第1話 君だけに贈るもの
「君との婚約を、今すぐ父上に願い出るつもりはない」
エヴァルトの口からそう告げられたとき、リディアは膝の上で重ねていた指先に、ほんのわずか力を込めた。
王宮の一角にある小さな客間には、午後の柔らかな日差しが差し込んでいた。人目を避ける必要のある二人が会うために、エヴァルトが時折使う部屋である。侍女も従者も隣室に控えており、正式な婚約者でもない侯爵令嬢を自室へ招くようなことを彼はしない。そうした節度もまた、リディアが彼を信頼してきた理由の一つだった。
「そう、ですか」
どうにか返した声が思いのほか平静だったことに、少しだけ安堵する。婚約を急かすつもりなどなかったし、今日ここへ来たときにも、自分からその話を持ち出そうとは思っていなかった。
きっかけになったのは、兄の婚姻について父と話していた折、自然とリディアの将来にも話が及んだことだった。カルヴェイン侯爵家の娘が二十一になってなお具体的な縁談を進めていない以上、父としてもいつまでも放ってはおけない。思う相手がいるなら考慮するが、そうでなければそろそろ候補を絞る、と告げられたため、今日エヴァルトにそのことを話しただけなのだ。
「誤解しないでほしい。君との将来を考えていないという意味ではないんだ。兄上の婚姻については今もいくつかの話が動いているし、父上は王家と有力家との結びつきが一方へ偏ることを警戒しておられる。そんな時期に私がカルヴェイン侯爵家の令嬢と婚約すれば、どう見られるかは君にも分かるだろう?」
向かいに座るエヴァルトは、リディアを困らせてしまったことを悔いるように眉を寄せていた。
二十四歳の第二王子は、王族らしい整った顔立ちに加え、人の話をよく聞く男だった。華やかな場でも必要以上に声を張らず、自分が口を開く前には一度言葉を選ぶ。半年ほど前、まだ今のような関係になる以前から、リディアはそうしたところを好ましく思っていた。
「第二王子殿下が有力侯爵家を後ろ盾につけ、王太子殿下に対抗しようとしている、と見る者が出るということですね」
「ああ。兄上と争うつもりなどなくとも、人は勝手に争いを作る。ましてカルヴェイン侯爵家は、父上からも兄上からも信頼されている家だ。私との婚約が決まれば、君の父上や兄上まで『第二王子派』などと呼ばれかねない。そんな形で君の家を王位継承の憶測へ巻き込みたくないんだ」
王太子はすでに成人し、公務においても大きな失敗はない。エヴァルトが兄を押しのけて王位を望んでいるなどという話も、少なくともリディアは聞いたことがなかった。
とはいえ、王位継承は当人たちの仲が良ければ済む話でもない。有力貴族同士の利害があり、王家との婚姻を望む家があり、誰が次代の王に近いかを見定めようとする者もいる。政治や領地経営について一通り学んできたリディアにも、彼の懸念はよく理解できた。
「申し訳ありません。殿下のお立場は理解していたつもりでしたのに、父から将来の話をされて、少し焦ってしまったのかもしれません」
「どうして君が謝るんだ。待たせているのは私なのだから、不安になるのは当然だろう。時期が来れば父上には私から話す。君や侯爵から願い出てもらうつもりもないよ」
そう言って、エヴァルトは席を立った。卓を回ってリディアのそばへ来ると、差し出した手に彼女の手を重ねる。
「私は王族として君を選びたいわけではない。一人の男として君を選びたいんだ。そのために、今は少しだけ時間が必要だ。曖昧な形で君や君の家を巻き込むことだけはしたくない」
侯爵令嬢としてではなく、自分自身を選ぶ。
家柄ゆえに望まれる縁談には慣れていたリディアにとって、その言葉は何度聞いても嬉しかった。エヴァルトはただ待てと言うのではなく、王宮の事情も、自分が何を懸念しているのかも説明したうえで、その先に必ずリディアとの将来を置いてくれる。
「分かりました。お待ちします。けれど、あまり長くお待たせになると、父が先に私の嫁ぎ先を決めてしまうかもしれませんわ」
少しくらいは困らせても許されるだろうと思って口にすると、エヴァルトは意外そうに目を見開き、それから笑った。
「それは困るな。君を連れていこうとする男が現れたら、私は王族の権力を使いたくなるかもしれない」
「先ほどまでのお話がすべて台無しですわ」
「だから使わずに済むうちに、何とかしよう」
冗談めかした返事にリディアも笑い、胸に残っていた不安がほどけていった。
そんな彼女を見て安心したのか、エヴァルトは窓辺の小卓へ目を向け、そこに置いてあった細長い箱を手に取った。
