第3話 恋人は何人いらっしゃいますの?
マリエル・セインは、リディアとセシリアの話を最後まで聞いてから、しばらく何も言わなかった。
セイン子爵家の王都屋敷、その二階にある小さな書斎には、壁一面の本棚と三人分の茶が用意されている。急な面会を申し込んだ二人を追い返しもせず、使用人を遠ざけて話を聞く場所まで用意したのだから、少なくともまったく心当たりがないわけではないのだろうとリディアは思っていた。
けれど、向かいに座るマリエルの顔から血の気が引いていくのを見ていると、自分たちが何を告げに来たのかを改めて思い知らされる。
「つまり、お二人は……エヴァルト殿下と、結婚を前提にお付き合いをしていらっしゃるとおっしゃるのですか」
「少なくとも私は、そのつもりでした」
リディアが答えると、隣のセシリアも腕を組んだまま続けた。
「私も似たようなものですわ。正式な婚約の申し入れはまだでも、いずれ殿下ご自身の意志で相手を選ぶ、その相手は私だと受け取るに足ることを何度も言われております」
「そんなはずはありません」
マリエルの返事は思いのほか強かった。普段の社交の場では、声を張るところさえ見たことのない娘である。
「殿下は、華やかな場所がお好きではないとおっしゃっていました。晩餐会や舞踏会では人に囲まれてばかりで、誰もが王子としての殿下に何かを求めるから疲れると。私といるときだけは、何も話さず本を読んでいても気を遣わなくていいと……そうおっしゃってくださったのです」
言いながら、マリエルの視線がセシリアへ向いた。
その意味は露骨だった。華やかな場所を好み、人に囲まれることを苦にしないセシリアは、エヴァルトが嫌うものの側にいる人間だと言いたいのだろう。
セシリアもすぐに気づいたらしく、形の良い眉が上がる。
「何かおっしゃりたいことがおありなら、遠回しになさらなくて結構ですわよ」
「……殿下は、ローディス伯爵令嬢のような方についてもお話しになったことがあります。王子という肩書に近づいてくる人は珍しくない、華やかな噂の一つとして王族との親しさを楽しむ人もいる、と」
「なるほど。今度はそう参りましたのね」
怒るかと思ったが、セシリアはむしろ乾いた笑みを浮かべた。
「私には、家と王室を結びつけることばかり考えている生真面目な令嬢のお話をなさいましたわ。そしてカルヴェイン侯爵令嬢には、私のような女について、王族との噂を自分の価値に変えるから気をつけろとおっしゃったそうです。セイン子爵令嬢には、もう少し上品に言い換えてくださったようですけれど」
マリエルがリディアを見る。
疑いというより、確かめたくないものを確かめようとする目だった。
「本当なのですか」
「残念ながら。私も三日前までは、ローディス伯爵令嬢について聞かされた言葉を、殿下なりの忠告だと思っていました」
マリエルの指が膝の上で強く組まれた。
それでも、すぐには信じられないのだろう。無理もない。リディア自身、セシリアと最初に予定を突き合わせたときでさえ、心のどこかでは何かの間違いであってほしいと思っていた。
「お二人が同じ方から贈り物を受けたことも、会っていた時期が重なっていることも分かりました。ですが、それだけで……殿下が私にも同じようなお気持ちだったとは限らないのではありませんか」
「ええ。ですから確かめに参りましたの」
リディアは責める調子にならないよう言葉を選んだ。
「先月の十四日、殿下はローディス伯爵令嬢には王宮へ泊まると話し、私には西の王領へ視察に出ると話していました。その二つは同時には成り立ちません。そして、その少し前に殿下があなたとお会いしていたのではないかという話が出ました」
「十四日……」
マリエルは小さく繰り返し、すぐに顔を上げた。
「その日は、殿下と一緒にいました」
今度はリディアとセシリアが黙る番だった。
覚悟して訪ねてきたはずなのに、予想が事実になると別の重みがある。
