【Night 58】思ってたんです
【作者から注意】
この回は特に流血表現、暴力描写が強いです。
苦手な方は閲覧をお控えください。
「っ……!」
ヒカリはナギの方を向きながら、滑り台と反対方向に後ずさりしていた。申し訳ないが、テリカの心配をしている暇はなかった。それに連動するように、ナギがヒカリの方を向きながら歩いてくる。
今のナギには、テリカでも勝てない。しかし、2人が前戦った時は、かなり拮抗していた。奥の手のカッターナイフを使っても、ナギを打ち倒すことはできていなかったのだから。しかもあの時は、テリカの方が狂っていた。今度は攻守逆だ。敵わないのも、当然かもしれなかった。
だから、より非力なヒカリは、何もすることができない───
わけじゃない。ヒカリはそう言い聞かせた。
「ナギさん!」
後ずさりしながら、ヒカリは叫んだ。公園の隅の木に留まっていたカラスか何かの黒い鳥が、一斉に飛び立った。
「ヒカリだよ! ヒカリ! たすけにきたよ!」
ナギは止まらない。ただ変わらず歩いてくるだけだ。ヒカリもそれに伴い後退した。すると、背中に冷たいものが当たった。一瞬振り返ると、そこには、ベージュの壁が佇んでいた。民家の塀のようだ。
ヒカリはそれで、うっ、と声を漏らしたが、すぐナギの方を向いて続けた。もはや懇願に近かった。
「だからおねがい! もどってよ! やさしいナギさんにもどってよ!」
ヒカリの願いに反して、ナギは構わず進んだ。表情も、微動だにしなかった。まるで覆面を被っているようだ。
「おねがい……おねがい……」
ヒカリは目を閉じて、ひたすらに祈った。
すると、ナギの動きが、ヒカリの目の前で停止した。そしてゆっくりとヒカリを見下ろす。
「ナギさ───」
今度は左頬に入った。後ろが壁だと、吹っ飛ぶというわけにもいかなかった。壁に頭を打って、倒れた。
「う───」
ヒカリはもう一度身体を起こした。立ち上がろうとした。その時、自身の目が向いている地面が、所々赤くなっているのに気がついた。
その赤は、どんどん広がりつつあった。やがてそれが、ヒカリ自身の口から出ているのだとわかった。さっきの殴打を受け、口の中の傷が増えたらしい。
それでもまだ、喋り続けた。テリカの時だって、諦めなければいけたんだ。ナギだって───
「エンリさんに、あいたく、ないの……?」
エンリ。あの、ナギがヒカリと会う前に行動していた、ナギの同級生だ。
ヒカリが地面に転がったままそう言った時だった。
ナギの表情が、突如ぐにゃりと歪んだ。
あの笑顔が、完全に消えた。
「ナギさん───」
そして今度は、冷ややかな真顔になった。
あの不気味な笑顔は消えた。しかし、代わりにその真顔が今の彼女自身の冷酷さを露わにさせているようだった。
ナギが、転がるヒカリの胴に足をのせた。目が合った。やはり表情はそれっきり、ぴくりともしなかった。しばらく間があり、それ故ヒカリはその顔を凝視することになった。一気に体温が下がった。
やがてヒカリの胴にのっていた足が、地面に戻った。今、立ち上がらないといけない。何か凄く、嫌な予感が───
その時。
ヒカリの腹に、ナギの足が勢いよくめり込んだ。ヒカリの口から、息と血が漏れた。その勢いで、ヒカリの身体はサッカーボールのように地面を転がり、顔のいたるところに傷をつけた。しばらくそうしていたかと思うと、滑り台の柱に背中が激突し、ヒカリの身体が反ったのち、動きを止めた。
ごほっ、ごほっ、と、咳をするヒカリに、ナギはまた無表情のまま近づいていた。まだ死んでいなかったのか、面倒だ、と言わんばかりだった。
「なんで……なんで……」
柱に背をつけて倒れたままのヒカリの目から、血とはまた別の、透明な液体が流れ始めた。逆に涙を流せることが不思議だったくらいだが、とにかく、ヒカリは泣いてしまった。今度こそ、心が折れてしまった。
だがそれも構わず、ナギはヒカリの目の前まで踏み込むと、マフラーの下、胸ぐらを掴むようにして、彼女の、小さく力の無い身体を持ち上げた。ヒカリの腕が重力に引かれてぶら下がった。
ヒカリはそれがわかると、もう何も喋らなくなってしまった。ただぼんやりと、真顔のナギを見つめるだけだった。いや、彼女の中では、もう目の前の少女を「ナギ」として見ていなかったかもしれない。もういくら声を上げても、ヒカリよりはるかに強く大きな何かにもみ消されると思ったのかもしれない。
どうであれ、ヒカリはもう、電池の入っていない機械人形のようになっていた。
そして、拳が振り上げられた。
目を閉じた。
突如、身体が宙に浮いた。それでヒカリは一瞬、死んだのかもしれない、と感じた。
地面に身体がついた。
まだ死んでいなかった。
目を開けた。青と赤が混じった空が、どこまでも広がっている。そしてその視界の隅に、何かが見える。
身体を起こし、それが真ん中に来るように頭を動かした。目を見開いた。
ナギが自身の首に両手を回していた。もちろん真顔のままであったが、その首を囲むように、何かが絡んでいた。よく見ると、誰かの腕だった。そしてここにいる人間でヒカリとナギ以外といえば、1人しかいない。
「……ナギさん……」
テリカだった。ナギの背中にもたれるようにしてなんとか立っていた。髪に隠れたその顔をよく見ると、左目あたりが赤く染まっていた。どうやらその赤は額から流れているようだった。
「私……思ってたんです……最初は……」
喋り始めていた。たった今そうし始めたのかもしれなかったし、もっと前から始めていたのかもしれなかった。
「最初は……妬ましいと……思ってたんです……ナギさん、ナギさんには、……お友達がいるって……私と、ちがっ、違って、違って……」
テリカが今話していることが、ナギに対してなのか、それとも独り言なのかは分からなかった。ナギに伝えようとしているのは内容から分かるはずなのだが、今の状態のヒカリには判別がつかなかった。しかし友達というのは分かる……エンリのことだ。
「でも、でも……ナギさんと、喧嘩した後は、……会ってみたい、と、本気で思った、思ったん、です……本当です、本当……」
ヒカリは思い出すことはできなかったが、ショッピングモールにたどり着く前の道中で、確かにテリカはそう言っていた。この時はまだ友達のいるナギを妬んでいるだけだったが、やがて考えが変わったようだ。
それがナギの心を動かしたかは定かではない。しかしそれは、確かにヒカリを突き動かした。
揺れる。
ヒカリは考えた。
自分にも、ナギに言えることがあれば。
揺れる。
ヒカリは感じた。
テリカのように、自分のありのままをぶつければ。
揺れる。
ヒカリは思った。
まだ、ナギを助けられるかもしれない。
ヒカリは立ち上がった。足がふらついた。ほとんど残っていない力で、支えた。
途端、ナギがヒカリに向かって手を伸ばそうとした。それをテリカが抑えた。当たり所が悪かったのか、もう意識が無いように見えた。それでも、抑えた。
ヒカリはそれで、後ろに下がった。テリカはいつまで持つか分からない。テリカを振り切って、またこちらに歩いてくるかもしれない。
そしていつの間にか、公園の出口まで下がっていた。後ろはもう、道路しかない。あの赤く染まった道路。
もちろん、殴られるのも怖い。あらゆることが怖い。でも───やるしかない。
ヒカリは、大きく息を吸い込んだ。




