヴの三年来の戦傷を、十二秒で完治させたとか。──私と私の弟子三人が、三年がかりでも治せなかった傷を」
「……はい」
「興味深いお話ですね」
グリゼルダは、にやり、と笑った。獣人特有の、牙の見える笑顔。
「では、見せていただこうか。──その術式を」
団長室の隣の医務室には、すでに二十人ほどの治癒師たちが集まっていた。皆、私を見る目には、警戒と懐疑が混じっていた。
「諸君」
グリゼルダが、低く声を張った。
「今日は、陛下のおつがい様、リリアーナ様より、新しい治癒術式の講義を受ける」
私は、一歩前に出た。
(これは、後輩へのコードレビューと同じ)
(まず、現状の認識合わせ)
「皆様。まず、獣人国の標準的な治癒術式について、教えてください」
ベテランらしき女性治癒師が、すっと手を挙げた。
「治癒師団標準術式は、対象に魔力を流し込み、対象の自然治癒力を増幅させる『広域共鳴型』です。安全で扱いやすいですが、深部の損傷や、神経・血管系には効果が薄い」
「ありがとうございます。まさに、その通りです」
私は、医務室の壁にかけてあった黒板を、すっと借りた。
「従来式は、こうです。──魔力を、対象全体に、均等に注ぐ」
ぐるっと丸を描き、その中に「魔力」と書いた。
「私の改良式は、こう。──まず、損傷箇所を見極める。次に、損傷の種類を分けて考える。表皮、筋肉、神経、骨。それぞれ、必要な魔力量と注入方法が違う。最後に、損傷部位ごとに、ピンポイントで魔力を注ぐ」
私は、図を分解して、矢印で構造を描いた。
「結果、魔力消費は従来式の三分の一。治癒速度は十倍。──そして、神経・血管・骨格まで、完全に修復できます」
医務室が、しんと静まった。
「──そんな、馬鹿な」
若い治癒師の一人が、呟いた。
「では、お見せします」
グリゼルダの合図で、隣の部屋から、訓練生の若い狼の獣人が運ばれてきた。包帯で覆われた左肩。出血は止まっていない。
「先週の訓練で、剣を取り落として深く切ってしまった青年です。標準術式では止血しただけで、内部組織がまだ修復しきれていない」
「拝見します」
私は、青年の肩に、両手をかざした。
意識を、傷の三層に分けて、ゆっくり辿らせていく。──表皮の裂傷、計七箇所、最深三センチ。筋繊維の断裂、二十一箇所。神経の損傷、軽度のものが三箇所。
優先順位は、神経から、筋繊維、表皮の順。
私の手のひらから、淡い金色の光が、青年の肩に染み込んでいく。光は、表面ではなく、傷の「深部」へと、層をなして消えていった。
二十秒後。
青年が、はっと息を吸った。
「──え。痛み、ない」
包帯を外すと、そこには傷跡ひとつ、瘢痕ひとつ、なかった。
医務室が、わっと沸いた。
「な、なんだそれは!」
「魔力消費、見てくれ! 三割切ってるぞ!」
「神経まで完全に再生してる──こんなこと、王宮の最高位術師でも──!」
グリゼルダが、ゆっくりと、私の前に歩み出てきた。老女の灰色の瞳が、私を見据える。
そして──彼女は、深く頭を下げた。
「リリアーナ様」
「グリゼルダ様……?」
「老婆に、教えてください。──その術式の、すべてを」
獣人国最高位の治癒術師が、人間の少女に、頭を下げた。医務室の二十人の治癒師たちも、一斉に、頭を下げた。
(エマ)
私は、心の中で、白髪の老侍女に語りかけた。
(あなたの教えてくれた「優しさ」を、私は今、別の形で使ってる)
その日、私は治癒師団に「組み直した治癒術式」の基礎を教えた。獣人特有の身体能力と魔力量で、彼らは人間より遥かに早く術式を吸収していった。たった三日で、二十人の治癒師全員が、新術式の基礎を習得した。
──その夜。
王城の私の部屋に、ガレオン様が訪れた。
「リリアーナ。お前のために、用意したものがある」
ガレオン様の手のひらに、小さな、銀色の宝石箱が乗っていた。開けると、中には──繊細な銀の指輪。中央に、淡い水色の宝石が嵌め込まれている。リリアーナの瞳の色と、雪の結晶を思わせる、美しい石。
「これは……?」
「銀狼族の運命のつがいに贈る、最初の指輪だ。婚約指輪、と人間風に言ってもいい」
ガレオン様は、片膝をついた。
「リリアーナ・フォン・アッシュフォード。私の運命のつがい。私の隣で、これからの千年を、共に歩んでくれるか」
(これは、頭で考えるものじゃない)
「はい」
私は、答えた。
「喜んで」
ガレオン様の指が、私の左の薬指に、銀の指輪を滑らせた。ぴったりと、はまった。まるで、最初からこの指のために作られていたかのように。
「これで、お前は私のものだ」
ガレオン様の瞳が、満足げに細められた。
「そして、私は、お前のものだ」
彼の指が、私の頬に触れた。ゆっくりと、彼の顔が近づいてきた。私の唇に、銀狼王の唇が、初めて触れた。
その夜、私は、母の形見のロケットの隣に、ガレオン様の指輪を、新しい宝物として、加えた。
## 第5話 契約_04 白虎の右腕、最後の使者
「治癒魔法輸出契約に関する詔勅、本日、人間王国に発布いたしました」
宰相のドラゴ(熊の獣人、五十代、文官筆頭)が、厚い書状をガレオン様の前に差し出した。
「内容は、リリアーナ様のご提案通り。月額の固定契約、治療対象は事前申請制、料金は獣人国の王室財政に直接納入される仕組みです。初回契約期間は三年。延長は人間王国側からの申請とし、獣人国側に拒否権を与える条文を入れました」
「いいだろう」
ガレオン様は、書状を一瞥して頷いた。
「リリアーナ。お前の意図通りに進んでいるか?」
「はい」
これで、人間王国は治癒魔法を獣人国経由でしか得られない構造になった。
三年間、彼らは獣人国に頭を下げ続ける。その間に、私は獣人国の治癒師団を強化し、人間王国を完全に追い越す。──そういう設計図。
ドラゴ宰相が下がる。代わりに、軽快な足音と共に、漆黒の軍服姿の青年が入ってきた。
「お前ら、楽しそうだな」
白虎の獣人。身長は二メートル近く、肩幅は獣人の中でも特に広い。短く刈り込んだ銀の髪、黄金色の瞳。陽気な笑みを浮かべている。
「リリアーナ嬢、初めまして。アッシュ・フォン・ホワイトファング。陛下の右腕で、諜報部長です。よろしく頼むよ」
「アッシュ。礼儀がなっていない」
ガレオン様が、低く窘めた。
「すみませんすみません。──それで、報告だけど」
アッシュは、軍服の懐から、一通の書簡を取り出した。
「人間王国、相当焦ってる。治癒師の絶対数不足で、貴族の中に病死者が出始めてる。──おっと、リリアーナ嬢の実家、アッシュフォード侯爵領も、領民の間で熱病が流行ってるらしい。三日前から、貴族向けの治癒派遣がストップしてるからね」
私の心が、わずかに揺れた。
リリアーナの記憶の中の、領民たちの顔。畑で働く農民。市場で笑っていた女たち。──彼らに、罪はない。
(でも、辺境の領民を救えなかったのは、私を切り捨てた父の責任)
(私を、領地の治癒の柱として育てておきながら、利用価値が下がった瞬間に切り捨てた)
(──自業自得だ)
「アッシュ。続けて」
「ああ。──それから、これが本題」
アッシュは、もう一通の書簡を、ガレオン様の前に置いた。
「人間王国から、第二の使者が来る。今度は宣戦布告でも引き渡し要求でもない、『正式な交渉団』。──それが、来週、獣人国に来る。代表使者は──第二王子レオン・フォン・ロイヤルマーク。副使者は、聖女セシリア・フォン・アッシュフォード」
「──」
私の指先が、ぴくり、と震えた。ガレオン様の表情が、ゆっくりと変わった。獣の、抑えきれない殺気。
「あの愚王子と、お前の義妹が、ここに、来るのか」
「はい、陛下。治癒輸出契約の交渉、という名目です」
ガレオン様の喉の奥で、低い唸りが響いた。
「いい度胸だ。獣人国に足を踏み入れたが最後、生かして帰すと思っているのか」
「ガレオン様」
私は、彼の腕に、そっと手を置いた。
「殺してはいけません。殺すのは、いつでもできます。今は──彼らの正体を、世間に晒すのが先です」
レオン王子が交渉団のトップで来る理由は、おそらく、私を口説き落として人間王国に連れ戻そうとしている。──プライドの高い人だから、自分が直接交渉して取り戻したい、と考えるはず。
セシリアの正体は、私の中で、もう半分推測がついている。義母はおそらく、他国の諜報員側の人間。──正体を暴露するチャンスを、向こうから差し出してきた格好。
治癒輸出契約の場で、二人を完膚なきまでに公衆の前で恥をかかせる。殺すよりも、恥辱の中で生かしておくほうが、重い罰になる。
「ガレオン様。──私に、彼らとの交渉を、任せてくださいませんか」
「お前自身が、対峙すると?」
「ええ」
私は、自分の左手を見つめた。銀の指輪が、淡い水色の光を放っていた。
「私を陥れた、元婚約者と義妹。彼らに、私自身の手で、けじめをつけたいんです」
ガレオン様は、しばらく無言で私を見つめた。そして──ゆっくりと、私の左手を取って、銀の指輪に唇を落とした。
「いいだろう。ただし、私も、隣に立つ。お前を独りにはしない」
「はい」
「そして」
ガレオン様の金の瞳が、ぎらりと光った。
「お前が望む形に、彼らが落ちぶれた後で、最後の処分は私がする」
「……はい」
アッシュが、口笛を吹いた。
「うわー、こりゃ怖い夫婦だ」
「アッシュ」
ガレオン様が、低く窘めた。
「すみませんすみません」
アッシュは、両手を上げて謝った。それから、私を見て、にっと笑う。
「リリアーナ嬢、案外、容赦ないね。気に入ったよ」
「アッシュ様、ありがとうございます」
「アッシュでいいよ」
──執務室を出ると、廊下の角で、ミーナが書類を抱えて待っていた。
「お嬢様、お疲れ様でし──」
ミーナの言葉が、ぴたりと止まった。私の後ろから出てきたアッシュを見て、頬がさっと赤くなる。
「アッ、アッシュ様」
「お、ミーナ。元気そうだな」
アッシュが、軽く片手を上げた。陽気な笑顔。──けれど、私はちゃんと見た。
一瞬、彼の黄金色の瞳が、ミーナの上で、優しく緩んだことを。
ミーナは、何度もぺこぺこ頭を下げて、慌てて廊下の向こうに走り去っていった。
私は、隣のアッシュを、横目で眺めた。
「アッシュ様」
「ん?」
「ミーナのこと、好きなんですか?」
アッシュが、ぴしっ、と固まった。
「──え」
「あ、図星ですか」
「な、なんで」
「私、観察眼があるほうなので」
アッシュが、観念したように、髪の毛を掻きむしった。
「ああもう、リリアーナ嬢、容赦ないって言うのは、こういう意味かよ……」
(彼らも、幸せにしてあげたい)
その夜、私は寝室の窓から、夜空を眺めた。獣人国の冬の夜空は、人間の王都より、星が遥かに鮮明に見える。空気が澄んでいるからだろう。
(レオン様、セシリア)
(来週、お会いしましょう)
(あなた方が私から奪ったものを──私は、利息つきで取り返します)
(覚悟、しておいて)
私の左の薬指で、銀の指輪が、夜空の星と同じ色に光っていた。
## 第6話 断罪_01 偽りの王子と仮面の聖女
「人間王国交渉団、王城に到着。あと十分で謁見の間に入ります」
オーランド執事の声が、控え室に響いた。
私は、深く息を吸って、姿見の前で自分の姿を確認した。漆黒のドレス。獣人国の王妃候補にだけ許される、銀の刺繍が縁取られた特別な礼装。胸元には母の形見のロケット。左の薬指には、ガレオン様の銀の指輪。
(──この姿で、彼らに会う)
(火刑台で死んだはずの、無力なリリアーナとは、もう違う)
「リリアーナ」
ガレオン様が、私の隣に立った。同じく漆黒の正装。銀のマントを羽織って、王の威厳を纏っている。
「私は、お前が望むまで、口を出さない。ただし──あの愚王子が、お前に二歩以内に近づいたら、私は腕を折る」
「ガレオン様、それは……」
「冗談ではないぞ」
低い声に、本気の殺気が混じっていた。
「指一本、お前に触れさせない」
謁見の間の重い扉が、開かれた。
私とガレオン様は、玉座に並んで腰を下ろした。本来、玉座は王のためだけのもの。けれど、ガレオン様は私のために、新しい玉座を、自分のすぐ隣に設えてくれていた。両側には獣人国の主要貴族たちが整列している。ヴェルナ、グリゼルダ団長、ドラゴ宰相、アッシュ──皆、私のために、ここに立ってくれている。
「人間王国交渉団、ご入場!」
オーランドの声と共に、扉の向こうから、二人の人物が、ゆっくりと歩み入ってきた。
第二王子レオン・フォン・ロイヤルマーク。そして、聖女セシリア・フォン・アッシュフォード。
レオンは、紺色の正装に金の刺繍。少し疲れた顔をしていた。──ふた月前、私を断罪して婚約を破棄した、あの自信に満ちた表情はない。
セシリアは、白い聖女の衣装。金髪を清楚に結い上げ、両手を胸の前で組み、まるで聖人のような佇まい。けれど、私は知っている。あの仮面の下の、嘲りの笑みを。
二人の足が、玉座のそばで止まった。
そして──レオンの動きが、止まった。
「リリ……アーナ?」
レオンの口が、ぽかんと開いた。
「お前、その姿は──」
「お久しぶりですね、レオン王子殿下」
私は、玉座から立ち上がらずに、軽く頭だけ下げた。
「火刑台から逃げ延びたあの夜以来でしょうか」
レオンの顔が、青ざめた。
「お前──生きていたのか」
「ええ、おかげさまで。──ただし、もう私はリリアーナ・フォン・アッシュフォードではありません。獣人国の王ガレオン・ヴァルガルド陛下の、婚約者でございます」
私は、左手をすっと持ち上げた。銀の指輪が、謁見の間の燭台の光を浴びて、淡く輝いた。
レオンが、息を呑んだ。
「な、何を、馬鹿な──」
「リリアーナ姉様!」
セシリアが、突然、両手で口を押さえて叫んだ。
「ああ、生きていらっしゃったのですね! 私、ずっと、ずっと、姉様のことを心配しておりました!」
セシリアは、両目から、滝のような涙を流した。
(──ふぅん。さすが、聖女の演技は完璧ね)
(でも、私はもう、騙されない)
「セシリア。もう、芝居は結構よ」
「え?」
「あなたが私を陥れた証拠は、すでに獣人国の諜報部が押さえています。父様も、義母様も、あなたも、レオン様も──全員、嘘をついていたことを、私は知っているの」
セシリアの涙が、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。けれど、確かに。
その変化を、私は見逃さなかった。
「リリアーナ姉様、それは、誤解で──」
「では、本題に入りましょう」
私は、彼女の言葉を遮った。
「治癒輸出契約の交渉、でしたね。私が、人間王国に派遣する治癒魔法の条件を、ご相談に来られたとのこと。──さあ、ご提案を、お聞かせください」
レオンが、一歩、玉座に近づこうとした。
その瞬間、ガレオン様の喉から、低い唸りが響いた。
レオンが、慌てて足を止めた。
「リ、リリアーナ。話がしたい。二人で。──いや、王として、頼む。一度、玉座を降りて、私と話してくれないか」
「なぜ、です?」
「あれは、誤解だったんだ。セシリアの言葉を、信じすぎた。──本当は、お前を愛していた。今でも、愛している。戻ってきてくれ」
(……は?)