「そうだ。今日は君に渡したいものがあった。開けてみてくれるか?」
促されるまま蓋を持ち上げたリディアは、中に収められた首飾りを見て息を呑んだ。
中心を飾る青い石は、深い色を湛えながら、光を受けるとわずかに紫を帯びる。大ぶりすぎず、それでいて夜会で身につければ十分に目を引くだろう。周囲の装飾も上品で、華美なものをあまり好まないリディアの趣味によく合っていた。
「綺麗……。けれど、どうしてこの色を?」
「君の瞳を思って選ばせた。石だけではなく、君ならこのくらいのものが一番似合うだろうと、意匠もかなり直させたんだ」
「私の目は、こんなに美しい色ではありませんわ」
「それを決めるのは、贈る側の特権にしておいてくれ」
エヴァルトが首飾りを取り上げたので、リディアは背を向けて髪を片側へ寄せた。彼の指が首筋の近くを通り、冷たい宝石が胸元へ落ち着く。
鏡へ向き直ってみれば、青い石は淡い色のドレスによく映えていた。自分で選ぶならもう少し控えめなものにしただろうが、不思議なほどよく馴染んでいる。
「同じものは二つとない。君だけのために選んだものだから、大切にしてくれたら嬉しい」
「もちろんです。ありがとうございます、エヴァルト様」
二人きりのときだけ許されている名を呼ぶと、エヴァルトの表情が柔らかくなった。
頬へ触れられて目を閉じる。重なった唇はいつものように穏やかで、半年のあいだに何度か交わしてきた口づけと同じく、彼は決して性急にそれ以上を求めようとはしなかった。
今日も長くなりかけたところで先に身を引き、名残惜しげにリディアの頬を撫でる。
「これ以上はやめておこう。そんな顔をされると、止める私の方が困る」
「……からかわないでくださいませ」
「からかってはいない。だからこそ止めているんだ。軽々しく君を扱いたくないし、きちんと迎えられる立場になるまでは、この先へ進むべきではないと思っている」
望まれていないから触れられないのではない。望みながらも、自分の将来を守るために彼が自制してくれているのだと、リディアは思っていた。
いつか正式に婚約が決まり、誰にも隠さず彼の隣に立てる日が来る。その日まで待つことなど、少しも苦ではなかった。
再び向かい合って茶を飲み始めるころには、婚約の話を切り出したときの緊張も消えていた。話題は自然と互いの近況へ移り、王宮で議論されている税制の見直しにも及んだ。
「税制の見直しについては、まだ議論が続いているのか? こちらでも何度か話を聞くが、ずいぶん意見が割れているらしい」
「詳しいことは私も存じません。ただ、父と兄の話では、王太子殿下に近いお二方が珍しく意見を違えていらっしゃるとか。一方は領地への負担を抑えるべきだと主張され、もう一方は今のうちに財源を確保すべきだと。父は、内容そのものより対立が長引くことを気にしておりました」
「どちらも兄上を長く支えている方だからな。政策上の意見の違いだけで済めばいいが、周囲が派閥の争いへ仕立てると厄介だ」
「父も似たようなことを申していました。もっとも、私が聞いたのはその程度です。兄が途中から、娘のいるところでする話ではないと父を止めてしまいましたので」
エヴァルトは笑って、君の兄上らしい、と言った。
「私などに聞かれたところで、何ができるわけでもありませんのに」
「そうとも限らないよ。君は人の話をよく覚えているし、物事を整理して考えるのも上手い。私も君と話しているうちに、見落としていたことへ気づく場合がある」
「買いかぶりすぎですわ」
「では、そういうことにしておこう」
エヴァルトはそれ以上、税制について詳しく尋ねようとはしなかった。どちらの貴族が何を主張しているのか確かめることもなく、ほどなく話題は次の舞踏会へ移ったため、リディアもこの日の会話を特別なものとして記憶することはなかった。
数日後、父とともに王宮を訪れたリディアは、回廊を歩いている途中で、庭園に面した小さな応接室からエヴァルトが出てくるところに行き合わせた。
隣にいた人物には見覚えがある。先日父と兄が話していた二人のうち、税制改正に慎重な立場を取っている有力貴族だった。
二人は何か話しながらしばらく歩いていたが、やがて相手の貴族が礼を述べて別の回廊へ去った。そこで初めてリディアに気づいたエヴァルトが、いつものように微笑む。
「今日は侯爵と一緒だったのか」
「ええ。父に用事がございましたので。先ほどの方とは、お仕事のお話ですか?」
