【Night 67】反抗期
「えっ、あっ……」
影がヒカリを見つめていると分かると、ヒカリの節々は急激に硬直した。父親の影には何度か出くわしたが、母親の影に会うのは初めてだった。父親の影は敵対心があるとすぐ分かったが、この影はどうなのか。ひょっとすると、自分をまた捕らえるようにクラヤミに命じるかもしれない。足が無意識に後ろに移っていた。
だが。
母親の影は、予想外の動きを見せた。
今度はクラヤミの短い腕を掴み、前に出ると、ヒカリに向かって深々と頭を下げた。つられるようにして、クラヤミもお辞儀した。そして、言った。そのお手本のような美しい声で。
『迷惑を……おかけして、すみません……』
ヒカリはその言葉をよく飲み込めなかった。
一体どういうことなのだろうか。とにかく、こうしてくるということは、少なくともこの影には敵意はないということでいいのだろうか。
ヒカリが言葉を返せないでいると、母親の影がクラヤミを連れてさらに接近してきた。近くで見ると、かなり背が高い。
少しでも動けば身体と身体が触れ合うといった距離になると、再び母親の影が話しかけてきた。
『……あなたが、クラヤミの面倒をみてくれてたの?』
面倒を見る……少し違うけど、まあそういう感じだろうか。
ヒカリは首を縦に振った。それでも、ずいぶん頼りない中途半端な動きになった。
しかし母親の影からすればそれで十分だったようだ。満足そうに頷くと、ヒカリの身長に合わせて屈み、言った。
『……ありがとう。小さいのに、よく頑張ったわね……』
ヒカリはその言葉の響きに、どこか甘美なものを、そして温暖なものを感じた。まるで母親の胎の中にいるような、そんな安心感があった。
すると母親の影は、少し視線を逸らした後、再びヒカリの顔を見て発した。少しばつが悪そうな感じだった。
『……ちょっと気持ち悪がられちゃうかもしれないけど……あなたのことは、何でも知ってるの。クラヤミほどじゃないけどね』
気味悪がられることを予測した彼女に対して、ヒカリは大して驚きも、嫌悪感を抱きもしなかった。既にクラヤミが似たようなことを言っていたので。いや、なんで対応する影でもない彼女が「知っている」のかは疑問だったけど。
『……ほんとうに、大人になったわね……』
「?」
しかしこれに関しては首をかしげた。
「ヒカ、いや、わたしのこと……『むかしから』しってるの? わたしが、うまれたとき、から……」
口ぶりが、あまりにもヒカリの母親そっくりだった。いやもちろん、母親の「影」なのだからそれは当たり前なのだが、母親と同じく、ヒカリの誕生から今までをずっと見てこないと表現できないであろう何かが含まれていたのだ。
すると母親の影は少し目を細め、首を振った。そしてまた言った。
『そうじゃないわ。私たちがここに来てからよ』
「じゃあ、なんで……」
『ヒカリちゃん』
母親の影が手を動かした。細く繊細な手だった。そして、テレビに出ているどんなモデルよりも美しいと感じた。
影はヒカリの肩に手を置いた。しかし触れないので、実際には置いたのではなく肩の地点で手を「そう見えるように」静止させているだけなのだが。
『あなたは立派な大人よ。最初、あなたは逃げて、泣いて、ついていってを繰り返していた。それこそ5歳の女の子として……いや、小学生としても「当たり前の行為」なのに、だんだんとあなたは立ち向かうことをおぼえて、お友達を護ることをおぼえて、助けることをおぼえて……』
ヒカリはそこで、影の声がだんだんと小さくなっていることに気がついた。
『おかーさん?』
『……ううん。何でもないのよ』
一瞬だけクラヤミの方を向いていた母親の影は、もう一度ヒカリの方に視線を戻して言った。
『とにかく、ほんとうに大人になった……』
そして彼女は、今度はヒカリの頬をなでた。なでたというよりなぞったと言った方が正しいかもしれない。
それに嬉しさを感じながらも、同時に若干の疑問を抱いていた。なぜこの母親の影は、こんなにも親身になっているのだろう?
