第6話 「目礼」——目を合わせてはいけない
後宮では、言葉よりも先に“目”が動く。
視線ひとつで、序列も、感情も、危険も伝わる。
まだ後宮に慣れない憶華は、その“目の作法”を知らない。
そして今日、初めて——視線が交わる。
後宮では、目が語る。
声を出さなくても、動作をしなくても、目だけで多くのことが伝わる。誰が誰を恐れているか。誰が誰を軽んじているか。誰が誰を警戒しているか。後宮にいる者はみな、言葉より先に目で話している。
だから、目を合わせることは——慎重でなければならない。
そのことを、私はまだ十分に理解していなかった。
* * *
朝の掃除の最中だった。
廊の端を箒で掃いていると、向こうから妃が一人歩いてきた。行列ではなく、女官を一人だけ連れた、静かな歩き方だった。私は箒を止めて端に寄り、頭を下げた。
そのとき、顔を上げてしまった。
なぜそうしたのか、わからない。癖だったのかもしれない。相手を確認したかったのかもしれない。あるいは、ただの不注意だったのかもしれない。
妃の目と、視線が合った。
一瞬だった。本当に、一瞬だけ。
妃の目は——怒っていなかった。驚いてもいなかった。ただ、じっと、私を見た。まるで何かを測るような、静かな目だった。私はすぐに視線を落とした。石畳を見た。自分の足先を見た。心臓が、少し速くなっていた。
妃は何も言わずに通り過ぎた。
女官も、何も言わなかった。
それで終わりだった。しかし私の中では、終わっていなかった。
* * *
昼に暁燕に話した。
「目を合わせてしまいました。妃の方と」
暁燕の顔が、少し引きつった。
「誰」
「わかりません。行列ではなく、女官を一人連れていました。衣は——」私は記憶を辿った。「淡い色でした。緑に近い」
「霜華さまじゃないといいけど」と暁燕は小声で言った。
「霜華さまというのは」
「皇后さま。あの方の目に止まると、ろくなことがないって聞く。まあ、怒ってなかったなら大丈夫かな」
大丈夫かな、という言葉の頼りなさが、少し怖かった。
「目を合わせてはいけなかったんですね」
「まあ、合わせないに越したことはない。特に上の方とは。でも」暁燕は少し考えた。「目を合わせた相手が、どう思うかによるから。怒る人もいるし、気にしない人もいる」
どう思うかによる。
つまり私には、どうにもできない。相手次第だ。それが、後宮の作法というものだと、私は理解した。自分が何をするかではなく、相手がどう受け取るかが全てを決める。
* * *
翌朝、同じ廊を掃いていた。
今度は頭を下げるとき、視線を完全に落とした。石畳だけを見た。誰が通っても、顔を上げなかった。足だけが見えた。衣の裾が見えた。誰かの足音が聞こえて、止まった。
止まった。
私は石畳を見たまま、動かなかった。
しばらくして、その足音はまた動き始めた。遠ざかった。消えた。
顔を上げると、廊には誰もいなかった。
誰だったのか、わからなかった。衣の色も、足音の重さも、記憶していなかった。目を合わせないようにしたら——何も見えなくなった。
それが正しいことなのかどうか、私にはわからなかった。
* * *
夕方、灯替えをしながら考えた。
目を伏せることは、安全だ。誰とも目を合わせなければ、何も起きない。でも何も見えなくなる。見えなければ、学べない。学べなければ、この場所で生きていけない。
矛盾していた。
目を合わせれば危険で、目を伏せれば何も見えない。では——どうすればいいのか。
第五話で気づいたことを思い出した。一番下から見上げれば、梯子の全体が見える。でもそれは、目を使うことが前提だった。目を伏せたまま、梯子は見えない。
おそらく、後宮にはその両方が必要なのだ。
目を合わせてはいけない相手には伏せ、見るべきものは見る。その区別を、身体で覚えていく。時間がかかるだろう。間違えるだろう。でもそうするしかない。
灯籠の前に屈んで、芯を整えた。
炎が、ふっと生まれた。
私は少しだけ、その炎を見た。目を合わせた。炎は何も言わなかった。でも、揺れなかった。
* * *
その夜、床に就く前に気づいた。
昨日、目が合った妃の顔を、私はまだ覚えていた。
怒っていない目。驚いていない目。ただ静かに、何かを測るような目。あの目は——見たことのある目に似ていた。
晩蘅妃の女官が、灯替えの廊で私を見た目。
似ていた。
同じ人物の目ではないかもしれない。でも、同じ種類の目だった。何かを探している、あるいは確かめている、そういう目。
私の中の何かを、誰かが探している。
それが何なのか、私にはまだわからなかった。
茶器を手の中で握った。
明日は、もう少し上手く目を伏せよう、と思った。それと同時に——見るべきものは、ちゃんと見よう、とも思った。
後宮では、目を伏せれば安全だが、
伏せ続ければ何も見えない。
憶華は今日、初めてその矛盾に触れた。
見るべきものと、見てはいけないもの。
その境界を覚えることが、
後宮で生きるということなのだろう。
そして——
今日、視線が合った妃の“静かな目”は、
憶華の中の何かを確かに探していた。




