【Night 68】むかしむかし
どちらかというと、まどろんでいた意識を覚醒させるといった感覚に近かった。はっきりと目が覚めた時は地に寝転んでいたわけではなく立っていたし。
ヒカリが目を覚ますと、目の前には鉄棒があった。それで一瞬、狂ったナギと頭から血を流すテリカを思い返してしまったのだが、すぐに振り払った。
そして気がついた。ここは現実と同じような闇で覆われていて、夜をつくっている。しかし父親か母親、どちらかの影の中であると。
そしてもう一つ分かったこともあった。この鉄棒の赤い色。家の近くの公園のものとそっくりだった。しかしこれには希望的観測が入っているかもしれなかった。闇の中でも分かるくらい、赤が濃かった。家の近くの公園に佇む鉄棒は、もっと薄く褪せた色をしている。周囲を見てみても、遊具の配置は全く同じだったはずだが、どれもこれも新品同様に色が鮮やかだった。
ヒカリはなぜかひどく痛む頭で考えた。これは……どうすればいいのだろう? 助けるべき相手の姿がない。
ヒカリは公園の出口に向かって歩き出した。ここにいても何も始まらない。それはヒカリにとって大きなリスクでもあったのだが、足下を照らす懐中電灯の丸い光がただ一つの安心材料としてヒカリを鼓舞した。
やがて踏みだした足が道路にさしかかった。そこで、またナギから受けた痛みが浮かんだが、今度はすぐに、自発的に消えていった。
すると。
何かが、家とは反対方向にあたる、道の向こうに佇んでいた。
ヒカリの目が暗闇の中で慣れていなければ、その姿に気づくことすらできなかっただろう。しかし彼女の今の視力は、その″人物″の行動までもが見えていた。
その人物は目を擦っていた。両腕で交互に、落ちない汚れを落とそうとするように、何度も何度も。しかしやがてヒカリの存在に気がついたようで、目が合うと、踵を返して走り去ってしまった。
「あっ……」
ヒカリは反射的にそれを追おうとした。「影の中」に存在する動く人物は、外部から来た人か、影の中に囚われている人のどちらかである。
咄嗟に向けた懐中電灯の光が、「その人物」の背中を映し出した。ヒカリと同じくらいの背丈で、青いTシャツ、黒い半ズボン。それから───
「わっ!?」
突如、ヒカリの右足、そのつま先に、衝撃が跳ねた。「その人物」の背中から丸い光が下に外れ、再び闇に包まれた。同時に身体がわずかに宙を舞い、前方に重心を移動させた後、そのまま地面に倒れ込んだ。
「いたたた……」
顔を歪めた。このタイミングで転んでしまったのはいろんな意味で痛すぎた。しかし、頭を直接地面にぶつけなかったのは幸いだった。無意識に地に伸びていた手(それゆえ頭をぶつけなかったのだが)も、手袋をしていたおかげで傷一つついていない。多分。
するとヒカリが、地面に誰の物か分からない荷物でも見つけたかのような表情になった。
よく見ると、真っ黒なアスファルトの表面に、何かが浮かび上がっていた。雪のように白い色であったことが、より一層それを目だたせていた。
「……なに、これぇ……」
「その人物」を追うことを頭の隅に追いやってしまったのか、地に伏せた状態のまま、それをじっくり凝視していた。……どうやら文字のようだ。
むかしむかし あるところに ひとりの おとこのこが いました
「……?」
ヒカリは首をかしげるしかなかった。一体なぜ今、こんな文字が現れたのか。特に関連性も見いだすことができない。
いや、そんなことよりも。
ヒカリの頭に、ようやく「目的」がよみがえってきた。足は痛かったが、転んだ直後に比べるとさほどでもない。立ち上がり、懐中電灯を拾い上げて、先に進むべく走り始めた。足が地面を打つ音が、誰もいなくなった空間に響いた。
住宅街の中をしばらく突き進んでいると、進行方向の道が途切れているのが見え……いや、曲がり角が見えた。
そこを曲がると、またしても「その人物」はいた。ヒカリと「その人物」の間の距離は、先程とほぼ同じだろう。
「まって!」
息を切らしながら、ヒカリが叫ぶ。しかし「その人物」は無慈悲にも立ち去ってしまう。まるで、それを合図としているかのように。
ヒカリは再び走り出そうとした。だが、足が動かない。そして、それに対してヒカリが驚き焦ることもなかった。
ヒカリの目は、また別のところに釘付けになっていた。″それ″は先程と違って、家の塀に刻まれるようにして存在していた。
そのおとこのこは みんなから きらわれていました
といっても おとこのこが みんなのおもちゃをとったり たたいてなかせたり したわけでは ありません
「……」
今度は少し長かった。多分1回目の2,3倍ほどの時間をかけていたと思う。しかし再び目的を取り戻し、足を進めた。
しかしまたしてもだった。
おとうさんが まっくろになって かえってくるからです
みんなは おとうさんを ばかにして いたのです
また進んだ。
しかしまたしてもだった。
なので おとこのこは いつも おちこんでいました
また いじめられたら どうしようと……
また進んだ。
しかしまたしてもだった。
そんなあるひのことでした
おとこのこのかげが まるでしーるをはがすかのように ぺりぺりっと はがれました
そしていいました
「いっしょにあそぼうよ!」と
また進んだ。
しかしまたしてもだった。
おとこのこは みんなのことなんかわすれて そのくろいかげと あそびました
おにごっこをしたり かくれんぼをしたり……すきな てれびの はなしでも かげは きいてくれました
……。
しかしそれを みんなはよくおもいませんでした
きっと おとこのこが みたことない おもしろそうなひとと はなしているのが きにいらなかったのでしょう
みんなはさらに おとこのこに いやがらせを かさねました
「はぁ、はぁ……」
その白い文字列が夜空を覆った時、ついに目の前の「その人物」が動かなくなった。彼(彼女)の後ろ、10メートルほど先は、よく見ると住宅街の塀で囲まれ、行き止まりを作っている。
「まって!!」
ヒカリは一気に駆けた。「その人物」も後ろに走った。
懐中電灯の光が、再び「その人物」を映した。
絶句した。後ろ姿だったが、ヒカリを驚かせるには十分だった。
青いTシャツは白いカッターシャツに、ズボンは色は同じながら半ズボンから長ズボンになって、肌を覆っていた。
そして───背丈が、先程の1.5倍ほどになっていた。こちらを向いていないのに、謎めいた力が、ヒカリを圧迫した。
「その人物」はゆっくりと振り向いた。
ヒカリの懐中電灯が、彼女よりも一回り大きな、眼鏡をかけた「おとこのこ」を映していた。
「……おとーさん?」
ヒカリは言ってみた。確信があった。父親か母親かの二択。そして男なら、間違いなく父親だ。
彼の「物語」は、まだ終わっていない。
ヒカリはそのことに気がついていなかった。




