第10話 「残香」——誰かの匂いが、この廊にある
後宮には、音でも影でもなく、
“匂い”が語る瞬間がある。
それは誰かが残した痕跡であり、
空間に沈んだ記憶のひとつ。
憶華は今日、
初めてその“残された香り”に触れる。
匂いに、気づいたのは偶然だった。
朝の水運びの途中、泠廊の中ほどで、桶の重さを持ち直そうとして少し立ち止まった。そのとき——風もないのに、何かが鼻をかすめた。
花の匂いだった。
後宮の庭には花がある。季節によって様々な花が咲く。だから花の匂い自体は珍しくない。しかし泠廊は庭から離れていた。風もなかった。なのに、はっきりと、花の匂いがした。
立ち止まったまま、もう一度、息を吸った。
まだあった。細く、かすかに、でも確かに。廊の空気の中に溶けていた。
蘭に似た匂いだと思った。
蘭の花を間近で見たことはなかった。でもそう思った。理由は言えなかった。ただ、そう感じた。
* * *
桶を下ろして、あたりを見た。
誰もいなかった。
廊の両端まで見渡したが、人の姿はなかった。花もなかった。鉢植えも、枝も、花びら一枚も落ちていなかった。匂いの出所が、どこにもなかった。
でも匂いは、あった。
空気の中に、静かに溶けていた。
私はしばらく、その場に立ったままでいた。桶を床に置いて、両手を下ろして、ただ匂いを吸っていた。不思議と、怖くなかった。足音が二つになるときの感覚とは、少し違った。あのときは、何かが迫ってくるような感覚があった。でも今は——懐かしいような、遠いような。
うまく言葉にできなかった。
上役に呼ばれて、我に返った。桶を持って、また歩き始めた。
匂いは、泠廊を抜けると消えた。
* * *
その日の昼、暁燕に話した。
「匂いがしたんです。泠廊で。花のような、蘭のような」
暁燕は少し首を傾けた。
「蘭は今の季節じゃないよ」
「でもしたんです。はっきりと」
「うーん」暁燕は考えた。「線香かな。どこかの棟で焚いてるやつが流れてきたとか」
「風がなかったんです」
「じゃあ、わからないね」暁燕はそれ以上深く考えない様子だった。「泠廊、なんかあるよね。足音とか、冷えとか」
なんかある、という言葉が、妙に正確だと思った。なんかある。説明はできないが、確かにある。それがこの廊の正体かもしれなかった。
「暁燕さんは、あの廊で何か感じたことはありますか」
「んー」暁燕は少し遠い目をした。「なんか、いつも急ぎたくなる。早く通り過ぎたくなる。なんでかは、わからないけど」
早く通り過ぎたくなる。
私は反対に、あの廊で立ち止まってしまう。引き留められるように、留まってしまう。同じ廊が、人によって違う顔を見せる。それもまた、後宮という場所の性質なのかもしれなかった。
* * *
夕方の灯替えの帰り道、もう一度泠廊を通った。
意識して通ったわけではなかった。気づいたら、その道を選んでいた。
匂いは、今度はしなかった。
朝だけだったのかもしれない。あるいは今日だけだったのかもしれない。廊は静かで、冷たくて、足音は一つだった。髪を変えてから、足音は一つのままだった。
それでも、廊に入ったとき、確かに何かを感じた。
匂いではなかった。音でもなかった。もっと薄いもの。空気の質、とでも言うべきもの。この廊の空気は、他の廊と少し違う。冷えているだけではなく——何かが、染み込んでいる。
誰かが、長い時間をかけて、この廊に染み込ませたもの。
* * *
夜、茶器を手に取ったとき、気づいた。
茶器の、底の方に、かすかな匂いがあった。
今まで気づかなかった。いつも手で触れるだけで、顔を近づけて嗅いだことはなかった。灯籠の光の下で、茶器を鼻に近づけた。
かすかに、花の匂いがした。
朝、泠廊で嗅いだものと、同じだった。
同じかどうか、断言はできなかった。でも、似ていた。細く、かすかに、でも確かに。薄い青磁の器の底に、誰かが残した匂い。
この茶器を使っていた誰かの、匂い。
私は茶器を、胸の前で両手で包んだ。
この香りを、私は知っている気がした。
どこで知ったのか、わからなかった。いつ知ったのか、わからなかった。でも——知っている。初めて嗅いだはずなのに、初めてではない気がした。
泠廊の空気と、この茶器の底と、どこかで繋がっている。
その繋がりの先に、何があるのか。
まだ、見えなかった。
でも——確かに、繋がっている。
* * *
ここにきてしばらく経った。
私はここに来て、水を運び、灯を替え、床を掃き、目を伏せ、声を呑み込んだ。名前を呼ばれず、理由もわからず、それでも毎朝この廊を歩いた。
そしてこの廊は——私を、覚えた。
覚えたのか、それとも、もともと知っていたのか。
わからなかった。
ただ、明日からは別の棟に配属される。上役にそう言われていた。新しい仕事、新しい廊。そこで何が待っているのか、まだ知らない。
茶器を、そっと床に置いた。
蘭の香りが、指先に残っていた。
後宮の廊は、
歩いた者の足音だけでなく、
その人の気配や、香りまでも覚えている。
泠廊に漂った蘭の匂い。
茶器の底に残った同じ香り。
それらは偶然ではなく、
後宮という装置が憶華に見せようとしている
“ひとつの線”なのかもしれない。
まだ形にはならない。
まだ名前にもならない。
けれど、確かに繋がり始めている。
その先にあるものを、
憶華はまだ知らない。




