【Night 65】オレは
不意に、頭に強い衝撃が走った。
急激に意識が脳を満たし、ナギは目を覚ますことになった。壁にもたれかかるようにして、座り込んでいた。先程の衝撃は、どうやら頭を背後の壁にぶつけたことによるものらしかった。そして正面には、雪のように白い壁に、これまた真っ白いドアが、なぜかつけられていた。どちらかというと部屋のドアと言うより玄関のそれに近く、取っ手がついている。眩い光が目に入ってくる。まばたきを繰り返す。
……眩い光?
徐々に目をならしたナギは、早速頭に疑問符を浮かべた。そして正面のドアを見る。左を見る。右も見てみる。振り返ってみる。天井を仰ぐ。床を見下ろす。再びドアに目を向ける。
光源はどこにもない。にも関わらず、部屋(?)の中は明るかった。もしこの傷1つない白壁に、わずかな汚れがあったとしても、すぐに気がつくことができるだろう。それくらい視界がはっきりとしていた。
いや、そんなことはどうだっていい。
ナギは立ち上がると、目の前の白いドアの取っ手に手をかけた。石のようだった。ざらざらとした感触に、ひんやりとした温度感。それで一瞬、握るのをためらった。しかし、目的を達成するには、乗り越えなくてはならない。
迷わなかった。ナギは取っ手を思い切り引いた。
だがドアは開かなかった。ガッ、という硬い音を出して、動作するのを拒んでいた。
「……?」
もう一度引いてみる。今度は、カッ、と軽い音がして、またもやドアは開く直前で止まった。
実際に確認していなくても、ナギには分かっていた。この先にエンリがいると。ここでなかったら、どこにいるというのか?
「……エンリ」
ナギはドアの前に立ったまま、呟くように言った。
返事はない。届いているのかわからない。そもそもこの中にいるのかどうかすら定かでないのだ。
だが確信しているナギは続けた。
「もう遅いかもしんねえが……本当に、すまん」
まだ返ってこない。空気ばかり掴んでいて、得たいものが手中に入ってこない。
さらに続ける。
「お前を置いて逃げてしまったこと……心の底から後悔してる。謝りたいんだ。だから……」
大きく息を吸った。吐いた。1回ではなんとなく心許なくて、もう一度繰り返した。
「出てきてくれよ。お前に直接、頭下げたいんだ」
そこまで言って、ドアに手をついた。取っ手よりもさらに冷たく感じた。
ついさっき2回も呼吸したのに、自分で息ができているかすら分からなかった。慌てて息を吸おうと試みるが、上手くいかない。まるで真空を吸っているようだ。
すると。
───今さら?
声が届いてきた。
ドア越しというよりかは、ナギの頭の中で叫ばれているような声だった。エコーがやけに長く続いていた。
「……エンリ?」
───もう遅いよ。
「……分かってる。でも……それでも、お前に……謝りたいんだ」
───謝らなくていいよ。『ナギが生きてたら』いい。
どうすることもできなかった。
「オレは……」
ナギは必死に言葉を探した。オレは。その後に続く言葉。しかし、何も浮かんでこない。オレは。その喋り出しが、ひどく無責任に聞こえてならない。
そんな中で、別の記憶が、ナギの頭に蘇りつつあった。
それは、ナギが自室に閉じこもっていた時だった。いつもエンリやシュンタと遊ぶ時間になっても、部屋に鍵をかけて、ずっと中で塞ぎ込んでいた。
別に重大なことをしでかしたわけではない。ただ、親とうまく行かなくて、自分からすねただけだ。宿題をやるかやらないかでこうなるのだから、当時はまだ「幼かった」と言ってもよい。
しかしそんな時、2人はいつもナギのもとにやってきた。ナギが部屋に籠もっているとわかると、住居内に入り、ナギの部屋の前までやってきた。そして、何度も何度もナギに、外に遊びに行こうとドア越しに言った。
でも当時のナギは本当に子供だったから、小さな子供がここまでして「誘ってくれる」ことのありがたみを知らなかった。むしろなんで今来たんだとさえ思っていた。だから、追い払った。今日は2人で遊んできてほしいと。
それで、2人とも帰ったはずだった。
そしてその後は────。
ナギは感じた。ため息を小さくついた。
はは、あの時と同じじゃないか。今度は逆。「今まで」のバチがあたったんだ。いくら頑張っても、エンリはきっと振り向いてくれないだろう。やるだけ無駄なのかもしれない。
そう諦めかけていたナギの脳裏に、1つの写像が蘇った。
ヒカリの姿だった。ナギを助けた結果であろう、あのボロボロの姿。
……。
……そうじゃないか。
何で今、また逃げようとしていたんだ?
今自分がここにいるのは、ヒカリとテリカが命をかけて助けてくれたからだ。
自分より年下の2人が、死にかけてまで自分を助けてくれたのに、自分は逃げてしまうのか? それだと、ここにいる意味はないぞ?