だがその答えは出てこなかった。
すると。
母親がさらに、言葉を発していた。
『……そんなあなたに、お願いがあるの』
ゆっくりと瞬きを繰り返すその目が、ヒカリを切実に見つめていた。
『……お父さんを……』
その時だった。
『〈クラヤミ〉』
ヒカリ自身に発せられた言葉でないにも関わらず、背中を突き刺されたような感じがして、思わず振り向いてしまった。
背後の夜の闇より一際濃い黒を持つ、何もない影───ヒカリの父親の影が、立っていた。
『其の身体は何だ? 何を為ている……早く光を取り込め!』
ヒカリはそれで、再び震え上がった。そしてクラヤミを見た。クラヤミは母親に身体を預けながら、じっと父親の影を見ている。
『独りじゃ出来無いのか? 其れならば手伝ってやる。だから───』
『ふざけないで!!』
大声が鳴り響いた。クラヤミの物であることはもうヒカリには分かっていた。それは誰にも影響を受けることなく、ただ闇夜に吸い込まれていった。
それが消えるのを待っていたかのように、クラヤミが続ける。
『わたしは……もう……こんなこと、やめたい……』
時が止まった。
風が吹いた。
寒かった。
それを受けた父親の影が、大きく呼吸した。息を吐く音だけが、なぜかヒカリに聞こえた。
『〈クラヤミ〉。我が儘を言うのは辞めなさい。君は、我々の希望何だから』
『きぼうが何……? ヒーローが何……? そんなの、そんなのおとーさんたちがおしつけたものじゃんか!!』
そこだけが早口になっていたのが分かった。
母親の影を見た。心配そうにヒカリを見つめていた。それと、父親の方も見ていた。こちらも、心配そうに。
『……〈クラヤミ〉。反抗期か? 私の事を其程嫌悪為ると言う事は。然し、反抗期と言う物は軈て元通りに成る一時期な心情の変化に過ぎない。そんな物に遵っていれば───』
『ちがうよ』
遮った。クラヤミはそれで会話の主導権を取り戻した。
『おとーさんは……「人間」のみんなは……「なかま」だから……だから……』
ヒカリはそこで、あっ、と思った。そして安堵した。自分の言葉は、きちんと伝わっていたのだ。正しく。
だがその安堵も、崩れることになる。
『……もう何を謂おうが無駄なようだ。仕方無い』
そう言うと、父親の影は急にヒカリの方へと視線をやった。唐突な注目に驚く暇もなく、頭に何かが流れていった。
″此方に来い″
これに従えば影の餌食となることも分かっていただろう。しかしそれが分かっていても、ヒカリには逆らうすべが無かった。意識がもうろう状態に近くなり、力なくクラヤミの元へ歩くだけの人形と化した。
『……!』
クラヤミは狼狽した。この父親は、是が非でも認めさせるつもりだ。自分が間違っていると。自分には他の人間を助ける義務がある、と。
『〈クラヤミ〉。君は己の我が儘の為に、他の人間達の命を捨てるのか? それに、私は君の為を思って謂っているんだ。何故そう否定する?』
横目でヒカリを見ながらクラヤミが返す。ヒカリはゆっくり、少しずつ迫っていた。あと5メートルほどか。
『でも……わたしは……つみのない人るいをつかまえたまま、これからを生きるなんて……』
あと3メートル。
すると、何かがクラヤミの崩れかけた肩に触れた。その温かくも冷たい感触から、「誰の手なのか」すぐに分かった。
『〈クラヤミ〉。謂ったろう。人類は罪深き生物だ。例え何代重なろうといえど、其の罪が消え去る事は無い』
ヒカリが手を伸ばしている。その手は今にもクラヤミの中に入り込んできそうだ。
……。
これは、もう、わかりあうのは無理かもしれない。
ヒカリの手が、クラヤミの身体に近づいている。あと10センチ、5センチ、3センチ……
突如、クラヤミの身体が動いた。自身でもこれほど素早い動きができるのかと驚いたほどだった。勢いでもともと短かった左腕と左脚が、細かいしぶきとなってクラヤミの身体を離れ、地に叩きつけられた。それでクラヤミも地に伏せた。
バランスを崩したヒカリが、根元を切った大木のように、前方へと倒れていく。ゆっくり、ゆっくりと。そしてその先には、父親がいる。
クラヤミは見た。母親がそれを、目を大きく開いて見ていた。
そして父親が、一時停止でもかけられたかのように、じっと止まっていた。
そのまま、ヒカリと父親の身体が交錯した。