火刑から逃げた相手に「誤解だった」発言。証言三人を信じきって即時火刑にした男の言葉として、もう信頼できる材料はひとつもない。──そして何より、獣人国王の婚約者という事実を、まるで無視している。
──いや、無視しているんじゃない。
レオン王子の目は、私の顔を見ていなかった。私の指先と、胸元と──そして、左手の銀の指輪を、品定めするように、舐めるように、見ていた。
火刑台で、私が広場の全員を一瞬で麻痺させたあの夜。麻痺した喉から、彼が絞り出した最後の一言を、私はちゃんと覚えている。
「殺すな……生け、捕り、に──」
ああ、なるほど。
この男は、私を「愛している」なんて、本気で言っているわけじゃない。あの夜、覚醒した私の魔力量を見て、欲しがっただけ。──ただの「資源」として。
「戻ってきてくれ」の本当の意味は、「私の領内に連れ戻して、二度と逃げ出せないようにしたい」。それだけ。
この男は、自分の立場が完全にわかっていないし、私が、その腹の底を見抜いていることも、わかっていない。
私は、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。ガレオン様が、私の腰に手を添えた。──大丈夫、と告げる仕草で。
「レオン様。ご提案、感謝いたします。──ですが、お断りいたします」
「なぜだ! 私は、人間王国の第二王子だ! お前の身分を、すべて元に戻してやる!」
「私の身分は」
私は、左の薬指の指輪に、視線を落とした。
「もう、戻したくありません」
レオンの顔が、屈辱で歪んだ。
「リリアーナ! お前、人間を捨てて、獣人の女になるというのか!」
「ええ。──喜んで」
「リリアーナ姉様!」
セシリアが、再び両手で口を押さえた。
「姉様は、騙されていらっしゃるのです! 獣人の王の魔力で、心を操られて──」
「セシリア。次に嘘をついたら──私はあなたを、許さない」
謁見の間の空気が、ぴしりと凍った。セシリアの両肩が、わずかに震えた。
──ああ、わかる。
この女は、自分の正体が暴かれることを、何よりも恐れている。
涙の即停止。「魔力操作」という弁解の言葉。──自分側がやっている工作を、こちらに投影している。それに、名前を呼ばれた瞬間の身体の反応。
セシリアは、何かしらの魔法を扱う。聖女の治癒魔法ではなく──暗示か、幻惑系。
「治癒輸出契約の本交渉に、入りましょう。──第一条件、人間王国は、治癒魔法輸出契約を月額金貨二万枚で締結する。第二条件、契約期間は三年。第三条件、契約期間中、人間王国は獣人国に対して一切の敵対行為を取らないこと」
レオンの顔色が、紙のように白くなった。
「金貨二万枚……だと? 国庫が、もたない!」
「では、貴族の半分が病死していくのを、見守られればいい」
私は、肩をすくめた。
「──もう一度伺います。条件をお呑みになるか、お断りになるか」
「……明日、改めて、回答する」
レオンは、深く息を吸って、私を睨んだ。
「今日は、長旅で疲れた。一晩、考えさせてくれ」
「承知いたしました。客間をご用意してあります。明日の昼まで、ごゆっくり」
二人が、深く礼をして、謁見の間を出ていった。
扉が閉まった瞬間。
「アッシュ。セシリアが、何かを企んでいる。今夜、彼女を監視してください」
「了解。──さすが、リリアーナ嬢」
「ガレオン様。明日の昼、私はセシリアの正体を暴きます。その瞬間まで、あなたは何も口にしないで」
「お前の指示通りに動こう」
──夜。
王城の私の寝室。
私は、ベッドの上で、左手の指輪を見つめていた。
(セシリアは、何を企んでいる)
(あの女は、絶対に大人しく国に帰らない)
(おそらく──今夜、何かが起きる)
予感は、的中した。
夜半、寝室の窓が、外側から音もなく開いた。
私は、背後から、誰かの腕が首に巻きつくのを感じた。
そして、耳元で、義妹の声が──囁いた。
「お久しぶりね、お姉様」
## 第7話 断罪_02 仮面の聖女、本性を晒す
「お久しぶりね、お姉様」
セシリアの声は、いつもの清楚な聖女の声ではなかった。低く、嘲るような、別人の声色。
私の首に巻きついた腕の力が、強くなる。
「動かないで。動いたら、すぐに首を折る。──私の魔力で操った下級兵士たちが、客間の周りで陛下の警備を引きつけているわ。誰も助けに来ない」
(──やっぱり、来た)
(でも、こうなることは、想定内)
「セシリア。魔力で兵士を操ったの?」
「ええ」
「やっぱり、聖女の力じゃなかったのね。──暗示・幻惑系の魔法。違う?」
セシリアの腕が、わずかに緊張した。
「──知っていたの?」
「途中から、推測してた。聖女の治癒魔法を私の前で一度も使わなかったから。あれは、使えなかったのね」
「察しがいいのね、お姉様」
セシリアの声に、少し感心の色が混じった。
「教えてあげる。私の本当の名前は、セシリア・フォン・アッシュフォードじゃない。私は──南方海洋国家ドラコニアの諜報員、ノーラ・セルデン。十年前から、人間王国に潜入していたの」
南方海洋国家、ドラコニア。──大陸の南方、獣人国とは敵対関係にない。けれど、人間王国とは古くから対立している国家。
つまり、セシリアは人間王国を内側から崩す任務で送り込まれていた、ということ。
「お父様も、義母様も、知っていたの?」
「義母──私の本当の母──は、知ってる。実の妹だから。お父様は、半分知って、半分騙されてるわ。聖女の養女を持つことで、王家との繋がりを得られると思って」
「──」
リリアーナの父。私を切り捨てた、あの父も──結局は、他国の諜報員に騙されていた愚か者だった。
少しだけ、悲しくなった。
(でも、それは父の選択の結果。私の責任じゃない)
「セシリア──いえ、ノーラ。あなた、なぜ私の前に現れたの?」
「お姉様を、消すためよ」
セシリアの腕に、ぐっと力が入った。
「ドラコニアの任務は、人間王国を、内側から弱体化させること。──そして、私に与えられた最大の任務は、もともと、お姉様を消すことだったの」
「私を、消すこと?」
ようやく、それは、結びついた。
私が稀少な治癒魔法を持っていたのに、人間王国の連中が、私を火刑にしようとした。──ずっと頭の隅に引っかかっていた、その矛盾。
普通に考えれば、稀少な治癒の使い手は、王家にとって最重要の資源。火刑になんて、絶対にできない。──それなのに、誰一人、止めなかった。
「お姉様の治癒魔法は、人間王国の中で、稀少な貴重資源。──それを奪えば、人間王国の医療は崩壊する。ドラコニアにとって、これは長年の悲願だった」
「だから、私を……」
「ええ。だから私は十年かけて、お姉様の評判を、貴族層の中で『呪術師』に書き換えてきた。──私の幻惑魔法で、レオン王子や貴族たちの認識を、少しずつ歪めて、刷り込んできたの」
セシリアの声に、誇らしげな響きが混じった。
「『リリアーナの治癒は、本物の治癒力じゃない。呪詛で奪った、まがい物の力』『本物の聖女は、セシリア・フォン・アッシュフォード』。──十年で、そう信じ込ませた」
「──」
リリアーナの記憶の、断片が、繋がっていく。
私が誰かを治しても、いつからか、感謝より先に「気持ち悪い」「魔女の力じゃないのか」と疑われるようになった。子供の頃は、領民たちは私を聖女のように慕ってくれていたのに、十五歳を過ぎた頃から、貴族の集まりで、視線が冷たくなり始めていた。──あれが、ノーラの工作の結果だったのか。
火刑の日、群衆が「魔女め」「卑しい治癒師の身分で、聖女様を陥れたな」と叫んでいたのも、すべて、ノーラの十年の積み重ねだった。
「火刑は、私の十年の任務の、完成形になるはずだった」
ノーラの声に、初めて、悔しさが滲んだ。
「お姉様ひとりを焼き殺せば、人間王国は、自分の意思で『治癒の柱』を消した愚か者の国になる。──ドラコニアの介入は、何ひとつ、表に出ないまま、人間王国は崩れる予定だった」
「だったの。──過去形ね」
「ええ」
ノーラは、低く、嘲った。
「火刑台で、お姉様が覚醒したから。──あの圧倒的な魔力量を、レオン王子も、私も、ドラコニア本国も、目の当たりにしてしまった」
「──」
火刑の日。広場の全員を、一瞬で麻痺させて雪原へ歩き去った、あの夜。
レオン王子が、麻痺した喉から、絞り出すように呟いた、最後の一言を、私は思い出した。
「殺すな……生け、捕り、に──」
「そう。あれを聞いて、私の任務は、書き換わったのよ」
ノーラの声に、湿った欲望が滲んだ。
「『消す』から──『生け捕って、ドラコニアの戦略資源にする』に。本国は即決だった。あれだけの魔力を、ただ焼き殺すなんて、もったいない。──奴隷魔導具で繋いで、ドラコニアの戦争と医療と、すべての場面で、お姉様の魔力を搾り尽くす。それが、新しい計画」
私の喉の奥が、ざらり、と乾いた。
「殺すより、惨いことを、考えたわね」
「ええ、自覚はあるわ。──でも、お姉様も、死ぬよりはマシでしょう?」
「同じよ」
私は、即答した。
「自分の魔力を、自分の意思以外で、誰かのために搾り取られる人生。──それは、私には、火刑と同じ」
「あら、強気ね」
「だから、レオン王子は、昨日『戻ってきてくれ』なんて、白々しいことを言ったのね」
ようやく、つながった。
火刑から半年、私を呼び戻そうとしたレオンの本音は、「やり直したい」じゃなかった。──「奴隷魔導具に繋ぐ前提で、自分の領内に連れ戻したい」だった。彼の言う「身分を元に戻す」も、ただの口実。
「だから、今夜、あなたが直接来た」
「ええ。レオン王子の説得じゃ、お姉様は獣人国から動かないと、わかったから。獣人国が私を完全に押さえ込む前に、私の手で、お姉様を生かしたまま捕らえて、ドラコニアまで運ぶ。──それが、今夜の任務」
「無理よ」
「えっ?」
「──私の寝室は、最初から罠よ」
その瞬間。
寝室の天井から、四方の壁から、無数の影が、音もなく現れた。
獣人の戦士たち。漆黒の軍服。アッシュ率いる、白虎部隊の精鋭。──ガレオン様直属の、王族護衛部隊。
「ノーラ・セルデン。投降しろ」
アッシュの低い声が、寝室に響いた。
「ッ──!」
セシリアが、私を盾にしようとした。
けれど、その瞬間。
私の手のひらから、淡い水色の光が、彼女に向かって伸びた。
熱を奪う術を、彼女の両腕の動脈の血流に向ける。──体温だけを、微小に下げる。
セシリアの腕が、突然、ぴくりと震えた。
「な、何これ──腕の感覚が──」
「動けば、もっと冷やすわよ」
私は、彼女の腕の中から、ゆっくりと身体を引き抜いた。そして、一歩、彼女の前に立った。
「ノーラ。残念だけど、私は処刑台で死にそびれた女よ。──そう簡単には、死なない」
寝室の扉が、勢いよく開いた。
「リリアーナ!」
ガレオン様が、駆け込んできた。獣人化していない人型。けれど、その背後から、銀の毛並みの巨大な狼の幻影のようなオーラが、立ち上っていた。
「無事か」
「はい。ガレオン様、ノーラを捕縛してください」
ガレオン様の金の瞳が、ノーラを射抜いた。
「貴様か。リリアーナを陥れたのは」
「──陛下。私は、ドラコニア王国の諜報員。私を傷つければ、ドラコニアは──」
「黙れ」
ガレオン様は、ノーラの言葉を一言で断ち切った。
「貴様は、すでに人間王国の聖女として偽装し、獣人国の運命のつがいを暗殺しようとした。これは、ドラコニアの諜報任務の範囲を遥かに超える、私的な敵対行為だ」
ガレオン様は、ノーラの首を、片手で掴み上げた。
「アッシュ。連れていけ。三日後、公開裁判だ」
「了解、陛下」
アッシュ率いる戦士たちが、ノーラを連行していった。
寝室に、私とガレオン様だけが残った。
「リリアーナ」
ガレオン様が、私を抱き寄せた。私の身体を、確かめるように、隅々まで指でなぞる。
「怪我は」
「ありません」
「殺されかけた」
「でも、生きてます」
「リリアーナ」
ガレオン様の声が、震えていた。
「お前を、独りにしない、と言ったのに」
「ガレオン様。私が、罠を仕掛けたんです。あなたを巻き込みたくなかった」
「馬鹿者」
ガレオン様が、私の唇を、強く奪った。
それは、初めての、激しい口づけだった。獣の本能を抑えきれない、占有欲の塊のような、深い口づけ。
「もう二度と、私から離れるな」
「はい」
「もう二度と、独りで戦うな」
「はい」
「──もう、抑えられない」
ガレオン様は、私を、ベッドに優しく押し倒した。
「ガ、ガレオン様!」
「安心しろ。今夜は、抱きしめて寝るだけだ」
ガレオン様は、私の隣に、ゆっくりと身を横たえた。
「お前の隣でなければ、もう、眠れない」
私の頬を、彼の手が撫でた。
「……はい」
私は、彼の腕の中で、目を閉じた。
──翌日。
王城の謁見の間。獣人国の貴族と、人間王国の側近たちが集まる中、ノーラ・セルデンの公開裁判が行われた。物的証拠は、アッシュの諜報部が、十年分すべて押さえていた。
ノーラの正体は、人間王国の貴族たちにも知らされた。
そして──第二王子レオンも、ノーラの同伴者として、共犯の疑いをかけられた。
「私は知らなかった! セシリアに、騙されていたんだ!」
レオンは、必死に弁解した。
「私は、本当に、リリアーナを愛していた! セシリアの言うことを、信じすぎただけで──」
「黙れ」
ガレオン様の声が、謁見の間に響いた。
「貴様の判断ミスで、私のつがいは火刑にされかけた。獣人国としては、貴様も同罪と見做す」
「な、何──」
「だが、リリアーナの希望により、貴様の命は奪わない」
ガレオン様は、私を一瞥した。私は、頷いた。
「人間王国に、要求する。第二王子レオン・フォン・ロイヤルマークの王位継承権剥奪。婚約者セシリア(ノーラ・セルデン)の偽装幇助の罪で、五年間の幽閉。──これを、即時実施せよ」
「な、なぜ、私が幽閉に──」
「貴様の代わりに、貴族たちが疫病で死んでいる人間王国を、私のリリアーナが救ってやっているのだ。文句があるなら、リリアーナの治癒魔法輸出契約を、月額金貨三万枚に値上げするぞ」
人間王国の側近たちが、慌てて頭を下げた。
「お、お受けいたします! どうか、契約は予定通りに──!」
レオンが、最後に、私を見た。絶望と、哀願と、そして──ほんのわずかに残った、傲慢の混じった目。
「リリアーナ。私を、許してくれないのか」