「どちらへ?」
「王都の南にある修道院の図書室です。古い寄進記録を見たいとおっしゃって……昼前にお会いして、夕方までご一緒しました。そのあと、近くの宿で夕食をいただきました」
「宿?」
セシリアの声に鋭いものが混じり、マリエルは慌てて首を振った。
「食堂だけです。部屋には上がっていません。それに、帰りは家の馬車を呼びました」
「別に責めておりませんわ。ただ、こちらには王宮に泊まるとおっしゃった日の実態が、ずいぶん優雅だったものですから」
言葉はきついが、セシリアもさすがにマリエルを笑う気にはなれないらしい。
十四日の空白は埋まった。それだけで十分だった。エヴァルトはリディアに視察だと告げ、セシリアには王宮泊まりだと告げ、その日をマリエルのために空けていた。少なくとも三人に、互いの存在を知られないよう別々の説明をしていたことになる。
マリエルはしばらく俯いていたが、やがて意を決したように立ち上がった。
「少しお待ちください」
書斎を出ていき、ほどなく両手に細長い木箱を抱えて戻ってくる。鍵を開けて蓋を持ち上げると、中には大きさの揃った封筒が何十通も収められていた。
「殿下からいただいたお手紙です。最初の一通から、全部あります」
セシリアが目を見開いた。
「全部?」
「手紙を捨てる習慣がありませんので」
「恋文まで?」
「恋文だから、です」
今までの弱々しい様子から一転して、そこだけはきっぱりしていた。
セシリアは一瞬言葉に詰まり、それからリディアの方へ顔を向ける。
「この方、思ったより強いですわね」
「今それを本人の前で評する必要はありません」
三人は大きな机へ移り、マリエルが手紙を日付順に並べ始めた。封筒の右上に小さく受け取った日を書き込んであるらしく、迷いがない。一通ずつ開く必要もなく、春の終わりから現在までの流れがたちまち机の上へ広がった。
リディアとセシリアが記憶から予定を並べたときとは違い、こちらには日付の残った現物がある。
「五月二十七日。これは、殿下が初めてこちらへ本を送ってくださったときです。六月三日、王宮の図書室でお会いしました。六月十一日は……私の家の商会について少しお尋ねになっています」
「お待ちになって」
リディアが止めた。
「内容まで、そこまで覚えていらっしゃるのですか」
「だいたいは。日付と一緒なら、かなり」
マリエルは当然のことのように答えた。
リディアは思わずセシリアと顔を見合わせた。物静かで人前では目立たない令嬢という認識しかなかったが、少なくとも記憶力については自分たちより頼りになりそうだった。
手紙を読み進めると、エヴァルトの文面は、リディアが想像していたものより静かだった。今夜の晩餐会は長くなりそうだ、君なら途中で抜け出して本を読みたくなる気持ちを分かってくれるだろう。先日勧めてもらった紀行文を読んだ。次に会うときには感想を聞いてほしい。王宮では誰かと同じ部屋にいるだけで言葉を求められるが、君とは沈黙まで分け合えるのが嬉しい。華やかな言葉は少ないが、その代わり、マリエルが「自分だけが知るエヴァルト」を信じるには十分すぎるほど、彼女に合わせた言葉が並んでいた。
「……殿下、私にはこんな手紙を一度もくださったことがありませんわ」
セシリアが低く言った。
「羨ましいのですか」
「まさか。今となっては、手間のかけ方に腹が立っているだけです」
リディアにも分かった。
セシリアへなら、同じ内容を送る必要はない。彼女は会ったときの熱量や即興の会話を喜ぶ。マリエルは、後から何度も読み返せる静かな言葉を喜ぶ。その違いまで考えていたのだとすれば、単なる器用さでは片づけられなかった。
やがてマリエルが、一通の手紙を机の中央へ置いた。
「これは、七月の終わりです。私が父から縁談の話をされたと、殿下へ申し上げたあとにいただきました」
文面の一部を指で示す。
