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【Night 70】紡がれる物語



「……おとーさん?」

そういう確信がありながらも、ヒカリから発せられた言葉は、恐る恐る、といった風に形容するのが正しいといえた。冷気がますます強くなりつつあった。

目の前の「その人物」は、じっとヒカリを見つめていた。一見真剣なまなざしのように見える。しかし実際のところはどうなのだろう。

「おとーさん……でしょ?」

ヒカリは足を一歩前に踏みだした。周りの家々の光の主張が、少し抑えられたように感じた。

「むかえにきたよ……だから、かえろ……?」

二歩、三歩と続けざまに進めていく。その感覚がどんどん速くなっていく。四、五、六───。

「終わってない」

突如、「その人物」は言った。それでヒカリの足がぴたりと止まった。……いや、進まないと。チャンスはここしか───。

もう一度、その若い声が響いた。

「物語は終わってない」

ヒカリはそれで、一瞬だけ、止まった足を動かそうとすることに意識が向かなくなった。

その一瞬を突かれた。

「その人物」が、突然、ヒカリの方へ向かって駆けだした。手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。しかし手を伸ばすことができなかった。次いで目が合った。必死な───強いて言えば、何かを訴えかけるような目だった。懐中電灯を向けた。しかしその姿は光の円の中にはなかった。振り向くと、「その人物」の背中がみるみる遠ざかっていくのが見えた。ヒカリはそこで、ようやく足を動かした。



おとこのこは つらくなって しまいました

くろいかげとも たのしくあそべなくなりました

こんどは あのこたちに なにをされるのか

そればかり きにしていたのです


すると かげが いいました

その わるいこたちは みんな やっつけてあげると

さいしょは しんじていませんでした

せんせいも おとうさんもおかあさんも なにもしてくれなかったからです

とくに おとうさんからは こんじょうがたりない、と いわれていました


距離が離れていく。ヒカリの心臓がばくばくいって、同時に、何かに急き立てられているような気がして、全速力の足をさらに速めようとする。しかしそうすると自らの限界を超えるようで、足がもつれて身体が前に傾きかける。危ない。次転んだら、もう追いつけないだろう。

すると、前を走る「その人物」は、まだ道が続いているにも関わらず、突然方向を変えた。路地の中に逃げ込んだということは、細い道でまくということか。

ヒカリは焦って、足の動きをさらに速めた。速められているかどうかは分からなかったし、さっき試した通り転倒しかけたのだが、もう四の五の言ってはいられない。前傾姿勢をなんとか保ち、路地に入った。すると予想に反して、建物の中に「その人物」が入っていくのが見えた。見上げてみる。高い。30階はあるだろうか。「その人物」の目的がいまいち分からないヒカリも首をかしげながらマンションに入った。


しかし もう これしかないとおもい おとこのこは かげに たのみました

かげは あかるく うなずいてくれました


カツカツカツ、と靴が階段を叩く音が、誰もいないマンションに響き渡る。ヒカリの足下だけでなく、頭上からもその響きは届いている。ヒカリは疲労が溜まりはじめた足に鞭を打って、階段を駆け上がった。


つぎのひ おとこのこは いつものように みんながいるところへ いきました

おとこのこは ふあんで いっぱいでした

また いじめられると おもったからです

かげが ついていても それでも こわかったのです

そして みんなも いつものように おとこのこに いじわるをしようとしました

すると どうでしょう

かげが うでを のばして みんなを つかむと あっというまに かげ みずからの なかに おしこんでしまいました

こうして おとこのこが いじめられることは なくなりました


階段と屋上を隔てるドアにそう書かれたA4の紙が貼られていた。足の踏み場もないほどに金属質の廃材か何かが捨てられ、闇によりさらに寂しさと荒廃度が強化されたであろう屋上前の階段の踊り場。しかし「その人物」が通過したからか、廃材と廃材の間に人が1人通れるほどの道ができていた。

ヒカリは器用にその間を抜け、最後の階段を駆け上がった。カツカツカツ、という靴と階段の衝突音が、やけに小さく感じられた。

紙の貼られたドアの前に立ち、大きく深呼吸する。もう終わりだ。おそらく。良くも悪くも、ここで決着がつくだろう。

ヒカリは迷わずドアを開けた。

その時だった。その一瞬だけ、ヒカリには見えていた。

紙に書かれていた文字がさっと変化して、手書き風の字体から堅い明朝体へと姿を変えた。

その内容と共に。


″だがどうなるのだろうか。

もしその未来が現実のものと成らなかったら。

彼の未来は、そこで閉ざされるのだろうか。

そんなことは無い。

物語は、永遠に紡がれていくのだ。

完結する時が訪れるまで。″


「……?」

ヒカリはもちろんいぶかしんだが、すぐにその内容は字体とともに元通りとなった。

……今はそれどころではない。開いたドアの向こう側に、「その人物」の後ろ姿が見えた。ヒカリの足が、一歩前に踏みだされた。二歩、三歩と続く。後方でドアが勢いよく閉まり、バタン、という音が聞こえた。

「おとーさん……」

「その人物」は、屋上の金網の柵、網の隙間に手をかけていた。ヒカリに気がついていないのか、金網の向こうの何かをじっと見ていた。

乾いた風が吹いた。

何かがかき消されたような気がした。

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