「許しません」
私は、即答した。
「あなたは、私を捨てただけじゃない。私の唯一の味方だった侍女エマも、火刑にした。──あれを、許せると思いますか」
「エマ……? 侍女、一人くらい──」
「黙りなさい」
私は、彼に背を向けた。
「あなたの口から、エマの名前を聞きたくない」
レオンは、衛兵に引きずられて、謁見の間を出ていった。その後ろ姿は、もう、王子のものではなかった。ただの、惨めな男のものだった。
(エマ。あなたの仇のひとつ目を、討ったわ)
私の左手で、銀の指輪が、優しく光っていた。
## 第8話 断罪_03 崩れる侯爵家、決別の手紙
ノーラ・セルデンの公開裁判から、二週間が経った。獣人国は、騒然としていた。人間王国は、第二王子レオンの王位継承権を剥奪し、ノーラを五年間の幽閉に処した。──ただし、その処罰だけでは、人間王国の混乱は収まらなかった。
「人間王国、貴族の死亡者数、急増中」
アッシュが、執務室の机に、書類を広げた。
「治癒師不足により、辺境貴族の領地で、熱病・破傷風・感染症が広がってる。死亡者は、もう三十人を超えた」
「三十人……」
私の指先が、わずかに震えた。
辺境貴族の領地。──そこには、私の実家、アッシュフォード侯爵領も、含まれている。
「リリアーナ嬢の実家、アッシュフォード家からも、緊急の救援要請の手紙が届いてる」
アッシュが、一通の封書を、私の前に置いた。赤い封蝋。アッシュフォード家の紋章。──父の、署名。
「お父様、から……」
私は、ためらいながら、封を切った。紙が、震える指先で開かれていく。
『リリアーナへ。
お前が生きていると聞いた。獣人国の王の婚約者になったとも聞いた。──父として、お前に詫びる権利は、もうないことを承知している。
だが、領民が、死んでいく。
熱病が、止まらない。我が領地の治癒師は、すでに二人が亡くなった。新しい治癒師は、王都から派遣されない。子供たちが、毎日、何人も死んでいる。
リリアーナ。お前を断罪したのは、私の過ちだった。──だが、領民には罪はない。
頼む。獣人国の治癒派遣を、アッシュフォード領にだけでも、認めてくれ。──父として、ではなく、貴族として、頼んでいる。
ジョージ・フォン・アッシュフォード』
私は、手紙を、長い間、見つめた。
(……お父様)
(あなたが「父として」じゃなく、「貴族として」しか頼めない。──それが、私たちの関係)
(でも、それでいい。私も、もう、あなたの「娘」じゃないから)
「アッシュ様。父に、会うことは、できますか?」
「可能だ。獣人国の使者として、君が直接アッシュフォード領に行ってもいい。あるいは、父侯爵を獣人国に呼びつけることもできる」
「呼びつけたい。父を、獣人国まで、来させたいの。──そして、私自身の手で、条件を提示したい」
「了解」
アッシュは、にっと笑った。
「使者を派遣するよ」
──三日後。
ジョージ・フォン・アッシュフォード侯爵が、馬車で獣人国に到着した。
謁見の間ではなく、王城の小さな応接室に、私は彼を呼んだ。ガレオン様も、同席してくれた。
応接室の扉が開いた。そこに立っていたのは、わずか半年前まで、私の父だった男。
──別人のようだった。
彼の髪は、白く染まっていた。背筋は、丸まっていた。立派だった顔は、痩せこけて、皺だらけになっていた。
「リリ……」
父は、私の名前を、最後まで呼べなかった。
私は、立ち上がらなかった。お茶も勧めなかった。ガレオン様の隣の椅子に座ったまま、彼を見つめた。
「お座りください、ジョージ侯爵。──お父様、と呼ぶことは、もうありませんが」
父の喉が、ぐっと、鳴った。
「アッシュフォード領の救援、お願いに参りました」
「ええ、手紙、拝見しました」
私は、机の上の書類を、父の前に滑らせた。
「条件を、提示します」
父は、震える指で、書類を広げた。
『アッシュフォード領 治癒派遣契約 条件書
一、アッシュフォード家は、獣人国に対し、領地の南半分(金属鉱山地帯を含む)を、無償で割譲する。
二、アッシュフォード家は、現当主ジョージ・フォン・アッシュフォードの侯爵位を人間王国王家に返上し、爵位を「子爵」に格下げする手続きを、即時開始する。
三、現夫人エルザ・フォン・アッシュフォード(旧姓アッシュフォード継母)を、ノーラ・セルデン事件の偽装幇助の罪で、人間王国の警察に引き渡す。
四、上記の条件を全て呑む場合、獣人国はアッシュフォード領に治癒師十名を派遣する』
父の顔が、紙のように白くなった。
「リリアーナ、これは──」
「お受けにならないなら、領民は死に続けます」
私は、容赦しなかった。
「お受けになっても、爵位の格下げと、領地の半分を失う。──ですが、領民の命と引き換えなら、安いものでしょう?」
「私が……侯爵位を、返上……」
「いえ、もうあなたは、侯爵には、相応しくありません」
私は、立ち上がった。
「私を見捨てて、義母とセシリアに騙され、領民まで救えなかった。それが、あなたの『侯爵』としての成績です」
「リリアーナ──」
「お父様」
私は、初めて、その言葉を、口にした。
「私は、もう、あなたの娘では、ありません」
父の目から、ひと粒、涙が溢れた。
「私が、いえ、父が、悪かった。──済まなかった、リリアーナ」
「謝罪は、領民にしてください」
私は、書類を、ゆっくりと指差した。
「一度だけ、聞きます。──お受けになりますか?」
父は、長い沈黙の後、震える手で、ペンを取った。
そして、書類に、署名した。
『ジョージ・フォン・アッシュフォード』
最後の、侯爵としての、署名。
「ご署名、ありがとうございます」
私は、書類を畳んだ。
「治癒師団は、明日の朝、領地に派遣します。──エルザ夫人は、今夜中に、人間王国の警察に引き渡してください」
「は、はい」
「もう一つ。アッシュフォード家は、もう私の家族ではありません。今後、私への手紙も、訪問も、お控えください。──私が、あなた方と関わる理由は、もう、ないのです」
父は、何も言わずに、私を見上げた。その目には、もう、涙はなかった。ただ、深い、深い、後悔だけが、残っていた。
「失礼します」
父は、震える足で立ち上がり、応接室を後にした。
扉が閉まった瞬間。
私は、ガレオン様の肩に、頭を寄せた。
「ガレオン様。私、冷たい娘ですね」
「お前は、正しい娘だ」
ガレオン様は、私の頭を、優しく撫でた。
「親が親として失格なら、子も子をやめていい。それが、獣人族の鉄則だ」
「……はい」
「でも、お前は、まだ十七歳の娘だ。今夜は、私の腕の中で、泣いていい」
私は、頷いた。そして、ガレオン様の胸に、顔を埋めた。
リリアーナとしての、最後の、悲しみの涙が、銀狼王の漆黒の上着に、染み込んでいった。
(エマ。私は、ちゃんと、自分の足で、立ったわ)
(でも、まだ、終わってない。──次は、義母エルザの番)
獣人国の冬は、もうすぐ、終わろうとしていた。
## 第9話 断罪_終 義母の最後と、新しい命題
「義母のエルザ・フォン・アッシュフォード、本日、人間王国の警察に引き渡されました」
朝の謁見の間で、ドラゴ宰相が報告した。
「ドラコニア諜報員ノーラ・セルデンとの内通の罪で、即時取り調べに移行。──ご希望でしたら、リリアーナ様の証言の機会を、人間王国側が用意するそうです」
「証言、ですか」
「ええ。義母エルザの取り調べに、姪のノーラとの十年来のやり取りの証拠が出てきました。それを補強する証言として、リリアーナ様の所感を求めたいと」
私は、ガレオン様を見上げた。
「ガレオン様。──行かせてください」
「人間王国に、戻るのか?」
「いえ、義母の取り調べは、獣人国との国境近くの中立都市カーレンで行われます。日帰りで戻れます」
「行く必要があるのか?」
「あります。私の中の、最後のリリアーナとして、あの女に、決別を告げたいのです」
ガレオン様は、しばらく沈黙したあと、頷いた。
「いいだろう。ただし、私も同行する」
「はい、お願いします」
──三日後。
中立都市カーレンの地下にある「中立法廷」に、私はガレオン様、アッシュ、護衛の獣人騎士たちと共に降りた。
地下牢の扉が開かれる。中央の鉄格子の向こうに、義母エルザが座っていた。
──別人のようだった。
豪奢な金髪は、ぼさぼさに乱れ、塩気と垢で輝きを失っていた。化粧の落ちた肌は、シミと皺が目立った。私の前に立っていたときの、あの傲慢な笑みは、もう、どこにもなかった。
「リ、リリアーナ……」
エルザは、私を見て、震え上がった。
「あなた、本当に、生きていたのね……」
「ええ、お久しぶりですね、義母様」
私は、できるだけ穏やかに、けれど鋭く応じた。
「ノーラとの十年来のやり取りの証拠、警察から見せていただきました。あなたが、彼女のドラコニア諜報任務を、ずっと支援していたこと。私を陥れる計画も、最初から知っていたこと。──全部、認めますね?」
エルザは、しばらく口をぱくぱくさせた。
そして──観念したように、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「だ、だって、ノーラは、私の妹なの……。私は、母を早くに亡くして、ノーラと二人で生き延びた。彼女が、ドラコニアの諜報員になったのは、お金のためで──」
「私を、陥れた理由は?」
「あ、あなたが邪魔だったから……。あなたの治癒魔法のせいで、私の地位が脅かされて……」
「私の治癒魔法のおかげで、アッシュフォード領は、ずっと領民の信頼を集めていました。それを、あなた方は、潰した」
「ご、ごめんなさい、リリアーナ! 許して──」
「許しません」
私は、即答した。
「あなたの罪は、私を陥れたことだけではない。エマを焼いたこと。父様を騙したこと。アッシュフォード領の領民を、疫病で死なせたこと。──全部、あなたの罪です」
エルザは、両手で顔を覆った。
「リリアーナ……、お母さまと呼んでくれた、あの頃のように──」
「あなたを、お母様と呼んだことは、一度もありません」
私は、淡々と告げた。
「私の本当の母は、もう亡くなりました。それ以来、私には『母』と呼べる人はいなかった。──いえ、ひとりだけ、いました。エマだけが、私を娘のように愛してくれた」
「エマ……?」
「あなたが、火刑にした、私の侍女です」
エルザの肩が、ぴくり、と跳ねた。
「あ、あれは、ノーラが──」
「あなたも、共犯です」
私は、立ち上がった。
「警察殿。証言、終わりました。義母エルザは、十年来の諜報幇助、私の侍女エマ・ホールベリーの不法処刑への共犯、私の不法断罪への共謀──以上の罪により、最低でも終身刑が妥当でしょう」
人間王国の警察官が、深く頭を下げた。
「承知いたしました、リリアーナ様」
エルザが、鉄格子に縋り付いた。
「リリアーナ、待って! 私を、私を、助けて! 終身刑なんて──!」
「私が助けるべきは、もう、あなたではありません。私が助けるべきは、アッシュフォード領で病に苦しんでいた領民たちです」
私は、彼女に背を向けた。
「リリアーナ──!」
地下牢の扉が、ゆっくりと閉まった。エルザの絶叫が、鉄の扉の向こうで、徐々に遠ざかっていく。
私は、振り返らなかった。
(エマ。あなたを焼いた連中、もうひとり、片付いたわ)
(あと、ひとり)
──地下から地上に出ると、ガレオン様が、何も言わずに私を抱きしめた。
「リリアーナ。お疲れ様」
「ガレオン様……」
「お前は、もう、あの女のことは考えなくていい。──そして、もうひとり、と言ったな。地下牢で、義母に向けて。『あと、ひとり』と」
ガレオン様は、私の頬に触れた。
「あれは、誰だ?」
「……あの、エマを焼いた、群衆」
私の声が、震えた。
「私を断罪した連中も、義母も処分した。──でも、あの日、エマが火刑にされるのを見て、笑っていた群衆。──あの人たちは、私には、どうしようもない」
私は、深く息を吐いた。
「彼らを罰する手段は、ない。たくさんの人を一人ずつ追いかけて罰することは、できない。──だから、その怒りは、私の中に、ずっと残るんです」
ガレオン様は、しばらく無言で私を見つめた。
そして、優しく、私の額に唇を落とした。
「お前は、本当に、優しいな」
「えっ?」
「群衆を一人ずつ罰せないことに、苦しんでいる。──私だったら、王都ごと焼き払って終わりだ」
「ガレオン様!」
「冗談だ。──いや、半分本気だが」
ガレオン様は、低く笑った。
「リリアーナ。彼ら一人一人を罰することはできない。だが、別の形で、お前のエマへの想いに応える方法がある。アッシュ、今朝の文書を持ってこい」
アッシュが、軍服の懐から、一枚の古びた巻物を取り出した。
「これは、獣人国の北部、リクトリア山脈にある『呪われた地』に関する、千年前の文書だ。千年前の魔王戦争で、最も激しい戦いがあった地だ。当時の魔王が、最後の魔力で大地そのものを呪い、何百年もの間、植物すら生えない、不毛の地となった」
私の目が、巻物に走った。古代の文字。──けれど、なんとなく、意味がわかった。
「『治癒の聖女、清浄なる魔力を以て、汚染を解き放ちしとき、呪われし大地は、再び生命を抱かん』──この預言が、千年前から伝わっている」
「治癒の聖女が、呪われた地を浄化する……?」
「ああ。お前が獣人国に来てから、私はずっと考えていた。お前の治癒魔法なら──あの大地を、浄化できるのではないか、と」
治癒魔法は、傷ついた組織を、命の側に戻す力。──土地の汚染も、結局は「土地という大きな組織」の損傷。
スケールの問題はある。──私一人の魔力では、おそらく足りない。
でも、獣人国の治癒師団全員と協力すれば? 組み直した術式を使って、効率を上げれば? ──やれるかもしれない。
「ガレオン様。──やってみたいです」
私は、顔を上げた。
「呪われた地の浄化。──エマへの、私の答えとして」
「答えとして?」
「群衆を一人ずつ罰することはできない。けれど、私は、人を救うことなら、できる。──エマが、生前、私に望んだのは、それだったから」
リリアーナの記憶の中で、エマの優しい声が、蘇った。
『お嬢様。あなたは、優しい子に育つのよ』
「エマの仇を、別の形で討ちます。──それは、エマが愛した『優しさ』を、この世界に、もっと増やすこと」