春が来れば、私たちの未来について父上と向き合いたい。君の家にも安心してもらえるようにしたい。それまでは急いで答えを出さず、私を信じていてほしい。
リディアは二度読み返した。恋人から受け取れば、意味は一つにしか思えない。父上と向き合い、君の家にも安心してもらい、二人の未来について話す。そう読めば、正式な婚姻を考えているのだと受け取るのが自然だろう。
けれど、書かれている言葉だけを切り離せば、結婚するとも、婚約を申し入れるとも書いていない。
「ほかにも、将来について書かれたものはございますか」
「あります」
マリエルが何通か抜き出した。
来年には今より自由に時間を作れるはずだ。君と過ごす日々を、今だけのものにはしたくない。いずれ父上にも、私が何を大切にしているか分かっていただきたい。
どれも同じだった。期待させるには十分で、言葉の責任だけを問おうとすれば、何を約束したのかと聞き返せる。
リディアは自分がエヴァルトから直接聞いた言葉を思い出した。時期が来れば父上には私から話す。君を一人の女性として選びたい。あれも、正式な婚約を必ず申し込むと言い切っていたわけではない。自分が、その先を当然のように補っていた。
「……最初から、逃げ道を残していたのですね」
口にしてから、胸の奥が冷たくなる。
セシリアも反論しなかった。
「私には手紙などほとんど寄越しませんでしたもの。書いたものを残すのがお嫌いなのかと思っておりましたけれど、そういうわけでもなかったのね」
「お二人へのお言葉が分からないので、同じだとは言えません」
マリエルは手紙を守るように指を置いたまま、それでも縋るように言った。
「殿下が慎重に言葉を選ぶ方なのは、以前から存じています。王族なのですから、軽々しく婚姻を約束できないのも当然ではありませんか」
「その可能性を否定するつもりはありません」
リディアは答えた。
自分にも、まだ否定したくない気持ちがある。逃げ道を作ったのではなく、立場ゆえに断言を避けただけかもしれない。三人と関係を持っていた事実は変わらなくても、その感情まですべて計算だったと決めるには早い。
セシリアも同じなのか、珍しく何も皮肉を言わなかった。
しばらくして、マリエルが声を落とした。
「私は……殿下と、口づけをしています」
机の上に並んだ手紙へ向けられていた二人の視線が、同時に上がった。
マリエルは頬を赤くしたが、目を逸らさなかった。
「もっとも、一度だけです。そのあと殿下が、これ以上は正式に君を迎えてからにしたい、とおっしゃって……それで、私は……」
続きは言わなくても分かった。マリエルは、それを大切にされている証だと思っていたのだろう。リディアの耳には、自分が聞いた言葉が蘇っていた。軽々しく君を扱いたくない。きちんと迎えられる立場になるまでは、この先へ進むべきではない。
隣では、セシリアの顔からも表情が消えていた。
「私は、『君なら望めばどこまでも来てくれると分かっているから、今は私が止めなければならない』でしたわ」
マリエルが息を呑む。
リディアも、自分に言われた言葉を隠す理由はもうなかった。
「私には、軽々しく扱いたくないから、きちんと迎えられる立場になるまでは進むべきではない、と」
三人の間に、重い沈黙が落ちた。一字一句、同じではない。むしろ、同じでないことの方が気味が悪かった。マリエルには静かで確かな未来を待つ男として、セシリアには自分の情熱を理解しながら理性で止める男として、リディアには責任を重んじて彼女の立場を守る男として、同じ行動へ三人がそれぞれ最も信じたい理由を与えていた。
「……私へのお気持ちだけは、本当だったのではないでしょうか」
マリエルの目に涙が浮かんだ。
それでも泣き崩れたりはせず、机の木目を見つめながら続ける。
「お二人にも同じことをしていたのは、もう分かります。ですが、一緒に本を読んでいた時間まで、全部が嘘だったとは思えません。殿下は本当に楽しそうでした。私が勧めた本も、きちんと最後まで読んでくださって……」
