第2話 殿下の水曜日
夜会から三日後、リディアは王都の中心から少し離れた菓子店の二階にいた。
貴族の女性が内密の相談に使えるよう、階下とは別の入口を備えた小さな客間である。店の者も客の身分について余計な詮索をしないことで知られており、セシリアから届いた短い手紙には、場所と時刻のほかには「先日の件について、お話ししたく存じます」としか書かれていなかった。
リディアにも断る理由はなかった。むしろ、あの夜から今日まで何も確かめられないまま過ごした三日間の方が、よほど苦しかった。
向かいに座るセシリアは、夜会で見たときと変わらず美しく装っていた。ただし胸元に、あの青い首飾りはない。リディアも同じだった。
偶然なのか、互いに同じことを考えたのかは分からない。少なくとも、あれを身につけたまま顔を合わせる気にはなれなかった。
「先に申し上げておきますけれど、私、あなたと仲良くなりたくてお呼びしたわけではありませんの」
挨拶を終えて早々にそう告げられ、リディアはわずかに眉を上げた。
「その点については、どうぞご安心くださいませ。私にもそのつもりはございません」
「よかった。話が早くて助かりますわ」
セシリアは満足したように頷いたが、互いに笑う気にはなれなかった。
昨夜までなら、社交の場で言葉を交わす程度の相手だった。好みも性格も違い、親しくなりたいと思ったこともない。しかし今は、エヴァルトからよく似た首飾りを贈られたという一点だけで、誰よりも話をしなければならない相手になっている。
そしてリディアは、目の前の女性に対して抱いている不快感のすべてが、単なる嫉妬によるものだとも思えなかった。
「それでは、単刀直入に伺います。ローディス伯爵令嬢は、いつから殿下とそのような関係に?」
「半年前より少し後ですわ。最初に二人でお話ししたのは春の終わりでしたけれど、殿下からお気持ちを告げられたのは夏に入る少し前。あなたは?」
「親しくお話しするようになった時期は同じ頃です。気持ちを確かめ合ったのは、それより少し早かったと思います」
それだけなら、まだ決定的なことは何も分からない。同じ時期に二人の女性と親しくなり、どちらにも好意を抱いた末、一方を選べないまま曖昧な関係を続けてしまった――そういう話なら、褒められたものではなくとも理解はできる。
リディアは自分でも驚くほど、その可能性に縋りたがっていた。
「殿下は、私との将来について父王陛下へご自分から願い出るとおっしゃっています。ただ、今すぐ婚約すれば、第二王子である殿下がカルヴェイン侯爵家を後ろ盾につけたように見られかねない。そのため、王宮の状況が落ち着くまで待ってほしいと」
セシリアが、あからさまに怪訝な顔をした。
「……本当に、そうおっしゃったの?」
「ええ」
「なるほど。ずいぶんあなたらしいお話ですこと」
「どういう意味でしょう」
声が冷たくなったのを自覚したが、セシリアは気にする様子もなく、椅子の背へ身を預けた。
「殿下から、あなたのお名前を直接伺ったことはありません。ただ、以前こういうお話を聞きましたの。王室との縁を家のために望んでいる、とても生真面目な令嬢がいる。悪い女性ではないけれど、王族との婚姻が家にもたらすものをよく理解しているからこそ、本人の気持ちと家の期待を区別できているか心配なのだ、と」
何かが胸の底へ落ちた。
はっきりと名指しされたわけではない。カルヴェイン侯爵家とも言われていない。それでも、今となっては誰を指していたのか疑う余地がなかった。
「……それを聞いて、私だと思われたのですか」
「夜会までは、特定の誰かを思い浮かべていたわけではありませんわ。けれど、あなたが殿下から首飾りを贈られたと聞いて、すぐにあのお話を思い出しました」
「ずいぶんなお話ですわね」
「あら。私が作った話ではございませんわ」
「分かっています」
分かっているからこそ腹が立つ。
エヴァルトはリディアに対して、家柄ゆえに望むのではなく、一人の女性として選びたいと言った。その一方でセシリアには、リディアらしき女性を、家と王室の結びつきを求める令嬢として語っていたのだ。
そう考えているうちに、別の記憶が浮かんだ。
「私も、殿下から似たようなお話を聞いたことがあります」
今度はセシリアの目が細くなる。
「聞かせていただける?」
「社交界には、王族との噂さえ自分の価値へ変えられる女性がいる、と。人の注目を集めることにも、自分の望むものを手に入れることにもためらいがなく、それは一つの才能ではあるけれど、近づく相手は誤解しないよう気をつけなければならない、とおっしゃっていました」
言い終えたころには、セシリアの口元から笑みが消えていた。
「それ、私ですわね」
「私も今は、そう思います」