ガレオン様の金の瞳が、優しく細められた。
「お前という女は、本当に──いいだろう、リリアーナ。リクトリア山脈への遠征隊を編成する。一週間後に出発だ。──私と、お前と、グリゼルダの治癒師団、アッシュの護衛部隊。みんなで行こう」
「はい!」
(エマ。私は、優しい子に、なれるかしら)
王城に戻る馬車の中で、ガレオン様の手を握りながら、私は外の景色を眺めた。獣人国の北の方角に、リクトリア山脈の白く険しい稜線が、見えていた。そこに眠る、千年の呪い。──それを、解きに行く。
## 第10話 浄化_01 雪山と銀の守護
リクトリア遠征隊出発の朝。獣人国の王都ヴァルガルディアの北門に、漆黒の馬車十台と、白虎・銀狼の獣人騎士団五十名が並んでいた。
「リリアーナ様、お準備、整いました」
ミーナが、私の最後のマントを整えてくれた。厚手の白い毛皮のマント。
「ミーナ、留守のあいだ、よろしくね」
「はい、お嬢様。どうか、ご無事で」
その後ろで、アッシュが、ニヤニヤしていた。
「ミーナ、俺がいないあいだ、寂しいって言って?」
「アッシュ様、煩いです!」
ミーナの頬が、真っ赤になった。
私が馬車に乗り込もうとしたとき、ヴェルナが駆け寄ってきた。
「リリアーナ。これ、持って行って」
ヴェルナの手のひらには、淡い緑色の小瓶があった。
「我が家伝の薬草水。雪山の寒気で、肌が荒れるのを防ぐの。──陛下に綺麗な顔を見せるため、毎晩塗りなさい」
「ヴェルナったら」
私は、笑った。
「あと、これも」
ヴェルナが、もう一つ、小さな包みを差し出した。包みを開けると、淡い水色のリボンが入っていた。私の指輪と、同じ色。
「ヴェルナ、私のために、調べてくれたの?」
「べ、別に、暇だっただけよ」
ヴェルナは、ふいっと顔を背けた。けれど、その耳は、真っ赤だった。
「リリアーナ。行こう」
「はい」
馬車が出発した。最初の三日は、平穏だった。獣人国の街道は、人間王国とは違って、整備が行き届いていた。馬車は揺れも少なく、夜は温かい湯と、新鮮な肉料理を楽しめた。
四日目の朝。ついに、雪山道に入った。
馬車では進めなくなったため、ここから先は、ガレオン様の銀狼姿(人化を解いた本来の獣体)に乗って進む。
「リリアーナ。私の背中に、しっかり捕まれ」
巨大な銀狼姿のガレオン様が、私の前に伏せた。背丈は私の二倍。獣体の温かさが、雪山の冷気の中で、頼もしい火のように感じられた。
私は、彼の銀色の背中に、慎重に乗った。獣人騎士団も、それぞれ獣体に変わって、私たちの周りを駆けた。白虎のアッシュ。狼の若い騎士たち。──圧巻の光景だった。
雪山の風は、冷たかった。けれど、ガレオン様の毛並みに身を寄せていると、不思議と寒さを感じなかった。
「ガレオン様。銀狼姿、本当に、綺麗ですね」
『お前にだけ、見せたい姿だ』
ガレオン様の声が、私の心の中に、直接、響いた。
「えっ、声が、頭の中に?」
『獣体のときは、思念で会話できる。──運命のつがい同士なら、なおさら』
「すごい……!」
(こんなこと、できるなんて)
「ガレオン様、聞こえてますか? 私の心の声、聞こえてる?」
『ああ、聞こえている』
「えっ、独り言、全部?」
『お前の独り言、全部聞いている。──最高に、面白いぞ』
私は、思わず、彼の銀色の毛並みに顔を埋めた。恥ずかしすぎる。
『安心しろ。獣体のときだけ、聞こえるだけだ。普段は聞こえない』
「よ、よかった……」
『でも、たまに、獣体になって、お前の心の声を聞きたい』
「やめてください!」
雪山を駆ける銀狼の背中で、私は彼を叩いて笑った。笑い声は、白い吐息になって、雪原に消えていった。
──夜。
雪山の中腹にある小さな避難小屋で、私たちは野営した。獣人騎士団が、外で見張りに立っていた。アッシュも、近くの岩場で、私たちのことを警戒してくれている。
小屋の中には、私とガレオン様、二人きりだった。暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てていた。
「リリアーナ」
ガレオン様が、私の隣に座った。獣体から人型に戻った姿で、漆黒の軍服に、黒い髪が、暖炉の光で揺れていた。
「明日、リクトリア山脈の核心部に到着する」
「はい」
「呪われた地は、想像以上に荒れている。お前の浄化が成功するか、私にも、わからない」
「不安、ですか?」
「お前の身体に、負担がかかるのが、嫌だ」
ガレオン様の指が、私の頬に触れた。
「お前を、雪山まで連れてきた。これは、私の選択だ。──何かあったら、私が、許せない」
「ガレオン様」
私は、彼の手を取った。
「私も、私の選択で、ここに来ました。それに──あなたが隣にいるなら、私は、どんな試練も、超えられます」
ガレオン様は、しばらく無言で私を見つめた。そして──ゆっくりと、私を抱き寄せた。
「リリアーナ。明日が終わったら──結婚しよう」
「えっ」
「呪われた地の浄化が成功しても、しなくても、明日が終わったら、すぐに、王城で婚礼の準備に入る。──もう、待てない」
ガレオン様の唇が、私の額に、優しく落ちた。
「私のすべてを、お前に捧げる」
「ガレオン様……」
私は、言葉に詰まった。胸が、いっぱいで、何も、言えなかった。ただ、私は、ガレオン様の胸に、顔を埋めた。彼の大きな手が、私の背中を、優しく撫でた。
その夜、私たちは、暖炉の前で、ずっと抱き合っていた。何も、言葉を交わさなかった。けれど、それで、十分だった。
(エマ)
(私、結婚します)
(あなたに、見せたかった)
聖夜の雪は、もう、降っていない。けれど、リクトリア山脈の夜空には、無数の星が、私たちを優しく照らしていた。
## 第11話 浄化_02 千年の呪いと、二人の魔力
朝。リクトリア山脈の核心部。
私たちが立っているのは、巨大なクレーターのような窪地の縁だった。千年前、魔王戦争の最終戦が、ここで行われた。──そして、敗北した魔王が、最後の魔力で、この大地を呪った。
窪地の底まで、深さ五百メートル。直径は、二キロ。
そこに広がっているのは──黒い、不毛の大地。雪が、積もらない。植物が、生えない。動物の気配も、ない。ただ、黒い土と、所々に転がる、千年前の白い骨だけが、その地を埋めていた。
「これが、呪われた地だ」
ガレオン様が、低く言った。
「千年、変わらず。獣人国の歴代の王たちが、何度も浄化を試みた。だが、誰も成功しなかった」
私は、窪地の底を見つめた。
汚染の規模は、直径二キロ、深さ五百メートル。──膨大。表面的な汚れではなく、土地そのものの「魔力構造」が、根本から壊されている。単純な治癒魔法では、足りない。──土地の魔力構造を、ゼロから書き直すくらいの覚悟が、いる。
「グリゼルダ団長。私、降りて、土地を直接観察したいのですが、安全ですか?」
「呪いそのものは、現在は不活性です。お降りになっても、命に関わる危険はないでしょう。ですが──呪いの残滓は、術者の魔力を吸い取る性質があります。長時間の滞在は、危険です」
「わかりました。短時間で済ませます」
私は、ロープを使って、窪地の底まで降りた。ガレオン様も、すぐ後ろに続いた。底に立つと、足元から、ぞわりと、悪寒が走った。
(これは……土地の魔力が、ほとんど「腐っている」感じ)
(古いシステムが、内側から自分を食い荒らしている、みたいな状態)
(直すには、古い汚染を一掃して、新しい魔力を流し込むしかない)
私は、地面に膝をついて、両手を黒い土に置いた。
意識を、土地の中に、ゆっくり染み込ませていく。──そして、見えた。
土地の魔力構造は、千年前の魔王の最後の呪文によって、いまも暴走し続けている。自然治癒できない理由は、呪文が今も内側で「自分自身を再生し続けている」から。
これを止めるには、呪文の根源的な「核」を見つけて、停止させる必要がある。
──深さ五百メートルの底。そこに、呪文の核がある。
「ガレオン様。呪文の核を、見つけました。ここの土地の魔力を、千年間、暴走させ続けている、根源的な術式です。それを停止させれば、土地は自然に、本来の魔力構造を取り戻すはず」
「核は、どこにある?」
「窪地の中心、地下五百メートル」
ガレオン様の表情が、固くなった。
「五百メートル。──掘削するか?」
「いいえ。掘削は、呪文を刺激するから危険。──私の魔力を、針のように細く絞って、地下まで届かせます。私が呪文の核に到達したら、術式を停止させる」
「お前の魔力で、足りるのか」
「足りません。──だから」
私は、ガレオン様の手を取った。
「ガレオン様、あなたの魔力を、貸してください」
「私の?」
「銀狼族の長命と豊富な魔力。──運命のつがい同士なら、魔力を貸し借りできるって、本で読みました」
ガレオン様の口の端が、ゆっくり上がった。
「その通りだ。──貸す、と言うより、お前と私の魔力は、本来、ひとつだ。運命のつがいは、魂が繋がっている。お前が望めば、私の魔力は、すべてお前のものだ」
ガレオン様は、私の前に膝をついた。獣人国の王が、雪の上で。
「私の魔力を、すべて、捧げる」
彼の両手が、私の両手に重なった。
ガレオン様の魔力が、私の中に、ゆっくりと流れ込んできた。それは、私が今まで知っていた、どの魔力とも違う。獣の本能のような、深く、静かで、力強い魔力。
(これが、銀狼王の魔力)
(──私の魔力の十倍以上、ある。これなら、いける)
「では、始めます」
私は、目を閉じた。
私の手のひらから、淡い水色の光が、針のように細く、地面に伸びた。光は、土を貫き、岩を貫き、地中深くへ、深くへ、染み込んでいく。
「リリアーナ……?」
ガレオン様の声が、遠く感じた。
地下、数百メートル。──残り三百。残り百。──到達。
私の意識が、地下五百メートルの闇の中で、千年前の呪文を、捉えた。それは、複雑な、暗黒の術式だった。古代魔王の、最後の絶望と憎悪が、絡まり合い、自己再生を繰り返す、巨大な魔法構造体。
(でも、辿れる)
呪文の中で、再帰的にループしている部分の、起点を見つける。──あった。これが、すべての汚染を生み続けている、根っこ。
そこに、停止の意思を、流し込む。
私の魔力が、ガレオン様の魔力と共に、呪文の核に、ゆっくりと流れ込んだ。
そして──停止した。
呪文の核が、ぐらりと、消えていった。ガラガラと、何かが、崩れる音が、地中で響いた。
「うッ──!」
私は、よろけた。ガレオン様が、すぐに、私を抱きとめた。
「リリアーナ! 大丈夫か!」
「はい……、終わりました」
私は、上を見上げた。
──変わっていた。
黒い土が、ゆっくりと、色を取り戻していた。茶色の、健康な土の色に。
そして、土の中から──ぽつり、ぽつりと、緑の若芽が、顔を出し始めた。
「すご……」
ガレオン様も、息を呑んだ。
「千年、何ひとつ生えなかった土地に……」
クレーターの上から、グリゼルダ団長の歓声が降ってきた。
「リリアーナ様! 雪が、降り始めましたぞ!」
私は、空を仰いだ。雲が割れ、白い雪が、ゆっくりと、降り始めていた。千年ぶりの、リクトリア山脈の、雪。呪われた大地が、再び、自然のサイクルに、戻っていく。
「……エマ」
私は、雪を、両手で受け止めた。
(エマ。あなたの「優しさ」が、千年の呪いを、解いたのよ)
私の頬を、温かい涙が、伝った。その涙を、ガレオン様の唇が、優しく、拭った。
「リリアーナ。お前は、本当に、奇跡だ」
「ガレオン様……」
「結婚しよう」
ガレオン様は、私を抱き寄せた。
「明日、王城に戻ったら、すぐに、婚礼の準備をする。──私の隣で、千年、生きてくれ」
「はい。──喜んで」
私たちの口づけが、降り始めた雪の中で、千年の呪いの最後の名残を、温めて、消した。リクトリア山脈の白い空に、私たちの新しい契約は、刻まれた。
## 第12話 婚礼_01 白いウェディングドレスと、猫の決意
リクトリア山脈から王都ヴァルガルディアに戻った日の夕方。
王城前の大広場には、何千人もの獣人国民が集まっていた。雪原の浄化の知らせが、私たちが帰還する前に、すでに獣人国全土に広まっていたのだ。
「リリアーナ様!」
「銀狼王陛下!」
「リクトリア浄化、おめでとうございます!」
人々の歓声が、私たちの馬車を取り囲んだ。
「リリアーナ。手を振れ」
ガレオン様が、馬車の窓を開けた。
「えっ、私が?」
「お前は、もう獣人国の英雄だ。それに──三日後の婚礼で、彼らの正式な王妃になる」
「……はい」
私は、緊張しながら、馬車の窓から、人々に手を振った。
「うわー、可愛い!」
「銀の妃様、ありがとうございます!」
「我が領地の治癒師団も、リリアーナ様のおかげです!」
子供たちが、雪の中、馬車を追いかけてきた。手作りの花束を、馬車に向けて差し出してくれる。
私は、思わず涙ぐんだ。
(エマ)
(私、こんなに、人に必要とされる場所に、来られたのね)
王城に戻ると、ヴェルナが大広間で待ち構えていた。
「リリアーナ! 帰りが、二日も早いじゃない! 婚礼の準備、まだ何もできてないのよ!」
「ヴェルナ、ただいま」
「『ただいま』じゃないわ! 三日後よ、三日後! ドレスのサイズ合わせも、宝飾の選定も、髪型の試行も、まだ何もしてない!」
「えっ、三日後って、ガレオン様、本気だったの?」
ガレオン様が、私の隣で、満足げに笑った。
「もちろん、本気だ。──運命のつがいに対する独占欲は、千年待った男には、もう一日も無理だ」
「ガレオン様!」
「ヴェルナ。任せた。リリアーナを、最高の花嫁にしてやってくれ」
「お任せください、陛下」
ヴェルナは、両手を腰に当てて、にっと笑った。
「リリアーナ、覚悟しなさい。今夜から三日間、寝ないわよ。──私の家伝の薬草水で美容パック、グリゼルダ団長監修の魔力増強療法、王宮御用達の宝石鑑定士による指輪と冠の選定、そして──最高峰のドレスメイカー、ジゼル・フォン・スワンウィングを呼んだわ。獣人国第一の白鳥族、伝説のドレスメイカー」
「……すごい」
ヴェルナは、私の手を引いて、王城の奥の私的な間に向かって歩き始めた。
「ガレオン様、リリアーナをお借りしますわ! 三日後の婚礼まで、彼女に近づかないでください!」
「えっ、そんな!」
「これは、獣人国の伝統です、陛下。婚礼前の三日間、花嫁は花婿に会わない。──別の女のものになる前の、最後の試練です」
