第8話 「夜廊」——夜の回廊は、昼と違う
後宮は、昼と夜で別の顔を持つ。
人の気配が消えたとき、
廊はようやく“本当の姿”を見せる。
憶華は今夜、
初めてその“夜の後宮”に足を踏み入れる。
夜の仕事が増えた。
灯替えの当番が回ってきたせいだった。夕方だけでなく、深夜の見回りも担当することになった。灯籠の油が切れていないか、芯が燃え尽きていないか、一人で廊を歩いて確かめる。
最初の夜、廊に出て、私は少し驚いた。
同じ廊なのに、昼とは別の場所のようだった。
* * *
昼の廊には、音がある。
足音、衣擦れ、遠くから聞こえる誰かの声、水を運ぶ桶の音、箒が石畳を掃く音。後宮はいつも、どこかで誰かが動いていて、その動きが音になって廊を満たしている。
しかし夜は、何もなかった。
灯籠の火だけが、静かに揺れていた。風もないのに、少しずつ揺れていた。その揺れが作る影が、石畳の上で伸び縮みしていた。私の影も、灯籠の下を通るたびに、大きくなったり小さくなったりした。
自分の影が、自分のものではないように見えた。
おかしな感覚だった。昼には気にしたことのない感覚。夜だけが、そういう気持ちにさせる。
* * *
泠廊を通ったのは、深夜の見回りの中ほどだった。
昼に通るときと、同じ道順だった。でも夜の泠廊は——昼の泠廊とは、明らかに違った。
冷えていた。
他の廊より、明らかに冷えていた。年上の下女が「泠廊は朝が冷える」と言っていたのを思い出した。でも朝よりも、夜の方がずっと冷えていた。息が、白くなりそうなほど。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
そしてすぐに——足音が、二つになった。
昼に聞こえるそれとは、少し違った。昼は微かだった。聞き間違えかもしれないと思えるほど、微かだった。でも夜は、はっきりしていた。私の足音に、もう一つの足音が、ぴたりと重なっていた。
止まった。
足音も止まった。
私は動かなかった。呼吸を止めた。灯籠の炎だけが、ゆっくりと揺れていた。
何かが、この廊にいる。
人ではないかもしれない。でも、何かが確かにいる。私はそう感じた。感じた、というより——知った、という方が近かった。この廊は何かを覚えている。誰かが何度も歩いた記憶を、石畳が覚えている。その記憶が、夜になると表に出てくる。
泠蘭、という名前が、頭の中に浮かんだ。
なぜその名前が浮かんだのか、わからなかった。ただ、浮かんだ。水のように、静かに。
* * *
しばらくして、また歩き始めた。
足音は、しばらく二つのまま続いた。泠廊を抜けると、元に戻った。一つになった。振り返ると、泠廊の入口が暗く口を開けていた。中は見えなかった。灯籠の光が届かない、深い暗さだった。
見ていてはいけない気がして、顔を前に向けた。
残りの見回りを続けた。手が、少し震えていた。
* * *
見回りを終えて戻る途中、廊の角で誰かとすれ違った。
武官だった。夜の巡回をしている廷烽だった。
闇の中でも、わかった。背が高く、表情がなく、目だけが真っ直ぐ前を見ている。すれ違いざまに、廷烽が私を見た。私も、少しだけ顔を上げた。
廷烽は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
ただ、すれ違った。
それだけだった。でも——廷烽の目が、昼に見たのと同じ目だったことが、少し安心だった。夜でも、昼でも、同じ目で見てくる。何かを探すような目ではなく、ただ見る目。
その安心が、自分でも少し意外だった。
* *
部屋に戻って、床に座った。
眠れなかった。泠廊で感じたことが、まだ身体の中にあった。冷えた空気、二つの足音、浮かんだ名前。
夜の廊は、昼より正直だと思った。
昼は人が動いていて、音があって、仕事があって、気を張っていられる。でも夜は、剥き出しになる。廊も、自分も。昼には隠れているものが、夜には表に出てくる。
泠廊が冷えるのも、足音が重なるのも、夜の方がはっきりしているのは——そういうことかもしれない。
この後宮は、夜の方が、本当のことを見せる。
茶器を手の中で握った。いつもより、冷たかった。
泠蘭という名前が、また、静かに浮かんだ。
水のような、蘭の名前。
この廊を——その人も歩いたのだろうか。
夜の廊は、昼よりも正直だ。
人の声が消えると、
空間が覚えているものだけが残る。
泠廊の冷たさも、
二つの足音も、
浮かんだ名前も——
すべてが“後宮の記憶”として、
憶華の前に姿を現し始めた。
それが何を意味するのか、
憶華はまだ知らない。
けれど、夜の後宮は確かに
彼女をどこかへ導こうとしている。