「少なくとも、私に向けていた感情まで全部偽物だったとは、私も思いませんわ」
セシリアが静かに言った。
「思いたくない、の間違いかもしれませんけれど」
リディアは否定できなかった。
自分も同じだった。利用するつもりだったからといって、笑ったことまで演技だったとは限らない。贈り物を選ぶとき、口づけをするとき、一度も心が動いていなかったとまでは、まだ思えなかった。
その曖昧さが、怒りよりも苦しかった。すべてが嘘なら捨てられる。けれど、真実が混じっているから、どこから信じてよいのか分からない。
セシリアが椅子の背へ寄りかかり、天井を見上げた。
「それにしても三人とは。殿下、恋人は何人いらっしゃいますの?」
「今のところ、三人です」
リディアが訂正すると、セシリアは顔を戻した。
「今のところ、とおっしゃるのをやめてくださらない? 縁起でもないわ」
「先ほどまで二人だと思っていました」
「その理屈で増やさないでくださいませ」
マリエルが泣きそうな顔のまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その表情を見て、リディアも肩の力がわずかに抜ける。笑える話ではない。それでも、三人で黙り込んでいれば息が詰まるばかりだった。
セシリアも同じだったのだろう。少し考えたあと、急に姿勢を起こした。
「……そういえば、一人、気になる方がいますわ」
「やめてください」
「私だって言いたくありません。ですが、セイン子爵令嬢までこの通りだった以上、思い出したことを黙っている方が愚かでしょう」
今度はマリエルも否定しなかった。
「どなたですか」
「近衛のイレーネ・バルク嬢。男爵家のご令嬢で、近衛隊にいる方です」
名前を聞けば、リディアにも分かった。夜会では制服姿を見かけることの方が多く、令嬢たちの輪に加わる印象はほとんどない。エヴァルトと親しいという噂も聞いたことがなかった。
「なぜ、その方を?」
「二か月ほど前、王宮の西棟から殿下と二人で出てくるところを見ましたの。そのとき尋ねたら、近衛の配置について相談を受けていただけだと。私も、騎士の方との仕事の話だと思って気にしませんでした」
「それだけでは、さすがに」
「ええ。私もそう思いますわ。でも、そのあと殿下が妙なことをおっしゃいましたの。貴族の女性は皆、結局は家や結婚を第一に考えるのだろうか、と。私が、近衛には結婚より剣を選びそうな変わり者もいるでしょうと答えたら、笑っていらした」
リディアは手元の手紙へ視線を落とした。
今までなら、それだけで誰かを疑うなど考えもしなかった。
だが今は、マリエルについても、セシリアが回廊で見かけたというだけの記憶からここまでたどり着いたばかりである。
「確かめましょう」
マリエルが言った。
涙を拭ったあとの目は赤かったが、声は思いのほか落ち着いていた。
「ここまで分かったのに、知らないままにする方が怖いです」
翌日の夕刻、三人は王宮に近いカルヴェイン侯爵家の別邸で、イレーネ・バルクと向かい合っていた。
呼び出す理由を手紙に書くわけにもいかず、リディアは「エヴァルト殿下に関する私的なことで、どうしても確認したいことがある」とだけ記した。来るかどうかも分からなかったが、イレーネは指定した時刻に現れた。
ただし、話を半分ほど聞いたところで椅子から立ち上がった。
「私を笑うために呼び出したのか」
低い声だった。
剣こそ帯びていないが、近衛隊の制服姿で睨まれると、社交界の令嬢同士の言い争いとは迫力が違う。
「そのようなつもりはありません」
リディアは座ったまま答えた。
「私たちも昨日まで、同じように疑われる側でした。あなたが殿下と親しいかどうかさえ、今ここで初めて確かめようとしているのです」
「なら、確かめる必要はない。殿下と私は、あなた方が想像しているような関係では――」
「口づけをなさいました?」
セシリアが途中で尋ねた。