ガレオン様の表情が、複雑になった。
「……三日間、お前に会えない、と」
「会えないなら」
ガレオン様は、私を抱き寄せて、頬に唇を落とした。
「これを、三日分、置いていく」
「ガ、ガレオン様!」
ヴェルナが、両手を腰に当てた。
「陛下。離してください。三日間です」
「わかった、わかった」
──夕食後。
私の部屋に、伝説のドレスメイカー、ジゼル・フォン・スワンウィングが訪れた。純白の翼を背に持つ、年配の白鳥族の女性。優雅で、品があり、しかし鋭い目を持っていた。
「リリアーナ様。──火刑から逃れ、獣人国でつがいを得て、千年の呪いまで解いたお方。そのような女性に相応しいドレスを、心を尽くしてお作りいたします」
「ありがとうございます」
「リリアーナ様。あなたは、どのようなドレスを、お望みですか?」
「私が、希望を?」
「ええ。あなたの希望が、最も大切です」
私は、しばらく考えた。
「ジゼル様。──白を、基調にしたいです」
「白、ですね。獣人国の婚礼ドレスは、伝統的に、銀か、漆黒なのですが」
「はい。それでも、白を希望します」
私は、自分の胸元の、母の形見のロケットを、握った。
「私は、人間として生まれて、獣人国で生まれ変わりました。母も、エマも、白い肌の人たちでした。──その『過去の私』を、あの結婚式に連れて行きたいです」
「素敵なお考えですわ」
ジゼルは、微笑んだ。
「では、白を基調にして──そこに、銀の刺繍。ガレオン陛下の銀狼の毛並みを、そっと忍ばせる、伝統との架け橋として。スカートの裾には、淡い水色の、雪の結晶の刺繍。──雪原で出会った瞬間の、お二人の記憶を表現します」
「あぁ、それ、すごく嬉しいです」
私は、思わず、声を上げた。
「ジゼル様、私のこと、たくさん調べてくださったのですね」
「ヴェルナ様から、すべて伺いました」
ジゼルは、ヴェルナを振り返った。ヴェルナは、ふいっと顔を背けた。
「べ、別に、リリアーナのために頑張ったわけじゃないわ。私は、獣人国の名誉のために──」
「ヴェルナ、ありがとう」
私は、彼女に抱きついた。
「ちょ、ちょっと、リリアーナ! やめなさい!」
ヴェルナの耳が、また真っ赤になった。
──夜。
ヴェルナとジゼルが帰った後、私の部屋の扉を、ミーナがそっと叩いた。
「お嬢様、お夜食をお持ちしました」
「ミーナ。──ねぇ、ちょっと、座って」
私は、ミーナの手を取って、ベッドの端に座らせた。
「ミーナ、アッシュ様のこと」
ミーナの肩が、ぴくり、と跳ねた。
「お、お嬢様、私、その──」
「アッシュ様、ミーナのこと、本気みたいよ」
「……」
「あなた、アッシュ様のこと、どう思ってる?」
ミーナは、しばらく俯いていた。そして、ぽつり、と言った。
「……好き、です」
「やっぱり!」
「で、でも、私は、ただの侍女で、アッシュ様は獣人国の重臣で──」
「ミーナ、それは関係ないわ」
私は、ミーナの両手を握った。
「私だって、ただの没落令嬢で、ガレオン様は獣人国の王よ。──身分なんて、関係ない。心が、繋がっているかどうか、それだけ」
「お嬢様……」
「ミーナ、私の婚礼の日に、あなたが介添えとして、ずっと隣にいてくれるわよね。その日、私のブーケを、アッシュ様に届けて」
「ブーケ、を?」
「獣人国の伝統で、新婦のブーケを、独身の女性が受け取ると、次に結婚すると言われているの。──私は、それをミーナに渡したい。そして、それを、ミーナがアッシュ様に渡すの」
「で、でも、それは、私から告白するみたいに──」
「そうよ。──ミーナ、自分で、伝えていいのよ」
ミーナの目から、ひと粒、涙が溢れた。
「お嬢様、お嬢様……、私、もう、ガレオン様とお嬢様を見ていて、本当に、本当に──」
「ミーナ。──アッシュ様も、絶対、応えてくれる。私が保証する」
「は、はい!」
ミーナは、両手で涙を拭いた。
「私、頑張ります!」
私は、ミーナを抱きしめた。
(エマ)
(私、ちゃんと、誰かを支える人にも、なれてるかしら)
(あなたが、私にしてくれたみたいに)
## 第13話 婚礼_02 婚礼前夜と、暗雲の影
婚礼前日。
王城の奥にある、私の私室。ヴェルナとジゼルの監修のもと、最後のドレス試着が行われていた。
ドレスは、完成していた。純白の絹に、銀の刺繍が織り込まれた、優雅で、力強い、獣人国の正式な婚礼装。胸元から肩にかけては、銀狼の毛並みを思わせる繊細な銀刺繍が踊り、スカートの裾には、淡い水色の雪の結晶が、無数に散りばめられていた。
「リリアーナ様……」
ジゼルが、両手で口を覆った。
「お似合いですわ。──私の人生で、最も美しいドレスに、最も美しい花嫁を、見せていただきました」
「リリアーナ」
ヴェルナが、私の隣に立った。
「綺麗よ、本当に。──あなたは、獣人国の歴代王妃の中で、最も美しい花嫁になるわ」
「ヴェルナったら、褒め過ぎ」
「大袈裟じゃないのよ、これ」
ヴェルナの碧い瞳に、涙が浮かんでいた。
「リリアーナ、私──昨年まで、本気でガレオン様の花嫁になりたかった。あなたに会うまで」
「ヴェルナ……」
「でも、今は、わかる。──あなたが、ガレオン様の運命のつがい。ガレオン様は、あなたのために、千年待った人。私は、その物語の、ほんの脇役にすぎない」
「ヴェルナ、それは──」
「いいの、最後まで聞いて」
ヴェルナは、私の両手を握った。
「私は、明日、あなたの『最初の女性友人』として、最前列で、あなたを祝福する。──そして、その立場を、誇りに思うわ」
「ヴェルナ……」
私は、言葉に詰まった。
「ありがとう。──ヴェルナ、本当にありがとう」
私たちは、ドレス姿のまま、抱き合って、しばらく泣いた。ジゼルが、温かい視線で見守ってくれていた。
──そのとき。
部屋の扉が、激しくノックされた。
「リリアーナ様! ヴェルナ様! ご無礼を!」
オーランド執事の声。慌てた、緊迫した声色。
「ガレオン陛下が、緊急の件でお呼びです。──リリアーナ様も、ご同行いただきたいと。ドラコニア海洋国家から、緊急の外交書状が届きました」
(──やっぱり、来た)
「すぐに参ります」
私は、ドレスを着替えるのも惜しんで、上にローブを羽織って、ガレオン様の執務室に駆けつけた。執務室には、ガレオン様、アッシュ、ドラゴ宰相、グリゼルダ団長、そして数名の獣人重臣が集まっていた。
机の上には、深い赤の蝋封が施された、大きな書状。
「リリアーナ。これを読んでくれ」
私は、書状を、手に取った。
『ヴァルガルド獣人国 国王ガレオン陛下、並びに王妃候補リリアーナ・フォン・アッシュフォード殿。
我がドラコニア海洋国家は、貴国による我が国諜報員ノーラ・セルデンの不当拘束、並びに人間王国への政治的圧力(治癒輸出契約)を、許容しない。
貴国がノーラを即時釈放し、人間王国への治癒輸出契約を破棄しない場合、ドラコニア海洋国家は、貴国に対して、武力行使の準備に入る。
回答期限は、貴国の婚礼後、三十日。
ドラコニア海洋国家 国王 ヴァレリウス・ドラコ』
部屋の空気が、凍りついていた。
「武力行使……」
ドラゴ宰相が、唸った。
「ドラコニアは、海洋大国です。海軍の規模は、獣人国の三倍。──正面戦闘になれば、苦戦は必至です」
「だが、応じなければ、我が国の威信が揺らぐ」
グリゼルダ団長が、低く言った。
「リリアーナ様の地位も、揺らぎます」
「ガレオン様」
私は、彼の肩に、そっと手を置いた。
「私が引き渡されることは、絶対にない。──それは、確認させてください」
「絶対にない」
ガレオン様は、即答した。
「お前を、ドラコニアに渡すくらいなら、私はドラコニアに、宣戦布告する。──だが、戦争にするのも、避けたい。お前と、結婚式の翌日から、戦争のことばかり考えるのは、私が耐えられん」
ガレオン様の声に、本気の苦悩が混じっていた。
私は、深く息を吸って、書状を、もう一度、読み返した。
ドラコニアの要求は、ノーラの即時釈放と、治癒輸出契約の破棄。狙いは、人間王国への影響力の回復と、獣人国の弱体化。
選択肢を並べてみる。全要求を呑むのは論外──獣人国の屈辱になるし、私の立場も崩れる。全拒否は戦争突入。部分的な譲歩は、相手に弱みを見せるだけで効果が薄い。
──残る一手は、第三国を巻き込むこと。ドラコニアと対立している国家との同盟。そこを早めに固めれば、戦争は止められる。
「ガレオン様。ドラコニアと対立している国は、あります?」
「東方の砂漠連邦国、それと南方の島国スピナ。──両国とも、海洋通商権を巡って、ドラコニアと対立している」
「では、それらの国に、私たちの婚礼式典への大使派遣を、急遽お願いしましょう。私たちの婚礼を、東方連邦国と島国スピナの代表が、公式に祝福する。これを実現すれば、ドラコニアは『獣人国を孤立させる』ことが、できなくなります」
「即日、書状を送らせる」
「それから、もう一つ」
私は、机の書状を、もう一度、指でつついた。
「ドラコニアの要求の本当の狙いは、ノーラの釈放じゃない。──私の影響力を、削ぐことです。私が獣人国の王妃となり、人間王国に影響力を持ち、しかも獣人国の魔力で千年の呪いまで解いた。──ドラコニアにとって、これは『私個人を消す』のが、最も合理的な解決策」
「リリアーナ……」
「だから、ガレオン様。婚礼式典には──最高警備で、お願いします。──私の命を狙う暗殺者が、必ず、紛れ込みます」
ガレオン様の喉から、低い唸りが響いた。
「アッシュ。婚礼会場の警備を、最大級に。──暗殺者を一人でも見落とせば、お前の首を貰うぞ」
「了解、陛下」
アッシュが、にやりと牙を見せた。
「リリアーナ嬢の身は、白虎部隊が責任を持つ。──暗殺者には、生きて返さない自信がある」
会議が終わった後。
ガレオン様と私は、執務室の窓辺に立っていた。外は、もう深夜。獣人国の星空が、私たちを見下ろしていた。
「リリアーナ。明日、婚礼を、延期するか?」
ガレオン様が、低く尋ねた。
「いいえ」
私は、即答した。
「予定通り、婚礼を行います。──ドラコニアに、私たちが屈さないことを、世界に示すのです」
「お前を、危険に晒す」
「私は、もう、危険を恐れません。ガレオン様の隣で、千年生きると、約束しました。──そのために、明日、結婚するんです」
ガレオン様は、しばらく無言で私を見つめた。そして、私を、強く抱きしめた。
「リリアーナ。──お前は、本当に、私のつがいだ」
「はい」
「明日、世界中に、それを宣言しよう」
私たちは、星空の下で、明日の決意を、固めた。
(エマ)
(明日、私は、結婚します)
(あなたが愛した、優しい子のままで。でも、優しさだけじゃ、戦えない世界も、知ったわ)
(──両方の私を、隣に、連れて行きます)
## 第14話 婚礼_03 銀狼王と、白い妃
婚礼の朝。
王城の女子の領域に、朝日が差し込んでいた。私は、ジゼル監修の最高品質のドレスを、ヴェルナとミーナに手伝ってもらいながら、ゆっくりと纏った。
純白の絹。銀の刺繍。淡い水色の雪の結晶。──そして、頭には、銀と水晶でできた、獣人国の花嫁の冠。
「お嬢様、本当に、お綺麗です……」
ミーナの目から、涙が止まらなかった。
「ミーナ、泣かないで。化粧が落ちたら、アッシュ様がガッカリするよ」
「お嬢様!」
ヴェルナが、ぷっと噴き出した。
「リリアーナ、いい性格になってきたわね」
「あなたの影響よ、ヴェルナ」
私たちは、笑い合った。
「リリアーナ様。──時間です」
オーランド執事の声が、扉の向こうから響いた。
私は、深く息を吸った。
(行こう)
(エマ。──行ってきます)
──大聖堂。
ヴァルガルディアの中心にある、巨大な石造りの大聖堂。獣人国の歴代の王が、ここで婚礼を行ってきた、神聖な場所。
私は、馬車から降りて、深い息を吸った。大聖堂の前の広場には、すでに獣人国民が、何千人と詰めかけていた。私を見て、歓声を上げた。
「銀の妃様!」
「リリアーナ様!」
「美しい!」
私は、ヴェルナとミーナを左右に従えて、大聖堂への階段を、ゆっくりと上った。大聖堂の扉が、両側から、開かれていく。
中には──ガレオン様が、いた。
漆黒の婚礼装。銀の刺繍と、銀のマント。背中には、銀狼族の血統を示す、銀色の毛皮の襟。
ガレオン様は、私を見た瞬間、息を呑んだ。
そして、低く、優しく、笑った。
「リリアーナ。──お前は、世界で一番、美しい」
私は、彼に向かって、ゆっくりと、歩み寄った。大聖堂の左右の席には、獣人国の貴族たち。グリゼルダ団長、ドラゴ宰相、アッシュ、ジゼル。そして、東方連邦国の大使、南方島国スピナの大使。──私たちの提案通り、ドラコニア包囲の同盟を象徴する、二人の使者が、最前列に座っていた。
私が、祭壇の前まで歩み寄ると、銀狼族の長老が、儀式の言葉を始めた。
「銀狼族の伝統に従い、王ガレオン・ヴァルガルドと、その運命のつがいリリアーナ・フォン・アッシュフォードの、婚礼の儀を、ここに執り行う」
長老の声が、大聖堂に響いた。
「ガレオン王。──汝は、リリアーナを、千年の命を共にする伴侶として、迎えるか」
「迎える」
ガレオン様の声は、揺るぎなかった。
「リリアーナ・フォン・アッシュフォード。──汝は、ガレオン王を、千年の命を共にする伴侶として、迎えるか」
「迎えます」
私の声も、揺るがなかった。
「では、互いの誓いを」
長老が、銀の盃を、私たちに渡した。中には、銀狼族の伝統の、白い蜂蜜酒。
ガレオン様が、まず、盃を受け取り、ひと口、飲んだ。そして、私に、盃を、渡した。私は、その盃を、ガレオン様の唇が触れた縁から、ひと口、飲んだ。蜂蜜の、甘い味。
「銀狼族の伝統の誓い、成立しました。お二人で、結婚指輪を、お互いの指に、はめてください」
ガレオン様が、私の左の薬指から、銀の婚約指輪を、そっと外した。そして、新しい、もっと繊細な、銀の結婚指輪を、その指に、ゆっくりと、はめた。中央には、淡い水色の宝石と、漆黒のオニキスが、ふたつ並んで、光っていた。
「私の漆黒と、お前の水色。──二つの色で、ひとつの指輪だ」
「ガレオン様……」
私は、震える指で、ガレオン様の左の薬指に、彼の結婚指輪を、はめた。同じデザインの、銀の指輪。
「これで、私たちは、永遠です」
「永遠だ」
