第30話 王太子誕生
産気づいたのは、明け方だった。
「リリアーナ様! 呼吸を、大きく!」
グリゼルダ団長の声が、産室に響いた。ヴェルナとミーナが、両側で、私の手を握っていた。
「ガレオン様は……!」
「陛下は、扉の外で待っておられます! 男性は、産室に入れません、獣人国の伝統です!」
「そんな……!」
痛みの合間に、扉の外から、彼の低い声が聞こえた。
「リリアーナ! 私は、ここにいる! ずっと、ここにいる!」
その声だけで、少し、力が湧いた。
「頑張って、リリアーナ様!」
ミーナが、涙ながらに、叫んだ。
「もう少しよ、リリアーナ!」
ヴェルナも、必死に、声を張っていた。
長い、長い時間だった。痛みの波が、何度も、何度も、押し寄せた。それでも、私は、耐えた。この子に、必ず、会うために。
そして――。
「おぎゃあ!」
産声が、産室に響いた。
「男の子です! 元気な、男の子ですよ!」
グリゼルダ団長が、赤ん坊を、両手で、大切に抱き上げた。銀色の産毛。小さな、狼の耳。
(生まれた……)
涙が、止まらなかった。疲労の中で、腕に、その小さな命を抱いた瞬間、すべての痛みが、遠くに、消えていった。
「陛下! お入りください!」
扉が、勢いよく開いた。ガレオン様が、駆け込んできた。
「リリアーナ……! 無事か!」
「はい。……見てください、ガレオン様」
赤ん坊を、腕を伸ばして、彼に見せた。
金の瞳が、小さな命を見つめて、大きく、揺れた。
「私たちの、子供だ」
震える声で、そう呟いた。三百年生きた王が、生まれたばかりの命の前で、ただの、一人の父親になっていた。
「名前を、決めましょう」
「もう、決めている」
彼は、静かに、答えた。
「ルカン。銀狼族に伝わる、『新しい夜明け』を意味する言葉だ」
「ルカン……」
小さな赤ん坊を見つめながら、その名を、繰り返した。
「ルカン・ヴァルガルド。獣人国の、王太子」
その夜は、ただ、ルカンの寝顔を見つめているだけで、時間が過ぎていった。
――翌朝。
朝の光が差し込む中、私は、ようやく、ゆっくりと身体を起こせるようになっていた。腕の中で眠るルカンに、母の形見のロケットを、そっと開いて見せた。
「見て、ルカン。あなたのおばあ様よ。会ったことは、ないけれど」
ロケットの中の、小さな肖像画。若い頃の母の、優しい微笑み。指先で、その輪郭を、そっと、なぞった。
そのとき、指先に、かすかな違和感があった。ロケットの裏側、いつもは意識したことのない場所に、指の腹が、小さな凹凸を感じ取った。
(――何、これ)
光にかざして、目を凝らした。今まで、一度も、気づかなかった、細かな刻印。母の筆跡で、そこに、小さく、刻まれていた。
『愛する娘へ。この中に、母の魔力の一片を、永遠に、込めました。あなたが、本当に一人きりになったとき、これが、あなたを守ります』
息が、止まった。
指先が、震え始めた。文字を追う目が、涙で、滲んでいく。
――エマの、最後の言葉が、耳の奥で、蘇った。
『お母様の形見のロケットを、決して――』
(決して、手放さないで、と言おうとしていたのね)
喉の奥から、声にならない嗚咽が、こみ上げてきた。
(エマは、知っていたんだ。このロケットに、母の魔力が、込められていることを)
火刑の日、群衆を麻痺させたあの力。ずっと、前世の記憶が呼び覚ました治癒魔力の反転だと思っていた。けれど――もしかしたら、あのとき、ロケットに込められた母の魔力が、共鳴し、私の覚醒を、後押ししてくれていたのかもしれない。
(お母様。あなたは、ずっと、そばにいてくれたのね)
腕の中のルカンを、強く、抱きしめた。涙が、後から後から、頬を伝って、ルカンの小さな頬に、落ちていった。
「ガレオン様。母が、ずっと、私を守ってくれていたみたいです」
「そうか」
彼は、私と、ルカンを、両腕で、包み込んだ。
「なら、今度は、私たちが、ルカンを守る番だ」
「はい」
窓の外、獣人国の夜空に、新しい夜明けを告げる、最初の光が、差し込み始めていた。