イレーネの言葉が止まった。
その一瞬だけで、答えとしては十分だった。
「ローディス伯爵令嬢」
「回りくどく聞いても同じでしょう。私たちは三人ともしております。そして三人とも、その先へは進んでおりません」
イレーネの目が一人ずつを追った。
「……三人とも?」
「ええ」
今度はマリエルが答えた。
イレーネは立ったまましばらく動かなかったが、やがて乱暴にならない程度の力で椅子を引き、座り直した。
「最初から話せ」
「ですから、先ほどからお話ししております」
「要点が多すぎる。殿下が誰に何を言ったのか、順番に聞きたい」
その求め方はいかにも軍人らしく、リディアはかえって話しやすいと思った。
三人は昨日までに分かったことを、できる限り感情を挟まず説明した。付き合い始めた時期や会っていた頻度、将来について告げられた言葉、互いを警戒させるような話、そして口づけと、その先へ進まなかった理由まで隠さず並べた。
途中から、イレーネの表情は怒りより無表情に近くなっていった。
「私には、ほかの令嬢とは違うと言った」
話し終えたあと、彼女はしばらく黙ってから口を開いた。
「舞踏会で着飾るより剣を振っている方が性に合う私を、変わっていると笑わなかった。むしろ、王子として扱わずに話す私だから好きになったと。近衛では女として見られることを望んでいないのに、殿下の前では無理に強くなくていいとも言われた」
セシリアが、何とも言えない顔で息を吐いた。
「本当に、よく見ていらっしゃること」
「何をだ」
「あなたが何を言われれば嬉しいかを、ですわ。私には、欲しいものへ手を伸ばせるところが魅力だとおっしゃいました。カルヴェイン侯爵令嬢には家ではなく本人を選ぶと。セイン子爵令嬢には、静かな時間を分け合えるのは君だけだと」
「同じではないだろう」
イレーネは即座に言った。
「言葉は違います」
リディアは机の上に置いた紙へ視線を落とした。昨日、マリエルの手紙を整理したあと、三人で作り直した一覧である。
「ですが、意味は驚くほど似ています。私たちは皆、自分が普段どのように見られているかについて、少なからず不満を持っていました。殿下はそこを否定して、そのままの私たちを理解していると伝えてくださった」
「私の場合は、派手で野心的だと言われることを、むしろ長所だと」
「私は、静かすぎて面白みがないと思われることを気にしていました。殿下だけは、何も話さなくていいところが好きだと……」
マリエルの声が少し揺れた。
イレーネは反論しなかった。
代わりに、紙を自分の方へ引き寄せる。
「ほかには何を並べた」
「逢瀬の日、贈り物、殿下から伺った王宮の予定、将来についての言葉、それから今話したことです」
「私にも書けということか」
「嫌なら無理にとは申しません。ただ、ここまで来てご自分だけ殿下を信じて帰るのも自由ですわ」
セシリアの挑発に、イレーネは鋭い視線を向けた。
「そうやって人を煽るのが趣味なのか」
「人によります」
「今はやめてください」
リディアが遮ると、二人とも不満そうに黙った。
結局、イレーネは覚えている範囲で自分の予定を書き始めた。
四人分を並べると、紙はすぐに足りなくなった。
同じ日に二人と会っていた日もあれば、三人すべてに別の予定を告げていた日もある。贈り物も、首飾りばかりではない。リディアには端正な意匠の装飾品、セシリアには華やかな宝石、マリエルには希少な本、イレーネには騎士用の手袋や小さな護符。どれも相手が喜ぶものを選んでいる。
未来の話も同じだった。リディアには家を政治争いへ巻き込みたくないから待ってほしいと告げ、セシリアには王族だからと自分の人生まで他人に決めさせるつもりはないと語り、マリエルには春が来れば二人の未来について父王と向き合うと書いた。イレーネには、騎士である彼女に今すぐ結婚を迫って道を狭めたくないから、自分の立場を整えるまで待つと言っている。