「殿下ったら、私にはまったく逆のことをおっしゃいましたのよ。野心を恥じる必要はない、欲しいものに手を伸ばせるところが私の魅力だと。王宮では本心を隠す人間ばかりだから、私といると息ができる、とまで」
最後の言葉だけ、セシリアの声にわずかな迷いが混じった。
リディアは黙って茶器へ視線を落とした。
どちらも完全な嘘ではないのだろう。セシリアが人目を引く女性なのは事実であり、自分が家の立場を考えずに生きられないことも事実である。
だからこそ性質が悪かった。
根も葉もない悪口を吹き込まれていたのなら、もっと簡単に怒れたはずだ。けれどエヴァルトは、相手が聞けば納得しそうな事実だけを選び、その意味をほんの少し変えていた。
「それで、ローディス伯爵令嬢には将来について何と?」
「父君へ願い出る、などという堅苦しい言い方ではありませんでしたわ」
そこだけは勝ったとでも言いたげに、セシリアが顎を上げた。
「殿下は、ご自分の結婚を王家や周囲の都合だけで決めるつもりはないとおっしゃいました。王子だからといって、自分の人生まで他人に差し出す気はない。誰かを選ぶなら、ご自分の意志で選びたい、と」
「それが、あなたであると?」
「そう受け取る以外に、どう受け取れとおっしゃるの? そのあとで『君なら、私と一緒に王宮の退屈な決まりを笑い飛ばしてくれそうだ』とまで言われましたのよ」
得意げに語ったはずのセシリア自身が、途中から不愉快そうな顔になった。
リディアにも、その理由は分かる。
言葉は違う。
自分には、責任と慎重さを語った。セシリアには、自分の意志と自由を語った。
しかし結論だけを抜き出せば、どちらも同じだった。
今すぐ公にはできない。だが、いずれ自分が選ぶ。
そして選ばれるのは、あなただ。
「使い回していた、というわけでもなさそうですわね」
リディアが口にすると、セシリアはしばらく黙ってから渋々頷いた。
「むしろ、同じ台詞だった方が腹は立っても気味は悪くなかったでしょうね」
その言葉に、リディアも同意せざるを得なかった。
単に二人の女性へ同じ甘言を囁いていただけなら、軽薄な男だったと切り捨てれば済む。しかしエヴァルトは、二人がそれぞれ何を望み、どんな言葉なら信じるのかを理解したうえで、別々の未来を語っていたように見える。
それでも、まだ確かめなければならないことがあった。
「お会いしていたのは、どのくらいの頻度でしたの?」
「毎週というわけではありませんわ。舞踏会や晩餐会でお会いするほかに、月に二、三度ほど二人で食事を。殿下がお忙しい月には一度ということもありましたけれど」
「曜日は決まっていましたか?」
「水曜が多かったと思います。なぜ?」
リディアは答えられなかった。
水曜日。
その曜日には聞き覚えがあるどころではない。
「殿下は、水曜日には王太子殿下との定例会議があるので、お会いする約束はできないとおっしゃっていました」
「定例会議なら、本当にありますわよ」
「存じています。だから疑ったこともありませんでした」
「私も存じていますわ。会議のあとにお会いしていたのですもの」
あまりにも当然のように返され、リディアは一瞬、言葉を失った。
「会議のあと?」
「ええ。夕刻までには終わることが多いので、そのあとで。王宮の外へ出られない日には、庭園に近い小食堂でご一緒したこともあります」
嘘ではなかった。
水曜日に王太子との定例会議があることは事実である。エヴァルトも、水曜には会議があるから会えない、としか言っていない。
いつまで会議をしているとは、一度も聞いたことがなかった。
リディアが勝手に、その日は公務で塞がっているものと思い込んだだけだ。
だが、その思い込みをエヴァルトが意図していなかったと考えるには、今の状況は出来すぎている。
「少々、お待ちになって」
セシリアは卓上に置かれていた店の注文票を引き寄せると、裏返して鞄から筆記具を取り出した。
「何をなさるのです?」
「予定を並べますのよ。いつ誰と会っていたか分からなければ、考えていても仕方ありませんでしょう」
「店の注文票に?」
「ではカルヴェイン侯爵令嬢は、今からご自宅へ戻って上質な紙を用意し、改めて私に使いを寄越してくださる?」
「いいえ。続けましょう」
先ほども聞いた言葉に少々腹が立ったものの、今は言い返している場合ではない。
二人は記憶をたどりながら、ここ二か月ほどの予定を書き出していった。
リディアがエヴァルトと会うのは、王宮を訪れる用事のある日の午後が多かった。互いに都合が合わなければ無理に時間を作らず、二週間近く会えないこともある。それをリディアは、王族との交際なのだから当然だと思っていた。
