【Night 57】おにごっこ
ヒカリはすぐさま、彼女に駆け寄って腕を握った。簡単だった。その間彼女は微動だにしていなかったのだから。ヨウタのように障壁があったり、テリカのように接近を防ぐ手段があるわけでもなかった。
「……え」
しかしヒカリの期待と裏腹に、何も起こらなかった。不気味なほど静かな空気が、ヒカリの頬を撫でた。
「……?」
少女はそれをただじっと見ていた。まるで、ヒカリ自身が珍しい化学の実験であるかのように。
違っていた。ヨウタやテリカと同じように、対象に触れることができれば終わり、という単純なことではなかったらしい。
「ヒカリ、ちゃん……」
後ろからテリカの声がした。かと思うと、ガッ、ガッ、と土を踏む音が接近して、止まった。
「……もう一回きくけど、2人とも、だれ?」
少女がまた口を開いた。負の感情が含まれていない、純粋な問いのように感じられた。
「……ナギ、さん」
「んー?」
テリカはその問いに答えず、訊き返した。しかしそれに対して少女───ナギが不満を露わにすることはなかった。
しかし、次の言葉をテリカが口にした瞬間。
「戻ってきて、ください……あと、ナギさん、だけ、なんです……どうか……どうk」
そこでテリカのたどたどしい言葉が遮られた。
突然消失したテリカの言葉の続きを見つけようと、ヒカリはテリカが立っていた方を向いた。音もなく、テリカが吹っ飛んでいた。本当に、音もなく、だった。目を瞑れば、自分がありとあらゆる音が存在しない静寂の中にいるのではと勘違いするくらいに。そしてテリカの身体が地面に着地したところで、ようやく、ズザザ、という地面と布が擦れる音が聞こえてきた。しばらく動かなかったものの、やがてゆっくりと身体を起こし始めた。その目は、信じられない、と言わんばかりに、ナギへと向けられていた。
ナギは拳を前に突きだしたまま静止していた。ヒカリと大して変わらない大きさの拳を。そしてその顔は笑っていた。もはやどうしようもないくらいに、笑顔だった。
「そんなことよりもさぁ……」
ナギが口を開いた。そんなこと。その5文字が、ヒカリの心を強く打ち付けた。
「遊ぼうよ」
「……え?」
「おにごっこ。わたしが鬼で、2人は逃げる」
それだけ言って、少女はヒカリに近づいてきた。笑顔だった。ただその笑顔がずっと続いているせいで、可愛らしさより不気味さが勝っていた。
「え…?」
ヒカリはただ困惑するしかなかった。それに、テリカのことも心配だった。心配だったが、ナギの目、空気、全てが、ヒカリの足下を釘で打ち付けたかのように固定していた。
「ヒカリちゃん! に、逃げて、くだ、さいっ!」
その時、テリカの声が飛んできた。所々裏返っていたその声は、確実にヒカリの脳内で処理されていた。
「え───」
ヒカリは振り返った。テリカが身体を起こしているところが目に入った。こちらを見ている。すると、その焦りの色に染められた目がさらに大きく見開かれた。右手が伸ばされた。
その瞬間。
ヒカリの視界が揺れた。右頬に何かがめり込んだ。そして身体が宙を舞い、空が見えた。雲が動いていた。さっきと同じ色だった。
背中が地面についた。大きな石に当たったのか、一点だけ猛烈な痛みが食い込んだ。少し遅れて、鉄の味が喉に流れ込んだ。そして再び空が映った。色あせていた。
……?
痛みというよりも、困惑が、そして少ししたら絶望が強くなっていた。殴られたという事実は、ピアノの衝撃で吹き飛ばされた痛み、殴られたこと自体の痛みよりもずっと、ずっと痛かった。
そしてヒカリが立ち上がれずにいると。
「危ない!」
テリカの叫びが頭上で聞こえた。かと思うと、右腕が乱暴に掴まれ、引っ張り上げるようにして立ち上がらされた。その時に少しばかり引きずられ、背中と地面の石が擦り合わせられて痛んだ。視界の端でナギが、さっきまでヒカリがいた場所で拳を振り下ろしていた。そして次には、テリカの顔が見えた。
「ヒカリちゃん、に、逃げ、ましょう」
立ち上がっても、テリカが腕を引っ張り続けている。その顔は、ずっとヒカリの後ろに向けられている。ヒカリが振り向くと、ナギと目が合った。全然表情が変わっていない。笑顔だ。そしてそのまま、ゆっくりとこちらに向かってくる。
テリカに連れられるまま、公園の奥の方に逃げた。幸いにも滑り台と鉄棒があったので、滑り台の後ろに隠れるようにした。ナギがゆっくりと向きを変え、歩み寄ってきた。
右頬がじんじんと痛んでいた。
「ううっ……」
「ヒカリ、ちゃん……大丈夫、ですかぁ?」
一瞬だけだったが、テリカがヒカリの顔を覗き込んだ。以前のような、優しい顔だった。この時だけ痛みが柔らかくなったような気がした。するとナギが眼前に迫っていたため、滑り台から鉄棒の後ろへと移動した。
「どうすればいいの……」
ヒカリが開口した。泣き出しそうだった。ヨウタやテリカのように、「身体に触ればクリア」というわけではなかった。つまり、もう打つ手がない。
「……でも、諦めちゃ、だめですよぉ」
それでもテリカはヒカリを鼓舞した。頬を抑えていたヒカリが、テリカの方を向いた。
一方でテリカの目には、こちらに歩いてくるナギが映っていた。このまま逃げ続けてもジリ貧だ。どうにかして突破口を見つけないと。
いっそのこと……
テリカは自身の右手を見つめた。そして握った。
勝てる見込みは無かった。今のナギは、ただ暴力を振るうだけのマシンだ。自分が狂っていた時の、固い決意を持っていたナギとは違う。理性というリミッターが外れている。
だか、それでも……やるしかないのかもしれない。
ナギはもう目の前だった。やらなければいけない、と言い聞かせるたびに、手が、身体が震えた。決心はまだついていなかった。あの頃のナギは、一体どうやって覚悟したんだろう。
でも───ナギはちらりと、ヒカリの方を見た。
もう、やらなければ。
今は、独りではないのだから。
ナギが止まった。鉄棒を挟んで向かい合った。笑顔なのに、やっぱり感情が読み取れなかった。そして予備動作もなしに殴りかかってきた。
テリカも負けじと、右手を突き出した。
ゴン。
「……え?」
一瞬の事だった。
ナギがテリカに殴ってきた時、ヒカリはテリカに、逃げよう、と、右手を掴んでいた左腕を引っ張り続けていた。しかしテリカは反応することなく、あいている右手でナギに殴りかかった。
しかしそこからだった。
ナギはテリカからの攻撃を察知すると、素早い動きで鉄棒の下をくぐり、テリカの後頭部を一殴り。そのままテリカは魂が抜けたように倒れ、前頭を鉄棒にぶつけて、ゴン、と鈍い音を立てた後、うつ伏せになってしまった。
「テリカさん……?」
表情はわからない。意識があるのかないのか。それすらも。いや、わかっているけど───。
「1人目、つーかまーえた」
ナギが口を開いた。客観的に言うなら、甘い響きだったと思う。しかし主観的に言うなら、また別の表現になる。
「残り、1人だね」
そしてナギは、また何事も無かったかのように、ヒカリに向かって歩き始めた。