ナギはもう一度、前を向いた。
「オレは……それでもお前に……開けてほしい……ここを……」
───開けないよ。分かったら帰って。
自分が開けなかった。だから今こうして、罰を受けている。
それがなんだ。
あの頃の自分はまだ子供だった。でも今は知っている。友というものが、どれだけありがたいものか。どれだけ心強いものなのか。
どれだけ、かけがえのないものなのか。
「オレは迎えに来た。お前を置いていってしまったけど、けど、お前にそばにいてほしい」
───意味分からないよ。置いていったけど一緒にいろって。
「あの時の、一瞬限りのオレは、自分の命がかわいくてしょうがなかった。でも今は! 今は……お前も同じくらい大切なんだ」
───……一瞬限りの……って、あの時だけ魔が差したっていうの? それはちょっとズルくない?
「ズルいと思うならオレを殴れ!」
ダン、とドアを鈍い音が突き抜けた。ナギが突き立てた手から出ていた。
「そこから出てきてオレを殴ってくれ!」
その時、一瞬だけの間を感じた。ナギにとっては、それが何倍にも増幅させられたように感じられたが。
───だから出ないってば。
「お前は……前に、オレのところに来てくれただろ? オレが塞ぎ込んでた時に……」
───だから今度は代わりにナギがやるってこと?
息をのむ。同時につばも飲み込んだようで、ごくりと喉が音を立てる。
───ナギじゃ私やシュンタの代わりにはならないよ。あんたは……
「オレはオレだ!」
反射的に叫んでいた。急遽ねじ込まれたその言葉が、逆にナギ自身を困惑させていたかもしれない。しかし同時に、ナギ自身を奮い立たせてもいた。
「最初は……シュンタの代わりになれればいいと思ってたよ。エンリ……お前にとって、シュンタは特別な存在なんだと思ってたからな」
そこで、ナギの脳内に響いていた声は消えた。ナギの「オレだ!」という発言から喋ってはいなかったが、ここで完全に存在が消えたような気がした。
「でも……気づいたんだ。オレはシュンタじゃない。もちろん、シュンタの姿を見習ってこんな口調にはしていたけど……オレの中でオレと混じり合って、オレの中に吸収されて、オレになった」
そこまで言って、ナギは自身の手のひらをのぞき込んだ。赤くなっている。血の巡りが始まっている。
その赤い手を、もう一度、ドアの取っ手にかけた。手のひら自身の熱が、ナギ全体に行き渡った。
「だから、オレはオレなんだ。オレとして、お前を迎えに来た。だから、開けろ」
言った。語尾が少し裏返った。
だが問題なかったようだ。
ナギの腕がひとりでに動いていた。ドアはその手と連動するように、手前側に開いた。
真っ暗だった。ナギは思わず身を引いた。恐怖ではなかった。何かがそこにいたような気がしたので。
その何かは、真っ暗な空間の外に、足を踏みだしてきた。
まごう事なき、エンリの姿だった。
「エンリ……すまん! オレは……」
ナギは呼吸が荒くなっていくのを感じた。感じたが、止められなかった。止まらなかった。
その時。
ナギの頬に、何かが叩きつけられた。パン、と、小気味良い音が空間に響いた。
エンリの手だった。
「……遅いよ……」
「ああ……遅かった……迎えに来るのが……」
そこでナギは口を閉じた。エンリが首を横に振っていた。
「そうじゃないよ。確かにそこにも怒ってたけど、ナギが迎えに来てくれたと分かったら、置いていったことに関してはどうでも良くなったよ。私を見捨ててなかったから、来てくれたんでしょ? でも……」
そこで、また間が空いた。今度は本当に長かった。多分、2分くらいだ。その間、ナギはずっとエンリを見ていたが、そのエンリはナギの目を見たり、後ろの壁を見たり、天井さえ見たりと、視点が定まってなかった。
「でもさぁ……」
ようやく発されたエンリの声は、震えていた。どうしようもないくらいに、震えていた。
「いっつもどっかに行っちゃってさぁ……遅いんだよぉ……本当にさぁ……シュンタの代わりなんて、しな、しなくてもさぁ、わた、私にとって、ナギもずっと大事だったってこ、こ、ことに、気づくのがさぁぁ……」
顔を上に向けて、右腕で目を覆うエンリ。その語尾がナギ同様に裏返っていた。しかし裏返る理由が大きく違っていた。
実際は気がついていなかった。シュンタのことを特別に思っていたから、例の事故の後、あんなに落ちこんでいたのかと。ずっとそう思っていたナギにとって、この発言は衝撃が大きいものだった。
それで、ナギの目からも、自ずと涙が溢れてきた。しっかりしろよ……もう何回目だよ……。
「本当に、すまん……そして、ありがとな……」
「これからはもう、どこにも行かないでよ……?」
2人は近づき、抱き合った。涙が互いの肩を濡らしていた。