一方、セシリアとの時間は夜に寄せられていることが多かった。晩餐会のあと。水曜の会議のあと。あるいは、社交上の集まりへ出席したついでに短く二人で会う。
同じ日の昼にリディアと茶を飲み、その夜にはセシリアと食事をしていた日さえあった。
「……この日、殿下は私に、午後から王太子殿下のところへ行かれると」
「行かれたのでしょうね。私と会ったのは夜ですもの」
「こちらの日は?」
「午前中は軍務関係の視察だったはずですわ。夕方から私と」
「私には、その視察が長引くかもしれないので一日空けてほしいとおっしゃっていました」
予定を書き足すほど、露骨な二重予約が出てくるわけではなかった。
むしろ逆だった。
エヴァルトは公務をきちんと果たしている。そのうえで移動時間も考え、二人が鉢合わせしそうな場所を避け、無理なく別々の時間を作っていた。
リディアの前で見せていた慎重さが、そのまま別の意味に変わっていく。
「……この方、いつ休んでいらしたの?」
紙を見つめていたセシリアが、思わずといった様子で呟いた。
「感心するところではありませんわ」
「呆れているのです。こんなことに、なぜこれほど計画性を発揮なさるのかしら」
「私に聞かれても困ります」
そう答えたものの、リディアにも同じ気持ちはあった。
怒りより先に、理解しがたいものを見せられている気分だった。
思いつきで二人に手を出し、嘘を重ねた結果収拾がつかなくなったのではない。少なくとも、この二か月を見る限り、エヴァルトは二人との関係を無理なく両立させている。
しかも、互いを警戒する材料まで、それぞれへ事前に与えていた。
リディアが紙から顔を上げると、セシリアも同時にこちらを見た。
「一つ、聞いてもよろしくて?」
「内容によります」
「殿下とは、どこまで?」
予想していなかった問いではない。
それでも、即座に答えることはできなかった。
「それを確かめる必要がありますか」
「ありますわ。少なくとも私には」
セシリアの顔から、いつもの華やかな余裕が消えていた。
リディアはしばらく迷った末、ここで隠しても意味がないと判断した。
「口づけは、しています」
セシリアの表情が止まった。
「……そう」
「あなたも、ですか」
「ええ」
答えた声は、先ほどまでより明らかに低かった。
リディアは胸元にない青い石を、無意識に探しかけた手を膝へ戻した。
口づけの記憶は、首飾りよりも他人と比べられたくないものだった。
頬へ触れる手の温度も、長くなりすぎる前に自分から身を引いた彼の表情も、それから告げられた言葉も、二人だけのものだと思っていた。
「私はてっきり……」
セシリアが言いかけ、そこで口を閉じた。
「何です?」
「いいえ。殿下は私には、ずいぶん情熱的でしたから」
今度こそ勝ち誇るつもりだったのだろう。しかし最後まで勢いが続かなかった。
「それ以上の関係ではない、と?」
リディアが尋ねると、セシリアは不機嫌そうに頷いた。
「殿下が止めましたの。私が嫌がったわけではございません」
「そこまで伺っておりません」
「その顔は疑っていらしたでしょう」
「何も申し上げておりませんわ」
二人とも少し黙った。
これまでなら決して口にしなかったようなことを、よりにもよって最も話したくない相手へ打ち明けている。
その事実そのものが腹立たしかった。
「殿下は何とおっしゃって、止められたのですか」
リディアが尋ねると、セシリアは今度こそ露骨に嫌そうな顔をした。
「あなたも話してくださいませ」
逃げ道を塞いだのは自分なのだから、拒めない。
セシリアはしばらく迷ってから、諦めたように息を吐いた。
「私には、『君なら望めばどこまでも来てくれると分かっているから、今は私が止めなければならない』と。私を一時の楽しみにしたくない、きちんと自分で選べるようになってから、その先へ進みたいとおっしゃいました」
リディアは目を閉じたくなった。
言葉は違う。
やはり、一字一句同じではない。
「あなたは?」
「軽々しく私を扱いたくない。きちんと迎えられる立場になるまでは、この先へ進むべきではない、と」
「……そう」
セシリアは短く答え、それ以上何も言わなかった。
二人とも、それを自分だけが大切にされている証だと思っていた。
リディアには、自分の将来を守ろうとする節度として。
セシリアには、情熱に流されず最後には自分を選ぶ意志として。
同じ行動に、相手が最も信じたくなる理由をそれぞれ与えていた。
「最低ですわ」
しばらくして、セシリアが呟いた。
リディアはすぐに同意できなかった。
最低だと決めてしまえば楽なのに、半年かけて積み重ねてきた記憶は、三日の疑念だけで消えてくれない。
「まだ、分かりません」
「何が?」
「殿下が私たち二人に対して不誠実だったことは、もう否定できないと思います。ただ……すべてが嘘だったのかは、まだ分かりません」
