第7話 「禁声」——聞いてはいけないことがある
後宮には、声にしてはいけない音がある。
聞こえてしまった瞬間に、
聞こえなかったことにしなければならない音。
後宮には、聞こえない音がある。
聞こえているのに、聞こえていないことにしなければならない音。廊の向こうから漏れてくる声。壁の薄い部屋から滲み出る言葉。すれ違いざまに耳に入ってくる囁き。
そういう音は、聞いた瞬間に忘れなければならない。
それが、ここの作法だと、今週ようやく理解した。
* * *
きっかけは、小さな出来事だった。
夕方の水運びの帰り道、廊の角を曲がったとき、前を歩いていた二人の宦官の声が聞こえた。二人は私に気づいていなかった。私の足音が小さいからだろう。
声の内容は、断片的にしか聞き取れなかった。
ただ、一つだけ、はっきりと聞こえた言葉があった。
≪泠蘭。≫
その二文字だけが、他の言葉より鮮明に、耳の中に落ちてきた。
私が足音を立てたのだろう。二人の宦官が振り返った。私を見た。私は何も聞いていないふりをして、頭を下げた。二人は顔を見合わせて、それから黙って歩いていった。
廊に、沈黙が戻った。
≪泠蘭。≫
その言葉が、頭の中で、静かに反響していた。
* * *
誰かの名前だと思った。
泠——さんずいに令。冷たいのではなく、清らかな、水のような字。蘭——蘭の花。合わせれば、水のような蘭。あるいは、蘭のように清らかな水。
美しい名前だと思った。
しかし宦官たちは、その名前を囁くように言っていた。声を落として、周囲を確かめながら。それはつまり——その名前を大きな声で言ってはいけない、ということだ。
なぜ。
聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
* * *
暁燕には、話さなかった。
なぜ話さなかったのか、自分でもよくわからなかった。暁燕なら何か知っているかもしれない。でも、あの名前を口にすることが——怖かった。
口にすれば、何かが動く気がした。
根拠はない。ただそう感じた。だから黙っていた。
その代わり、その夜は眠れなかった。
天井を見ながら、泠蘭という名前のことを考えた。誰なのか。今もここにいるのか。なぜその名前を宦官たちは声を落として言ったのか。何があったのか。
わからなかった。
でも、知りたいとも思った。
矛盾していた。聞いてはいけないことは聞かない、それがここの作法だと理解した。でも耳に入ってしまった言葉は、もう取り消せない。知ってしまったことは、知らなかったことにはできない。
* * *
翌日の掃除の最中、古い棟の廊を担当した。
普段は別の下女が担当する廊で、私が回ってくることは珍しかった。上役に言われるまま箒を持って歩いていると、廊の突き当たりに古い扉があることに気づいた。
他の扉と違う。
色が、褪せていた。金具が、錆びていた。長い間、開けられていないのかもしれなかった。扉の前の石畳だけが、他より少し暗い色をしていた。湿気なのか、それとも別の何かなのか、わからなかった。
扉に近づこうとしたとき、後ろから声がした。
「そっちは行かなくていい」
上役の女官だった。声は穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。
「はい」と私は言って、箒を持ったまま戻った。
扉のことは、何も聞かなかった。
聞いてはいけないことだとわかったから。でも——なぜあの扉が褪せているのか、なぜ石畳だけが暗いのか、なぜ近づいてはいけないのか、頭の中に疑問が積み重なっていった。
* * *
夕方、灯替えをしながら、今日一日に聞こえた音を頭の中で並べた。
泠蘭という名前。扉へ近づくなという声。廊の突き当たりの、古い扉。
繋がっているのかどうか、わからなかった。
でも——何かがある。この後宮の中に、語られない何かがある。廊を伝わる噂とは別の、もっと深い場所に沈んでいる、語られない何か。
灯籠の炎に、そっと問いかけた。心の中で。
≪泠蘭というのは、誰ですか。≫
炎は揺れなかった。答えなかった。
でも、消えなかった。
* * *
床に就いてから、茶器を手の中で握りながら、思った。
この茶器を持っていた誰かも、もしかしたら——聞こえない音を、たくさん聞いていたのかもしれない。聞こえているのに、聞こえていないふりをしながら、この後宮の中を歩いていたのかもしれない。
そしてその人も、この廊を知っていたのかもしれない。
泠蘭。
その名前が、また頭の中で静かに響いた。
水のような、蘭の名前。
後宮では、沈黙が盾になり、沈黙が罠にもなる。
聞こえてしまった言葉は、
もう知らなかったことには戻らない。
その名前が誰なのか。
何があったのか。
憶華はまだ知らない。
けれど、後宮の深い場所で眠っていた“何か”が、
今日、静かに目を覚ました。