「最後のところだけ聞けば、ずいぶん出来た男ですわね」
セシリアが言うと、イレーネのこめかみが動いた。自分にだけ向けられたと思っていた配慮まで、相手ごとに形を変えた同じ仕組みだったと理解したのだろう。
「喧嘩ならあとでしてください」
リディアは疲れを感じながら紙を見つめた。
四人で比べても、エヴァルトは同じ言葉を使い回していなかった。むしろ逆である。相手の生活も性格も、何を誇りにし、何を弱みだと思っているかも知ったうえで、それぞれに最も自然な形で同じ結論へ導いていた。今は公にできないが、あなたは特別で、いずれ自分が選ぶ。そして、今ここで一線を越えないことさえ、その証である――四人に与えられた言葉は違っても、意味だけをまとめればそういうことだった。
セシリアが、冗談を言うときのような調子を失った声で尋ねた。
「……それで。殿下には、恋人が何人いらっしゃるんでしょうね」
誰も答えなかった。
四人だと断言できる根拠はない。これ以上いないと信じられる材料もない。
しばらくして、イレーネが紙の端を指で叩いた。
「私からも聞きたい。お前たちは、殿下と会って何を話していた」
「何を、と申しますと?」
「恋愛の話だけではないだろう。普通に会っているなら、家のことや仕事の話もする」
問いかけの意図が分からず、リディアは記憶をたどった。
「私は……父や兄から聞いた政務の話をしたことがあります。深い機密ではありません。税制について有力貴族の意見が割れているとか、その程度の」
「私は社交界のお話ですわね。誰と誰が仲違いしたとか、どの家が近頃妙に人付き合いを避けているとか。殿下は王宮にいると、かえってそういう噂に疎いとおっしゃっていましたから」
セシリアが答える。
「私は、家と取引のある商会のことを……」
マリエルは少し考えながら続けた。
「地方の復興のお話もしました。殿下が困っている土地があるとおっしゃったので、父に相談できるかもしれないと。実際に、いくつかの商会が寄付や融資に動いています」
三人の視線が、最後にイレーネへ向いた。
彼女はすぐには答えなかった。
「軍の話を何でも漏らしたわけではない」
「誰もそうは申しておりません」
「分かっている。ただ……兄や同僚の話はした。近衛の誰が異動を望んでいるとか、地方勤務の武官が王都へ戻るかもしれないとか、正式な命令になる前の噂くらいは」
そこでイレーネの表情が変わった。怒りというより、何かを思い出したときの顔だった。
「どうかなさいました?」
「いや……まだ分からない。ただ、王都へ戻るかもしれないと話した武官が、本当に異動してきたあと、殿下と親しくなったのを知っている」
「王族なのですから、武官と親しくなること自体は不思議ではありません」
「そうだ。だから今まで気にしなかった」
イレーネはそう言って、黙り込んだ。
リディアにも、一つの記憶が蘇っていた。
父と兄が話していた、王太子に近い有力貴族同士の政策対立。自分がその話をエヴァルトへした数日後、彼がそのうち一人の貴族と応接室から出てくるところを見た。
あのときは、王太子に近い者からも頼りにされる彼を誇らしいとさえ思った。
偶然かもしれない。王族なら、さまざまな人間と会う。セシリアの噂話も、マリエルの商会も、イレーネの軍人の話も、恋人との会話に出たからといって、それだけで意味があるわけではない。けれど、四人分を同じ机に並べたあとでは、以前とまったく同じようには考えられなかった。
マリエルが、自分の手紙の束へ目を落とした。
昨日までなら恋の記録だったものが、今は別の資料に見えているのかもしれない。
「……殿下は、私たちから一体何を聞いていらしたのでしょう」
誰も、すぐには答えられなかった。机の上には四人の恋の記憶が並んでいる。けれど、その一つ一つの横に、家、社交界、商会、軍という別の言葉が置かれた瞬間、同じ景色はもう、失恋だけの話には見えなくなっていた。