ガレオン様が、私の手を、強く握った。
「では、最後の誓い。──ガレオン王、リリアーナ妃に、口づけを」
ガレオン様は、私の頬に、両手を添えた。そして、ゆっくりと、私の唇に、唇を、重ねた。
大聖堂の中で、何千人もの貴族と国民が、私たちを見守っていた。私たちの口づけが、終わると、大聖堂の中に、歓声と、拍手が、響き渡った。
「ヴァルガルド国王、ガレオン陛下、並びに王妃リリアーナ陛下、万歳!」
「銀狼王と、銀の妃に、千年の祝福を!」
──式典後の宴。
王城の大広間で、夜まで続く宴が、開かれた。獣人国の貴族たち、そして東方連邦国とスピナの大使たちが、私たちに祝福を捧げてくれた。
「リリアーナ陛下。──貴国の妃となられた今、東方連邦国は、貴国との通商と、軍事同盟の締結を、お申し出いたします」
東方連邦国の使者が、深く頭を下げた。
「島国スピナも、同じ意向です」
私は、ガレオン様と顔を見合わせた。
(──ドラコニア包囲網、成立)
「お受けいたします。両国との友好を、永遠に」
宴の後半。
ヴェルナが、私のブーケを、私に渡した。
「リリアーナ。──ブーケの伝統よ。投げて」
「ええ、ありがとう」
私は、ブーケを、女性たちの集まる方向に、放り投げた。
──そして、それは、計画通り、ミーナのところに、ぽとりと、落ちた。
「キャ──!」
ミーナの顔が、真っ赤になった。ミーナは、震える両手で、ブーケを受け取った。そして、私の方を、見た。
私は、にっこり笑って、頷いた。
ミーナは、深い息を吸った。──そして、大広間を歩いて、アッシュのところへ、まっすぐに歩み寄った。
「ア、アッシュ様」
「ミーナ?」
「これ……」
ミーナは、ブーケを、両手で、アッシュに、差し出した。
「もし、アッシュ様も、お嫌じゃなければ、私の──次の婚礼を、お願いします」
大広間が、ざわめいた。アッシュが、ぽかんと、ミーナを見つめた。そして──ぱっと、笑った。
「やっと、言ってくれた」
アッシュが、ミーナの手を、ブーケごと、握った。
「俺は、半年前から、お前を狙ってたんだぜ。──返事は、Yesに決まってる」
「ア、アッシュ様!」
大広間が、わっと沸いた。
「もうひと組、おめでたいぞ!」
「アッシュ! ミーナ! おめでとう!」
私は、ガレオン様の隣で、満足げに笑った。
「リリアーナ」
ガレオン様が、私を抱き寄せた。
「お前のおかげで、王城が、笑い声で満ちている」
「ガレオン様のおかげです」
「いや、お前のおかげだ」
ガレオン様の唇が、私の頬に、優しく落ちた。
──夜更け。
宴が終わって、私たちは、王城の最奥にある、王妃の私室に、二人だけになった。蝋燭の灯りが、揺れていた。
ガレオン様は、私を、ベッドに、ゆっくりと、座らせた。
「リリアーナ。──疲れたか?」
「いいえ。今日は、本当に、幸せでした」
「私も、だ」
ガレオン様が、私の額に、そして頬に、最後に唇に、優しく口づけを落とした。
「私の、永遠のつがい」
「私の、永遠の王」
その夜、私たちは、千年の約束のもと、互いの腕の中で、眠った。
(エマ)
(私、結婚しました)
(明日から、新しい戦いが、始まります。でも、もう、独りじゃない。隣に、銀狼王が、いてくれる)
獣人国の冬は、終わりを迎え、春が、すぐそこまで、来ていた。
## 第15話 暗影_01 新妻の朝と、最初の刺客
婚礼から、一夜が明けた。
私は、王城の最奥にある王妃の私室で、目を覚ました。視界に飛び込んできたのは、白い天蓋。──そして、私の右隣で、まだ深く眠っている、漆黒の髪の男。
ガレオン様。
昨夜、宴のあと、私たちはこの部屋でずっと抱き合っていた。何度も口づけを交わしたけれど、ガレオン様は、それ以上を求めなかった。
「暗殺者の予告がある日に、お前を抱くのは違う」
そう言って、彼は私を、ただ強く、強く、抱きしめてくれただけだった。
(──やっぱり、ずるい)
私は、ガレオン様の銀の毛皮の襟に、そっと頬を寄せた。獣体ではないのに、彼の体温は、暖炉の火のように温かい。
「……起きていたのか」
低い声が、頭の上から落ちてきた。
ガレオン様の金の瞳が、私を見下ろしていた。寝起きの、艶っぽい目。
「ガレオン様、おはようございます」
「ああ。──私の妃。良い朝だ」
妃。
その響きが、まだ、こそばゆかった。
「リリアーナ。今日はもう、お前のすべきことは、何もない。一日中、私の腕の中にいてくれ」
「えっ、ガレオン様、それは、さすがに──」
「妃の役目だ」
「そんな役目、聞いてません!」
私が起き上がろうとすると、ガレオン様の腕が、私を引き戻した。
「リリアーナ」
「は、はい」
「お前を、抱いていないだけで、私は限界だ。──せめて、隣に、いさせてくれ」
その声に、もう冗談の響きはなかった。
私は、彼の胸に、もう一度、頬を寄せた。
(ドラコニアの暗殺予告。三十日以内に、何かが起きる)
(でも──今日くらいは、新妻の特権で、甘えてもいいよね、エマ)
──午前中。
ガレオン様と私は、寝室で軽い朝食を共にした。獣人国の伝統で、新婚初日の食事は、王と妃だけで、誰の目にも触れずに摂るらしい。
オーランド執事が、銀の盆を扉の外に置いて、無言で下がっていく。私たちは、二人だけで、温かいスープと焼きたてのパンを分け合った。ガレオン様は、自分の皿の白身魚を、フォークで、私の口に運ぶ。
「ガレオン様、私、自分で食べられます」
「これも、妃の役目だ」
「妃の役目、便利な言葉ですね」
「気に入っているのは私のほうだ」
ガレオン様が、低く笑った。私は、ため息をつきながら、彼の差し出すフォークから、白身魚を口にした。
──昼。
部屋の扉が、慎ましくノックされた。
「陛下、リリアーナ様。──アッシュ様より、緊急のご報告です」
オーランドの声に、緊張が混じっていた。
私は、ガレオン様と顔を見合わせた。
「通せ」
アッシュが、軍服姿で部屋に入ってきた。普段の陽気な笑みは、消えていた。黄金色の瞳が、鋭く、研がれていた。
「陛下。リリアーナ嬢。──やはり、来た」
アッシュは、机の上に、一枚の小さな銀のピアスを置いた。
「これ、何ですか?」
「ドラコニア海洋諜報部の認証ピアス。今朝、王城の厨房に紛れ込んでいた新人の調理見習いから、押収した」
「厨房……?」
「昨夜の婚礼の宴で、料理人を増員した。獣人国民の中から、推薦のある臨時雇いを十二人。──そのうちの一人が、ドラコニアの諜報員だった」
私の指先が、わずかに震えた。
(厨房──食事への毒)
「料理に、毒は?」
「いや。今朝の朝食、こいつが用意するはずだった。だが、新婚初日は王族専用調理人がすべて担当する慣例だから、こいつは厨房から出ようとした。──そこを、白虎部隊が押さえた」
「自白は?」
「した」
アッシュが、にやり、と牙を見せた。陽気な笑顔ではない。獣人特有の、捕食者の笑み。
「諜報員は三人組。残り二人、王城内に潜伏中。──ターゲットは、リリアーナ嬢」
ガレオン様の喉から、低い唸りが響いた。
「私の妃の、初日に、毒だと」
「そういうこと。獣人国としては、激怒案件だ」
ガレオン様の金の瞳が、ぎらりと光った。
「アッシュ。残り二人、今日中に、見つけ出せ。──生きて、捕縛しろ。ヴァレリウスへの返答に使う」
「了解、陛下」
アッシュが、軍服の襟を整えて、部屋を出ていった。
部屋に、私とガレオン様、二人だけが残された。
「リリアーナ」
ガレオン様が、私の手を取った。
「お前を、独りにしない」
「……ガレオン様」
「私の獣体の魔力なら、毒物の匂いを百メートル先からでも嗅ぎ分けられる。──私が、すべての食事を、お前の前で、確認する」
「そんなの──」
「妃の安全を守るのは、夫の役目だ」
私は、深く息を吸った。
王城内に二人の暗殺者潜伏中。ターゲットは私。──選択肢を整理しよう。
王城に閉じこもる、のは守りに入りすぎ。じわじわ消耗するし、相手が動くまで時間が稼げない。
王城を出る、のは外で襲われるリスクが大きい。
──だったら、こちらから罠を仕掛ける。相手にとって最高のチャンスを、こちらの管理下で用意してやる。
「ガレオン様。──罠で、いきます」
「罠?」
「私が囮になります」
ガレオン様の表情が、固まった。
「リリアーナ──」
「待ってください。安全策、ちゃんと考えています」
私は、彼の手を握り直した。
「明日の午後、私は王都の市場視察に出かけます。──新婚の妃が、街を歩く。これ以上、暗殺者にとって都合のいい機会はないはずです」
「街中で、お前を晒すのか」
「晒します。けれど──私の周りには、白虎部隊の戦士が、市民に擬装して百人配置される。彼らに気づかれないまま、私を狙える暗殺者は、いません」
「リリアーナ……」
「ガレオン様。私は、この事件を、長引かせたくないんです。私たちが今日、明日と怯えて暮らすこと自体が、ドラコニアの戦略勝利になる。──早く片付けて、私たちの新婚生活を、取り戻したい」
ガレオン様は、しばらく、無言で私を見つめた。
そして、ゆっくりと、私の額に、唇を落とした。
「……お前は、本当に、私のつがいだな」
「はい」
「いいだろう。ただし、私も同行する。──獣体ではなく、人型で。市場の商人に擬装する」
「ガレオン様が、商人?」
「変装は得意だ。──それと、私の獣の聴力なら、半径百メートル内の心拍を聞き分けられる。暗殺者の緊張した心拍は、必ず聞き取れる」
「ガレオン様、そんなに便利な耳、持ってたんですね」
「お前の頭脳と、いい勝負だろう」
──翌日の午後。
私は、淡い水色の貴族風ドレスに、毛皮のマントを羽織って、王都ヴァルガルディアの中央市場に降り立った。隣には、商人風の質素な服に着替え、髪を黒い帯で纏めた、別人のようなガレオン様。
市場には、新妃の視察を一目見ようと、多くの市民が集まっていた。子供たちが、私に向かって花を投げてくれる。
「妃様、お元気で!」
「銀狼王陛下と、いつまでもお幸せに!」
私は、笑顔で手を振った。──そして、ガレオン様の方に、こっそり囁いた。
「何か、聞こえます?」
「……北の路地、二人」
ガレオン様の声が、低くなった。
「心拍数が、上昇している。普通の市民じゃない」
「アッシュ様に、合図を」
ガレオン様が、軽く片手を上げた。──その瞬間、市場のあちこちから、市民に擬装した白虎部隊の戦士たちが、北の路地に向かって、音もなく動き始めた。
北の路地から、悲鳴が上がった。短く、すぐに止まる悲鳴。──制圧されたのだ。
「ガレオン様、確保したみたいです」
「ああ、聞こえた。──二人とも、生きて捕らえた」
ガレオン様は、私の手を取った。
「これで、王城内の暗殺者三人、すべて確保。──まずは、第一段階、完了だ」
「はい」
私は、深く息を吐いた。
王城に戻る馬車の中で、私はガレオン様の肩に、頭を寄せた。
「リリアーナ。疲れたか」
「少し。──でも、これで、ヴァレリウスへの返答カードが、揃いました」
「三人の諜報員を、生かして送り返すか」
「いいえ」
私は、ガレオン様を見上げた。
「三人を、ドラコニアで公開裁判にかける。──ノーラ・セルデンの公開裁判と、同じ手で。彼らの諜報組織と任務命令系統を、世界に晒します」
ガレオン様の口の端が、ゆっくり上がった。
「お前は、本当に、容赦がない」
「あなたが、言わせたんです」
「私のせいか」
「ガレオン様の隣に、立たせてもらってますから」
ガレオン様は、低く笑って、私の頬に唇を落とした。
馬車の窓の外、獣人国の冬の日差しが、雪の街並みに、優しく降り注いでいた。
(エマ)
(新妻の三日目で、もう、暗殺者と戦ってるわ。これでいいのかしら)
(──多分、いいんだと思う。私、ちゃんと、生きてる)
## 第16話 暗影_02 南の海王と、銀狼王の咆哮
三人の暗殺者を捕縛した翌々日。
王城の謁見の間。
北の壁に、巨大な世界地図が、新たに掲げられていた。獣人国の北、人間王国の中央、東方砂漠連邦国の東、島国スピナの南、そして──大陸の南東に、深い赤で塗られた、ドラコニア海洋国家。
「ドラコニア国王ヴァレリウス・ドラコ」
ガレオン様が、地図の前で、低く言った。
「四十二歳。父王ヴラディスを十年前に毒殺して即位したと噂される。海洋通商の利権を独占するため、東方連邦国とスピナを徹底的に経済包囲。──冷酷で、利己的、しかし計算高い男だ」
「毒殺の噂、本当ですか?」
「証拠はない。だが、そう信じる者は多い」
私は、地図を見つめた。ドラコニアは、深い赤の半島と、その沖合の三つの大きな島で構成されていた。海岸線が長く、軍港の数も多い。
ドラコニアの強みは、海軍の規模、海洋通商の利権、長い海岸線。──逆に弱みは、内陸への進軍能力の低さ、東方連邦国とスピナに南北から挟まれる地理、そして王の正統性そのものが脆いこと。
王の正統性さえ揺さぶれば、海軍規模で押されていても、十分に交渉のテーブルに引きずり出せる。
「ガレオン様。ドラコニアの国内に、ヴァレリウスの即位に反対する勢力は、いますか?」
「いる」
ガレオン様の口の端が、上がった。
「先王ヴラディスの嫡子、王女アリエッタ・ドラコ。当時十四歳。父王毒殺の混乱の中で、東方連邦国に亡命した。今は二十四歳、東方連邦国の支援を受けて、亡命王女として国内の不満分子と連絡を取り続けている」
「──完璧」
私は、思わず、笑みを漏らした。
「ガレオン様。──ヴァレリウスへの返答書、私が書きます」
「お前が?」
「ええ。最高の詰めの一手を、考えてみせます」
「リリアーナ。お前の頭、たまに、すごく恐ろしい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
──私は、その日の夕方、ガレオン様の執務机を借りて、返答書を仕上げた。
『ドラコニア海洋国家 国王ヴァレリウス・ドラコ陛下。
婚礼の祝意、誠にありがとうございました。
婚礼当日の翌朝、貴国諜報員三名が、王城の厨房および中央市場周辺で、殺害任務に従事しているところを、確保いたしました。
三名は、現在、健全な状態で、獣人国王城地下に拘束しております。──ノーラ・セルデンと同じ、公開裁判の予定です。
公開裁判の場には、東方砂漠連邦国の大使、島国スピナの大使、人間王国の正式特使、そして──東方連邦国に亡命中の、貴国先王ヴラディス陛下の嫡子、アリエッタ・ドラコ王女殿下にも、ご臨席を打診しております。