「ああ。たまたま相談を受けてね。兄上に近い方だから、本来なら私が口を挟むような話でもないのだが、立場が違えば話しやすいこともあるらしい。政治など、案外そんなものだよ」
王族である彼が有力貴族と会っていたからといって、何も不思議ではない。まして王太子と第二王子が敵対しているわけでもないのだから、兄を支える貴族から相談を受けることくらいはあるだろう。
リディアはむしろ、王太子に近い者からも頼りにされるエヴァルトを誇らしく思い、その出来事について深く考えることはなかった。
王宮で舞踏会が開かれたのは、それから十日ほど後のことだった。
大広間には無数の灯りが輝き、楽団の奏でる曲と人々の話し声が高い天井の下で混じり合っている。リディアは支度の際にしばらく迷った末、エヴァルトから贈られた青い首飾りを身につけてきた。
本来なら、出所を問われれば少し答えに困る品だった。正式な婚約発表もないまま、王族が未婚の令嬢へ個人的に高価な装飾品を贈ったと知られれば、それだけで噂になりかねない。
それでも、今はまだ誰にも明かせない彼とのつながりを、自分だけには分かる形で身につけていたかった。
知人から首飾りを褒められるたび、リディアは笑って礼を述べ、誰から贈られたものかについては触れなかった。大広間の向こうには何人もの貴族に囲まれたエヴァルトの姿があり、今夜はまともに話すことさえ難しいだろう。
それでも彼は一度だけこちらへ視線を向け、胸元の青い石に気づいたらしく、わずかに目を細めた。
リディアも小さく微笑み、近くの夫人との会話へ戻った。
やがて曲が変わり、人の流れが大きく動いた。知人への挨拶を済ませて広間の端へ寄ったところで、リディアは前方に立つ一人の令嬢へ目を留めた。
セシリア・ローディス伯爵令嬢。
直接親しく話したことはないものの、社交界に出る者なら知らないはずのない女性だった。鮮やかな色のドレスを難なく着こなし、多くの人に囲まれていても埋もれない華やかな美貌を持つ。控えめな色と装いを好むリディアとは、何もかも違う種類の女性だった。
けれど、そのとき目を引いたのはセシリア本人ではなく、彼女の首元で揺れた青い宝石だった。
深い青の中に、光の角度によって紫が浮かんでいる。
リディアは無意識に自分の胸元へ指を添えた。首飾りそのものは違っている。セシリアのものはより華やかな意匠で、装飾も多い。それでも中央に据えられた石の色と輝きは、胸元にあるものとひどくよく似ていた。
――君の瞳を思って選ばせた。
エヴァルトの言葉が脳裏によみがえったが、すぐに気にするほどのことではないと思い直した。同じ首飾りではないのだから、「同じものは二つとない」という言葉に嘘があるわけでもない。青い宝石が似ているだけなら、偶然はいくらでもある。
そう考えたところで、セシリアがこちらを見た。
彼女の視線がリディアの顔から胸元へ下り、青い石を認めた瞬間、浮かべていた笑みがわずかに消える。
その変化を見たことで、ただの偶然なら忘れてしまえたはずの違和感が、急に別の意味を持った。
セシリアは近くにいた令嬢へ何か告げると、人の間を抜けてまっすぐこちらへ歩いてきた。
「カルヴェイン侯爵令嬢。少しよろしくて?」
「ええ、もちろんです。ローディス伯爵令嬢」
型通りの挨拶を交わしながらも、互いの視線が相手の首元を確かめていることは隠しようがなかった。
「とても素敵な首飾りですのね。先ほどから気になっておりましたの」
「ありがとうございます。ローディス伯爵令嬢のものも、とてもよくお似合いですわ」
「そうでしょう? 私もたいそう気に入っておりますの」
そのまま互いに笑って別れれば、何でもない会話として終わらせることもできたはずだった。
しかしセシリアは去らず、周囲には聞こえにくい声で尋ねた。
「失礼ですけれど、その首飾りは、どなたから贈られたものですの?」
本来なら答えるべきではない。正式な婚約発表もないのに、第二王子から個人的な贈り物を受け取ったなどと、社交の場で口にするべきではなかった。
それでも、目の前で揺れる青い石とセシリアの表情が、何も知らないふりをして終わらせることを許してくれなかった。
「……エヴァルト殿下です」
その名を聞いた瞬間、セシリアの笑みが消えた。
それを見ただけで、リディアは尋ね返すより先に答えを悟った。それでも違っていてほしくて、彼女の首元へ視線を落としたまま問いかける。
「ローディス伯爵令嬢。その首飾りは、まさか――」
「奇遇ですわね」
セシリアは青い宝石へ指を添えた。
「私も、エヴァルト殿下からいただきましたの」