セシリアは意外にも笑わなかった。
「私も、それは思っていますわ」
その答えに安堵した自分を、リディアは情けなく思った。
二人とも、まだ捨て切れていないのだ。
もしかすると、迷っていただけかもしれない。
自分への気持ちは本物で、もう一人との関係を終わらせる時期を見失っていただけかもしれない。
そんな都合の良い可能性を、完全には手放せない。
「少なくとも、三人目などという馬鹿げた話でなければ結構ですけれど」
セシリアが吐き捨てるように言った。
「さすがに、それは……」
否定しかけたリディアの視線が、卓上の予定表へ落ちた。
セシリアも同じところを見ていた。
書き込まれた日付のうち、まだ互いの予定が埋まっていない日がいくつもある。
だからといって、それ自体に意味があるわけではない。王族であるエヴァルトには公務も私生活もあり、空いた時間のすべてを恋人と過ごすはずもない。
それでも、先ほどまでなら気にも留めなかった空白が、今は妙に目についた。
セシリアが紙を指先でなぞり、ある日付で止める。
「先月の十四日。木曜日ですわ」
「それが何か?」
「本当なら、この日は殿下と夕食をご一緒する予定でしたの。でも二日前に取りやめになりました。翌朝早くから陛下に随行する可能性があるので、その晩は王宮に泊まるとおっしゃって」
リディアはすぐにその日を思い出した。
忘れるはずがない。
父が領地へ出ており、兄も夕方まで戻らない予定だったため、珍しく自分からエヴァルトへ会えないかと尋ねた日である。
「……殿下は、その日は王都にいらっしゃらなかったはずです」
セシリアが顔を上げた。
「どういうこと?」
「西の王領を視察するため、朝から王都を離れると伺いました。戻りは翌日の夕方になると」
「私は、王宮に泊まると聞きましたわ」
「ええ」
今までとは違った。
水曜の会議とは違う。
会議のあとに誰と会おうと、言葉の上では嘘ではなかった。けれど王宮に泊まっていた人間が、同時に王都の外へ視察へ出ることはできない。
どちらかには、明確な嘘をついている。
あるいは、どちらににも。
部屋が静かになり、階下からかすかに食器の触れ合う音が届き、窓の外を馬車が通り過ぎていく。
セシリアは予定表を見つめたまま、先ほどまでとはまるで違う表情をしていた。
「ローディス伯爵令嬢?」
「少し……、待ってくださいませ」
何かを思い出そうとしている。
リディアは急かさず、その顔を見ていた。
「先月の十四日……その二日ほど前、殿下と王宮でお会いしたときに、セイン子爵家の話が出ましたの」
「セイン子爵家?」
「ええ。地方の復興事業に、あのお家とつながりのある商会が関わっているとかで。殿下は、少し相談を受けているだけだとおっしゃっていました」
それだけなら何もおかしくない。
そう言おうとしたリディアより先に、セシリアが続けた。
「そのあと、回廊でマリエル・セイン嬢をお見かけしましたの。殿下がいらしたのと同じ方角から来たので、何となく覚えていました。でも彼女、社交界では本当に目立ちませんし、殿下からも商会の件だと聞いていましたから、気にも留めなかった」
マリエル・セイン。
リディアにも顔と名前くらいは分かる。
物静かな子爵令嬢で、舞踏会でも積極的に輪の中心へ入るような女性ではない。書物を好み、夜会より昼間の茶会で見かけることの方が多かったはずだ。
セシリアがそんな彼女を恋敵として意識したことがなかったのも、無理はない。
「それだけで、疑うのは早計ですわ」
「分かっています。ただ、もう一つ思い出しましたの。少し前に殿下が、あの方について妙なことを聞いてきましたわ。セイン子爵令嬢は、本当にあれほど静かな人なのか、と」
「なぜそのようなことを?」
「知りませんわよ。そのときは私も、殿下には退屈すぎる相手でしょうと笑っただけですもの」
「殿下は何と?」
セシリアは答えるまでに少し間を置いた。
「『そうとは限らない。騒がしい場所で何も言わず隣にいてくれる人間が、ありがたいこともある』と」
リディアは何も言えなかった。
今の自分たちでなければ、目の前の予定表がなければ、何でもない言葉である。
リディアを家のために王室との縁を求める女性として語り、セシリアを噂さえ価値に変える女性として語っていた事実を知らなければ、気にも留めなかっただろう。
セシリアは筆記具を置くと、ゆっくり背もたれへ身を預けた。
怒っているというより、自分がたどり着いた考えを認めたくないように見えた。
「マリエル・セイン嬢に、会わなければなりません」
今度はリディアも、早計だとは言わなかった。
卓上には、二人分の予定だけで作ったはずなのに、すでにいくつもの空白を残した紙が広がっていた。