ヴァレリウス陛下。──貴国諜報員三名の取り調べは、十年前の貴国王宮の毒殺事件についての、新たな証言を含む可能性があります。
公開裁判は、婚礼から十五日後。獣人国王都ヴァルガルディアにて開催。
当日までに貴国がノーラ・セルデンの引き渡し要求を撤回し、治癒輸出契約破棄要求を撤回し、そして──三十日以内の武力行使準備を、永久に放棄するなら。
我々は、公開裁判の規模を「三名の暗殺未遂事件」のみに、縮小いたします。
期限は、十五日。
獣人国 国王ガレオン・ヴァルガルド
同 王妃リリアーナ・フォン・ヴァルガルド』
私が書き上げた書状を、ガレオン様は、しばらく、無言で読んだ。
そして──頭を仰け反らせて、笑った。
「ハハハハ──!」
大きな笑い声が、執務室に響いた。
「リリアーナ! お前は、本当に、私のつがいだ! ヴァレリウスを、ここまで完璧に追い詰める手紙を、書き上げるとは!」
「ガレオン様、笑いすぎです」
「だが、これは、笑うしかない! ヴァレリウスは、三十日以内の武力行使どころか、十年前の毒殺の証拠まで、晒される恐怖に怯えるぞ!」
「だから、二択を迫りました」
私は、書状を、ガレオン様の前に置き直した。
「『今すぐ要求を撤回し、和平を選ぶ』か、『公開裁判で、毒殺の真相を世界に晒され、亡命王女アリエッタに王位を奪われる』か。──どう転んでも、ヴァレリウスは、撤回を選ぶしかない」
「アリエッタ王女は、本当に来てくれるのか?」
「東方連邦国に、すでにお願いの書状を出しました。──東方連邦国は、ドラコニアの脅威を排除できるなら、喜んで動きます」
「それは、いつだ?」
「ガレオン様が結婚式の翌日、書状を出された時点で、東方連邦国の大使は『同盟締結』と引き換えに『どんな支援も惜しまない』と回答していました。今朝、アリエッタ王女の獣人国訪問を、正式に取り付けました」
ガレオン様は、しばらく、私を見つめた。そして──ゆっくりと、私の頬に、両手を添えた。
「リリアーナ。──私と結婚してから、まだ三日だぞ」
「はい」
「お前は、その三日間で、ドラコニアを、追い詰めた」
「ガレオン様の腕が、温かったので。──頭が、よく回りました」
「お前という女は」
ガレオン様の唇が、私の額に、優しく落ちた。
「お前という女は、本当に、私を、狂わせる」
「ガレオン様、本当ですか? 私、嬉しい」
「ああ。狂わせる」
ガレオン様は、私を、ぎゅっと抱きしめた。私は、彼の胸の中で、書状の最後の部分を、もう一度、声に出して読んだ。
「『獣人国 国王ガレオン・ヴァルガルド、同 王妃リリアーナ・フォン・ヴァルガルド』」
「フォン・ヴァルガルド」
ガレオン様が、私の名前を、繰り返した。
「お前は、もう、アッシュフォードではない。──ヴァルガルドだ」
「ガレオン様の、家名」
「私の、つがいの、家名」
私の胸の中で、何かが、ぽろり、と崩れた。
アッシュフォードという名は、私を捨てた家の名前だった。義母も、セシリア(ノーラ)も、父も、その家名で、私を縛っていた。──それを、私は、今日、永遠に、置いていく。
(エマ)
(私、もう、リリアーナ・フォン・ヴァルガルドよ)
(アッシュフォードじゃない。──あなたが守ってくれた、新しい私の名前)
──書状送付から、八日後。
王城の正門から、緊急の使者が走り込んできた。
「陛下! ヴァレリウス陛下より、回答書状でございます!」
私は、ガレオン様と顔を見合わせた。アッシュは、目を細めて、にやりと笑った。
「期限の半分も使わずに、回答だ。──こりゃ、勝ったな」
書状を、ガレオン様が、開いた。
『ヴァルガルド国王ガレオン陛下、並びに王妃リリアーナ陛下。
先日の書状について、誤解と過剰反応がございました。
ノーラ・セルデンの引き渡し要求は撤回いたします。
治癒魔法輸出契約破棄要求も撤回いたします。
三十日以内の武力行使準備は、永久に放棄いたします。
婚礼の遅きながらの祝意と共に、ドラコニア海洋国家は、ヴァルガルド獣人国との恒久平和条約締結を、提案いたします。
公開裁判は、三名の暗殺未遂事件として、最小規模での開催を、強くお願いいたします。
ドラコニア海洋国家 国王 ヴァレリウス・ドラコ』
ガレオン様が、書状を、ぱさり、と机に置いた。
「全面降伏、だな」
「はい」
「アリエッタ王女の名前を、ちらつかせただけで、ここまで折れるか」
「ヴァレリウス、相当、毒殺の件で脛に傷があるのね」
アッシュが、ぐしゃり、と髪を乱して笑った。
「リリアーナ嬢、本当に、容赦ないよ」
「私だって、新妻、なんですから」
「いやいや、新妻のする仕事じゃないって、これ」
私は、ガレオン様を見上げた。
「ガレオン様。──恒久平和条約の方は、慎重に、進めましょう。十年後、ヴァレリウスが、再び毒を仕込まないとも限りません。条約に、抜け道のない条項を、徹底的に入れます」
「お前に、任せる」
「もう一つ。──公開裁判は、最小規模で、と相手に約束します。けれど、その代わりに、東方連邦国とスピナとの三国軍事同盟は、公開裁判の前日に、正式に発布します」
「ヴァレリウスへの、最後のメッセージか」
「ええ。『次に動いたら、三国包囲で、即座にドラコニアを潰す』と」
ガレオン様の喉から、満足げな唸りが響いた。
「リリアーナ。お前を妻にして、本当に、よかった」
「私も、ガレオン様を夫にして、本当に、よかったです」
──公開裁判の前日。
王城の謁見の間で、三国軍事同盟の調印式が行われた。獣人国王ガレオン、東方砂漠連邦国大使、島国スピナ大使、そして──東方連邦国から急遽駆けつけた、ドラコニア亡命王女アリエッタ・ドラコ。
アリエッタ王女は、二十四歳。私と同じ、銀色の髪。深い藍色の瞳。痩せた頬に、けれど確かな意志の力を宿した、美しく凛々しい女性だった。
「リリアーナ陛下」
王女は、私の前で、深く頭を下げた。
「父王の仇を討つ機会を、いただき、感謝の極みです」
「アリエッタ王女。私たちは、戦争を望みません。──ヴァレリウスが裏切らない限り」
「ヴァレリウスは、必ず、裏切ります」
王女の藍色の瞳が、燃えた。
「父を毒殺した男が、十年で改心するはずがない。──ですから、私は、いつでも、ドラコニアに帰る準備をしておきます。陛下が、私の出番を必要とされるときに」
「ありがとうございます」
私は、王女の手を取った。
「──未来のドラコニア女王陛下」
アリエッタ王女が、はっと、私を見た。そして、ふっと、笑った。
「リリアーナ陛下。お先見の明には、感服いたします」
三国軍事同盟の発布。──そして、その翌日に行われたドラコニア諜報員三名の公開裁判は、極めて静かに、最小規模で、終わった。
ヴァレリウスは、約束通り、すべての要求を撤回し、恒久平和条約に向けた交渉を、申し入れてきた。
公開裁判の夜。
私は、ガレオン様と二人で、王城の最上階のバルコニーに立っていた。雪の積もった王都の夜景が、私たちの足元に広がっていた。
「リリアーナ」
ガレオン様が、私の腰に、腕を回した。
「やっと、戦争の影が、消えた」
「はい」
「これで──」
ガレオン様の指が、私の頬に触れた。金の瞳が、夜の中で、優しく、しかし熱く、私を見つめた。
「これで、お前を、ようやく、私の妻として、抱ける」
「──ッ」
私の頬が、勝手に、熱くなった。
「ガ、ガレオン様」
「リリアーナ。今夜は、もう、何も、邪魔する者はいない」
ガレオン様は、私を、横抱きにした。
「ガ、ガレオン様!」
「私のつがいよ。──行こう」
雪の降り始めた夜の獣人国に、銀狼王と、銀の妃の、新しい夜が、始まった。
(エマ)
(ちょっとだけ、書けないことが、これから始まりそう)
(だから、今夜は、私の心の中だけで、おやすみなさい)
王城の最奥の窓に、灯りが、ひとつ、灯った。そして、長い夜の間、その灯りは、消えなかった。
## 第17話 試練_01 千年の代償
婚礼から、ふた月が経った。
獣人国の冬は、ようやく終わりを告げ、王都ヴァルガルディアの石畳に、若芽の緑が、ぽつぽつと顔を出し始めていた。
私は、王城の南庭で、ヴェルナとお茶を飲んでいた。
「リリアーナ。──最近、顔色、悪くない?」
ヴェルナの碧い瞳が、私を見据えた。
「えっ、そうかしら」
「化粧で隠してるけど、目の下にクマがあるわ。それに、頬が、こけてきてる」
「ヴェルナ、見すぎ」
「私はね、リリアーナの一番近い友人なのよ。気づくに決まってるじゃない」
私は、ティーカップに、視線を落とした。
(──実は、ヴェルナの言う通り)
(婚礼から、ふた月の間、ずっと、調子が、悪い)
(朝、起き上がるのが、辛い。手のひらの魔力が、ぐらぐら、揺れている)
「リリアーナ。──陛下は、ご存知?」
「内緒にしてるの。心配かけたくなくて」
「だめよ、それは」
ヴェルナが、ティーカップを、ぱちん、と置いた。
「夫婦というのは、共に苦しむもの。リリアーナひとりが抱える話じゃない。──いいわ。私が言ってあげる」
「ヴェルナ、待っ──」
「グリゼルダ団長を、呼んでくる。リリアーナ、ここで動かないで」
ヴェルナは、ドレスの裾をつまんで、軽やかに走り去った。
三十分後。
王城の医務室に、私とガレオン様、ヴェルナ、そしてグリゼルダ団長が、揃っていた。
「リリアーナ様。横になってくださいませ」
グリゼルダ団長が、私の手首に、皺だらけの指をそっと当てた。獣人特有の魔力診断。
「……」
団長の表情が、ゆっくり、固くなった。
「リリアーナ様。──いつから、魔力が、不安定ですかな?」
「リクトリア山脈の浄化の、後くらいから……だと、思います」
「ふた月、隠し続けたのですか」
「すみません」
ガレオン様が、私の隣に膝をついた。金の瞳に、抑えきれない動揺が混じっていた。
「グリゼルダ。何が、起きている」
「陛下。リリアーナ様の魔力経路が、所々、損傷しております。──呪われた地の浄化で、リリアーナ様は、ご自身の魔力経路の限界以上に、魔力を流し続けた。その代償が、今、出ております」
「魔力経路の損傷……治るのか?」
「自然に、ゆっくりと修復される可能性は、ございます。けれど、ふた月経って、まだ進行している。──このままでは、リリアーナ様の魔力経路は、完全に、焼き切れる」
私の指先が、わずかに震えた。
魔力経路の焼き切れ──治癒魔法を、永久に、失う、ということ。
「グリゼルダ団長。──治療法は?」
「ひとつ、ございます」
団長は、白衣の懐から、一枚の、古びた羊皮紙を取り出した。
「これは、千年前の、神話の文献です。『治癒の聖女、清浄なる魔力を以て、汚染を解き放ちしとき、呪われし大地は、再び生命を抱かん。──しかして、聖女の身体は、千年の代償を、引き受ける』」
「千年の代償……」
「そう。リリアーナ様は、千年前の魔王の呪いを、ご自身の身体に、引き取られたのです。それが、今、魔力経路を、内側から焼き続けている」
「治す方法は?」
「治癒の聖女が、千年に一度の浄化を遂げた後の、回復方法は、ひとつだけ、伝承されております」
団長は、深く、息を吸った。
「『運命のつがいの命の魔力と、聖女の生命の魔力を、結合させる儀式』」
ガレオン様が、即座に、立ち上がった。
「私の命の魔力か。──ああ、何でもやる。今すぐ、儀式を」
「待ってください、陛下」
団長が、苦渋の表情で、首を振った。
「儀式には、リスクがございます」
「何だ」
「儀式中、お二人の魔力が、混ざり合います。──成功すれば、リリアーナ様の魔力経路は完全に修復され、お二人の魔力は、永遠に共有される。失敗すれば──」
団長は、深く、深く、頭を下げた。
「お二人の魔力経路が、両方とも、焼き切れます。──最悪の場合、お二人とも、命を、失います」
部屋に、沈黙が降りた。
ガレオン様の喉から、低い唸りが、響いた。
「グリゼルダ。──成功率は、どのくらいだ」
「五分五分、と申し上げるしか」
「半分か」
「はい。──ただし、条件があります。お二人の絆が、本物であればあるほど、成功率は上がります。──運命のつがいでも、心の底でほんのわずかでも、相手を疑っていれば、儀式は、失敗します」
ガレオン様は、私を、見下ろした。金の瞳が、深く、深く、私を捕らえた。
「リリアーナ。やるか」
「ガレオン様、でも、あなたの命まで──」
「お前を失うくらいなら、私も死ぬ」
「……」
「お前を独りにして、私だけ千年生きるなど、地獄だ。──ならば、二人で死ぬほうが、よほど、ましだ」
ガレオン様の声に、揺るぎはなかった。
(これは、頭で考えるものじゃない)
(心で、決めるしかない)
私は、ベッドの上で、ガレオン様の手を、両手で握った。
「ガレオン様。──やります」
「リリアーナ」
「私、あなたを疑ったこと、一度も、ありません」
「私もだ」
「だから──成功します」
私は、笑った。涙の粒が、頬を、こぼれ落ちた。
「私たちの絆が、本物だって、ことを、証明する儀式です」
──三日後。
リクトリア山脈の、千年の呪いを解いた、あの窪地。
今では、若芽が一面に芽吹き、雪が積もる、清浄な大地。──治癒の聖女の、奇跡の場所。
私とガレオン様は、その中央で、向かい合って、座っていた。グリゼルダ団長と、銀狼族の長老が、儀式の準備を、整えてくれていた。
「お二人。──覚悟は、よろしいですか」
「はい」
「ああ」
私の心の中で、ふっ、とエマの声が蘇った。
『お嬢様。あなたは、優しい子に育つのよ』
(エマ。私、優しい子に、なれたかしら)
(──多分、なれた。だから、こんな素敵な人と、出会えた)
ガレオン様が、私の両手を、自分の両手で、包んだ。
「リリアーナ。──私の生命の、すべてを、お前に捧ぐ」
「ガレオン様。──私の生命の、すべてを、あなたに捧ぐ」
銀狼族の長老が、銀の杖を、雪原の上で、ぐるりと一周回した。
古代の言葉が、低く、響き始めた。
私たちの両手から、淡い水色と、深い金の光が、絡まり合って、立ち上った。私の魔力と、ガレオン様の魔力が、ひとつに、なっていく。
──ぐらり、と、世界が、揺れた。
私の意識が、自分の身体を、離れた。私は、ガレオン様の身体の中に、流れ込んだ。
(ガレオン様の、心の中)
(──こんなに、温かいんだ)
