【Night 66】外側
ナギたちが消えた海岸線は、目を離したことによって、もうどこか平和な住宅街へと姿を変えていた。もちろん今の状況は平和と呼べるものではないのだが、それでも、テリトリーとしての″平穏″は「人類」がいなくなっても保たれているように見えた。
クラヤミは必死に身体を起こし、ヒカリに手を引かれながら歩いていた。ヒカリの手袋の白と桃が、みるみるうちに黒へと変色していくのがわかった。
『……ねえ』
クラヤミはそんなヒカリを横目で見ながら、口を開いた。
『……なんで、こんなこと、しようと思ったの?』
それで、ヒカリがクラヤミの方を向いた。そして言った。子供らしい、無垢な顔と共に。
「……〈クラヤミ〉ちゃん、おそとにでたことなかったんでしょ? ヒカリたちがいたから……」
そしてその顔が、にっと笑みを作った。白い歯が、周囲の闇とコントラストをなした。
「だから、いっぱいあるいて、いろんなところにいこうよ!」
そうしてヒカリは、クラヤミの手を強く引っ張った。それで腕がもげそうだったが、クラヤミの意識はそちらには向いていなかった。
嘘はついていないように思えた。しかし、それでは、あのタイミングでなぜそうしようと提案したのか、それが不可解だ。もちろん相手は神授人とはいえ、5歳である。唐突に関係ないことを言ってもおかしくはないが……クラヤミには、どうしてもそこが引っかかっていた。
住宅街は、ゴーストタウンのごとく静まりかえっていた。家々の中からは明るすぎる光が漏れ出て、街灯も燦々と光を落としている。クラヤミは顔を歪めた。街灯にはあまり近づきたくない。
……しかし。
「どう? たのしい?」
ヒカリが振り返った。暗闇の中だとはっきりとわかる。目が輝いている。実際に輝いているわけではないけど。
クラヤミはそれには答えず、ゆっくりと目を閉じた。
初めは、ただの願望だった。
幼い頃に(今も十分幼いが)父親から聞いた、自分達が知らない、「人類」の世界。その地から見る光景はどうなっているのか。どんな空気で、どんな心地なのか。それらに対する純粋な気持ちが心を占めていた。
そして、この世に生を受けてから3年ほどがたった頃。まだ「外側」に対する好奇心は薄れていなかったし、むしろ濃くなりつつあったと言ってもよい。
だから、母親に訊いた。能力を分けられた母親は、父親と違って白く大きな美しい目を持っていた。
言った。
『ねーえ、いつ、そとにいけるの?』
母親に抱きつき、濁りなど何一つない目を輝かせて。
『そうねぇ……いつ行けるのかしら』
母親はこう言った。寂しそうな目を見せながら。同時に、何かに耐えているような目でもあった。
そして、続けた。
『わかるでしょう? お外は危ないから……』
当時は、その言葉の意味は分からなかった。父親からはその「外側」の世界がいかに素晴らしいか、いかに自由な空間であるかしか聞いていなかったため、「危ない」という言葉が飲み込めなかった。
だがそれから何カ月、あるいは一年以上が経ったある日、その言葉の意味を理解した。
その時は、ヒカリは家の壁際で絵本を読んでいた。父親お手製の絵本だ。かなり高レベルの絵だったと思う。ただ……読みづらかった。文体は易しいのだが、どこか人を寄せ付けないような……そんな絵本だった。
それを幼い頭で読んでいた時、壁の向こうから何かの音がした。壁に耳を当ててみた。
男女の声だった。こちら側に聞こえないように細心の注意を払っているのか、気を張らないと聞こえなかったが、その内容は大体はこんな感じのものだったに違いない。
『……本当にこの家なのか?』
『うん。間違いないよー。あたしの友達から聞いた話だし』
『そうか……それがホントなら、信じらんないよな……この家に、あの「奇跡の子」がいるなんて』
奇跡の子。それが自分を指しているということはすぐに分かった。父親から耳にたこができるほど、君はキセキノコなんだ、だから皆を救わなければならない、と聞かされていたから。
2人の会話はまだ続く。
『うん、ホントにねー。あたしたちと見た目一緒でも、いろんなことできるらしいからねー』
『でもさ、ホントに敵うのか?「人類」に』
そこで首をかしげた。ジンルイとは? 敵うということは、敵か何かなのだろうか?
