第9話 「足止め」——あの宦官は、なぜ振り返ったのか
後宮では、理由のない行動は存在しない。
誰かが立ち止まるとき、
誰かが振り返るとき、
誰かが言葉を選ぶとき——
そこには必ず“流れ”がある。
憶華は今日、
初めてその“理由の影”に触れる。
あの宦官と、また会った。
泠廊だった。朝の水運びの帰り道。空の桶を持って歩いていると、向こうから同じ細い影が来た。第一話で見た宦官——年かさの、感情を読ませない目をした男。
私はすぐにわかった。
あの日、三歩歩いて止まった人だ。振り返ったかもしれない人だ。私が背中で息を詰めていた間に、また歩き始めた人だ。
今日は、どうしようか。
一瞬だけ、迷った。
* * *
普通にすれ違えばよかった。
頭を下げて、目を伏せて、通り過ぎればよかった。それがここの作法だとわかっていた。第六話で学んだことだった。見なくていいものは見ない、聞かなくていいことは聞かない。
でも足が、少し遅くなった。
宦官が近づいてくる。私は桶を持ったまま端に寄って、頭を下げた。宦官が通り過ぎる。また三歩——ではなく、今日は二歩で、止まった。
私は頭を下げたまま、動かなかった。
宦官が振り返った。気配でわかった。
しばらく、沈黙があった。
それから宦官が言った。
「髪の、結い方」
低い声だった。感情のない声だった。
「はい」と私は言った。顔を上げた。
「変えた方がいい」
それだけ言って、宦官はまた歩いていった。今度は止まらなかった。足音が廊の向こうに消えていった。
私は、しばらくその場に立ったままでいた。
* * *
髪の結い方。
私の髪の結い方は、特に変わったものではないはずだった。後宮に来てから教わった、普通の下女の結い方だ。何がいけないのか、わからなかった。
でも——言われてみれば。
私の髪の癖は、湿気があると特定の形になる。耳にかかるように、少し内側に巻く。それは自然にそうなるのであって、意識してそうしているわけではなかった。
その癖が、何かに似ているのかもしれない。
あるいは——誰かに似ているのかもしれない。
泠蘭、という名前が、また浮かんだ。
* * *
昼、暁燕に話した。宦官に髪の結い方を変えろと言われたことを。
「え」暁燕が少し眉を寄せた。「誰に」
「年かさの宦官です。細い、感情を読ませない目をした」
「徐総管かな」暁燕はしばらく考えた。「あの人、昔からここにいる人だよ。後宮のことを一番よく知ってるって言われてる」
昔からここにいる。後宮のことを一番よく知っている。
「なぜ髪の結い方を」と私は聞いた。
暁燕が、少し黙った。
「わからない」と暁燕は言った。「でも、徐総管が何か言うときは、理由がある人だから」
理由がある。
私はその言葉を、繰り返した。理由がある。では、私の髪の結い方に何かを感じた理由が、この宦官にはある。その理由が何なのか——聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
「変えた方がいいかしら」と私は聞いた。
「変えた方がいいと思う」と暁燕は即座に言った。「徐総管が言うなら」
* * *
その日の夜、初めて自分の髪をほどいた。
部屋の隅に小さな鏡があった。後宮に来てから、ほとんど使っていなかった。鏡を持ち出して、灯籠の光の下で自分の顔を見た。
久しぶりに、自分の顔を見た。
目元が、やや影になる。黒目が大きく、伏し目がちになる癖がある。鼻筋が細く、顎の角度が——なんとなく、見たことのない顔に似ているような気がした。でもそれが誰なのか、わからなかった。
髪をほどくと、湿気のせいで少し内側に巻いた。耳にかかる。
この癖が、誰かに似ているのかもしれない。
私は鏡を伏せた。
見続けていると、何かが始まる気がした。見てはいけない気がした。目礼のときと同じ感覚だった。見るべきものと、見てはいけないものの区別——まだ上手くできない。
* * *
翌朝、髪の結い方を変えた。
癖が出ないように、少し高めに結った。耳にかからないように。内側に巻かないように。鏡では確認しなかった。
泠廊を歩いた。
足音は、一つだった。
今日は、二つにならなかった。
なぜかわからなかった。髪の結い方と、足音に、関係があるとは思えなかった。でも——一つだった。静かに、一つだけ、石畳に響いた。
振り返ったのは、宦官ではなかったのかもしれない、と思った。
この廊が、振り返ったのかもしれない。私の何かを認識して、記憶を呼び起こして——それで振り返った。廊が。装置が。
私はその考えを、打ち消さなかった。
打ち消せなかった。
後宮で長く生きる者ほど、
言葉を選び、沈黙を使い、
目に見えない“理由”を隠している。
徐総管の一言は、
ただの助言ではない。
髪の癖、結い方、似ている誰か。
それらが後宮の記憶を揺らし、
泠廊の足音を変えたのかもしれない。
憶華はまだ知らない。
けれど、後宮という装置は確かに
彼女の“何か”を見つけ始めている。