銀狼として千年生きた、孤独な記憶。──運命のつがいを待ち続けた、長い長い歳月。冬の雪原で、何度も、何度も、空を仰いだ夜。
そして、ある雪の日。
雪の中に倒れた、ぼろぼろの少女を見つけた、あの瞬間。
(ああ、これが──ガレオン様が、私を見つけた、あの瞬間)
千年の孤独が、その一瞬で、終わった。──ガレオン様の、魂の歓喜が、私の中に、流れ込んだ。
同時に、ガレオン様の意識が、私の中に流れ込んでいた。
火刑台で、エマを失った瞬間。前世の記憶を取り戻した瞬間。雪原を逃げ続けた瞬間。──そして、雪の中で、銀の毛並みの巨大な狼を見上げた、あの瞬間。
ガレオン様が、私の意識の中で、震えていた。
『お前は、こんなに、苦しんでいたのか』
『──私の、リリアーナ』
私の意識と、ガレオン様の意識が、抱き合った。──魂の、本当の抱擁。
私の魔力経路の、損傷した部分に、ガレオン様の生命の魔力が、染み込んでいく。焼き切れかけていた経路が、ゆっくりと、修復されていく。
そして──新しいことが、起きた。
私の魔力と、ガレオン様の魔力が、永遠に、ひとつに、なった。
──ガラガラと、音が、消えた。
私たちは、目を開けた。
雪原の中央。──私たちの周りの雪が、全部、溶けていた。代わりに、若い緑の草と、白い花が、円形に咲いていた。
グリゼルダ団長と、銀狼族の長老が、雪原の縁で、両手で口を覆っていた。
「成功、ですな」
長老の声に、深い感動が混じっていた。
「儀式、完璧に、成功です」
私は、自分の手のひらを、見下ろした。──ぐらつかない。魔力が、しっかりと、安定している。そして、その奥に、ガレオン様の魔力が、私の魔力と、優しく、絡まり合っていた。
「ガレオン様。──聞こえます?」
私は、心の中で、囁いた。
『聞こえる。──いつでも、お前の心の声が、聞こえる』
ガレオン様の声が、私の頭の中に、響いた。──獣体じゃないのに。
ガレオン様が、私を、強く、抱きしめた。
「リリアーナ。──私たちの絆は、本物だった」
「ガレオン様……」
「お前と、永遠に、繋がった。──もう、お前を、見失う心配はない」
私は、彼の胸の中で、笑った。
(エマ)
(私、ガレオン様と、本当に、ひとつになりました)
(あなたが、見守ってくれてた、あの優しさが──私たちを、守ってくれたわ)
──雪原の上で、若い草が、風に揺れた。
治癒の聖女の、千年の代償は、運命のつがいの命の魔力で、支払われた。──そして、二人の魂は、永遠に、ひとつになった。
## 第18話 転位_01 南の海と、亡命王女の帰還
儀式から、半年が経った。
獣人国は、長い冬を抜け、初めての春を迎えていた。王都ヴァルガルディアの石畳には、白い花が咲き、若い葉のついた銀杏並木が、青空に伸びていた。
私の体調は、すっかり、回復していた。──いや、回復どころか、儀式以前より、遥かに、安定していた。ガレオン様の生命の魔力と、永遠に共有される魔力経路。──私は、千年の獣人族の魔力を、自由に使える、ただ一人の人間になった。
「リリアーナ陛下。緊急の書状でございます。──ドラコニアより」
オーランド執事が、銀の盆に、深紅の蝋封の書状を載せて、執務室に運んできた。
ガレオン様の隣で書類を整理していた私は、一瞬、手を止めた。
(ドラコニアから──またか)
(でも、最近のドラコニアは、平和条約交渉で、おとなしいはず)
書状を、開いた。
『ヴァルガルド国王ガレオン陛下、並びに王妃リリアーナ陛下。
緊急のお知らせがございます。
ドラコニア国王ヴァレリウス・ドラコ陛下が、本日、急逝されました。──朝食の席で、突然、倒れられたとのこと。
王宮医師の診断は、急性心臓発作。
王位継承につきましては、嫡子のおられないヴァレリウス陛下の逝去を受けて、東方連邦国に亡命中の、先王ヴラディス陛下嫡子、アリエッタ・ドラコ王女殿下を、新女王として即位させる方向で、ドラコニア国内貴族会議が、合意いたしました。
アリエッタ女王陛下より、即位後最初の外交として、ヴァルガルド獣人国への正式国賓訪問を、希望されております。
ドラコニア海洋国家 暫定執政 グレシオ・カスティニア』
私とガレオン様は、顔を見合わせた。
「──ヴァレリウスが、急逝」
「心臓発作、らしいです」
「父王を毒殺した男が、十年で、心臓発作」
ガレオン様の口の端が、ゆっくり上がった。
「カルマ、というやつだな」
「もしくは、毒、ですね」
アッシュが、執務室の扉から、ひょっこり顔を出した。書状を、すでに諜報部経由で読んでいたらしい。
「ドラコニア国内の、ヴラディス派の生き残り貴族たちが、動いた。──毒、確実」
「アリエッタ女王、即位、了承だな」
「東方連邦国経由で、すでに、即位の手続きが進んでます。三国軍事同盟の支援もあり、国内の反対勢力は、声を上げられない」
「リリアーナ。──お前の予測、全部、当たっているぞ」
ガレオン様が、私の頬に、唇を落とした。
「未来予知魔法、使ってないですからね」
「お前の頭が、十分、未来予知魔法だ」
「論理的な見立て、と言ってください」
私は、ガレオン様の腕を、軽く叩いた。
──ひと月後。
王城の謁見の間。
アリエッタ・ドラコ女王の、初めての国賓訪問。
銀色の髪に、深い藍色の瞳。──以前会ったときよりも、痩せた頬は、貴族としての品格と、女王としての威厳を、纏っていた。漆黒のドレスに、金と真珠の装飾。背後には、ドラコニアの新しい護衛隊。
「リリアーナ陛下。ガレオン陛下」
アリエッタ女王が、深く、頭を下げた。
「父の仇を討つ機会を、いただきましたこと、心より、感謝申し上げます」
「アリエッタ陛下。──新しいドラコニアの、平和な治世を、お祈りいたします」
「ありがとうございます。──そして、お願いがございます」
アリエッタ女王が、私の前に、進み出た。
「ヴァルガルド獣人国、人間王国、東方砂漠連邦国、島国スピナ、そして我が国ドラコニア。──五カ国の、恒久的な平和条約と、自由通商協定の、締結を、提案いたします」
「五カ国、ですか」
「ええ。リリアーナ陛下のご助言を、賜りたく」
五カ国通商協定が成立すれば、大陸全体の経済が、ひとつの安定した枠組みに収まる。戦争のリスクは、限りなく小さくなる。──獣人国は治癒輸出の中心、アリエッタ女王のドラコニアは海洋通商の中心。組み合わせとしては、これ以上ない強さ。
「アリエッタ陛下。──喜んでお引き受けします。獣人国は、五カ国通商協定の主要設計者として、参加させていただきます」
「リリアーナ陛下。──ありがとうございます」
アリエッタ女王が、私の手を取った。
「私は、リリアーナ陛下のような、賢い女性が、世界の中心にいる時代が、ずっと続くことを、願います」
「アリエッタ陛下も、十分、その一人ですわ」
私たちは、互いに微笑み合った。──同年代の女性君主、二人。
──謁見の間で、五カ国通商協定の正式締結交渉が始まった。
三日間の交渉を経て、協定は、正式に、発布された。
大陸全体に、新しい平和の時代が、始まった。
──協定発布の夜。
王城の最上階のバルコニー。
私とガレオン様は、王都ヴァルガルディアの夜景を、見下ろしていた。雪はもう、ない。代わりに、無数の星と、街の灯りが、私たちを包んでいた。
「リリアーナ」
ガレオン様が、私の腰に、腕を回した。
「お前と出会って、まだ、二年も経っていないぞ」
「はい」
「その間に、お前は、火刑台から逃げ、銀狼族の運命のつがいになり、人間王国を屈服させ、獣人国の治癒師団を改革し、千年の呪いを解き、ドラコニアを和平に追い込み、五カ国の平和条約まで、設計した」
「えっと、列挙されると、すごい一年と少しでしたね」
「これからも、こうなのか?」
「ガレオン様の、千年の隣人として、お楽しみに」
私は、彼の腕の中で、笑った。
「ガレオン様」
「ん」
「あの、実は、ご報告が」
「何だ」
私は、深く、息を吸った。
「──子供が、できました」
ガレオン様が、固まった。
「……は」
「儀式の前後で、確かなことは言えなかったんですが、グリゼルダ団長に診ていただいて、確認できました。──三ヶ月、です」
「リリアーナ──」
ガレオン様の金の瞳に、涙が、ゆっくり、浮かび上がった。
千年待った男の、千年分の、涙。
「リリアーナ、お前は、本当に、私を、何度泣かせれば、気が済むのだ」
「ガレオン様、泣かないでください。──私も、泣きそうになるから」
「泣かせろ。お前の前でだけは、泣かせてくれ」
ガレオン様は、私を、強く、抱きしめた。
私の頬を、銀狼王の涙が、温かく、伝った。
(エマ)
(私、お母さんに、なります)
(あなたが、私を、抱きしめてくれたみたいに──)
(私も、私の子を、抱きしめます)
王都ヴァルガルディアの夜空に、流れ星が、ひとつ、流れた。私たちは、その星に、新しい命の名前を、まだ、決めていなかった。
## 第19話 永遠_01 銀の王子と、新しい朝
──さらに、半年後。
雪の降り始めた、獣人国の冬の朝。
私は、王城の最奥にある、王妃の私室で、息を整えていた。グリゼルダ団長と、産婆を務める熊の獣人女性、そしてヴェルナとミーナが、私を取り囲んでいた。
「リリアーナ様。もう少しでございます。ご無理なさらず、ゆっくりと」
グリゼルダ団長の、優しい声。
「リリアーナ、頑張って!」
ヴェルナの、励ましの声。
「お嬢様、お嬢様!」
ミーナの、涙声。
(これは、本当に、頭で考えてどうにかなる場所じゃない)
(でも、私は、産まれてくる、この子に──会いたい)
扉の向こうから、ガレオン様の足音が、響いていた。何時間も、扉の前で、ずっと、立っているのが、わかる。──獣人国の伝統で、出産には夫は立ち会えない。けれど、彼は、千年待った妻の最初の出産を、扉の向こうで、ずっと、見守ってくれている。
『リリアーナ。──大丈夫か』
心の中に、ガレオン様の声が、響いた。
「ガレオン様……」
『私は、ここにいる。──頑張れ、私のつがい』
(ありがとう、ガレオン様)
(──いきます)
私は、深く、息を吸った。
──そして、力を、込めた。
どれくらいの時間が、流れただろう。やがて、空気が、ぴりっと、震えた。
「ふぎゃあ──ッ!」
元気な、産声。
グリゼルダ団長の、皺だらけの顔が、ぱっと、明るくなった。
「銀の毛の、男の子でございます。──陛下と、リリアーナ様の、跡継ぎ陛下、ご誕生」
銀の毛。──銀狼族の、純血の証。
ヴェルナが、口を覆って、泣いた。ミーナも、泣きながら、私の手を、握ってくれた。
産婆さんが、清潔な布で、赤ちゃんを、私の胸の上に、置いてくれた。
小さな、温かい、命の塊。
銀色の、ふわふわの、髪。──人型と狼の特徴を、両方持つ、純粋な銀狼族の子。
私の薄紫の、瞳の色。
ガレオン様の、形の、口元。
(ああ──私の、子)
涙が、止まらなかった。私は、赤ちゃんの頬に、唇を寄せた。
「初めまして。──お母様よ」
「ふぎゃあ」
赤ちゃんが、私の指を、小さな手で、ぎゅっと、握った。
「リリアーナ、陛下を、お呼びしますね」
ヴェルナが、扉を開けた。
ガレオン様が、駆け込んできた。
寝室の真ん中で、私は、ガレオン様を、見上げた。私の胸の上に、銀色の毛の、小さな赤ちゃん。
「ガレオン様。──男の子です」
ガレオン様の動きが、止まった。
金の瞳から、涙が、止めどなく、こぼれ落ちた。
「リリアーナ──」
「ガレオン様。──抱いて、あげて?」
私は、赤ちゃんを、ガレオン様に、差し出した。
大きな、戦士の手のひらが、震えながら、銀の毛の、小さな命を、受け取った。獣人国一の戦士の手の中で、赤ちゃんは、安らかに、眠っていた。
「リリアーナ──ありがとう」
ガレオン様の声は、震えていた。
「お前は、私の人生の──半分以上を、たった二年で、変えてしまった」
「ガレオン様、もう半分は、ガレオン様が、変えました」
「ふぁ……」
赤ちゃんが、目を、薄く、開けた。
──金色の、瞳。
父親と、同じ、金の瞳。
「リリアーナ。私たちの息子は」
ガレオン様の声に、深い、満足の響きが、混じった。
「私たちの、約束の証、だな」
「はい」
私たちは、寝室の真ん中で、抱き合った。私の腕の中に、銀の赤ちゃん。ガレオン様の腕の中に、私と赤ちゃん。
(エマ)
(私、お母さんに、なりました)
(あなたが、見守ってくれてた、優しさを──私、この子に、ちゃんと、伝えます)
──男の子の名前は、両親と、長老の協議で、決められた。
ルカン・ヴァルガルド。
ヴァルガルド獣人国 王太子。
「ルカン」とは、銀狼族の古語で「光」を意味する言葉。──雪原で、銀の毛並みの父と、銀の髪の母から、生まれた、新しい光。
──ルカン誕生から、ふた月後。
王城の南庭。
春の若芽が、ようやく、顔を出し始めた、優しい日差しの庭。
私とガレオン様は、ルカンを腕に抱いて、ベンチに、座っていた。ヴェルナとアッシュ、ミーナ──彼らはもうすぐ結婚式──と、グリゼルダ団長、ドラゴ宰相が、私たちを取り囲んでいた。
ルカンが、小さな手のひらで、私の指を、握った。──そして、ふっと、笑った。
「あら、笑った!」
ヴェルナが、両手で口を覆った。
「リリアーナ、見て見て、笑ったわよ! 銀狼族の子は、笑うのが早いって聞いてたけど、本当だわ!」
「ヴェルナ、興奮しすぎ」
「興奮するわよ、姪っ子じゃないけど、姪っ子みたいなもんなんだから」
「ルカン、よろしくね、ヴェルナおばさんに」
「おばさん……?」
ヴェルナが、顔を引きつらせた。
「お、おねえさま、にしてくれない? お願い」
「いいわよ、ヴェルナお姉様」
アッシュが、隣で、げらげら笑った。
「ヴェルナ、必死すぎるって!」
「アッシュ、煩い!」
私たちの周りで、笑い声が、絶えなかった。
風が、優しく、私たちを、吹き抜けた。
私は、ルカンを、空に、ふわっと、持ち上げた。──金の瞳が、太陽の光を、反射して、輝いた。
(エマ)
(ねぇ、エマ、見えてる?)
(私、ちゃんと、家族を、つくれたわ)
(あなたが、私に、教えてくれた、優しさが──ここに、繋がってる)
──私の左の薬指で、ガレオン様と揃いの、銀の結婚指輪が、淡い水色と、漆黒のオニキスの石を、優しく、光らせていた。
千年の、約束。
千年の、家族。
千年の、銀狼王と、銀の妃と、銀の王子の、新しい物語が、ここから、始まる。
──終──