『わかんないけど多分いけるんじゃない? テレビで再現図見た時に言ってたじゃん。そっくりだけど、何もできないって』
『いや結構前だから覚えてないわ……それ確か5年前とかそこらだよな?』
『まーそうだね。でもあたしたちはただ自分そっくりな「人類」つかまえて中に入れればいいんでしょ?』
『そうだったっけな……まあ、でも、「人類」から自由になれるならなんだっていいよな!』
『そうだねー』
そこだけは息を殺して耳を傾けていた。声を発しても、向こうに聞こえる心配はない。しかしそれでも音を立てないように、注意していた。
「外側」の世界は、手つかずの場所ではなかった。「人間」にとって足を踏み入れたことのないその世界は、「人類」という「敵」がいたのだ。しかも、自分達に瓜二つだという。
そのことは父親からは一切知らされていなかった。そのことを問い詰めると、慌てて取り直していた。いつか君に伝達しようという意思はあった、しかしあまりにも酷だからそうしなかった、と。
その通り、酷だと思った。地を這う虫(もちろんこれらも全て黒い)を踏み潰すのさえ心が痛むのだから。「人類」が死亡する訳ではないとも説明されたが、じゃあ、自分達に取り込まれた「人類」はどうなるのだろうか。意図して「人間」を拘束してないのなら、今の「人類」の平穏な生活を「人間」が脅かすことになる。彼らから見たら、自分達「人間」に自由を奪われることになるのではないか。何も知らないまま。
だが「人間」のその行動を止める言葉も、折衷案も見つけられなかった。そのまま、時はすぐ隣を過ぎ去っていった。
そして、その日は唐突にやってきた。その日、父親はその旨を伝えると、外側の世界への穴を開通してほしいと言ってきた。
方法は分かっていた。感覚的なものだったが、それを確かなものだと確信させる何かが頭の中で鳴り響いていた。
だが、同時に覚悟しなければならなかった。
「人類」は。人類の行く末は、自分に委ねられている。
本当に何も抗う手段を持っていないのなら、「人間」の勝利は確実だ。だが逆にそれは、「人類」が殲滅されることを意味している。
頭が割れそうだった。
割れそうだったが、父親の話を頭に流しながら悩みに悩んだ末、「人類が人間を意図的に拘束している」という可能性に賭けた選択をした。
自身の意識も、ごくわずかの間吹き飛んでいた。意識をもどした際にそばにあったのは、軽い頭痛と、父親を初めとした人々が倒れている姿。1つの塊みたいにまとまっていた。それらから目を逸らしてみた。
おそらく一生忘れられない光景になった。建物に、空に、地面に、色がついている。夜になっているせいで色味があまり感じられなかったが、それでも、艶やかで鮮やかな世界に感じられた。
しばらくの間はそうしていたと思う。しばらくの間は…人間も、人類も、忘れて。自分が何者でもなく、ただその背景に同化できているように感じられた。
そして振り返った。そろそろ父親達が目を覚ますところだろうと思ったから。しかし、そこにはもう誰もいなかった。ただ、草原とわずかな建物が広がっているだけ。牧場だろうか。草はこんなにも初々しい色だったんだ。
その考えの隙間から、何かがはみ出した。
───君は奇跡の子なんだ。
もう一度元の方向を向き、足を踏みだす。いつまでもこうしてはいられない。いられないのだ。自分は特別な使命を負っているのだから。
……もう一度、振り向いてみた。緑が広がる牧場は、山を穿つトンネルに変わっていた。穴の中は、笑ってしまいそうなくらい、周りの黒に溶け込んでいた。
『……もう一回、きいていい?』
クラヤミが口を開いた。幾分小さな声が、ヒカリの耳に入り込む。
「なーに?」
大きく息を吸った。
『……わたしは、すきなこと言ったらいいのかな? それとも……みんなのために、がまんした方がいい?』
「……」
言ってから、クラヤミはため息をついた。ヒカリには聞こえていないようだった。あの時はどちらかというと自分から「吐き出す」ために言っていたけれども、今は明確な答えを求めている。それも、年端もいかない女の子に。
だがヒカリは、思ったより早くその答えを導いた。多分、10秒くらい?
「いっていいよ!」
『え?』
「だって、クラヤミちゃん、ずっとがまんしてきたんでしょ? だったら、おねがいはきいてくれるはずだよ!」
クラヤミは頭の中で笑んだ。求めてた答えと少し違うけど……まあ、いいか。
あと、と、ヒカリが続けた。
まだあったのか。
「……なかまだったら、『きがねなく』はな……はなして、いいよ」
今度は声を出して笑ってしまった。仲間。そうか。仲間ときたか。ヒカリから見れば、自分達は侵略者であるのに。
しかし、それはクラヤミの中で大きな熱となった。どれだけのヒーローコール、英雄コールでも生み出せない熱だった。
『……ありがとう』
気がつけば、そう言っていた。
すると。
『……クラヤミ』
前方から、やや大人びて美しい声が、した。
クラヤミもヒカリも、ぴったり同時に前を凝視した。
『……こんなところにいたのね』
驚愕した。どちらが、と訊かれたら、両方だ、と答えるほかない。
先に言葉が出たのはクラヤミだった。
『……おかーさん……なんで……』
『……心配したのよ?』
クラヤミが「おかーさん」と呼ばれた影に駆け寄る。そして、身長差のある2人がともに抱き合った。クールに見えたクラヤミも、ここだけ見ればおちゃめな女の子だ。今のクラヤミは腕の長さがもう半分くらいまでになってしまっていたが、それでも「おかーさん」がしっかりと受け止めていた。
そして。
「おかーさん」が顔を上げた。
その白く大きな目が、まっすぐヒカリを見つめていた。




