表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追憶は蘭の香に咽ぶ  作者: ちとせ鶫
第1幕 飲み込まれる/第1章 水を運ぶ手

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/22

第7話 「禁声」——聞いてはいけないことがある

後宮には、声にしてはいけない音がある。


聞こえてしまった瞬間に、

聞こえなかったことにしなければならない音。

 後宮には、聞こえない音がある。


 聞こえているのに、聞こえていないことにしなければならない音。廊の向こうから漏れてくる声。壁の薄い部屋から滲み出る言葉。すれ違いざまに耳に入ってくる囁き。


 そういう音は、聞いた瞬間に忘れなければならない。


 それが、ここの作法だと、今週ようやく理解した。


     * * *


 きっかけは、小さな出来事だった。


 夕方の水運びの帰り道、廊の角を曲がったとき、前を歩いていた二人の宦官の声が聞こえた。二人は私に気づいていなかった。私の足音が小さいからだろう。


 声の内容は、断片的にしか聞き取れなかった。


 ただ、一つだけ、はっきりと聞こえた言葉があった。


 ≪泠蘭。≫


 その二文字だけが、他の言葉より鮮明に、耳の中に落ちてきた。


 私が足音を立てたのだろう。二人の宦官が振り返った。私を見た。私は何も聞いていないふりをして、頭を下げた。二人は顔を見合わせて、それから黙って歩いていった。


 廊に、沈黙が戻った。


 ≪泠蘭。≫


 その言葉が、頭の中で、静かに反響していた。


     * * *


 誰かの名前だと思った。


 泠——さんずいに令。冷たいのではなく、清らかな、水のような字。蘭——蘭の花。合わせれば、水のような蘭。あるいは、蘭のように清らかな水。


 美しい名前だと思った。


 しかし宦官たちは、その名前を囁くように言っていた。声を落として、周囲を確かめながら。それはつまり——その名前を大きな声で言ってはいけない、ということだ。


 なぜ。


 聞けなかった。聞いてはいけない気がした。


     * * *


 暁燕には、話さなかった。


 なぜ話さなかったのか、自分でもよくわからなかった。暁燕なら何か知っているかもしれない。でも、あの名前を口にすることが——怖かった。


 口にすれば、何かが動く気がした。


 根拠はない。ただそう感じた。だから黙っていた。


 その代わり、その夜は眠れなかった。


 天井を見ながら、泠蘭という名前のことを考えた。誰なのか。今もここにいるのか。なぜその名前を宦官たちは声を落として言ったのか。何があったのか。


 わからなかった。


 でも、知りたいとも思った。


 矛盾していた。聞いてはいけないことは聞かない、それがここの作法だと理解した。でも耳に入ってしまった言葉は、もう取り消せない。知ってしまったことは、知らなかったことにはできない。


     * * *


 翌日の掃除の最中、古い棟の廊を担当した。


 普段は別の下女が担当する廊で、私が回ってくることは珍しかった。上役に言われるまま箒を持って歩いていると、廊の突き当たりに古い扉があることに気づいた。


 他の扉と違う。


 色が、褪せていた。金具が、錆びていた。長い間、開けられていないのかもしれなかった。扉の前の石畳だけが、他より少し暗い色をしていた。湿気なのか、それとも別の何かなのか、わからなかった。


 扉に近づこうとしたとき、後ろから声がした。


「そっちは行かなくていい」


 上役の女官だった。声は穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。


「はい」と私は言って、箒を持ったまま戻った。


 扉のことは、何も聞かなかった。


 聞いてはいけないことだとわかったから。でも——なぜあの扉が褪せているのか、なぜ石畳だけが暗いのか、なぜ近づいてはいけないのか、頭の中に疑問が積み重なっていった。


     * * *


 夕方、灯替えをしながら、今日一日に聞こえた音を頭の中で並べた。


 泠蘭という名前。扉へ近づくなという声。廊の突き当たりの、古い扉。


 繋がっているのかどうか、わからなかった。


 でも——何かがある。この後宮の中に、語られない何かがある。廊を伝わる噂とは別の、もっと深い場所に沈んでいる、語られない何か。


 灯籠の炎に、そっと問いかけた。心の中で。


 ≪泠蘭というのは、誰ですか。≫


 炎は揺れなかった。答えなかった。


 でも、消えなかった。


     * * *


 床に就いてから、茶器を手の中で握りながら、思った。


 この茶器を持っていた誰かも、もしかしたら——聞こえない音を、たくさん聞いていたのかもしれない。聞こえているのに、聞こえていないふりをしながら、この後宮の中を歩いていたのかもしれない。


 そしてその人も、この廊を知っていたのかもしれない。


 泠蘭。


 その名前が、また頭の中で静かに響いた。


 水のような、蘭の名前。

後宮では、沈黙が盾になり、沈黙が罠にもなる。


聞こえてしまった言葉は、

もう知らなかったことには戻らない。


その名前が誰なのか。

何があったのか。


憶華はまだ知らない。

けれど、後宮の深い場所で眠っていた“何か”が、

今日、静かに目を覚ました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